スプレー式の紅茶

エアゾール式の紅茶

しばらく前からスプレー式の紅茶が話題になっている。

NO MORE TEA BAGS

紅茶には相当うるさいと思っていたイギリスで、このような製品が発売されるということに少々ビックリした。私たちの感覚に照らしても、スプレー缶からプシューッと出てきた濃縮液にお湯を注いで飲むというのは、なんだか気持ちが悪い・・・というのが、一般的な思いではないだろうか。少なくとも、味わいや香りを楽しむための嗜好品という感じはしない。

もっとも私たちだけではなく、発売先のイギリスの人々をも含めた一般的な感想が、「こんなのアリかよ?」という具合であるがゆえに、話題となるのだろう。

粉末のインスタント紅茶はいくらでもあるし、スプレー式にしても、すでにコーヒーでは同様の製品が出ているので、あまり驚きはしないのだが、せっかくの嗜好品である。通常は、ティーバッグでさえも「インスタント感」があるが、いくらなんでもスプレー式にしてしまっては、あまりにぞんざい過ぎるような気がしてならない。

ちなみに、スプレー式の紅茶の存在については、この製品が世界初というわけではないようだ。このようなブログがある。

ホーネン・カフェ・イン・ボトル

しかしながら、日々、紅茶無しでは生きていけない私にとっては、こうした「邪道」もぜひ体験しておきたいところなので、入手する機会があれば、後日その感想をご報告したいと思う。

「英雄」 バガット・スィン

デリーからパンジャーブ方面に向かう列車に乗る。

途中のクルクシェートラ駅には、バガット・スィンの大きな胸像があった。町には、彼を記念したバガット・スィン公園などもある。

Bhagat Singh

パンジャーブ出身(現在パキスタン領となっているファイサラーバード近郊の村)で、スィク教徒の両親のもとに生まれた。社会主義に傾倒した革命家であり、1920年代に要人殺害や議事堂爆破事件などで拘束され、1931年に処刑台の露と消えた人だが、独立後のインドでは、誰もがよく知る憂国の志士、独立運動家ということになっており、彼を主人公とする映画もいくつか作られている。

彼について書かれた本を読んでみたことはあるが、若気の至りで暴走した人物としというのが正直な感想。インド人には言えないが、今でいうところのテロリストでは?思う。

政治主導の後付けで、英雄化されてしまうと、いろいろ齟齬が生じることもある。生地のパキスタンでは、彼の反英活動について、どのような評価がなされているのかは知らない。

政治主導の英雄化といえば、さらに時代を遡った1857年の大反乱を「インド最初の独立闘争」とするのも奇妙で、反乱時に英国への忠誠揺るがず、鎮圧に大きな功績を残したスィク教徒たちの部隊、英国を強力に支持したスィクの藩王国は、国賊みたいなことになってしまうので、非常に収まりが悪くなる。

過去の出来事は、現在のそれとは背景が違うため、「インド兵が英国兵と戦った」という一面だけで、反植民地闘争とするのは無理がある。

歴史の再評価というものは、どうも胡散くさい。

親族も反英活動で投獄された筋金入りの一族であったこと、当時としてはスマートなインテリ、非常に若くして処刑(享年23歳)されたことに加えて、イケメンでもあったため、ビジュアル的には持ち上げ易い要素もあったのだろう。

ムスリムで同じような活動に従事していた人たちもいたはずなのだが、ここから時代が下るとパキスタン建国運動に収斂してしまうので、バガット・スィンの時代に「インド独立」を志向していたムスリムの「志士」たちは、現在のインドであまり名を残さないことになってしまう。

2001年にパキスタンのテロ組織とともにデリーの国会襲撃事件に係わり、死刑となったカシミール分離活動家のアフザル・グルーなどは、彼の背景も事件への関与も、まさにバガット・スィンと同じにしか思えない。

どこが違うかといえば、インドは独立したがカシミールはおそらく今後もインドから分離することはないと思われるので、彼が肯定的な評価をされることはない、というところだろうか。

もちろん、こんなことはインド人に対して口には出来ないが。

チャーンドニー・チョウクのヘリテージ・ホテル

デリーのチャーンドニー・チョウクといえば、今でこそ大変混雑した庶民のバーザールとして知られているが、元々はムガル王宮のお膝元のポッシュなエリア。大通りには水路と噴水があり、貴人たちが行き来する地域であったそうだ。ムガル帝都末期から「ムガル朝御用達」のミターイーの店として、伝説の老舗「ガンテーワーラー」が昨年まで営業していた。

ムガル帝国滅亡後も、印パ分離独立でムスリム富裕層がここを離れるまでは、立派なハヴェーリー(屋敷)が建ち並ぶ美しいエリアであったという。インド独立後には、そうした建物の内部は細分化して間貸しされていたり、小さな商店等が入居したりといった具合で、元の姿を想像することさえ難しくなっていたりする。

最近、そんなハヴェーリーのひとつを修復して開業したヘリテージ・ホテルがあるのだが、1泊およそ9,000~15,000Rsという高価格帯。こうした古いハヴェーリーは、まだいくつも残っている。こうした建物の利権関係はとても複雑なようだが、こうした類の宿泊施設が他にもいろいろ出てきたり、そうした中でエコノミーな施設もあったりすると、見どころも多い立地だけに、大変面白いことと思う。

HAVELI DHARAMPURA

北デリーのコロネーション・ダルバール

Coronation Parkとして整備が進む

ここは15年ほど前に訪れたことがある。当時は、子供たちがクリケットで遊ぶ広大な空き地であったが、現在は史跡公園として整備され、今もその工事は進行中。

1877年、1903年、1911年にイギリス国王の「インド帝国皇帝としての戴冠式」が、まさにこの場所で行われている。もっとも最初のふたつは、イギリスから本人が渡航して儀礼を行うことはなく、来印して戴冠を行ったのは、1911年のジョージ5世が最初で最後。

これが可能となったのは、1903年の即位時点ですでに高齢であったエドワードと異なり、1911年即位のジョージ5世は若かったのはもちろんのこと、1877年にはまだ建築中であったインドの鉄道ネットワークが完成の域に達していたことなどがある。このときジョージ5世は、ボンベイのインド門から上陸し、鉄道でデリーまで移動している。

ジョージ5世の像

この地でのダルバール開催について、英領時代から残る記念碑

さて、ダルバールでは、内外の要人たちが集まるとともに、インド各地の藩王国からも王、王子、側近などが専用列車などを仕立てて参列し、この周辺には豪華なキャンプが設営されて、仮設ながらも文字どおりの華やかなダルバールが出現していた。

1930年代には、英国国王はエドワード8世、ジョージ6世と2回変わっているが、インド独立運動の高まりで、大衆を動員して大規模なデモやストが頻発、加えて要人暗殺や爆破テロ事件なども頻繁するようになっていたため、ダルバールは開催されていない。

1911年のダルバールの様子はyoutubeで閲覧することができる。

長く打ち捨てられていた、植民地時代の旧宗主国の支配にまつわる場所で、独立以来、ことあるごとに英領時代の地名、英国の支配層にちなんだストリートの名前などが、改められてきたのだが、ここに来て「英国人のインド皇帝の戴冠式典」が行われたとして整備されるというのは注目に値する。

しかしながら、コロネーション・ダルバールを整備しているのは、ASI(インド考古学局-考古学だけではなく文化財保護・研究などを包括的に行う政府機関)ではなくDDA(デリー開発公社)であることから、歴史や文化的な背景についての考察等はなされず、ただの公園建設となるのだろう。

ちょっと残念だが、やっぱりという気もする。

DDA管理下の公園であることを示す看板。(園内は禁煙、ゴミ捨て禁止、家畜進入禁止等々の注意が書かれている。)

The Church of St. James

The Church of St. James

英印混血の風雲児、ジェイムス・スキナーが建てさせた英国国教会の教会。
スコットランド人の父と同じく、軍人の道に進む。

混血児への東インド会社軍での待遇の低さから、これに加わらず、マラーター王国の軍勢に外国人傭兵として参加してキャリアを築く。

やがてマラーター王国が英国と対立(その後戦火を交える関係に)するにあたり、他の英国系の兵士とともに解放逐(インド各地にあった様々な王国で、英国その他欧州人の傭兵や顧問は少なくなかった)され、東インド会社軍へ。

会社軍では、彼の名前を冠したSkinner’s Horse (Skinner’s Cavalry)という精鋭の騎馬連隊を創設して自ら率いる。輝かしい戦果を上げてきたこのSkinner’s Horseは、1857年の大反乱後、東インド会社が解体され、イギリスのインド省が統治を引き継いでからのインド軍、さらには独立後のインド陸軍にも連隊の名前を変えつつ引き継がれた。

スコットランド出身のスキナー家は、ジェイムス以降も、インドに根を下ろし長らく軍に仕えている。1960年代には、伝統あるSkinner’s Horseを前身とする連隊を、なんとジェイムスの玄孫、ロバート・スキナーが率いるという歴史的な偶然(?)が実現しており、第二次印パ戦争で出陣している。ロバート自身は、1990年代に亡くなった。

教会の中には、ジェイムス、Skinner’s Horse、ロバートその他のスキナー家や彼ゆかりの碑文、時代ごとのSkinner’s Horseの幹部の名前や階級などを記した石碑なども壁にはめ込まれており、非常に軍事色が濃く、しかも特定の連隊を記念するために建てられたかのような教会が他にあるのかどうかは知らない。

教会の祭壇のすぐ手前には、「ジェイムス・スキナーここに眠る」と、彼が埋葬されている場所を示す大理石板もあるなど、まさにスキナーの独壇場といった風情で、実に風変わりな教会。スキナー自身の強烈な個性と自己主張を今の時代に伝えているかのようだ。
これらをカメラに収めたかったが、あいにく敷地内も建物内も撮影禁止。

この教会が面している通り、Lothian Roadを南下すると、British Magazine跡がある。イギリスの弾薬庫跡で、1857年の大反乱の際、ここに蓄えられた弾薬を巡り、イギリス側と反乱軍との間で激しい戦闘の舞台となった場所だ。ここが反乱軍の手に渡るのを防ぐため、爆破されたことから、現在残されているのは、当時の弾薬庫のごく一部のみ。

British Magazine

通りをさらに下ると、LothianCemeteryという、大反乱前の英国人墓地がある。あまりに崩壊ぶりがひどく、今後整備されることを望みたい。

Lothian Cemetery
墓碑