ただいまメンテナンス中です…

カテゴリー: cinema

  • ジャヤラリター逝去

    ジャヤラリター逝去

    昨日12月5日の夜11時半、チェンナイのアポロ病院で、ジャヤラリターが亡くなった。

    女優時代のジャヤラリター

    本日12月6日のヒンディー語ニュースは、この女性、元タミル語映画のトップスターで、後に大物政治家となった、現職のタミルナードゥ州首相の葬儀のことばかり繰り返している。通常、ヒンディー語ニュースは、その言語圏内のトピックが大半となるが、一地方州のチーフミニスター、しかも非ヒンディー語州の首相が亡くなって、放送がそれ一色になってしまうのは異例だ。

    葬儀が営まれるマリーナー・ビーチに移動する車列と人々

    葬儀の会場

    女優時代にヒンディー語映画にも一作だけ(ダルメーンドラと共演したIzzatという作品)出演しているが、これほど大きく取り上げられるのは、やはり政治家としての存在感の大きさゆえのことだ。

    タミル民族主義、裏返せば反中央即ち北インド感情、これと共振するところに反バラモン感情もあるのだが、その強烈なタミル民族主義の中核を率いる存在として君臨したのが、このバラモン女性というパラドックス。

    女優時代は非常に美しく可憐で、長く政治家として頂点にあったときも、メディアのインタビューに応じるときには、上品かつエレガントな語り口で、豪腕政治家のものとは思えない優美さがあった。

    近年、汚職により獄中で過ごした期間もあり、メディアでさんざん叩かれたこともあったが、さすがに今日の葬儀を伝えるニュースでは、彼女が行った貧困層や女性の地位向上の政策などを手放しで称えている。

    享年68歳。南インド政界を代表する女傑が逝ってしまった。

    Tamil Nadu CM Jayalalithaa dies at 68, to be buried at MGR’s memorial site (Hindustan Times)

  • さくらフェスティバル2016のセキュリティチェック

    さくらフェスティバル2016のセキュリティチェック

    例年、桜の満開日に近い週末に開催されているが、今年は大使館の見立てが少し外れたのか、まだ三分咲きといったところの本日。
    今回ひとつ気が付いたことに、大使館敷地に入る際にセキュリティチェックが実施されるようになっていること。

    セキュリティチェック

    正門は退場専用となり、普段は閉じられている裏門からのみの入場となっていた。
    このイベントがうまく満開時と重なった年には、物凄い人出になる。インドの都市の様々なところでセキュリティチェックが厳しいこととは裏腹に、日本にあるインド大使館のイベントはずいぶん緩いと感じていた。何かあったら危険かもしれないと思うこともあったので、やはりこれがあるべき姿だと思う。
    治安が良い日本の首都とはいえ、同様にテロを起こすような輩にとっては、非常に実行しやすい環境でもある。どこにどんな人間が紛れているかもわからないものだ。
    さて、そのさくらフェスティバルだが、やはり満開日までしばらくあるためもあってか、あるいは私が訪れた時間帯が早かったためなのか、かなり閑散とした印象であった。


  • アミターブ・バッチャンの告白

    インドのヒンディー語映画界の重鎮、ビッグBことアミターブ・バッチャンが、彼自身の深刻な健康状態について発表した。
    1982年に映画「Coolie」の撮影中に起きた事故(アクションシーン撮影中に受けたパンチにより体内で出血、ムンバイー市内の病院に入院)の治療で大量の輸血を受けたのだが、血液のドナーの中に感染者がいたらしい。2000年になってから、B型肝炎に罹っていることが判り、その後現在に至るまで治療中であるとのこと。すでに肝硬変に進行しており、肝臓が25%程度しか機能していないという。
    罹患していることが判ってから15年経過した今になってから発表することについては、おそらく当時はまだ出演作も多くて忙しかったことなどもあったのではないだろうか。B型肝炎の危険や予防について社会の関心を高めるという目的もあるそうだが、アミターブ・バッチャン自身の健康状態も大変気になるところだ。

    I have liver cirrhosis and am surviving on just 25 per cent of my liver: Amitabh Bachchan (INDIA TODAY)

    BACHCHAN BOL (Amitabh Bachchan’s Official Blog)

    ※ビカネール3は後日掲載します。

  • シェーカーワティー地方へ 3  〈映画をこよなく愛する人々〉

    シェーカーワティー地方へ 3  〈映画をこよなく愛する人々〉

    せっかくマンダ‐ワーに来たので、昨年公開されて今年の初めにかけて大ヒットした映画「PK」で、この町でのロケ地であった「チョウカーニー・ハヴェーリー・チョウク」という横丁であることはすぐにわかった。小さな町なのでどこに行くのもすぐだ。

    田舎町で、人気スターがやって来ることに大興奮したであろうことは、特にちょっと若い人たちに声かけると、期待を大きく上回る反応がかえってくることから見て取れる。
    「この路地の出口で、アーミルがサルマーンのクルマに(確かトラクターであったはず)にひかれた」
    「あの歌のダンスシーンで挿入された場面が撮影されたのはここ!」
    「映画の中でアーミルにサーモーサーを勧めたのはこの人!」と、わざわざその人物の仕事場まで連れていってくれる人までいた。

    映画の中でアーミル・カーンが轢かれたスポット

    ダンスシーンが撮影された場所はここなのだとか。



    映画「PK」の中でアーミルにサーモーサーを勧める役を務めた人

    「おーい、兄貴ィ、日本から記者があんたのことを取材に来たでぇ・・・。オレ、お茶注文してくる。よーく話聞いとってな!頼むでぇ!」なんて具合に早足でどこかに行ってしまった。私は記者ではないし、取材しに来たわけでもないのだが・・・。

    ちょっと尋ねると、芋づる式に次から次へとこの映画ゆかりのナントカカントカが出てくるレスポンスの速さ!
    「PK」の後は、「バジラン・バーイージャーン」というサルマーン・カーン主演の映画の撮影もなされたとのことで、今後もマンダーワーが他の映画作品のロケ地として使われることが幾度かあることだろう。

    やはりどこに行っても映画をこよなく愛する気持ちは誰もが同じであることは、ボリウッド映画ファンの私としても嬉しい。

    〈続く〉

  • 映画「ルンタ」

    池谷薫監督による映画作品「ルンタ」が東京都中野区東中野のポレポレ東中野にて、11月13日まで公開されている。

    朝鮮戦争とほぼ同じ時期に始まる中国によるチベット侵攻以降、現在に至るまで続く占領下にあるチベットでは抵抗の歴史が続き、2000年代に入ってから市民や僧侶による焼身抗議がメディアで報じられることが多いが、そうした行為の背景にあるものを探っているのがこの作品。

    インドのダラムサラで、チベットにおける苛烈な弾圧から逃れてきた人々を支援する活動をしている中原一博氏に密着する形でストーリーが進んでいく。

    チベットにおける焼身抗議とは、中国による圧政に対して中国人を殺める暴力に訴えるものではなく、自らの身体を灯明として国や民族に捧げて覚醒を促す自己犠牲の行為であるとのこと。

    かつて、イギリスが植民地支配していたインドにおいて、ガーンディーが率いた活動もまた、大変な自己犠牲を要する実に「過激な」行動であったが、チベットにおいても展開される非暴力不服従の活動もまた、なんと激しいものだろうか。

    作品中でカメラが追っていく中原一博氏がチベットにおける人々の抵抗運動を伝えるブログ「チベットNOW@ルンタ」では、チベットの情勢、中国当局による様々な弾圧、焼身抗議を実行するに至った人々の背景、占領下チベットから逃れてきた人たちへのインタビュー記事などが刻々と綴られている。

    同ブログでは僧侶が町中で「一人デモ」を実行して公安に取り押さえられる現場の動画なども取り上げられており、その後本人が受けたであろう苛酷な拷問、長期に渡る獄中生活などを思うと、非暴力不服従運動という活動は大変大きな自己犠牲を必要とするものであることがひしひしと伝わってくる。

    私たちがごく当たり前のこととして享受しており、その大切ささえもすっかり忘れ去られているが如き自由と民主主義だが、これがいかに尊いものであるかを思い知らされるようだ。

    チベットは決して中国の一部ではない。焼身抗議を実行する人々が、自らを灯明として差し出して覚醒を促している相手は、中国当局やチベットの同胞だけではなく、中国による占領の継続を黙認している国際社会に向けられたものであることについて、私たちは自覚しなくてはならない。

  • Namaste Bollywood #44

    Namaste Bollywood #44

    Namaste Bollywood #44

    今年もIFFJ (Indian Film Festival Japan)の時期がやってきた。東京(10/9~23)と大阪(10/3〜22)にてそれぞれ開催され。上映スケジュールについては、こちらをご参照いただきたい。

    Namaste Bollywoodの今号の巻頭特集は、このIFFJ。今年も選りすぐりの素晴らしい作品が目白押しだ。特集記事で紹介されている上映作品の紹介をじっくりと読みながら、どれを観に行くかとあれこれ検討してみよう。また、IFFJと時期が重なるが「マルガリータで乾杯を!(原題:MARGARITA WITH A STRAW)が、10月からシネスイッチ銀座を皮切りに、全国で順次ロードショーが予定されるにあたり、主演女優カルキ・コーチリンのインタビュー記事もあり、こちらも注目だ。

    さて、この号に掲載されている、同誌主宰のすぎたカズト氏による「ボリウッドにおける性描写の変貌」という記事は、IFFJでの鑑賞予定を考える際に大変参考になることだろう。また、1990年代の「インド映画ブーム」でフィーチャーされた作品群、当時いくつも出版されたインド映画の案内書に記されている内容とは、ずいぶん印象が違うことに気付かれるに違いない。

    1990年代以降のインドは激動の時代であり、経済面における社会主義的手法から大きく舵を切っての経済自由化、それにともなう外資の怒涛の勢いでの流入、国営放送による寡占状態であったテレビ放送については、ケーブルテレビ、衛星放送などが一気に普及することにより、外国からのニュースやエンターテインメント等々の番組がお茶の間に突然大量に雪崩れ込むとともに、当時はまだ目新しい存在であった民放各社も、そうしたトレンドをうまくつかまえて、これまでにはなかった新しい番組や映像を視聴者の元に届けるようになった。

    そんな時代が唐突にやってくると、まず最初に感化されていくのは若者たちだ。とりわけ1992年、1993年あたり以降に青春期を過ごすこととなった世代と、それ以前の世代では、物事の価値観、道徳観、性に対する意識等が大きく異なってくるのは当然のことで、もちろんそうした時代の変化は映画作りにも如実に反映されることとなった。時代を代表する作品を眺めてみるだけでも、1980年代から1990年代初頭、1990年代半ばから終盤にかけて、そして2000年代に入ってから現在にかけてと、作品のテーマや映像の質感が大きく違ってくるのは、こうした時代の大きな変化を反映したものであるといえる。

    さて、1990年代の日本で沸き起こった、先述の「ブーム」はかなりバイアスのかかったもので、同じような方向性の作品ばかりが日本に立て続けに上陸していたこと、製作された地域や言語域による違いを考慮することもなく、「インド映画」と荒っぽく括られていたことに加えて、当のインドで製作された映画に関する知識を踏まえない「面白おかしな」解説が、大手メディアで堂々と一人歩きしてしまうとう弊害も少なくなかった。

    今となっては20年ほどが経過しているにもかかわらず、今なおそのときに刷り込まれてしまったイメージが後を引いていることから、ボリウッド映画をあまり観たことがない層においても、「B級以下」「なぜか音楽と踊りばかり」「単純なストーリー」というようなネガティヴな先入観を抱いている人が少なくないことは非常に残念だ。

    だが、幸いなことに、今の20代の映画ファンの多くは、そうした過去のしがらみとはあまり縁がない。インドは若年人口が圧倒的に厚い国であることから、10代後半から30代前半にかけての年齢層が大きなマーケットとなることから、ちょうどこのあたりの年代の人たちは、IFFJで上映される近年のボリウッド映画界のヒット作(今回の上映作品は2013年から2015年にかけて公開されたもの)について、先入観なしに映画を楽しむことができる感性を持っているのではないかと私自身は期待している。

    どこの国の映画も同様だが、作品が製作された国や地域の文化、固有の価値観、社会のありかたなどが色濃く反映されるものだ。これについては日本の映画ファンの多くがニュートラルな立場で鑑賞しているつもりのアメリカのハリウッド映画についても例外ではなく、銀幕の背景にあるそうした諸々の事柄を理解することなしに、ストーリーの中に巧みに張り巡らされている仕掛けや伏線を読み取ることは容易ではない。

    まさにそのあたりを理解するために、Namaste Bollywood誌では、様々な著者による異なる角度からインドの文化面を含めた解説、インドの社会現象が作品に与えた影響や反対に作品が社会に及ぼした効果、ボリウッド映画界内部の動向などを伝えており、インドから遠く離れた日本のファンが、より楽しく、そして深く作品を楽しむことができるようにと情報発信をしてくれているのである。

    蛇足ながら、私も「インド雑学研究家」として、小さな記事を書かせていただいており、今号においては、ある作品で幾度か出てきたムンバイーにある小ぶりながらも美しいモスクについて取り上げてみた。

    Namaste Bollywood誌は、IFFJの会場でも販売されるが、それ以外の購入先については、以下、同誌ウェブサイトをご覧いただきたい。

    Namaste Bollywood

    ※「上海経由デリー行き3」は後日掲載します。

  • Namaste Bollywood+ 43

    Namaste Bollywood+ 43

    Namaste Bollywood+ 43

    日本における唯一のインドのヒンディー語映画専門誌として知られる「ナマステ・ボリウッド」は、第42号から「ナマステ・ボリウッド+」として有料版に移行、このたび発売された第43号は、新創刊第2号となる。

    今号のテーマは「ボリウッドで知るイスラーム文化」である。インドにおけるイスラーム教徒は、総人口13億に迫る(12.5億)巨大な人口を抱えるこの国のマイノリティ集団だが、ここに占めるムスリム人口は1億8千万人に迫るとみられることから、インドネシアの2.5億、パキスタンの1.8億に次ぐ、世界第3位のムスリム人口大国となる。

    ちなみにアラビア半島の総人口は、7千7百万人(産油国における人口統計には、出稼ぎ等の外国人の数も含まれることに多少の注意が必要)程度なので、その規模の大きさは圧倒的だ。インド・パキスタン・バングラデシュの3国のムスリム人口を合わせると、その数は4億人を越えることから、イスラーム世界のマジョリティの一角と捉えて間違いないだろう。

    また、アフガニスタンやパキスタンにおけるタリバーン運動の思想的なルーツでもあるデーオバンド派が始まったのは19世紀のUnited Provinces(現在で言えば州の分離前のUP州に相当)のデーオバンドでもある。タリバーン運動とは反対に穏健な原理主義として知られ、世界各国に活動を広げるタブリーギー・ジャマアトもこのデーオバンド派から生じたものであり、南アジアおよび周辺地域におけるイスラームに関わる宗教・政治運動に与える影響は大きい。

    話は映画に戻る。インドの映画界草創期から現在に至るまで、俳優や監督等の中にムスリムは多く、その他製作や配給に関わるあらゆる映画産業関係者も含めると、さらに大きなものとなる。

    昨今の日本では、イスラーム圏から観光や買い物等の目的でやってくる人たちが増えてきていることから、イスラームの作法によるハラール料理への注目が高まるなど、ポジティヴな面での関心の高まりとともに、イスラーム国による日本人の拉致殺害事件からくるネガティヴなインパクトも強く、正と負の両極端なイメージが混淆している状態だ。いずれにしても自分たちとの日常とはほとんど縁のない、理解しがたい人たちというイメージが強いのではないだろうか。

    そんな中でも、やはり日本の書店には「イスラムとは」「イスラム入門」「イスラム国の××」といったタイトルの書籍とともに、イスラームについての特集記事を掲載する雑誌等が数多く並ぶようになり、多くの人々が注目するようになってきていることがわかる。

    こうした書籍等で取り上げられる「イスラーム世界」の多くは、アラビア半島を中心とする宗教の歴史や文化史、あるいは日本から地理的な近いインドネシアやマレーシアのムスリムの人々のことであることが多く、南アジアのイスラーム教を中心にカバーしているものはあまり多くはない。また、往々にしてムスリムの人の視点に軸足を置いた主観的な「イスラーム観」が語られているように感じる。

    南アジアにおけるパキスタン、バングラデシュのようにムスリムがマジョリティを占める国では、イスラームは社会の規範であり、アイデンティティの拠りどころでもあるわけだが、反対にインドにおいては、長い歴史の中で10世紀以降から幾度も大波のように西方から押し寄せてきたイスラームの浸透は、しばしば文化的な侵略として捉えられることは少なくない。

    それでも必ずしもイスラーム教は侵略や略奪とともに到来したわけではなく、建築、医療、航海術、生活様式など、当時の先端文化をインドにもたらすものでもあった。たとえイスラーム教徒でなくとも、現在のインドの人々の思考様式、生活習慣、言語等々の様々な方面でイスラームがもたらした文化と日々無縁ではいられない。

    先祖代々、ムスリムの人々と隣り合わせで生きてきたため、たとえイスラーム教について批判的な人であっても、イスラームという宗教やそこから生じた思想等に関する知識は非常に豊かで、イスラーム文化への露出度や経験値の高さには測り知れないものがある。

    イスラーム王朝による被支配の過去の記憶に対する、19世紀半ば以降のヒンドゥー復古思想の高まり、20世紀に入ってからは英国支配からの独立運動は、マジョリティのヒンドゥー教徒を中心としつつも世俗的な政治思想で人々を率いた国民会議派とムスリムによるムスリム国家の樹立を目指したムスリム連盟との間で深刻な対立を生み、印パ分離独立という結果を見ることとなった。

    印パ分離にあたっては、双方から空前の規模の避難民が国境を越えてヒンドゥーが主体のインド側、ムスリムが大勢を占めるパキスタン側へと流入する最中で発生した暴動や虐殺等により、100万人にも及ぶとされる膨大な数の市民が命を落とすという惨事となったことは多くの人々が知るとおりだ。

    こうした近代史における大きな出来事が、印パ両国間に今なお横たわる大いなる相互不信の根底にあり、同じくインドにおけるイスラーム教徒、パキスタンにおけるヒンドゥー教徒に対する感情にも反映されて現在に至っている。

    しかしながら、インドにおけるイスラームの伝統は今も古典音楽、歌謡、絵画等、文学の芸術分野でも脈々と受け継がれており、これらは「インドの文化」と切り離すことのできない重要な部分を成していることはもちろんのことながら、政治経済の様々な方面でも活躍するイスラーム教徒たちは非常に多い。

    ときに緊張をはらんだ対立を生むことがあっても、長きに渡ってイスラーム文化から多大な影響を受けつつ、独自の文化・習慣を持つムスリムの人々と平和裏に共存共栄してきたインドという国は、「イスラーム理解の先達」と表現することができるだろう。

    また、イスラーム教徒が大半を占める国ではなく、自国内に「世界最大級のムスリム人口」を抱えるインドだからこそ、イスラームとの関係においてはごく日が浅い私たちが、いかにしてムスリムの人々を理解して共存・共栄していくかということにおいて、学ぶべきことが大変多いことと思われる。それはときに反面教師的なものであったりすることも少なくないかもしれない。決していいときばかりではなく、幾多の辛く厳しい局面も体験してきた懐の深さを持つインドだからこそ、非常に有用な数々の叡智を掘り起こしていくことができるはずだ。

    必ずしもムスリム自身からの観点のみではなく、イスラームの伝統や文化に造詣が深い非ムスリムによる視点、これとは反対にあまり好意的ではない意見も併せて、イスラームについて多角的に考察してみることが可能となる。複眼的な視野を持つことは、異文化理解において重要なことだ。

    話は戻る。今号はインドというフィルターを通して見たイスラーム文化、イスラームという視点から切り込んだボリウッド映画という大きなテーマ。たとえ純粋に娯楽映画として製作された作品であっても、華やかなスターたちの姿、美しい映像やスリリングなストーリーといった視覚的な部分のみではなく、作品を生んだ土壌や社会文化背景まで広く理解することによって、さらに深く堪能できるのがヒンディー語映画の豊かな世界。

    この号に取り上げられたイスラームに縁の深い作品を片っ端から鑑賞して、イスラーム教という宗教文化、政治性、ムスリムの人々について、硬軟織り交ぜたいろいろな側面に触れてみてはいかがだろうか。

    蛇足ながら、今回テーマとなっているイスラームとは関係のない内容だが、手前味噌ながら私自身も「ボリウッド眺望紀行」と題した記事をちょこっと書かせていただいている。こちらも併せてお読みいただければ幸いである。

  • 映画「PK」

    映画「PK」

    映画館のポスター

    12月19日に公開されて大きな話題となっている「PK」を観に行った。

    宗教各界から上映中止を求める声が上がったり、あるヒンドゥー右翼団体による激しい抗議活動が展開されたりなど、様々な反響を呼んでいる作品である。

    Protest against Aamir Khan’s ‘PK’ escalates, theatres in Gujarat vandalized (THE FINANCIAL EXPRESS)

    あらすじを簡単に説明すると、このような具合だ。この作品をこれから観ようという方は、ここから先を読み進むとネタバレとなってしまうことをご了承いただきたい。

    ————————————————————————————————————————
    地球の調査のためにラージャスターンに着陸した宇宙人(アーミル・カーン)が到着。だが間もなく、身に付けていたロケット(Locket : 胸飾り)を奪われてしまい、仲間と交信することが出来なくなってしまった。これなしには帰還することが出来ないため、彼にとっては死活問題となる。

    これと同時並行で、ベルギーでパーキスターン人のサフラーズと恋に落ちたジャッグー(アヌシカー・シャルマー)が、サフラーズの裏切り(その時点ではジャッグーにとってそのように捉えられた)で傷心の帰国。そしてテレビリポーターとしてのキャリアをスタートさせる。

    何か特ダネはないかと模索していたジャッグーは、「神が行方不明。ご存知の方は下記までご連絡を」と書かれた奇妙なチラシをデリーメトロ車内で配布する黄色いヘルメット姿の男、PKと出会う。

    この男に興味を持ったジャッグーは、彼と接触を試みる。あるときお寺で賽銭箱から現金を抜き取ったPKが人々に袋叩きになりそうなとき、機転を利かせて自分の財布を賽銭箱の中に落とし、「彼は私の財布を探してくれようとしていたのだ。嘘だと思うなら賽銭箱を開けて調べてくれ」と言う。果たして、開かれた賽銭箱からはジャッグーの名前と顔写真が入ったIDが入った財布が出てくる。

    これがきっかけとなり、ジャッグーに対して心を許しつつあるPKが自分の身の上を語り始めるようになった。最初は彼の言うことを信用していなかったジャッグーだが、彼が人の心を読み取る特別な能力があることを知るにいたり、彼が自分の星に帰還できるようにするため全面的に協力することを約束する。

    このふたりが邂逅する前、PKはまず地球人の言葉能力を獲得するために協力してくれる人(数時間に渡り、その相手と手を繋いでいる必要がある)を見つけるために苦労を重ねる。その能力を得てからは、どうやら自分が取り戻そうとしているものを手にするためには、「神」という存在に頼らなくてはならないというように考えるようになったが、その神を祀る宗教施設、神との間を取り次ぐということになっている聖職者等は世間にたくさんあるものの、実際には誰ひとりとしてその神に直接接した者はいないことが判ってきた。

    またその神に対する人々の態度も様々であり、それぞれ異なる方法で接していることから、どれが正解なのかPKには計りかねた。ある宗教(キリスト教)では清浄なものであるとされているワインがイスラーム教徒にとっては禁忌であったりする。いったい神とはどこにいるのか、また人々に何を説いているのか・・・。

    やがてPKは、ある有名なヒンドゥー聖職者がヒマラヤで神が授かったものであるとして、自分のロケットを持っていることを知ることとなった。宇宙船からラージャスターンの大地に降りて間もなく、彼のロケットを強奪した男は、なんとこの聖職者にこれを高く売りつけていたのだ。

    この後、ジャッグーが所属するテレビ局が、この聖職者とPKの対談の中継が実現し、ふたりは激しいバトルを展開していく・・・。

    最後にようやく再びロケットを手にしたPKは、ジャッグーに見送られて宇宙に帰還する。
    ————————————————————————————————————————

    大変良く出来た、腹を抱えて大笑いできるコメディー映画であるのだが、同時に非常に社会批判性の強い作品でもあり、信仰や人間性といったものに対していろいろ考えさせてくれる仕掛けがあちこちに散りばめられている。

    自然界に存在しない、人間が創り上げた文化、つまり「信仰」「宗教」などと呼ばれるものが、人々を分け隔てしまっていることに対する痛烈な批判。万が一、神という存在がこの世にあったとしても、本来ならば個々がその神とやらに直接コンタクトすればいいところだが、宗教者やら宗教団体という、いわば「ブローカー」が介在して、人々から上前をハネていること、巨万の富を生み出すビジネスとなっていることなどについて、これまで少なからず疑問を抱いていた人たちは多かったことだろう。

    そんなことから「神」と距離を置く個人はあっても、表立って異を唱えることが出来ないのは、所属する共同体とのしがらみであり、さらには家族の世間体への配慮ということになるのだが、これを軽々と乗り越えてしまうのが、様々な神々に自らの問題の解決を懇願しつつも果たせず、それぞれの宗教の矛盾を体感してしまった宇宙人であり、この世のそうした事柄とのしがらみを持たないニュートラルな存在であるからだ。

    さて、神を信じようが信じまいが、信仰というものが、それぞれの国や地域における精神文化、思考や価値観と切り離せないつながりがあることはもちろんのことである。また、共同体意識、社会奉仕の精神、道徳観といった精神性の部分で果たす信仰の役割は決して悪いものであるとは思わない。それでも先述のとおり、宗教というものには、非常にネガティブな部分も多く、それを表立って糾弾しにくいものがある。

    加えて、万人の平等やらなんやらを唱えつつも、信仰そのものは往々にして味方と敵を区別する旗印になっており、そのカラーの違いで向こう側の人たちを傷つけたり、殺めたりということがしじゅう世の中で起きていることは誰も否定できないだろう。

    作品中でこんなシーンがあった。
    アーミルが木のたもとに石板を置き、もうひとつ大きめの石をちょこんと立てて、その「額」にあたる部分に赤いティーカーを付ける。それで神像に見立てたうえで、その前の石版に幾ばくかのコインを置き、「これで投資が何倍にもなる」とつぶやく。

    やがて通行人たちがこれを見つけて、次々に祈りを捧げ、賽銭を置いていく。中には地面に身体を投じて、つまり腹ばいになって祈る人も出てくる。観客たちは大笑い。
    そうした中で、チャーイワーラーもあらわれて、そうした人たちにチャーイを売るようになる。

    アーミルが仕掛けた「石」は、結局のところ、人が「でっち上げた」怪しげな宗教団体なり、施設を示唆しており、そこには神など存在しないのに盲信してしまう人々を象徴する。

    そのお金を生みだす「石」と、おなじくお金を稼ごうとするチャーイワーラーの比較で、「あの人、あのひと(チャーイワーラー)は、お客を呼び込むためにへつらい、腐心するけど、あちら(神像に見立てた石)のほうは人々にへつらうことなく、向こうからやってきて、しかもお客のほうが媚びへつらっている」と揶揄する。

    また信仰の典型的な装いを、それとは異なる信仰の人たちに着せて登場させてみたりするシーンもあった。そうした見せかけのカタチにとらわれていると、事実を見誤ってしまうこと、本当に大切なのは××教徒という装いではなく、もっと本質的なことであることを私たちに悟らせてくれる。だがこの映画が唱えているのは無神論であるかといえば、そうでは決してないことが判ることと思う。

    アーミル演じるところの宇宙人は本来、裸であるというところで、本来人々自らが何ら自身を偽って飾り立てることない清らかな存在であるらしい思わせるところで、生のままの自らに内在しているはずの神性や善性を示唆していたりするなど、すべてのシーンやセリフ回しに、数え切れないほどのメッセージがこめられている。

    だが、それらがまるでそれぞれの水源から始まった川の流れが次第に合流して大河となって、やがては大海に注がれるように、きれいに統合されていく展開は見事だ。それでいて、まったく説教臭くないのも素晴らしい。
    ここに描かれているのは信仰に関する事柄のように見えるが、実は世の中あちこちで普遍的に存在する不条理な「常識」「因習」「しがらみ」への挑戦でもあり、インド国外でもグローバルに支持される内容だと思う。基本的にはワッハッハと腹を抱えての笑いをとるコメディー映画だが、あちこちに散りばめられた鋭い社会党批判とエンターテイメント作品中としての両立に、いたく感激した。

    また、その後の現実社会の展開も興味深い。宗教勢力の一部から映画の中での表現を巡って物言いがついているが、その内容はごく表層的な部分への批判にしかなっておらず、作品が指し示した本質的な部分に関しては、手も足も出ない状態のようだ。まさに映画「PK」のファイナル部分での展開と同じになっているのが興味深い。こうした勢力から上映差し止めの請求が出されたものの、裁判所は「観たくなければ、観なければいい」とこれを却下している。

    まさに「PK」の痛快なストーリーが今度は現実社会で続いているわけで、ここでまた大笑いなのである。いつか日本で上映される日も来るであろうから、皆様にもぜひご覧いただきたいと思う。

  • Namaste Bollywood +42

    Namaste Bollywood +42

    Namaste Bollywoodの第41号について取り上げた際にも触れたみたとおり、同誌は第42号から有料版へと移行した。これにともない、全32ページで総カラーとなり、内容もさらに充実して、より読み応えのある内容となっている。発行回数は年3回とのこと。

    インド国外でもユニバーサルな人気を誇るインドのヒンディー語映画だが、おそらくどこの国の映画においても多かれ少なかれ、その国や民族の文化、伝統、習慣といったものが反映されるものだ。ましてやディープで多層的な文化と豊かな民族的な幅を持つインドにおいては、ことさらそうした背景の知識を持つことが、作品のより深い理解へとつながる。

    これについては、ハリウッドをはじめとする欧米の映画についても同様なのだが、そうした地域の予備知識的なものについては、多かれ少なかれ私たちはすでに馴染んでいるというある種の「インフラ」的なものが、日本の大衆文化の中にあるという点がインドの映画に対するものとは異なる。まさに同誌においては、インドの社会や文化についての考察と合わせた形で、これまでボリウッド映画の紹介がなされてきたわけであり、定期的に「ボリウッド講座」の開催も行なっていることは言うまでもないだろう。

    2006年に創刊し、すでに9年目を迎えるNamaste Bollywood誌だが、ここ2年ほどの間に日本で劇場公開されるインドのヒンディー語映画が着実に増えていること、またそれらに対する日本の観客の評価が高いことなどを見ていると、ようやく今になって1990年代の日本における「インド映画ブーム」により、各メディアから恣意的に刷り込まれた妙な先入観の呪縛から解き放たれて、インドのヒンディー語映画の良作がすぐれた作品として迎えられる地盤が整ってきているという気がする。過去の「インド映画ブーム」でネガティヴな刷り込みが風化しただけではなく、当時を知らない若い世代の人たちが映画の観客のマーケットに大きな比重を占めるようになってきたという面もあるだろう。今後、都市部ではいつもどこかでヒンディー語映画が上映されているということが当たり前という時代が近づいて来ているのかもしれない。

    こうした機運が高まりつつある中、この流れへと導いてきたさまざまな要素があるはずだが、その中においてNamaste Bollywood誌が果たしてきたもの、ボリウッド講座や各種イベントを通じて広く人々にアピールしてきたことなどによる貢献が占める割合も非常に高いものがあるに違いない。

    近年、日本で劇場公開されたインドのこうした映画といえば、すでにインドで大ヒットしたり、評価が高かったりした映画が、かなりの時間差を経て上陸するという形であった。これが本国とほぼ時を同じくして公開されるような機運になってきたとき、インドのヒンディー語映画が日本にしっかりと定着したということになるのだと私は考えている。

    公開する側にとって、本国でのリリース後の評判を見ずして、充分な集客が容易に期待でき、商業的なリスクのないものとなるには、インドのヒンディー語映画が日本の大衆娯楽の中にしっかりと根を下ろしていく必要がある。劇場公開される映画が観客にとって「評判いいらしいから来てみた。誰が監督しているのか、出演者が誰なのかよく知らないけれども、感動的な作品だった」という一過性の娯楽で終わるのではなく、監督をはじめとする製作者や出演する俳優・女優に対する関心も高まってくるかどうかが大きな分かれ目となる。これは、ハリウッド映画において、巨匠による作品や日本でも人気の高い俳優が出演する映画であれば、公開日が決まった時点から大きな話題となることからもよくわかるだろう。

    Namaste Bollywood誌の執筆陣には、発行人のすぎたカズト氏、インド映画評論家の高倉
    嘉男氏、インド宮廷舞踊家の佐藤雅子氏、インド学研究家の高橋明氏と豪華な顔ぶれを揃えており、非常に読み応えがある。また、「マダム・イン・ニューヨーク(ENGLISH VINGLISH)」のガウリー・シンデー監督、ミュージシャンで映画の音楽監督でもあるA.R. ラフマーンへの貴重なインタビュー記事なども見逃せない。こうした形でのインドのヒンディー語映画に関する、またその背景となるインドに関する知識の拡散と定着が、日本における劇場公開の定番化へとつながっていくことと信じている。

    まずはぜひ、このNamaste Bollywood +42を手に取ってじっくりとお読みいただきたい。
    入手方法については、同誌のウェブサイトに書かれているとおりだが、今号からは楽天市場ヤフー!ショッピングでの取扱いも始まったようである。

  • ボーパールの悲劇から30年

    1985年12月2日から3日にかけて発生したユニオンカーバイド社の工場からの殺虫剤の原料となる成分からなるガス漏れ事故から今年でちょうど30年経過したことになる。

    マディヤ・プラデーシュ州のボーパール市の住民のうち55万名を超える市民がこの毒ガス被害を受けたとされ、死者の数は2,500名とも3,800名とも言われるが、この毒ガス被害により半月の間に亡くなった方は8,000を超えるという説もあり、今なお史上最大級の産業事故である。

    この事故に関するあらましは以下のリンク先をご覧いただきたい。
    The Bhopal disaster and its aftermath: a review (ENVIRONMENTAL HEALTH)

    この事故はノンフィクションで取り上げられたり、映画やドキュメンタリーとして制作されたりするなど、世間の関心は高い。

    書籍ではドミニク・ラピエールおよびジャヴィエール・モローによるIt Was Five Past Midnight in Bhopal、映画ではBhopal Expressといった作品が入手しやすい。

    また、BBC制作のONE NIGHT IN BHOPALはYoutubeで閲覧することができるので、ぜひご覧いただきたい。

    ONE NIGHT IN BHOPAL (BBC)

    今年12月5日からはインドでラヴィ・クマール監督によるBhopal: A Prayer for Rainが公開されるが、すでにニューヨークの映画館では11月7日から、ロサンゼルスその他の都市では11月14日から封切りとなっている。

    この未曾有の大災害とそれから得た教訓を決して風化させてしまってはならない。そのためには事故に関する真実を今後ともみんなで共有していく必要がある。

  • Namaste Bollywood #41

    Namaste Bollywood #41

    Namaste Bollywood #41

    ナマステ・ボリウッド#41が発行された。今回の特集は10月中旬に東京、高崎、大阪の三つの会場で開催されるIndian Film Festival Japanである。

    今年で3回目となるこの映画祭は、東京(ヒューマントラストシネマ渋谷)においては10月10日から17日まで、高崎(シネマテークたかさき)と大阪(シネ・ヌーヴォ)では10月18日から24日までが会期となる。

    10月10日のオープニングイベントに出演するために来日するのは誰か?!というところも大いに興味をそそるところであるが、今回の映画祭もまたMadras Café、Barfi !、Pied Piperその他のキラ星のような傑作タイトルがその名を連ねているので、大いに盛り上がること間違いなし!

    2015年に日本公開となるであろうボリウッド映画の予測、ボリウッド都市伝説の検証その他のカラフルな記事を読み進んでいくと、今後日本の劇場で鑑賞できるムンバイー発のヒンディー語映画の幅が更に広がっていくことを期待せずにはいられなくなる。

    なお、同誌のフリーペーパー版はこれが最終号となり、次回からは増ページした有料版へ以降するとのことで、更にパワーアップした誌面を楽しみにしたい。

    購入方法等については、やがて同誌のウェブサイトにて案内がなされることと思うが、詳細が明らかになればindo.toでもご紹介したいと思う。

  • ターラープルの原発を取り上げた映画「ハイ・パワー」

    2011年3月11日に発生した東日本大震災とそれにともなう福島第一原発の深刻な事故が発生した後、しばらくの間は日本国内で盛り上がった反原発運動だが、このところずいぶん「鎮静化」してしまったのが気にかかる。

    まさに「喉元過ぎれば・・・」ということわざどおりなのかもしれないが、当の原発事故はいまだ終息したわけではなく、現在も進行中であること、この事故による被災者の方々はいまなお避難生活を送ることを余儀なくされていること、汚染が危険なレベルであるにもかかわらず、効果のよくわからない「除染」で誤魔化してしまおうとしている行政等々、さまざまなトラブル等がすべて未解決である現状を思うまでもなく、日本人である私たちが直視して考えていかなければならない問題だ。

    インドのマハーラーシュトラ州のターラープルといえば、原子力発電所があることで知られているが、この原発が地元に与え続けてきた負の面を告発した映画である。あらすじについてはこちらをご参照願いたい。

    すでに日本国内のいくつかの場所ですでに確定した上映スケジュールが告知されているが、興味深いのは映画の内容だけではない。上映と監督ともに「招聘」することができるという部分も特筆すべきところだ。

    原発については、その存在の是非だけではなく、これによって支えられる産業のありかた、成り立つ社会のありかた、ひいてはインド、日本その他の国による区別もない、地球上の私たちの暮らしのありかたを含めて、みんなが真面目に考えていかなくてはならない問題である。

    ※映画紹介のウェブサイトには「タラプール」とありますが、正しくは「ターラープル」であるため、本記事における記載は「ターラープル」としました。