金の卵か?新型フリッジ『MITTI COOL』

MITTI COOL
 生活の知恵をベースに開発された、グジャラート発の電気を使わないエコな冷蔵庫があるそうだ。表面に少しずつ滲み出て気化することにより、素焼きの壺の中に入れた水は外気よりもかなり冷たく保たれる。空気中の湿度が低いほどその効果は高くなるわけだが、この原理をそのまま利用して作ったのがこの『フリッジ』なのだ。ワンカネールに住む陶工の発案によるもので、ボディはもちろん焼き物でできている。四角い素焼きの水タンクの中に冷蔵室がしつらえてある・・・といったイメージだ。
 上部の丸いフタを取り大量の水を注ぎ込むだけで準備完了。気化熱で冷やされた水は冷蔵室内の野菜や牛乳などを適温で保ってくれる。この水はボディの横に取り付けられた蛇口をひねると出てきてそのまま飲用となる。この古くからの知恵による新しいフリッジはデリーのプラガティ・マイダーンで開催中の第26回インド国際貿易フェアにも出品されている。
 NDTVインディアの報道によれば価格は2000ルピー。『冷蔵庫』の大きさにいくつかバリエーションがあるのかどうかはよくわからない。画像の展示品のサイズは小さすぎるようなので、家庭の小型冷蔵庫くらいあればと思う。しかし素焼の陶工たちが手作りするものなので、このくらいの大きさが限界だろうか?
 ともかく電気不要なので停電を気にする必要はないし、ランニングコストもゼロ。一見何てことないアイデア商品だが、農村などからの引き合いは決して少なくなさそうだし、ひとたび当たればこの『冷蔵庫』作りに精出す村々も出てきたりすると雇用吸収力もバカにならないだろう。ターゲットとなるべき層はインド国内のみならず南アジアや周辺各国の相当広い範囲に及ぶ。素朴ながらも今後大化けが期待される目玉商品かもしれない。
 部屋の隅にちょこんと置いても邪魔にならないし、エコ・フレンドリーな温度に冷やしたビールや果物を楽しんでみるのも普段とは違った味わいがありそうだ。私もひとつ買ってみようかな?
粘土製、太陽エネルギーの「エコロジー冷蔵庫」誕生 (AFP BB News)

ドリアンを読む

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 日印間の往復途中に東南アジアを経由する便は多い。バンコク、クアラルンプル、シンガポールといった街にもちょっと立ち寄るといった人は多いだろう。
 インドでは見かけないのにこれらの土地には豊富にあるもの、またそれがあるゆえに東南アジアらしいムード醸し出しているものがある。それはドリアンだ。もちろんドリアンにはシーズンがあるものの、インドネシアとタイというドリアンの二大産地に挟まれたマレーシアやシンガポールあたりは収穫時期が異なる両国からふんだんに輸入されているため、この『果物の王様』を楽しめる時期もずいぶん長くなるという、非常に恵まれたドリアン天国だ。
 ドリアンの食感は植物の実ではなく人造物だと常々思う。熟練したシェフが腕によりをかけて仕上げた高級デザートとしか思えない。なぜならあまりに深くて複雑な味わいを持つ『生の植物』を他に知らないし、舌触りも香りも限りなく動物性に感じられる。卵黄やバターが入らずしてあれほどふくよかな味になるものなのか、アルコール分の高い料理酒を使わずしてあれほどかぐわしい香りを出せるものなのかといつも不思議に感じている。あれが自然と木に成るものであるということは、現場を目にしても信じられない。
 今年10月、中公新書から『ドリアン ― 果物の王』(塚谷裕一著)という本が出た。自らマンゴー・フリークの植物学者による、まるごと一冊ドリアンの解説本である。ドリアンの香り、選び方、果物としての特殊性、栽培方法といった事柄に始まり、同じく美味な近縁種の数々、ドリアンを原料とした加工食品等、栄養素、脂肪分の考察、香り成分の分析等々をわかりやすく説明するとともに、その他トロピカルフルーツの代表格として知られるバナナ、マンゴー、マスゴスチン等をも含めた、日本における熱帯果実消費の歴史などについても記されている。実は日本における東南アジアからの果実輸入は戦後から始まるものではなく、実は戦前から相当量のフルーツが日本の食卓に押し寄せていたという記述などもとても興味深い。

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『国』ってなんだろう?

 今月下旬に中国の胡錦涛国家主席の訪印が予定されている。未解決の国境問題の早期画定、経済協力、軍事交流などといった戦略的関係の強化を目指すものとされており、すでに実務レベルでは相当踏み込んだやりとりがなされていることだろう。
 だがそんな中で孫玉璽駐インド大使によるアルナーチャル・プラデーシュ州の帰属をめぐる発言がインド側の強い反発を生むなど、近年良好な関係にあるとはいえアジアで覇を競い合うふたつの大国同士の間には一筋縄ではいかないものがあることがうかがわれる。
 もともとこの地域についてはマクマホン・ラインによる線引きにより1914年に当時英領下のインドとチベットの間に決められた国境線を認めない中国が『わが国の領土である』として旧来より主張してきた。その根拠となるものは『チベットは歴史的に中国固有の領土であり、その中の地方政権(つまり当時のチベット政府)に国境画定の権限などなかった』というものである。
 つまり当時のインドとチベットとの間の合意に妥当性を認めないものであるからこういう論が成り立つことになるのだ。しかし地元の人々にしてみればニューデリーと北京というどちらも遠くはるか彼方のふたつの街のお偉方たちの間で自分たちの帰属が云々されるという不条理はいかんともしがたいものだろう。自分たちの土地がインドに属するならばそこに暮らしてきた人々は『インド人』となり、その同じ土地が中国の領土となればやはり同じ自分たちが『中国人』ということになる。
 現代の民主主義のシステムの中で『主権在民』ということにはなっている。だが係争地帯に住む人々に自らがどちらの国に属するか決めることはできず、ただ暮らしてきた土地がどちらの領土になるかにより自らが何国人であるかが明らかとなる。土地の帰属は自分たちとは縁もゆかりもない遠く離れた大きな街で、見た目も言葉も違う人々によって自分たちのあずかり知らぬ国家同士の損得勘定を背景にしたさまざまな駆け引きにより勝手に決められてしまう、あるいは現状を承認されていくというのはいかがなものだろうか。
 そうした土壌であるがゆえに『国』に対する忠誠心は薄く、それがゆえに実効支配する勢力に対する反感という一点において利害をともにする国境の外からの支援などを受けて地下組織による反政府活動が行なわれ、『国』はそれに対する取り締まりを強化するとともに政情不安を理由に強権で押さえ込もうとする。そこで地元の意識がさらに高まるとこれをうまく利用しようと外部の勢力がさらにあちこちに触手を伸ばす。そうした動きを口実に地元当局はさらに強引な手法で弾圧しようと試みる・・・という図式は、係争地が人々の住む地域である限り世界中どこでも同じ構図が見られる。こうした動きの中で誰に理があろうとも、多大な迷惑を蒙るのは地元にずっと暮らしてきた人々だ。
 その地域を実効支配している『国』あるいはその土地を外から『自国の領土だ』と主張するまた別の『国』があろうとなかろうと、人々は昔からずっとその土地に暮らしてきたわけである。『うるさいから出て行ってくれ!』と叫んでみたところで、今の時代どの土地もどこかしら『国』に属することになっているのだからそうはいかない。
もちろん『国』にもいろいろ言い分はあるのだろうが、これは人間の尊厳にかかわる大きな問題だと思う。
India and China row over border (BBC South Asia)

亜大陸の片隅で起きていること

 先日、ゴーパール・メノン監督によるドキュメンタリー・フィルム『ナガ物語〜沈黙のかげで』(2003年)を見る機会があった。バングラデシュのタンヴィール・モカメル監督による『コルナフリの涙』とともに、NGOのジュマ・ネットと市民外交センターにより共同上映されたものである。
 どちらも約1時間ほどのドキュメンタリーで、前者はインドのナガランド州における、後者はバングラデシュのチッタゴン丘陵地帯における先住民たちの置かれた立場と弾圧、人権問題や民族対立などを描いた作品だ。
『ナガ物語〜沈黙のかげで』では、インド国籍の者であっても地域外から自由に出入りすることができない状態は、地域の文化や特殊性を守ることにつながったが、外部の目を遮断する効果を持つことにもなったこと、それがゆえにまかり通っている暴力と不条理等が示されていた。ナガランドを含むインド北東部に適用されている国軍特別権限法(Armed Forces Special Powers Act)により、軍が治安上疑わしいと判断した際には令状なしに家宅捜索、逮捕拘束、尋問その他を行なうことができることになっているため、重大な人権侵害が行なわれやすくなる。作品では軍の行為が本来の統治機構である州政府や司法の関与を受けないことから、その暴走ぶりに歯止めが利かない構造になっていることが多くの実例や証言等とともに生々しく描かれている。
 ゴーパール・メノン監督は、他にもグジャラートのゴードラーで起きた列車襲撃事件に端を発する暴動、カシミールで軍の弾圧により犠牲となった人々の現状、津波被災後のありさまなどを描いた作品等々、様々な主題にもとづくドキュメンタリーを制作している。取り扱うテーマがテーマだけに、右翼による襲撃をはじめとする攻撃や脅迫などを受けつつも果敢にインド社会の抱える問題点を人々に提示し続けている。

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一眼レフ 出先で手軽にゴミ掃除

DD Pro
 近ごろ一眼レフを手にする人の姿がとっても多くなった。急に進行した低価格化、そしてパナソニックやソニーといった家電メーカー等の参入もあり、機種選択の幅も多様になったためだろう。もはやデジカメ商戦の主戦場は一眼レフにシフトしてしまっているのは、コンパクト・デジカメのラインナップから『ハイエンド』と形容される高級タイプが姿を消していることからもよくわかる。そんなこともあってデジタルで初めて一眼レフを手にしたという人も少なくないことから、その普及のスピードには目を見張るものがある。
 銀塩の一眼レフからデジタルに移行すると、廉価版モデルで採用されているAPS-Cサイズのセンサー、オリンパスやパナソニックなどによるフォーサーズ、高価格帯のモデルではフルサイズと複数の異なるサイズのセンサーが使用されていることから、同一規格のマウントのレンズを利用してもボディのタイプによって画角がずいぶん違ってしまうのが少々厄介なところだ。
 そのセンサーだが、やがてフルサイズの機種からも低価格タイプのものが出てきて、それが市場を席巻してしまう・・・という具合にはどうやらなりそうにない。一眼レフの大衆化によってAPS-Cの存在感がここ数年で爆発的に膨らんでいる。なにしろ販売数や機種数からして10万円前後の普及モデルは圧倒的なマジョリティだ。主要カメラメーカー以外にもシグマやタムロンといったレンズメーカー(シグマはカメラ自体も製造しているが)が『デジタル専用』と銘打ってAPS-Cサイズに特化したものを多数生産するようになっているからだ。
 当初フルサイズ低価格化までの過渡期をつなぐだけの存在にも見えたこのサイズのセンサーが目下デファクト・スタンダードとなっており、フルサイズのモデルはプロフェッショナルか一部の金に糸目をつけないマニアックな人たちの専用機として、一般ユーザーの間ではそれほど注目されるものではない。

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