携帯電話 若者たちにプライバシー革命

あまり昔のことと較べても仕方ないのだが、インドの街中でデートする若者たちの姿が増えた・・・と思うのは、ライフスタイルや価値観の変化という外的な要因、洒落たカフェ、モール、シネコンその他のインフラ面の充実といったものもあるが、そうした変化と歩調を合わせるようにして普及した携帯電話を各自が持っているという内的な要因が大きく作用しているはずだ。

昔、インドでは地方から出てきている学生や就職したばかりの者が自前の電話を持つということはまず無理だった(費用はともかく、固定電話回線を得るのはとても時間がかかるものだった)ため、近所の電話屋に出向いて自分から相手にかけるのみで、向こうからの連絡を受けることはできないという一方通行状態。双方が実家から通学・通勤している場合には双方向で連絡を取り合うことができるものの、ともに家族の反応を気にしながらということもあったし、非常識な時間にかけるわけにはいかないし、ともに在宅しているときのみ可能な通信手段であった。

個々が専用に所持する携帯電話が普及してからというもの、どこの誰からかかってきているのか、父母等に知られることなく、心置きなく会話することができるし、すでに相手の家人が寝静まっている時間帯でも、こっそり通話することができる。あるいはSMS等を送信しあったり。

もちろんインドに限ったことではなく、日本その他どこの国でもこうした自由を今ではごく当たり前のものとして、青春時代の若者たちが享受している。私が高校生や大学生くらいの頃には、まだそうしたものはなかったので、付き合っていたガールフレンドに電話する際には、いささかの緊張感があったものである。とりわけ電話口に出たのが相手の父親であった場合にはなおさらのことだった。

当時のインドでは、若い男女がデートしている場面といえば、広い公園の木陰のような人目に付かないところというのが典型(今でも田舎ではそんな感じだが)であったが、今のインドの都会では、若い男女が出かける先には事欠かなくなっている。携帯電話という自前の通信手段があれば、家族に知られることなく都合のつく時間帯や場所を決めて落ち合うのはとても簡単になった。若者たちの日常生活において、それこそ「プライバシー革命」とでも表現すべき出来事となる。

そんな時代なので、恋愛や結婚といったものに対する考え方について、それ以前の時代に育った親世代とはかなり齟齬が生じているのかもしれない。親の監視下にあるのが当然の状態で青春期を送った人たちと、それを回避できるのが当たり前の時代に成長した人たちとの違いだ。

親しい間柄にある人で、最近結婚に失敗してしまった人がいる。結婚自体は双方の両親のアレンジによるもので、当初はうまくいっているものとばかり思っていたのだが、実はそうではなかった。相手の女性は、結婚前から親しかった人物との関係が続いており、それが破局の原因となってしまった。もちろんそういうケースは従前もしばしばあり得たものだが、携帯電話やSNS等といった通信手段により、よほど遠く離れた場所に嫁いでしまわない限りは、そうした婚外恋愛(extra marital affairs)、不倫といったものが容易になることは言うまでもない。

それはともかく、恋愛観、結婚観といったものについて、「ケータイ時代以降」に青春期を過ごした世代と、それ以前の親世代との間での不協和音は続くことかと思うが、今の若者たちが親となる時代には、そのあたりの事情は大きく変わっているのではなかろうか。中年世代に差し掛かった「かつての若者たち」が『最近の若い奴らは・・・』などと愚痴っていたりすることもあるのだろうが。

Namaste Bollywood #33とJ-one 第3号

今回で第33号となるNamaste Bollywood。特集記事『ボリウッドのBはビューティーの』と題して、ミスコン出身女優たちが取り上げられている。

さすがに美の大国だけあり、神々しいまでに麗しい女優たちが多いボリウッドの世界だが、その中でミス・ワールド、ミス・ユニヴァースといったトップレベルのミスコンでの受冠経験を持つ女優は多い。

だがミスコンの肩書は、映画界入りの際の看板にはなるものの、ただ美しいだけで成功できるわけではない。演技者しての高い技量、内面的からにじみ出る魅力、そしてカリスマ性といった要素に加えて、苛烈な競争の映画界で巧みに生き抜く「営業力」や「政治力(のようなもの)」を備えてこそ、スターとして輝くことができるのだ。

嬉しいニュースも掲載されている。Ra. Oneの日本公開のお知らせだ。ボリウッド好きの人たち以外の間での関心度は今のところ無に等しいかもしれないが、公開が始まってから口コミその他で注目度が急上昇しそうな気がする。夏休みの映画の最大の目玉のひとつとなるのではないかと予想している。

今号の「ボリウッド千夜一夜」は怪談仕立て。内容についてここで触れるわけにはいかないが、ぜひとも本誌を手に取って楽しんでいただきたい。

社会問題をテーマにしたANTAR DWANDのDVDについても触れられている。TIRAKITAにてレンタル・サービスが行われているとのことで、こちらもぜひ利用したい。

Namaste Bollywoodと同じくスタジオ・サードアイによるJ-one第3号もすでに発行されている。「ライフワーク企画 福島と生きる」「相馬高校放送局 今伝えたいこと」「劣化ウラン弾と内部被曝」等々、見出しを眺めただけでも中身の濃い内容が目白押しであることがうかがえるだろう。

大飯原発の再稼働をめぐる政府のスタンスを見ていると、あたかも福島第一原発の事故後しばらく続いた「脱原発」の方向にあるかのように見えた一連の対応は、あくまでも世論を宥めるためのパフォーマンスに過ぎなかったのかと、忸怩たる思いを抱かずにはいられない。世界を震撼させる大事故であったにもかかわらず、そこから有益な教訓を得て変革を図ることなく、旧態に戻そうとするこんな政府に、この国の将来を託してよいのだろうか。

変化を求める民心を惹きつけて政権交代を実現させた民主党だが、肝心の民意は彼らに届かない。党の迷走ぶりと合わせて、今から思えば、あれは一体何のための総選挙だったのかと思う。

ヴィラート・アンコール・ワット・ラーム

だいぶ前のことだが、こんな報道があった。

India starts Angkor Wat replica in Bihar (BBC NEWS INDIA)

ビハール州のヴァイシャリー地区のハジプル近くに、カンボジアのアンコール・ワットのレプリカが建造されるというプロジェクトだ。

10年がかりで完成されるというその建物は、アンコール・ワットを模したヒンドゥー寺院であり、カンボジアにある本物は元々シヴァ神の寺院として建立されたものが後に仏教寺院へと変遷していったのに対して、こちらはラーマ神を祀る寺となるとのことだ。その名もヴィラート・アンコール・ワット・ラーム。

費用2千万米ドル相当の資金を注いで建築、本家アンコール・ワットを凌ぎ、世界最大規模のヒンドゥー寺院が出来上がるとされている。もちろんビハール州の建設現場における最大級の投資額ともなることだろう。

だが気になるのは、その費用の出処。民間の資金によるものとのことだが、その大半はビハール州外からのものと見るのが妥当だろう。

80年代末から90年代前半にかけて、ラーマの生誕地であったとされるところに立地していたムガル朝時代に建てられたバーブリー・マスジッドの存在とラーマ寺院の再建運動(結局、再建運動にかかわる活動家たちにより1992年に破壊されるが、その後寺院建立には至らず)により、コミュナル暴動の嵐が吹き荒れた隣州のウッタル・プラデーシュとは対照的に、政治面では宗教色が薄かったビハールに地殻変動をもたらそうという動きが水面下にあるように思われる。

1990年代から今世紀に入るあたりまで、上げ潮の勢いがあったサフラン勢力の伸びが頭打ちになって久しいが、人口1億人を超える人口稠密なビハール州は、政治的にも治安面でも安定しているとは言い難い。

それでも近年はインドという国自体の経済成長に引っ張られるように、あるいは長らく停滞と混乱をもたらしたラールー・プラサード・ヤーダヴ氏率いるRJD (Rashtriya Janata Dal)の時代とは打って変わり、2005年からJanata Dal党首のニティーシュ・クマールが州首相を務めて実績を上げている効果もあってか、他州を凌ぐ成長率が伝えられているビハール州だ。

ヴィラート・アンコール・ワット・ラームの建立の背後に、新たな政治勢力の台頭の影がチラついているように感じるが、完成までの10年の歳月の間に、その姿が次第に明らかになってくるのではないだろうか。

マウラミャイン

先日、泰緬鉄道のミャンマー側の終着地点であったタンビュザヤのことについて書いたが、ここへはモウラミャインから日帰りした。

モウラミャインへは、ヤンゴンから夜行バスで到着。ヤンゴンを出発したのは午後9時。「バス岐阜」と書かれた、日本の中古バスだったが、まだ新しくて快適であった。クーラーの効きも良く、運転席上部に設置されているテレビからは、午後11時くらいまでミャンマーのポップスのビデオが大音響で流れていた。

ミャンマーで第二の人生を歩む日本の中古バス
深夜過ぎのドライブイン。乗客のみなさんもお疲れの様子・・・。

深夜過ぎにドライブインで休憩。空腹感ではあったものの、疲れ切っていて食事する気にはならなかった。30分ほどしてからバスは出発。しばらく寝ていたが、ハッと気が付くとどこかに停車している。クルマがガタゴトと揺れていると、心地よく眠ることができるものの、停まってしまうと目が覚めてしまうのは鉄道と同じ。適度な揺れに身を任せていると心地よいものだからだろうか。腕時計に目をやると、午前3時過ぎを指していた。

外に出てみると、前方には同じく停まっている車両が数珠繋ぎだ。河を越えてマウラミャインに渡る橋は、夜遅くから午前4時まで閉鎖されているとのこと。現在、モッタマーという町の郊外にいるらしい。まとまった雨が降ったらしく、足元はかなり濡れている。

午後4時過ぎに、ようやく車列が動き始めた。かなり年期の入った鋼鉄製の橋を渡ると、まもなくマウラミャインのバススタンドに着いた。まだ真っ暗だが、この時間帯に発着するバスはいくつもあるようで、いくつかの店はすでに営業している。バスで一緒だったイギリス人青年のS君と、乗り合いオートをシェアして河沿いにあるホテルを目指す。

こんな時間帯なので、朝までの間に一泊分取られないかと思ったが、そんなことはなく良心的な宿のようである。とても空腹であったので、部屋に荷物を置いてから近所でこんな早い時間帯から開店していた華人経営の茶屋に食事に行く。コーヒーを啜りながら肉まんを二つ食べて、ようやく人心地ついた。

ずいぶん朝早くから茶屋に集う人々

まだ夜明けまでかなりあるのだが、店内はかなり客の入りは良かった。若い人たちはこれから仕事に出かけるのだろう。その他は近所に住む、早起きのご老人たちのようだ。古ぼけた店のたたずまいといい、お客の面々といい、ずいぶん昔の時代にタイムスリップしたかのような気分になる。ホテルの部屋に戻り、エアコンのスイッチを入れる。室内の蒸し暑い空気が次第にサラリとした心地よい冷気に変わっていくのを感じながら、しばし眠りに落ちていく。

目が覚めると、すでに陽は上っていた。階下に降りると、フロント業務に従事する者、宿代に含まれている朝食の準備にいそしむスタッフ、清掃をしている人たちなど、インド系の顔立ちの人々が多く働いていたが、オーナーは華人であった。英語はあまり上手とはいえないが、話好きでフレンドリーな好々爺だ。

この場所には、もともとは映画館があったのだという。「映画が好きでね、若い頃には初期の007なんかよく観にきたもんだよ。洋画ばっかり観てたなぁ」とのこと。このホテルの隣も映画館だったとのことだが、そちらは建物がそのまま残っていて、地上階部分が中華料理店になっている。スクリーンと客席があった上階は倉庫として使われているらしい。

乗り合いのピックアップ。市内のミニバス的に走行するものもあれば、中距離バスのような役割のものもある。

マウラミャインは、イギリスが上ビルマを平定して統合するまで、ビルマ支配の中心地としていた街だ。河沿いのストランド・ロードには、鉄道敷設前に建設された植民地都市の常として、水際に主要な役所、公共施設、教会、当時の植民地で操業していた大手企業等の立派な建物が連なっている様子を想像していたが、少々期待外れであった。

確かに水際にいろいろ集中していたことを思わせる片鱗はあるものの、その水際が寂れている。木材が豊富な土地であるため、木造建造物が多かったため、後世にまで残りにくかったということもあるのかもしれない。また、東南アジアから南アジアにまたがるこの地域の中では、比較的後発の植民地であったがゆえに、歴史の重みや格の違いという部分もあるのだろう。

ストランド・ロード沿いのちょっと素敵な感じの建物。現在は宿になっている。

だが、河から見てストランド・ロードよりも一本内側にあるサウス・ボーヂョー・ロード(旧名ロワー・メイン・ロード)には、いくつかの立派なモスクがあり、イギリスによる支配とともに、西隣のインド亜大陸から移住してきた人々が栄えた様子がうかがえる。

KALADAN MASJID

礼拝の時間になると、どこからともなく立派なヒゲを蓄えた紳士やオニイサンたちが集まってくる。その中のひとつ、カラーダーン・マスジッドは、グジャラート系のムスリムが寄進したと伝えられるもので、ここに集う人たちの中にもグジャラートをルーツに持つ人が少なくない。訪れたときに案内してくれたモールヴィーも、やはりグジャラート移民の子孫であるとのことであった。

SURTEE SUNNI JAMA MASJID

植民地期に、英領あるいはその強い影響下に置かれた地域が広がるということは、自国インドと共通性の高いシステムの社会が広がるということなることから、当然の如くインド系の人々が、様々な形で海外に雄飛していくこととなった。インド西部から距離的に近い中東の湾岸地域や東アフリカ、そして東寄りの地域からは東南アジア方面に進出する人たちが多かった。

西側のグジャラートから見て、亜大陸の反対側に面しているマウラミャインへ渡ってきたのには、それなりに合理性のある理由があったことだろう。あるいは、すでにコールカーターに進出していたクジャラート人たちの中で、更に東進した者もあったかもしれない。

もっとも、その後1937年のインドからの分離、1948年の独立、そして1962年の軍によるクーデターと続く、当時のビルマの国粋化の動きの中で、次第に不利な立場に追い詰められていくようになった外来の人々は、大挙して父祖の国や第三国に移住していくこととなった。

そうした人々の移民史やそれぞれの土地での生活史は、インド系の人々のエスニシティや文化を尊重しない現在のミャンマーでは、取り上げられることはないだろう。またそうした歴史はコミュニティの中で次世代へ、細々と口伝されていく程度のことであろう。

それでも、街にある複数の大きなマスジッドは、この地で繁栄したインド系の人々の栄華を、今の人々の目に見える形で伝えている。

MOGHUL SHIAH MASJID

 

泰緬鉄道終点

ヤンゴンから夜行バスでモウラミャインに着き、宿に荷物を置いて少々仮眠してからタンビュザヤ行きのバスに乗り込む。

混雑していても、そこは人々のマナーの良いミャンマーなので、ガサついた感じはないのだが、窓から差し込む強い陽射しを避けようと、車内窓際の座席で日傘を広げる女性が少なくないのには閉口する。邪魔なだけではなく、危険ではないか!

このバスは、沿道の人々の貴重な移動手段となっているため、あちこちで客を降ろしては、少し先で乗せてということをチョコチョコと繰り返しながら進むため、行きは3時間もかかってしまった。帰りは乗り合いのピックアップを利用したのだが、その半分の1時間半ほどでモウラミャインに戻ることができたのだが。

それはともかく、モウラミャインの町に着いた。かつて泰緬鉄道で使われていたという蒸気機関車、ミャンマー側の終着駅であった場所、連合軍墓地などを見物したかったので、とりあえずバイクタクシーにそれらの場所に向かってもらうことにした。

タイでもミャンマーでも、揃いのベストを着用した運転手たちによるバイクタクシーは各地にある(走行するバイクを見かけないヤンゴンを除く)が、ふと思ったのは、インドにおいては、ゴアのような一部の地域を除けばこうした開業が手軽で、利用者にとっても手頃な交通手段がないのかということ。とりわけ、山間部にあるヒルステーションのように、街全体が斜面にあり、道路は狭くて勾配も急であったりして、バスやオートリクシャーなどが往来できないような土地では、ずいぶん重宝される可能性がある。

だが、よくよく考えてみるまでもなく、インドにおいては、運転手との距離が近すぎて、身体的な接触があることについては、とても抵抗感があるはずだ。もちろん公共交通機関に関する法的な規制等の関係もあることだろう。私自身、運転手とのこの距離感はどうも馴染めないし、それにタイの若いバイクタクシーの運転手のようにカッ飛ばす者に乗せてもらいたくないので、やはりミャンマーでも落ち着いた感じの中年運転手に頼むことにしている。

町中から少し出たところに、かつて泰緬鉄道で使われていたという日本製の蒸気機関車がひっそりと置かれていた。C56型のこのタイプの機関車は泰緬鉄道に導入され、第二次大戦が終わってからも、タイ・ミャンマーそれぞれの国鉄で用いられていたという。この車両が置かれているところから、古びた単線のレールが南方向に延びているが、少し先からは茂みの中に消えていく。

C56蒸気機関車
おそらく泰緬鉄道のレール

タイで走っていた機関車のうちの二両は、その後タイから日本に「帰国」し、一両は靖国神社の遊就館に展示されており、もう一両は大井川鐵道にて現役で走行している。

タイのバンコクから北西方向、カンチャナブリーを経て、タンビュザヤに至った泰緬鉄道は、第二次世界大戦時に日本軍がその建設を決行するより以前から、当時のビルマ(現ミャンマー)を統治していたイギリス当局により、このルートの鉄道敷設の構想はあったものの、地理条件により断念されていたとされる。

建設にあたり、日本の担当者は5年程度の歳月が必要であると見積もっていたが、日本軍はこれをわずか1年とひと月で強行した。これにより、連合軍捕虜1万6千名ならびにアジア各地から徴用された8万人を超える労働者たちが死亡することとなった。

この鉄道建設については、デヴィッド・リーン監督による1957年公開のThe Bridge on the River Kwai(邦題:戦場にかける橋)にも描かれており、旧日本軍による苛烈な捕虜虐待と戦争犯罪の一例として、世間でよく知られているところである。

タンビュザヤ駅

市街地に戻り、そこから少し西に進んだところには駅舎があった。新しい枕木が置かれていたり、レール上部が光っていることからもわかるとおり、とうの昔に泰緬鉄道は廃線となっているものの、この駅自体は遺蹟化しているわけではない。モウルメインからイェー経由でダウェイに向かうルート上にあり、今でも毎日数本程度の客車や貨物車が往復しているようだ。

ダウェイへと続く鉄路

さらに西­方向に行くと連合軍墓地がある。広大な敷地の奥に慰霊塔では、オーストラリアの国旗が掲げられるとともに大きな花輪が捧げられていた。何かの記念日に当たるのか、セレモニーが開かれているようであった。参列している人たちの多く、といっても十数名程度だが、白人の人たちであった。おそらくオーストラリアの人たちなのだろう。リーダー格と見られる人は中年男性、その他は小さな子供を含めた家族連れであった。

広大な連合軍墓地
慰霊塔に掲げられたオーストラリア国旗と花輪

ちょっと話をしてみようかと思ったが、集っている人たちも私も戦争を知らない世代ではあるものの、ここに埋葬されている人々にとって、彼らを散々苦しめた加害国の人間であるがゆえに、非常にためらわれた。結局、声をかけることなくその場を後にした。こうした場でのセレモニーであるだけに、日本人であることを非常に重荷に感じてしまう。

数多くある墓標の中には、やはり名前がわからず記されていないものも多い。身元がわかっている人物の場合、記されている享年は多くが20代あるいは30代。またある墓標には花が供えてあった。ちょうど開かれていたセレモニーに合わせて、誰か身内の人が訪れたのかもしれない。

花が供えられていた

タンビュザヤから乗り合いのピックアップでモウラミャインに戻る。着いたのは午後4時。見物に夢中になったり、適当な食事処が見当たらなかったりで、昼食を抜いたり、ずいぶん遅くなってから食事したりということは多い。

この日も、ほとんど夕食に近い時間になってしまったが、河沿いにある食堂に入ると、ヤンゴンからの夜行バスで一緒だったイギリス人青年がちょうどビールを飲んでいたので相席する。よく冷えたビールが喉に心地よい。彼と軽食をつまみながら二杯ほど飲んでから、午後8時くらいに付近にある他の場所で待ち合わせて一緒に夕食をすることになった。

1943年の泰緬鉄道を建設に関わった旧日本軍の人々も連合軍側の人々も、やがてこういう平和な時代が訪れるとは夢にも思わなかったことだろう。すべての人々にとって不幸な戦争、国家の名のもとに敵味方に分かれて命を奪い合うような時代を繰り返すようなことは、今後決してあってはならない。そのためにも戦争の記憶を風化させてはならない、歴史を曲解させることがあってはならない、と私は常々思っている。