ダマン2 飲酒ツーリズム

海洋性気候で高温多湿のダマン。暑さでフッと気が遠くなりそうなのでバーに入ると、冷たく冷えたびーるが迎えてくれた。この時期、ふんだんに酒類があるダマンだったからよかったものの、うっかりグジャラート州海岸の町を訪れたら逃げ場がないことを実感。

現在インド首相のモーディー氏の御膝元だけあり、制度を整えて外資誘致に積極的なグジャラート州だが、禁酒州なので自国社員の飲みニュケーション上の障害、そして福利厚生上の問題から二の足を踏む日系企業は少なくないと聞く。飲む、飲まないは個人の問題だが、州法で一律禁止とするのは人権にかかわる由々しき問題だと私は考えている。

禁酒のグジャラート州から中央政府直轄地ダマンに入った途端、酒屋やバーが沢山目につく。中央政府直轄地という扱いは旧仏領ポンディチェリーも同様で、ゴアも1987年に州に昇格するまでは、この扱いであった。

英国以外の旧外国領であった地域について、背景となる法制度、文化習慣、教育など他の地域と異なるため、近隣州に編入するのではなく、中央政府が現地の特性を考慮したうえで柔軟な対応をしつつ面倒を見るというもの。

1950年代にインドに返還されたポンディチェリー、1961年クリスマスに大規模な軍事作戦でゴアとともに奪還したダマンとディーウ。さすがにインド復帰後優に半世紀以上経過しているので、もういい加減こうした経過措置を外しても良いようなものだが、こうした措置がこれほど長く続くと独自の行政区としてのアイデンティティー、積み上げてきた歴史も出来上がってしまうので、近隣州への統合は今後もないだろう。

そのダマンとディーウだが、1990年代以降、主にインド国内の保養地、とりわけ隣接するグジャラート州とマハーラーシュトラ州からの観光客を大きく引きつけて、それ以前はほとんど無に近かった観光業が振興した。負うところの大半は、税率が極端に低く、結果として安価な酒である。つまり飲酒ツーリズムだ。ダマンの繁華街の食堂、レストランの大半は飲み屋でもある状態の背景には、このようなことがある。そうした店がだいたい朝9時くらいにオープンするわけだが、「朝から酒場が開いている町」というのは、インドでは希少である。

飲酒について、日本からは考えられないほど制約の多いインドでは考えられない環境だ。
そのため週末にはグジャラート州からやってくる男性たちによる「飲み会」が朝食の時間帯から展開するのが特徴的だ。「一人飲み」の姿も多く、観光シーズンのピークには、訪れる家族連れも少なくないとはいえ、あまりファミリー向けの訪問先ではないように思える。
けっこうキレイで快適なホテルであっても、いわゆる「バー」ないしは「パーミット・ルーム」があると「家族連れ向きではない」と言われてしまう。

そんな呑み助天国でありながらも、風俗店が軒を並べるような環境ではないため、とても健全な雰囲気であるのはダマンとディーウの大きな特徴だろうか。しかしながら、やはりこういう場所なので、実は売春も盛んであるとは聞く。

ダマンの繁華街。朝から晩まで酒を提供する店が多い。

隣州で禁酒のグジャラートと異なり、酒の販売が出来るダマンとはいえ、生活文化や倫理観はグジャラート州と大きく変わるはずはない。ダマンっ子は日がな飲んだくれているわけではなく、朝から飲んでいるのは、近隣州からの訪問者たちなのだ。
ダマンの飲み屋街といってもささやかな規模で、少し外れると普通の住宅地となる。そういうところには飲み屋はないし、酒屋も滅多に見かけない。

野犬と治安

安全性、治安の良さの指標のひとつとして、野犬の不在という点も加味して良いかと思う。
深夜や早朝、そして自らの生活圏外のエリアの小路、田舎の村落などを歩いても、野犬たちに取り囲まれたり襲撃されたりするリスクが無いことへの安心感は高い。
インドでは、ムンバイのような大都会のオフィス街でさえも、界隈の会社などが閉まっている休日ともなると、人気の少ない真っ昼間に犬集団に囲まれ、締め切られた商店の扉を背にして応戦(背後を取られると危ないので)しなくてはならないような事態がある。あるいは夜間早朝の野犬リスクを避けるため、宿泊先を決める際に細い小路をどんどん進んだ奥にある宿よりも、通りに面した宿を志向する必要があったりする場合もある。そんなことから、日本において野犬がいないことからくる安心感はとても大きい。
徘徊する犬たちの存在は、それ自体が治安に関わるものだと私は考えている。

世界一安全な都市は東京、大阪は3位 19年版ランキング(CNN)

スーラト3 墓場も面白いインド

これらの風景を目にして、何の遺跡と思われるだろうか。
実は、「英国人墓地」なのだ。

場所はスーラト。東インド会社が拠点とした港町のひとつ。私が確認できた、この墓地で最も新しい墓標が1850年のものであったので、まさに英国政府による統治に移行する前、東インド会社が支配した、いわゆる「カンパニー時代」の英国人墓地。墓標を見たところでは、大半は東イン会社軍の軍人とその家族たち。

そのあたりまでは、英国人でも改宗してヒンドゥーになって、毎朝沐浴したり、プージャーをしたりする後の時代のヒッピー的な英国人も少なからずいたと聞く。
もちろん、高級官僚やエリートコースに乗っている英国人は、その限りではなかったとはいえ、それ以外で何かしら縁あってインドに渡ることになった、あんまり堅苦しくなくてカジュアルな英国人たちの中には、自国と違う気候、文化、食事の中で戸惑いつつも、「インドってすげー!」と、すっかり感化されてしまう人たちが後を絶たなかったらしい。

それはそうだろう。今の私たちでも「インドってすごい!」と感嘆しているのだから。当時、「ツイッター」「Facebook」等があったら、彼らのオドロキやインドへの憧憬が多々綴られていたはずだ。
だが当時の人々は、相当な知識人でもない限り、いわゆる日記のようなものをしたためる習慣もなかったので、現代に生きる私たちが、当時のインドの市井の人たちの日常の喜怒哀楽を知るのは容易なことではない。

「インドかぶれ」については、1857年の大反乱以降の英国当局による綱紀粛正により、いわゆる当時でいうところの「ネイティヴ(インド人)」と英国人の間の「けじめ」のようなものが徹底されることになった。そのため、墓地についても、その後のものは、このような墓地ではなく、英国人らしいものとなっている。19世紀と20世紀を境にして、「アングロ・インディアン」を示す意味が、「インドで生まれた英国人」から「英印混血の人」と変化していったのには、こうした背景もあるに違いない。

インドという国は、ごく平凡に観光していても、実に興味深い事柄に満ちているのだ。こんな国は広い世界を見渡しても、他に無いだろう。各地の英国人墓地を巡るだけでも、実は大変面白いインドなのだ。

〈続く〉

ティーラトガルの滝

ジャグダルプルを出てからしばらくの間は良い道路が続く。昔ながらのインドの幹線道路では、これよりもっと大きく天を突くような大木が道路両側に等間隔で並んでおり、スケールの大きな景観を提供していた。中央アジア地域や中国の新疆でも道路両側に大きなポプラ並木が見られるが、樹木の種類は違えども、目的は同じだろう。緑のトンネルが遮光して往来する車両や人を強烈な日差しから守る、交通にかかる「インフラ」のひとつであった。

英領期から計画的に植えられてきたものだが、モータリゼーションの大衆化、物流の大量化、高速化に伴い、全国各地で幹線道路が複数車線化していく中で、当然こうした国道沿いの緑のトンネルは急速に姿を消している。おそらくパキスタンやバングラデシュでも同様だろう。幹線道路脇の並木は伐採されて、道路幅が拡張されていくのだ。

やがて周囲は森となり、勾配のある山道となってくる。こういう眺めを目の前にすると、マオイストが潜んでいるのはそういう地域なのだろうかと想像する。バスタルは「チャッティースガルのカシミール」などとも表現されることがあるが、高度がありスイスのような景観のカシミールとでは、美しさが異なる。

マオイストたちはこんな具合の森に潜んでいるが、夏季にはマラリアに大変苦しめられるという。

この地域ではやたらとサルが多い。ニホンザルの近縁のアカゲザルである。私には区別さえつかない。これほどたくさんいたら、このエリアを徒歩で行くのはかなり危険であろう。これは滝に着いても同様で、周囲にはサルがとても多かった。

やたらとサルが多い。

さて、そのティーラトガルの滝だが、天然の階段状になった小高い斜面を流れ落ちるという視覚的に面白いものはあるのだが、格別といえるような風情や眺めがあるわけではなかった。この日の目的地は他にあり、ここは途中で立ち寄っただけなのだが、もしここに期待して訪れていたら、かなりガックリきていたかもしれない。

滝の近くのマーケットで売られていたみやげ類
いまひとつパッとしない。

“Chinatown Days” by Rita Choudhury

アッサムの女性作家、リーター・チョードリーによる大作。
清朝支配下の19世紀、南中国の寒村から奴隷として町の商人のところに売られていき、そこで奴隷ながらも主の信用を得て、それなりの金銭的充足と自由を得ることとなった少年。だが、彼はさらにここから別の人身売買シンジケートにより、カルカッタへ運ばれ、そこから開業間もないアッサムの茶園に行くこととなる。

時代は下り、その茶園近くのマークームの町や周辺で事業を起こした中国移民の子孫たち。
アッサムのすっかり根付き、「中国系アッサム人」として地域社会の中の一部として定着していた。

中印戦争開戦。最初は特に影響を受けることのなかった華人コミュニティだが、インドの敗色濃くなっていくにつれて、反中国感情の高まりとともに、中国系住民への感情も急速に悪化していく。

中国との敵対関係がエスカレートしていくとともに、国内政治でも共産主義勢力を「親中かつ反インド」であるとして攻撃するだけではなく、民族的なルーツを中国に持つ人々への風当たりも強くなってくる。

やがて中国系市民の拘束の命令が中央政府から発せられ、華人が集住していたカルカッタはもちろんのこと、ところどころに華人コミュニティが散在していたアッサム(当時は現在のメガーラヤもアッサムの一部)においても一斉に彼らを逮捕して地域内の刑務所へ収容してしまう。驚いたことに、チベットからダライラマとともに亡命してきたチベット難民の中にも、このあおりで逮捕・拘束された人たちが少なくなかったらしい。

その後、華人たちは、まとめてラージャスターン州のデーオーリーキャンプへと列車で移送される。(デーオーリーキャンプは、奇しくも第二次大戦期にマラヤ半島などに住んでいた日本人たちが敵性外国人として植民地当局に検挙されて移送された先でもある。)

インド政府は、世代を継いでアッサムに暮らし、インドを祖国とする中国系市民を敵視するいっぽう、引き揚げ船を仕立てて彼らを迎えるというオファーをする中国に対して、これ幸いと彼らの身柄を引き渡してしまう。インド生まれの華人たちにとって中国は未知の国。おりしも時は文革の渦中で、引き揚げてきた彼らはインドによるスパイという嫌疑もかけられて大変な苦難を重ねることとなる。

中国に送られることなく、アッサムに帰還することができた華人たちにとっても、日々は決して楽なものではなかった。苦労して得た工場、店、家屋などは、「敵性資産」として、競売にかけられており、彼らの父祖がそうであったように、再び裸一貫でスタートしなくてはならなかったからだ。

文革の嵐が収まりかけたあたりから、中国に送られたアッサム華人たちの中で、当時英領だった香港を目指すのがひとつの流れとなっていった。

そして現在、結婚したばかりの華人妻と生き別れになったアッサム人男性が、かつてマークームに暮らした華人住民たちの小さな集まりが開かれる香港を訪問して49年振りに再開。

雄大な時間軸の中で展開していくスケールの大きなドラマ。こうしたインド系の人々の歴史を交えた長編作品を得意とする大作家アミターブ・ゴーシュの作品を彷彿させる。

もともとマークーム(মাকুম)と題して2010年にアッサム語で発表された当作品だが、好評を得て英語版も出版されることとなったが、翻訳版という形ではなく、新たな記述等を加えて最初から書き下ろすことになったため、英語版の出版まで何年もかかったと聞いている。

タイトル:Chinatown Days
著者:Rita Choudhury
出版社:Amazon Services International, Inc.
ASIN: B0786T8XKX
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