SHOLAYが3Dで蘇る

1975年に公開されたラメーシュ・スィッピー監督による映画SHOLAYといえば、インド映画史上最大のヒット作のひとつ。今も燦然と輝く金字塔的な存在だ。

若き日のアミターブ・バッチャン、ダルメーンドラが出演し、この映画の制作を通して、前者とジャヤー・バッチャン、後者とヘーマー・マーリニーというビッグなカップルが二組も誕生した。

ダルメーンドラについては、当時すでに妻子持ちであったのだが、最初の結婚を解消することなく、ヘーマー・マーリニーを娶るという離れ業?を遂げている。おそらく家庭内では大変な騒動になっていたのではないだろうか。

ダルメーンドラと同じく俳優のサニー・デーオールとボービー・デーオールは最初の結婚で出来た息子たち。女優として活動しているイーシャー・デーオールは、彼らの異母妹にあたる。

アミターブ・バッチャンとダルメーンドラという、当時の若きヒーローたちの存在に加えて、SHOLAYを歴史的な大作の地位にまで押し上げたのは、二人が演じる主役との対立軸に、悪役の中でも迫力に抜きんでた名優アムジャド・カーンがいたからだろう。彼が演じた役柄「ガッバル・スィン」は、名前そのものが悪漢、盗賊の代名詞のようになったほどだ。

SHOLAYのリメークとして、近年はラーム・ゴーパール・ヴァルマー監督のAAGが話題になったが、1991年にはパロディ作品でRamgarh Ke Sholayというコミカルなもの(低予算な映画だが面白かった)もあった。隣国パーキスターンでも、似たような映画が制作されていたようだし、インド国内でも、地方映画でこれに触発された作品があったのではないかと思う。

今年8月には、本物のSHOLAYが3D化されて公開予定。封切りは、8月15日。インドの独立記念日である。老若男女、誰もがよく知っている映画ではあるが、再度大きなヒットを期待したい。

Gabbar Singh set to return on screen, this time in 3D (India Today)

 

ヤンゴンのジャイナ教寺院



コロニアルな建物のジャイナ教寺院。

先日述べたサティヤナーラーヤン寺と同じく29th Streetにジャイナ教寺院もある。こちらは信徒である年配のご兄弟が管理人をしている。一人はこの寺院を管理するトラストのプレジデント、もう一人はセクレタリーという形だが、同時にここのプージャーリーでもある

お二人の話によると、ヤンゴンにて最盛期にはジャイナ教徒の人口は5千人を数えたという。だが今残っているのは二家族だけで、彼らはそのうちの一つであるとのことだ。寺院はコロニアルな建物に入っており、地上階はトラストの事務所、セカンド・フロアーが寺となっている。ファースト・フロアーも昔は祭壇があったとのことだが、今では使われていない。

すでにほとんどのジャイナ教徒がこの国を去っているため、参拝客はほとんどいないそうだが、ときおりプージャーに参加するネパール人があり、いたく感激してくれるとのこと。しばらく事務所で話を聞いていたが、「さて、そろそろプージャーの時間ですよ!」と上階にある寺院へと招かれた。

祭壇

長い白布を左肩から斜めがけに付けてもらい、神殿正面に立ち、真鍮のお盆に灯明を載せたもの(火の数が多いものと少ないものと二種類あり、プージャーの間の節目ごとにセクレタリー氏が取り替えてくれる)を抱えて時計回り動かす。セクレタリーの人が朗誦するマントラを耳にしながら、感激がこみ上げてくる。これまでインドの寺院ではプージャーを背後から見物したこことは幾多あっても、こうした形で主体的な形で参加させてもらったことはなかった。しかもジャイナ教寺院で!

信徒が二家族しか残っていないという割には、非常に良い状態で保たれている。

事務所があるグラウンドフロアーとこの階との中間階、つまりファースト・フロアーもかつて寺であったが、今では使われることもなく、備品はすべて処分してしまったとのことだ。それでも奥の壁のニッチには、マハーヴィールの足跡のイメージがあった。

この地に残る信徒は二家族のみということからも、まさに風前の灯といった具合のようだ。ご兄弟には複数の子供たちがいるそうだが、特にこの寺に関わりを持ってはいないとのこと。「若い世代は物の考え方など違いますからねぇ・・・」と、少々諦めている様子。だがその割には、ずいぶん綺麗に保持されていることには驚いた。国外からの援助でもあるのだろうか。

「私どもの寺には150年の歴史があります」というご兄弟の言葉が本当であれば、第二次英緬戦争により、イギリスがヤンゴンを含む下ビルマを占領してから10年ほど後には、この寺院が建立されたことになる。多少の誇張が含まれているであろうことを差し引いても、19世紀末近くにはすでに存在していたことと思われる。この寺院は、ヤンゴンにおける「インド人史」の変遷を、つぶさに目の当りにしてきたことだろう。

ヤンゴンのサティヤナーラーヤン寺にて

話は前後するが、バハードゥル・シャー・ザファルのダルガーに行く前に、ヤンゴンのダウンタウンを訪れた。宿泊先から目と鼻の先だが、ダルガーの名前とおおよその場所をビルマ語で書いてもらうためである。ザファルのダルガーと言っても、通常タクシーの運転手は理解してくれないからだ。

ベンガル系の人々が集うモスクから出てきた紳士然とした壮年男性に書いてもらった。「これで運転手はわかると思うけど、今行くのならば私が話をするが、後で行くならばこの人に運転手に説明してもらってくれ」と、付近の露店のインド系男性に頼んでくれた。親切な人だ。

ついでにと、インド人街を散策する。インド人街でも、托鉢している坊さんや尼さんたちの姿は多い。明らかにヒンドゥーと見られる人たちも施しのために路上に出ている人たちが少なくない。朝早い時間帯から路上では茶屋が店開きしている。これまで国外のメディアで伝えられてきた暗いイメージとは裏腹に、とても社交的なムードがある。

ヤンゴンのダウンタウンのインド人が多い地区で托鉢する坊さんたち

植民地時代のコロニアル建築の建物に入っているシュリー・サティヤナーラーヤン寺の入口脇に、子供たちのためのヒンディーのレッスンについての貼り紙を見つけた。確かに、この地域では父祖の母国の言葉を使うことができる中高年は多いものの、若年層は理解しない人が少なくない。

ヒンディーのクラスについての貼紙

寺の入口にて、ヒンディーで会話している男性たち二人に声をかけてみた。ひとりは近所に住む人でも、もうひとりはこの寺の管理人であった。後者は、おそらく50歳くらいだろうか。先祖はUP出身で、彼自身はインド系移民五世であるとのこと。1962年のクーデター以降、この国の各地から大勢のインド系の人たちが本国やその他の国々に移住したということはよく知られているが、やはりこの街のダウンタウン界隈でも同様であったようだ。

サティヤナーラーヤン寺

「昔、このエリアはインド系の人たちばかりで、ビルマ人を見かけることさえ、ほとんどないくらいだったんだ。今とは全然違ったよ、あの頃は」

・・・というものの彼自身は、おそらくそのあたりの時代に生まれたと思われるため、実体験として「インド人の街」であったころの界隈を知っているわけではなく、おそらく両親からそうした話を聞かされて育ったのではないかと思われる。だが1962年のクーデターを境にして、インドの言葉(ならびに中国語)による出版が禁じられるなど、言語環境の面でも社会的な変化があったようだ。

「インド系移民に関心があるならば、ゼーヤーワーディーに行くと面白いと思うよ。あそこではインドから来た人々が今も大勢暮らしている。住民の大半がそうだと言っていいくらいだ。まるで、ビハールやUPにでも来たような気がするはずだよ。先祖がそのあたりから来たっていう人たちがほとんどだし。まあ、主に畑仕事やっているところで、とりたてて見るものはないんだけどなぁ。」

今回はそこを訪れる時間はないが、いつか機会を得て出かけてみたいと思った。

南インド系の人たちも混住している。ドーサの露店が店開きしていた。

再訪 バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー

バハードゥル・シャー・ザファルの墓

5年ほど前に、「最後のムガル皇帝、ここに眠る」と題して、ヤンゴンにあるムガル朝最後の皇帝、バハードゥル・シャー・ザファルのダルガーについて取り上げてみたことがあったが、今回久しぶりに再訪した。

場所はシュエダゴン・パヤーから比較的近い場所にあるのだが、ザファルのダルガーと言っても、インド系以外の人はわかってくれないことが多いので、ヤンゴンのダウンタウンで、インド系ムスリム男性にビルマ語で書いてもらった紙片をタクシー運転手に見せることにした。

ダウンタウンからさほど遠くはないところにあるダルガーは、前回訪れたときのような閑散とした状態ではなく、まさに溢れんばかりの人々が集まっていた。何かと思えば、うっかりしていた。今日は金曜日で、昼の礼拝の時間に当たっているではないか。うっかりしていた。バハードゥル・シャー・ザファルは、ムガル最後の皇帝として、また高名な詩人としても広く知られているが、ここミャンマーのムスリムの間では聖人としても崇められており、ハズラトという尊称が付けられている。

ザファルの本当の墓がある地下の部屋では女性たちが礼拝に参加しているので、入場は遠慮すべきかと思ったが、入口付近にいた男性たちによると、構わないというので墓石を見学する。地下室の天井の一部は吹き抜けになっており、上の男性たちが礼拝しているフロアーでの説法がちゃんと聞こえるようになっている。女性たちは必ずしも頭を覆っているというわけではなく、チャーダルを被っている人はごくわずか。ゆるい感じでいい。説法は主にビルマ語で行なわれているが、時にアラビア語のコーランの朗誦が入る。またときにウルドゥー語での話となることもある。かなり荒々しい口調だが、またしわがれていて品のある声やしゃべりかたではないが、とても勢いと力に満ちた感じがする。

礼拝が終わるまで待とうと、境内のスナック屋でチャーイを頼む。ここの店主のみウルドゥー/ヒンディー語を理解する。他の人たち、主はに女性たちが働いていて、多少なりともインド系の血が入っていそうな顔立ちだが、言葉は通じない。現在、ミャンマーに暮らしているインド系ムスリムの人たちの間で、ウルドゥー/ヒンディー語が通じる相手とは、インド系コミュニティにどっぷり浸って生活している人たちか、そうでなければ極端に宗教熱心な人、民族意識が強くかつ教養もある人ということになるようだ。

また、ミャンマー在住のムスリムの大半がインド系であることから、父祖の出身地が異なっていてもムスリムであるがゆえに共有するコトバという認識もあるらしい。すると、自動的に、日本人でもウルドゥー/ヒンディーを理解すると、やはりムスリムであろう思うようで、お茶を飲みながらしばらく話をした男性は、私を「日本から来たムスリム」であると紹介したりする。そうではないことを伝えると、彼らは少々残念そうな表情をしている。

やがて礼拝が終了した。堂内に入って、風貌からはインド系とは見えないミャンマー人男性と知り合った。50代くらいではないかと思う。顔立ちは普通のビルマ人だが、先祖がインド系で、自身もインド系であると認識しているそうだ。35年間船乗りとして世界中をめぐり、現在ではアラビア語のチューターをしているとのこと。

金曜日昼間のナマーズが終わってからも、1階にあるザファル、妻のズィーナト・マハルと彼らの娘の墓所(どれもレプリカである)で、モールヴィーが信者たちに説法を続けていた。地下の墓所では、墓にバラの花を降りかけて、カラフルで刺繍入りの布に包まれている墓石に上からもう一枚のカラフルな布をかけている。そして大量の香水を降りかけての儀式が執り行われていた。

1858年にデリーからこの地に流刑に処され、失意の中で没したムガル最後の皇帝は、今もヤンゴンのインド系ムスリムの人々との絆を保ち、毎週金曜日には多くの人々を集めていることについて、心を動かされずにはいられない。

金曜日の礼拝を終えて帰途につく善男善女たち

 

電子書籍

英文出版大国インド。自国インドの様々な分野における興味深い書籍が大変多いのだが、流通面ではいつでもどこでも手軽に何でも手に入るという具合になっているとは言い難い。

大都市の大きな書店に行けば、いろいろと購入したくなるものがあるとはいえ、やはり特定の対象についてドカッとまとめ買いするには、各出版社のショールームに足を運んで見繕ったり、スタッフにあれこれ尋ねて引っ張り出してもらうのが一番だ。

とはいえ、自分自身の状況から、随時そうしたところに出向いて購入するわけにもいかず、さりとて自宅のスペースの問題もあり、関心を引かれるが果たしていつ扉を開くかもわからない本を狭い自室にどしどし放り込むわけにもいかない。

そんなわけで、これまで購入してきた図書類を、自己利用目的で日々少しずつスキャンしてPDF化、いわゆる『自炊』なる行為を続けている。もちろん紙媒体で読むのが一番だとは思うものの、生活との折り合いがあるので、こればかりは仕方ない。他方で、そうした書籍をブックリーダー、タブレットPC、あるいはDropboxにでも保存して、いつでもどこでも時間の空いたときに読みまくるという利便性については私自身非常に重宝している。

どうせならば、最初から電子書籍版も販売されていればいいのに・・・と思う。だが特定のアウトレットやデバイスに依存するフォーマットではありがたさも半減なので、より汎用性の高いフォーマットだと助かる。取り扱いについてはPDFが楽なのだが、やはり違法コピーや著作権の問題もあるので、なかなかそうはいかないのだろう。

そうした面で、比較的汎用性の高い形で電子書籍を販売している業者の中で、イギリスのTaylor & Francisがあり、インド関係の書籍もある程度は扱っているようだ。インド国内でも、電子書籍を販売しているサイトはいくつもあるが、今のところ特に興味を引かれるようなところは見当たらない。電子書籍の分野は、まさにこれからという段階にあるので、今後の進展に期待したいと思う。

ところで著作権といえば、書籍とは関係ないのだが、先日ある方がfacebookで話題にされていた、こんな記事がある。

音楽は発売後3カ月で使い放題に 中国が著作権法“改正”案検討 (Sankei Digital)

上記リンク先記事に書かれている『著作権法改正案』が実現すれば、発売から3カ月後には、海賊行為が政府のお墨付きを得ることになる。こんな感覚なので、国内利用のみに限るという前提で日本や欧州から供与された鉄道技術を、いとも簡単に輸出してしまうようなことになるのだろう。

中国高速鉄道“見切り発車”の初輸出 特許問題で日欧と国際摩擦に発展も(フジサンケイ ビジネスアイ)

作り手側が叡智を集めて作り上げたものの利用については、まさにその受け手側のモラルが問われる。ゆえにそう易々と再頒布される可能性のある形で供与することができないことについては充分理解できるところだ。