ディブルーガル3

この町での滞在先、Chowkidinghee Chang Bangalowは、植民地時代にイギリス人ティー・プランターの屋敷であったものが宿泊施設に転用されている。その名の示すとおり、ディブルーガルのチョーキディンギー地区にある。宿の周辺は茶園が広がっており、静かで雰囲気もいいのだが、歩いてすぐのところにマーケットもあり、とても便利なロケーションでもある。

塀の外は茶畑
英領期にタイムスリップしたかのよう

建物はきれいに手入れされているが、古い時代の雰囲気を損なうようなものではなく、往時のたたずまいをよく残しているのではないだろうか。英国時代からのコロニアル邸宅、イギリス人が暮らしていた住宅といったものは、ダージリンやシムラーなどのヒルステーションでも見られるが、このような建物にイギリス人がノルタルジアを感じたり、格別な興味を持ったりするものなのかどうかは知らない。

だがイギリスがインドを去ってから時代が下るとともに、こうした建物は確実にその数を減らしていったり、朽ち果てていったりしていることが多いことから、いいコンディションでオリジナルの状態に可能な限り忠実に保存していることには、歴史的・文化的な価値も高まっていると言えるだろう。

宿で食事を注文することもできる。メニューは用意されておらず、日替わりの「おまかせ料理」となるが素晴らしいものであった。トマトのスープから始まり、ひょっとしてイギリス式の食事が出てくるのかと思ったら、出てきたのはインド料理であったが、ズィーラーのご飯、ピーマンのスタッフ、チキンカレー、野菜、ダールで、どれも良く出来ていた。デザートは温かい果物のプディング、そしてチャーイ。

2階にある広々とした応接間は居心地がいい。他の宿泊客もなく占領してしまうことができるのはなんと贅沢なことであろうか。階下で宿帳をめくってみると、私の前に宿泊した人はイングランド人で、しかも20日ほど前の利用客であった。

応接間のテレビを点けてみると、ちょうどZサラームというウルドゥー番組で素晴らしいカッワーリーをやっていた。ムシャーイラーもやっており、文化的でよろしい。こういうイスラミックな番組では、ムスリム向けのCМもやっているのでこれまた興味深かったりする。アッラーの名が刻まれた金のロケットで、アメリカのストーンがはめられているとかいうものが2499ルピーという。今から30分以内に注文すると、ひとつ注文してもうひとつついてくるのだとか。なんだか日本のテレビショッピングと並みのレベルの怪しさである。

このバンガロー、イギリス人のティー・プランターが住んでいたころには、とりわけ茶園業の開拓時代には、海千山千の強者たちが集い、徒党を組んだり敵対したりしながら、様々な人生を切り開いていったことだろう。志半ばにして事業に失敗したり、病没してしまったりした人も少なくないだろう。そんな舞台が今でも残っていること、そこに宿泊できるということは、英領期について、あるいは紅茶の歴史について多少なりとも関心のある人には嬉しいことだろう。まさにインドならではのヘリテージな宿である。

鉄道の汽笛が聞こえてくる。遠く海を渡ってきて、茶にまつわる生業を営んでいた人たちもこの汽笛を耳にして「そろそろ夕食の時間だな」とか「さて、寝るとするか」などと思いながら暮らしていたのだろうか。

〈続く〉

ディブルーガル2

どこもかしこも茶園でいっぱい

ディブルーガルの市街地に入ったあたりで、「さて、どのあたりだろうか?」とスマートフォンで地図を見てみる。近年はこうした機器やネットワークの普及により、以前は考えられなかったことが容易に可能となった。Googleの地図に出ている情報はかなり散漫であったりもするが、町歩きに「地図」(ガイドブックに掲載されているものであれ、購入したものであれ)は不要となったと言える。3Gネットワークが届いていない小さな町ではそもそも地図がなくてもいいわけであるし。

インドでは、しばしば「この土地ならではの宿」というものがあるが、アッサム茶の生産と集積の一大拠点で、茶業の歴史も長いディブルーガルでの特色ある宿といえば、英領時代のイギリス人茶園業者のバンガローである。こういうバンガローが市街地に一軒、郊外に一軒あり、私は市街地にある施設に宿泊することにした。

これらの宿は、プールヴィー・ディスカバリーという旅行代理店が運営しており、宿に直接出向くのではなく、市内のジャラール寺院近くにあるオフィスが予約等の業務を取り扱うことになっている。

ディブルーガルで面白いのは、市街地の中に茶園があったり、商業地のすぐ脇にも茶園が広がっていたりすることだ。もともとの市街地はもっと小さくて、茶園の部分にも市街地が広がった結果、このようになったのかもしれない。

お茶で有名なアッサムであるが、12月から2月までは茶園と茶工場ともに休業中である。休みの時期であるとのこと。冬季に茶園の仕事を見学したければ、南インドに行くことになるだろう。

ツヤツヤとした茶葉

〈続く〉

新年快楽!心想事成!!

2014年の春節は1月31日である。その前日30日は大晦日ということになるので、中国、台湾、加えてその他の中国系のたちが多く暮らしている地域はそれから一週間ほど正月の華やいだ雰囲気の中で休日を過ごすことになる。

アセアン諸国には多くの華人たちが暮らしており、地域によって潮州人が多かったり、広東人が多かったりという特色があるが、それぞれのコミュニティにおける伝統にローカル色を織り交ぜて、様々な祝祭が展開される。

中国系の人々にとって、たとえ大陸の人であれ、在外華人であれ、そうした自分の住んでいる国の外で同じ中国系の人々、とりわけ同じ客家系であったり、福建系であったりといった同一のコミュニティに属する人々の暮らしぶりやしきたりなどを目にするのは、なかなか興味深いことなのではないかと思う。

自国の家庭内で使っている言葉が、まったく異なる国に定住した先祖の同郷の人々に通じるということはもとより、それぞれの土地に根付いて代々暮らしているだけに、生活様式もローカライズされ、普段使っている語彙も地元の言葉等の影響を強く受けていることに気付いたりもすることだろう。

中国から国外への移民の初期は、ほとんどが男性ばかりであったため、同じ潮州人、広東人といっても、本土の人々とはかなり異なる風貌になっていることも少なくない。それでも民族としての中国人、あるいはもっと細かなコミュニティの出自であるというアイデンティティを持つことができるのは、同族としての絆の深さと自身が背負う文化や伝統への愛着とプライドゆえのことだろう。

私自身は中国系の血を引かない、ごく普通の日本人であるため、そのような感情を抱くことはないのは少し残念な気がしないでもない。

さて、アセアン諸国から見て西の方角にあるインド。かつてほどの人口規模はないとはいえ、今も決して少なくない数の華人たちが暮らすコールカーター。多くは広東系あるいは客家系であるが、先祖の出身は広東省の梅県が多い。通信手段の限られた時代であったため、中国から国外への移民の場合だけでなく、インドから東南アジア方面その他への移民たちの場合でも、同郷から非常に多くの人々が渡ったというケースは多い。人づてのネットワークがそうさせたともいえるだろう。

コールカーターの華人社会について、地元で生まれ育った華人自身(現在はカナダに移住)によって書かれた本があり、インド人の大海の中の片隅で暮らす華人たちの暮らしぶりを活写している。描かれているのは、華人社会の中での濃密な人間関係であり、周囲のインド人たちとの関わりであり、1962年に勃発した中印紛争のあおりで苦渋を舐めることになった中華系の人々の悲哀でもある。

書名 : The Last Dragon Dance

著者 : Kwai – Yun Li

発行 : Penguin Books India

ほぼ同じコンテンツで「Palm Leaf Fan」という書名でも出版されており、こちらはamazon.co.jpでKindle版を購入することができるため、インド国外から購入の場合は手軽だろう。

書名 : Palm Leaf Fan

フォーマット : Kindle版

A SIN : B009LAH84G

同じ著者による論文「Deoli Camp: An Oral History of Chinese Indians from 1962 to 1966」は、ウェブ上からPDF文書でダウンロードできるが、こちらも必読である。ラージャスターン州のデーオーリー・キャンプといえば、第二次世界大戦時にアジアの英領地域に居住していた日本人たちが収容された場所として知られている。中印紛争により「敵性国民」とされることになった華人たち(インド国籍を取得していたものも含む)もまた、居住して商売を営んでいた土地から警察に連行されて、デーオーリー・キャンプに収容された時代があった。

この論文は、キャンプでの日々や解放されて居住地に戻ってからも続く差別や困難などについて、体験者たちにインタビューしてまとめたものである。これを読むと、ベンガル州北部のダージリン、メガーラヤ州のシローン、アッサム州の一部にも少なからず華人たちの居住地があったこともわかり、少なくとも中印関係が緊張する以前までは在印華人たちの社会にはかなりの奥行きがあったことがうかがえる。

さて、話は華人たちの旧正月に戻る。今年のコールカーターでの華人の春節のことを取り上げた記事をみかけた。

Chinatown in Kolkata, only one in India, to celebrate Chinese New Year amid plans for a facelift (dnaindia.com)

ライターであり写真家でもあるランガン・ダッター氏も自身のウェブサイトで華人たちの新年を取り上げている。

Chinese New Year, Calcutta (www.rangan-datta.info)

短い動画だが、昨年のコールカーターでの華人たちの旧正月の模様を映したものもある。

Chinese New Year in Kolkata India (Youtube)

Youtubeの動画といえば、ムンバイー在住のドキュメンタリー映像作家のRafeeq Ellias氏がコールカーターの華人たちについて取り上げた作品「The Legend of Fat Mama」を観ることができる。

こちらは旧正月の祝祭の映像ではないが、同地の華人社会をテーマにした秀作なので、ぜひ閲覧をお勧めしたい。

※「マジューリー島4」は後日掲載します。

マジューリー島3

本日は、朝早い時間帯から自転車を借りて島内を走る。起伏が少なく、クルマも少ないので快適に走行することができる。かなり霧が濃く、時間が進むと次第に晴れてくる。ときおり乗合のスモウやトラックなどが通りかかるが、それ以外はバイクか自転車だ。

前にも書いたが、世界最大級の中洲であるマジューリー島。それがゆえに当然傾斜のないフラットな大地が続いているわけだが、外から運ばれてきた建築等の資材を除いて「石」というものが存在せず、どこもかしこもきめの細かいパウダー状の土壌である。地味は豊かで工作に適しているそうだが、河の水面からあまり高低差がないため、雨季の洪水と闘わなければならないという宿命がある。

道路は高く盛土した上を走っている。インドでもバングラデシュでもよくある光景だが建設にかかる手間ヒマや費用は大変だろう。道路の脇には大木が並び、日陰を作ってくれているのが普通だが、ここではびっくりするほど背の高い竹が緑のトンネルを形づくっている。

島にはクルマが少ないので快適に走ることができる。ときどき乗合のスモウやトラックなどが走っているが、それ以外はバイクか自転車だ。霧の中、まあ道路走るのに支障があるほどの霧ではないのだが、地平線まで見渡すことはできない程度に霞んでいる。そう、地平線が見えるほど島なのである、ここは。

インドの朝の風景はすがすがしい。畑や池で作業している人たちの姿がある。豚が草を食んでいたり、歩き回っていたりする。民家を眺めていると、高床式家屋の床下部分で家畜を飼っているケースが少なくないようだ。ブタについては、アッサムではけっこう食用にしているようで、ブタの解体作業をしばしば目にする。

最初に足を向けた先はサムガリー・サトラーである。この島にはサトラーと呼ばれる静謐な僧院が多く、その数22か所と言われる。それぞれ独自のカラーがあるようで、ここは仮面作りで知られている。サトラーで奉納する踊りに仕様するものであるが、ここの主は2003年に政府から表彰を受けており、室内には賞の授与式の際にデリーで当時の大統領のアブドゥル・カラム氏と一緒の写真が飾られている。

マジューリー島では米が三期作できるのだそうだ。農家の人の話だと、時期によって栽培する種類を変えているのだそうだが、同じ水田で異なる品種の稲を栽培して、交雑してしまったりすることはないのだろうか?インドの米は品種が異なると、形もサイズも炊き上がりも違うので、いろんな種類の米を味わえるのはいい。

島の村々では、昨夜私が宿泊したようなタイプの建物に人々が暮らしている。この時期は寒くてやりきれないことだろう。建物が外にいるのと同じような室温のはずだし、保温性の良い服や寝具があるとは思えない。極めて暑季に特化した造りである。この時期は農閑期のためか、溜池で水草取りをしている人たちは胸まで水に浸って作業している。そのかたわらで竹を編んだ道具で魚も捕まえているようだ。これまた寒くて大変そうだ。

島の中心地であるカマルバリやウッタル・カマルバリのあたりには、ちょっといい感じの家はあるが、それでもやはり総体的にずいぶん貧しい島である。人々は穏やかで感じのいい人たちが多いのだが。

ウッタル・カマラバリー・サトラーで、サトラー自体は閉まっていたが、隣の広場で奉納の踊りの練習中であったので見学する。若い男性や男の子たちが楽器を鳴らし、若い女性たちが踊っている。指導者がしじゅうストップかけて指導しており、これがなかなか手厳しい。

途中、指導者が女性たちの幾人かを指名して、踊りの歌をマイク持って歌わせると、態度は堂々としていてプロ並みに上手いので驚く。もちろん、中には指名されてもはにかんで断る女性もいる。

サトラーの多くは簡素で、あまりきれいとは言えない環境にあるものが多いようであったが、オーニアティ・サトラーは他のサトラーとはかなり違う感じであった。見るからに財政的な余裕があるようで、とても清潔に整えてあり規模も最大らしい。出家生活を送る人たちが起居する建物の造りも立派なものであった。ここでは一切の世俗の事柄を放棄して隠遁生活をするのだそうだ。

サトラーにはふたつのタイプがあり、ひとつはこういうタイプだが、もうひとつは妻帯して家族を持つことが許されているサトラーである。最初に訪れた仮面を作っているサムガリー・サトラーが後者のカテゴリーにあたる。

〈続く〉

 

マジューリー島2

ガラムールの町のはずれにある宿は、簡素な竹造りの高床式の建物である。このあたりではこうした構造の家屋をよく見かけるが、そんなローカル色があるのは楽しい。部屋の中にしつらえてあるベッドも竹で出来ていた。周囲に池や水溜りは多く、宿の下の土地も雨季には水が張ってしまうような地形になっているため、1年の大半は蚊の大群がブンブン飛び回っているであろうことは想像に難くない。寒い時期に訪れたのは幸いであった。

蚊はともかく、おそらく暑い時期には風通しが良くて涼しく過ごすことができるのだろう。夜、床に就いてから判ったのだが、あまりに風が通り過ぎて寒くてたまらなかった。寝袋を持っていてもこんななので、ちゃんとした防寒着や暖かい寝具を持たない庶民の家では、冬の時期を過ごすのはなかなか辛いことであるはずだ。

午後5時近くなるとすっかり真っ暗だ。周りには電気が灯っているところはほとんどなく、電気そのものがほとんど来ないので、外に出ると降るような星空が堪能できるのが嬉しい。私の部屋がある高床式の建物からみて未舗装の小路を挟んで向かい側の母屋で食事を注文。

母屋のキッチンで食事を作ってくれる。

たまたま同じ宿に泊まっている西洋人夫婦はドイツの人たち。彼らは大学生時代にバブル前夜の日本を訪問したことがあるとのこと。ヒッチハイクをしたら、そのドライバーが彼らの次の行き先に向かうクルマをわざわざ探してくれたとか、沿道でヒッチハイクを試みていたら警官がやってきて、注意されるのかと思ったら、警官自身が通りがかりのクルマをいくつか止めてくれて、彼らの行き先を通過する人を見つけてくれたりして、大変感激したとのことだ。

この宿を経営する人たちは、12世紀にチベットから移住してきたと考えられているミリという部族の人たちであるとのこと。別名、Missing Tribeとも呼ばれているとのこと。移住していった先で土地を失い続けているためそう呼ばれているそうだ。彼らの片割れはアルナーチャルにも暮らしていて、仏教徒であったり、クリスチャンであったりするそうだ。北東インドには様々な民族が暮らしているが、彼らの存在もその豊かな多様性の一部ということになる。

バスルーム

しばらく楽しい会話をしてから、離れにある自分の部屋に戻る。バスルームは扉がなく、井戸水。鉄の匂いがして冷たい。この水温では浴びる気にはならない。竹で出来た家屋に泊まるというのは風流でいいのだが、外の風がそのまま入ってくるのには閉口する。屋根が付いていて、この時期には珍しい雨が降っても濡れないことを除けば、屋外に寝ているのと何ら違いはない。ベッドも竹を編んで作ってあるため、通気性は抜群だが保温性はゼロであり、寝袋に入ってはいるものの、あたかも真冬に野宿しているようで寒くてツラい夜となった。

風通しが良いということは、冬季は非常に寒いということ。

〈続く〉