ビカネール9 現代に生きる職能コミュニティー

前回、ハヴェーリーを飾る彫刻を造り上げるスタールという職能コミュニティーについて触れたが、今でもそうした仕事をしている人たちが少なからず存在している。そのスタール出身で、しばらくは家業ではなくエンジニアの道に進んだラジェーシュ・クマールさんだが、ここ数年は伝統技術を伝える職人(彼はその人たちを「アーティスト集団」と呼ぶ)を率いるリーダーとしてのプライドを胸に、自らの先祖伝来の技とコミュニティーの人々の活力を生かした事業に専念中。元々は石工集団だが、木材を用いて、先祖が代々伝えてきたスキルを展開。スタールの職人たちを集めた工房では窓飾りなどを作成中。私が訪問したときには、5、6人くらいが作業中であった。隣の敷地では、ショールームを建設しているところだ。

職人さんたちが働く工房

出来映えを確認するラジェーシュさん

工房はヴィシュワカルマ・コロニーという郊外のエリアにあり、ここにスタールの人たちが固まって住んでいる。昔からの居住区ではなく、郊外に出来たごく新しい新興住宅地なのだが、それでもコミュニティー特有の場所というものが形成されるのは興味深い。同族の長たる人物がリードしてこういう地域を形成するのだろうか?

この地域の名前となっているヴィシュワカルマだが、ブラフマー神の息子であるヴィシュワカルマのことであり、スタールの人たちにとって、これが氏神となっているとのことだ。ビカネールにはこの神を祀るヴィシュワカルマ寺院もある。

ラジェーシュさんは言う。
「昔、私たちは、富裕な商人コミュニティーに頼って生きてきました。彼らの屋敷の壁を飾る彫刻について、今の時代でも高い評判を得ていますが、評価されるべきはこれらを注文した彼らではなく、この技を代々受け継いで育んできた職人たちです。今後も技術を継承していくには、自分たちで仕事を創り出していかなければならないのです。私はこの技術を生かした事業を計画しています。」

ラジェーシュさんは、元々は電気関係のエンジニアで、職人としての修練を積んできたわけではないという。アフガニスタンで、インドが同国で関わる復興事業に関係して、カーブルで仕事をしていたことがあるという。国会議事堂の電装関係の仕事を任せられ、「アフガニスタンという国の歴史を刻む建物の建築に関わる仕事が出来て良かった」とのことだ。

2008年にカーブルのインド大使館で発生した自爆テロ(58名死亡、141名負傷)が発生した際には、現場から300m離れた宿舎にいたとのことで、「家族に電話して無事を知らせたものの、とても心配されてしまって・・・」という具合で大変困ったとのこと。

スタールのコミュニティーに生まれながらも、自身は職人ではないラジェーシュさんはこう言う。
「私は彼らとは異なる道を歩んできました。しかしながら、これまでいろんな人たちを指揮して仕事をしてきた私、自らを売り込んで仕事を獲得してきた私だからこそできる役割があるのです。」

電気技師としてのキャリアを捨てて、父祖伝来の道に入ったラジェーシュさんの事業の本格的な立ち上げはまだこれからなのだが、今後の彼の活躍と成功を期待したい。

〈続く〉

ビカネール8 精緻な細工のハヴェーリー(屋敷)群

ふたたびオートで市内に出る。旧市街に入ると藩王国時代の城壁が連なる様子は壮観。今の時代、交通の妨げになるので撤去したほうが何かと具合はいいのかもしれないが、貴重な歴史遺産なので、そうはいかないのだろう。

旧市街の奥にあるラームプーリヤーの人々のハヴェーリー(屋敷)があるところで降ろしてもらう。このハヴェーリー群はどれも規模が大きく、外壁の砂岩にあしらわれた彫刻が素晴らしい。赤砂岩に施された彫刻だ。ビカネールには、隣接するシェーカーワティー地方のタイプのハヴェーリーはなく、このような様式となる。距離はそんなに大きく離れていないのに、地域ごとに異なる特徴があるのはインドらしく、ラージャスターンらしいところでもある。ここの屋敷は建て込んだ街区にあるのだが、それでも巨大さと壮麗さには目を見張る。ここからしばらく旧市街を歩き回ってみると、いろいろなコミュニティーの大小様々なハヴェーリーが良い状態で残っているのを目にすることができる。

話は逸れるのだが、インドの地名についての表記については、こうして書いていてちょっと迷うことがある。「シェーカーワティー」と綴るいっぽう、「ビーカーネール」ではなく「ビカネール」と綴ってしまって良いのかと。

「シェーカーワティー」については、元々のデーヴァナーガリーの綴りでそうなっており、そのように発音するのだが、「ビーカーネール」とすべて長母音で綴ると日本語ではあまりに冗長になってしまうように感じられて、「ビカネール」とした。同様に、以前はindo.toの記事で、「バーングラーデーシュ」としていたものを、最近はこれと同じ理由から「バングラデシュ」と表記するようにしているのだが、全体として統一性がなくなってしまうのが難だが、個人的なブログであるということで、ご容赦願いたい。

地名や人名の長母音部分を便宜上、短母音で代用してしまうというのもひとつの手かもしれないが、ずいぶん舌足らずな感じになってしまうという短所がある。しかしながら、すでに日本語のメディアやガイドブックなどで定着した表記になってしまっているが、短母音であるものをわざわざ長母音化してしまうのは明らかにおかしい。
「ジャイプル」「ウダイプル」とすべきところを「ジャイプール」「ウダイプール」などとしてしまっているのがその例だ。
・・・とはいうものの、日本語では反転音や帯気音を表記できないので、母音の長短だけに拘泥する必要はないのかもしれないが。

話は戻る。ビカネール旧市街では、藩王国時代にイギリス当局の買弁として栄えたラームプーリヤー、コーターリー、ダーガー、カジャンチー、ドゥッガルといった商業コミュニティーのハヴェーリーが沢山残っている。こうした建物を飾り立てる装飾を制作してきたのは、スタールと呼ばれる職能コミュニティーの人たちなのだが、イギリスという大きな後ろ盾をインド独立によって失ってしまった商業コミュニティーが、活動の拠点をムンバイーやコールカーターのような商都に移していく中で、多くは父祖伝来の仕事を失うことになっていった。

独立後のインドでは、独立運動時の反英活動は、たとえ暴力に訴えたテロ活動でさえも積極的に肯定され、むしろ神聖化されているとも言えるが、当時彼らを取り締まる公安関係者の大半はインド人であるとともに、こうした商業コミュニティーによる買弁的な経済活動、さらにはそこを通じて日々の糧を得ていた層も少なくなかった。いつの時代も当然ながら、政治に無関心な層もある。

反英闘争は必ずしも全国民を挙げての活動とは言えない部分もあったこと、親英的なそうもまた存在していたことについて語る人は多くない。どこにあっても世の中は勝てば官軍、勝者の都合によって歴史は描かれることになる。

また独立要求運動の中途で浮上してきたイスラーム国家建設運動により、同じインド人として志を同じくしてきた現在のパキスタンとインドで、こうした運動の立役者たちがそれぞれの歴史の定説の中から恣意的に消されてしまったり、新たに加えられていったりということもある。歴史は様々な方向から検証することなしには、事実や本質を見誤ることになりかねない。

〈続く〉

ビカネール7 Royal Cenotaphs

बीकानेर राज परिवार का विश्राम-स्थल つまりResting Place of Bikaner’s Royal Family

ホテルになっている宮殿の前をぶらりと歩いてから、オートに乗ってRoyal cenotaphsに行く。Sagar Chhatriという名前で知られている。ここはビカネールの王家の人々の火葬場であり、歴代の主要な人々を記念するチャトリが沢山建ててある。ヒンドゥーは通常、墓は作らないため、ここは亡骸や遺灰は格納されていないものの、事実上の墓所のようなものであるともいえる。

天井に描かれた模様も見応えがある。









当然のことながら、藩王国の当主であった人物やその正妻の記念碑はどれも大きく、それ以外のものとは規模が著しく異なる。また若くして亡くなった王女の記念碑はそれらに較べて気の毒なほど小さかったりする。男性のチャトリの内部中央には石碑が立てられており、女性の場合はこれが地面と平行に埋め込んである。
1972年生まれで2000年に28歳で亡くなったディクシャー・クマーリーという王女のチャトリ

また時代が下ってからのものには、大理石ではなくコンクリート造りのものもあるなど、時代とともに変遷していく様子がうかがえるのも興味深い。
こちらはコンクリート造り

2009年に亡くなった人物のチャトリもあり、今後も王族の直系の人たちについてはこのような措置がなされていくのだろう。
だが歴代の王は、インド独立前には複数の妻があり、中には19人も抱えていた王もあったが、側室は対象外であるらしい。

〈続く〉

ビカネール6 Lalgarh Palace

LALGARH PALACEを訪れる。宮殿なのになぜかガイドブックに掲載されていないと不思議であったが、その理由は着いてみて理解できた。現在、ホテルになっているのである。

ラールガル・パレスはホテルになっている。






それでも博物館が併設されており、小さいながらも写真等がなかなか見応えがあった。ビカネール流派の細密画も展示されていて、その解説も良かった。最初はムガルの影響で導入されたそうだが、やがてムガルが凋落していくことから、技術を習得する対象ではなくなり、独自の技法が発達することになったわけだが、具体的な違いについても例示を挙げて解説してある。

また、アウラングゼーブがラージャスターンの王たちのイスラームへの改宗をもくろんでいたこと、彼によるアフガン方面の出征に他の王国の王たちと参戦したビカネールの王はその策略に気が付き、ヒンドゥーは外地にいかないことをタテマエに船を破壊したという故事。ここではビカネールの王がそれをリードしたとある。

また第一次世界大戦に、ビカネール藩王国も参戦したとは知らなかった。スエズの防衛のためにラクダ部隊を送ったとのことで、船からクレーンで降ろされるラクダの姿やこの部隊を率いた王族のことも紹介されている。

ここはホテルとともに今もラージャーの家族の所有。Princess Rajyashree Kumariという王女、もうかなり年配の人物だが、このパレスのことについて書いた本、ビカネールの歴代の王について著した本などがある。これは広く市販されているものらしい。博物館では王たちの偉業を伝える内容に終始しているが、これが政府の所有であったならばもっとニュートラルな内容になっていたことだろう。博物館内には王家が利用した鉄道専用車両も展示されている。

〈続く〉

ビカネール5 近郊の町デーシュノークのネズミ寺

昨日の夕食の際もそうであったが、Hotel Jaswant Bhawanの宿泊者たちは母屋にて食べることになっている。オーナー家族の生活空間なので、ホームステイ風でいい感じ。朝食で同席となったのはアメリカ人カップルとフランス人カップル。食事の際に話し相手がいると大変うれしい。しばらく楽しい会話を楽しんでから、ビカネールから30kmほど離れたデーシュノークという町にあるカルニー・マーター寺院へ向かう。バスで1時間程度の道のりだ。

カルニーは14世紀に実在した人物であるといい、後にドゥルガー女神の化身であるとして神格化された。主要な神格と結び付けたローカルな神格を目にすることは珍しくないため、インド全国規模で眺めると、まさに「やおよろずの神」状態となる。

さて、カルニーは、息子のラカンが溺死したことを受け入れられず、彼をこの世に生き返らせることに成功。以降、この一族は亡くなるとネズミに生まれ変わり、永遠の生命を享受するとされる。現在もこの寺院が位置するデーシュノークの町には、カルニーの子孫を自称する人たちが少なからず暮らしているとのことだ。

寺院の入口の上にはシヴァのシンボルである三又の槍、そして周囲をムガル城壁風の壁で囲んで、白亜の門がある奇妙な寺院だ。何かの通過儀礼で参拝に来たらしい着飾った子供たちがいた。



堂内に参拝する人たちの行列

境内に入るとバジャンの演奏が奉納されている。和やかな雰囲気だ。小さな窓の前に人々が集まっているので何かと思えば、そこにネズミたちか沢山。足元には水たまりがあり、おそらくそこにはネズミの糞尿がたまっているに違いない。これは気持ち悪い。

境内でバジャンの演奏



お堂に参拝してみたが、どこもかしこもネズミたちがたくさん。あちこちに配置されていたり、参拝客が与えたりする餌をモグモグと食べ続けている。生まれたときからこのように大切にされているため、目の前まで近づいてもまったく逃げることはない。ネズミらしくないとてもくつろいだムードである。

フワフワした姿は見た目可愛いのだが、ネズミの糞尿が散らばっているであるはずのお寺の床を裸足で歩くのはあまり気持ちが良いものではない。かなりユニークなお寺であるが、聖性と衛生の観念は異なるので、ビカネールに戻ってから、食事前には手を入念に洗おうと思う。

寺院前にいくつかある売店では、この寺のシンボルでもあるネズミのマスコットが売られていた。

ネズミにちなんでドラえもんなのか?

ネズミのぬいぐるみもある。

バスでビカネールに戻る。帰りは少し早くて40分程度で到着。こうした移動でもそうだが、かつては州公社によるバスがほとんどであったものの、今ではプライベートのバスが非常に多い。どちらが良いかについては何とも言えないが、州営のほうがまだ良かった部分もある。満員になるまで発車しないということはなく、ダイヤに従って運行していた。

路線を民営化することにより、とりわけ採算路線では便数が増えるのではないかという仮説もなりたつ。いっぽうでそうではない地域では反対の流れになるということも言える。

バスの民営化は、どのような観点からどういう路線を民営化していったのだろうか。これもまた興味深い研究対象となり得る。また州による政策の違い(州によって右から左まで、様々な政権がある)や地域的な特異性(山岳地等)といった部分も合わせると、インドのバス事業民営化について書かれた本があるならば、ぜひ読んでみたい。

〈続く〉