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カテゴリー: greater india

  • PACPAD

    PACPAD

    こんな記事を見かけた。

    iPadならぬ「パクパッド」、パキスタン国防省が生産 (asahi.com)

    googleで検索してみると、同様の記事がいくつか引っかかってくる。

    $200 PACPAD by Pakistan military (ubergismo)

    PACPAD: An Android Tablet by Pakistan Aeronautical Complex (Android Phones in Pakistan)

    上の記事ではスペックも記されており、こうしたタブレットPCとしては一般的なレベルのものであるようだ。タブレットPCの低価格化はかなりの速度で進行している。とりわけ第三世界で開発製造されるアンドロイドOSを用いた製品としては、7インチ画面の製品で200米ドル前後という価格は、とりたてて安価というわけではないが、軍需企業による一般消費者向け製品という点が話題になっているのだろう。

    ちょっと気になるのは、この製品のホームページhttp://www.cpmc.pk/products/pad/にアクセスしようとすると、PC画面に以下の表示が出たこと。

    ウェブサイトに何か仕込んであるのか、それともハッカーに攻撃されたのか知らないが、ちょっと危険な匂い?がする。果たして、製品自体は大丈夫なのだろうか、と締めくくってしまっては、懐疑的に過ぎるだろうか?

  • 「フェリーチェ・ベアトの東洋」 東京都写真美術館にて

    19世紀を代表する偉大な写真家、フェリーチェ・ベアトーの作品群が日本に上陸する。

    アメリカのロサンゼルスにあるJ.Paul Getty Museumによるフェリーチェ・ベアトー(1832-1909)の作品の国際巡回展の一環として、日本では東京都目黒区の東京都写真美術館での公開である。

    2年ほど前に、『時代の目撃者 ベアトー』と題して、写真家ベアトーについて取り上げてみた。今の残されている幕末の江戸の風景の秀作の中には、彼の手による作品が多いことは、日本でよく知られているが、1853年に勃発したクリミア戦争、そして1857年に始まるインドのセポイの反乱を撮影したことにより、戦争写真家の先駆けでもある。

    当時の交通事情はもちろんのこと、その時代の写真機材自体が後世のものとは大きく異なるため、彼が撮影したのは戦闘行為が終了した直後であるとはいえ、戦火の爪痕生々しい北インド各地の様子や処刑される反乱兵の姿などを伝えるとともに、当時の街中の様子なども活写しており、貴重な歴史画像を私たちに残してくれている。

    ベアトーの生涯を概観する日本発の回顧展という位置付けがなされており、アジアの東西で多くの風景を撮影した彼の青年期から晩年までの軌跡をたどることができる。写真芸術としての高い価値はもちろんのことながら、歴史的な重要性も極めて高い。

    今から180年前に生まれ、103年前にこの世を去ったベアトーが後世に残してくれた風景の中にじっくりと浸ることができる稀有な機会だ。

    会期は、3月6日から5月6日までの2か月間。

    フェリーチェ・ベアトの東洋 (J・ポール・ゲティ美術館コレクション) 東京都写真美術館

    ※チェラプンジー2は後日掲載します。

  • ネパール映画上映「बाटोमुनिको फूल」邦題「道端の花」

    ネパール映画上映「बाटोमुनिको फूल」邦題「道端の花」

    बाटोमुनिको फूल 邦題:道端の花

    2月26日(日)に、埼玉県川越市の市民会館大ホールにて、ネパール映画が上映される。

    映画タイトル:बाटोमुनिको फूल (BATOMUNIKO PHOOL) 邦題「道端の花」(2010年公開)

    地理的にも文化的にもインドの強い影響を受けてきたネパールらしく、この作品もインドの娯楽映画的なカメラワーク、演出、サウンド等々を駆使したものであり、亜大陸の映画文化圏の広さと懐の深さを感じさせるものがある。

    内容は、幼馴染の男女ふたりをめぐるラブストーリーをベースにしているが、カースト差別による苦しみ、それを長年に渡り人々に強いてきた社会、変革を訴えてきた上位カーストの「活動家」の欺瞞等々を様々な角度から描いた社会派的な作品でもある。

    ネパールは、小さな山国ながらも多民族・多文化・多言語が共存し、豊かな多様性に満ちた小宇宙のような広がりと奥行を持つ国だ。そうしたリッチな文化環境を育んできたのは、この社会を構成する沢山のコミュニティであり、それぞれの伝統が引き継がれてきたがゆえのことだろう。だが同時にそうした個々のコミュニティの確固として存在するがゆえに、差別というネガティヴな面も生み、その違いを固定化することにもつながる。

    製作者は、ダリットをはじめとする低位カーストの人々に対する差別を、異なるカーストの男女の悲恋という形で映画に表現したが、これを持って言わんとしているものは、この国の社会に対するもっと大きな訴えであるように思える。

    低カースト救済を看板にした欺瞞、カーストをベースにして社会を分断してしまう政治、あるイデオロギーのもとに低カーストの支持を集めて、そのイデオロギーの根源たる外国に対して自国を売り払おうとしているかのように見える勢力、混迷を極めて出口の見えない政争の世界・・・。

    ダリット役の青年やその家族が、風貌も暮らしぶりも、とてもそれらしくは見えないとか、ストーリーの展開にやや唐突なものがあるとか、いろいろ感じることはあるかもしれない。これもまた、独自の事情や背景があってのことと受け入れて、じっくり鑑賞したい。

    美しい映像を楽しむのもよし、悲恋のストーリーに涙するのもよし、胸の中で製作者の意図や社会的背景を思うもよし。私たちそれぞれが、個々の感性でこの作品を鑑賞したい。ネパール映画で初めて、日本語字幕スーパー付きでの公開であるとのことだ。

    チケットについてのお問い合わせは、Asia Friendship Associationまで。

    ※『インパールへ4』は後日掲載します。

     

  • モノクロームの遠い過去

    今年の7月に『古い写真の記憶』と題して取り上げてみたOld Indian Photosは、主に19世紀から20世紀前半にかけてのインドの古い写真が紹介されている。かなり頻繁に更新されているようで、しばらく見ない間に新たなクラシック写真が沢山掲載されている。

    過去のアップロード分が月別になっているだけではなく、年代別、地域別、関係別になっているので参照しやすい。例えばIndustryの項をクリックすると、19世紀末の大規模な工場の作業現場の写真を見ることができるし、Railwaysからは、インドの鉄道草創期から発展してゆく過程、事故の画像、駅の賑わいや乗客の人々の姿を垣間見ることができる。当時はまだインドの都市だったカラーチーダーカー、同じくインドの一地域であったビルマはもとより、ブータンネパール等の周辺国の画像もある。

    各地の藩王国の貴人たち、市中の人々、農民や部族民など、各地の様々な人々の姿が出てくるが、それらの人々の装いを眺めているだけでも興味深い。繊維産業のマスプロダクション化が進む前の時代なので、衣類に地域性が極めて高く、まさに格好そのものがそれを着ている人となりを表していたことが看て取れるだろう。着ているものが新しいとかヨレヨレとかいう話ではなく、衣服の様式やデザインといった意匠についてであることは言うまでもないだろう。

    もちろん今のインドでもそういう部分はあるのだが、多くの人々が洋服を着るようになり、『インドの衣装』そのものが大資本によりマスプロ化され、地場の町工場の製品もそれに追随しているため、地域色は限りなく薄くなっている。

    エンジンの付いた乗り物、スピーカーで電気的に増幅した大きな音が存在しなかった時代、都会の街中でもさぞ静かであったのではなかろうか。モスクから流れるアザーンの呼びかけがスピーカーを通して流れるようになったのはどの年代からだろうか。大きな通りも往来に気を配ることなく悠々と横断できたことだろう。

    写真に姿を残している人々の姿を手掛かりに、往時の街中の雑踏の様子に想像を巡らせるのもまた楽しい。

  • 迫り来る中国の悪夢

    最近のネパールの新聞のウェブサイトも『見せ方』や『読ませ方』をずいぶん研究しているようだ。Nepal Republic Media 社が発行している英字紙Republica、ネパール語紙のनागरिकともに通常のウェブ版以外に、実際に市中で販売されているものと同じ紙面をネットで閲覧できるようになっている。

    ところで、11月29日付のRepublicaの第3面左上の囲み記事をご覧いただきたいと思う。あるいは通常のウェブ版でも同じ文面が掲載されているのでご参照いただきたい。

    China eager to bring train service to Lumbini (Republica)

    中国を訪問したシュレスタ副首相兼外務大臣が帰国時に立ち寄った香港でのインタビューの要旨とのことである。短い記事ながらも、中国による気前の良い援助攻勢により、ネパールがどんどん北京に引き寄せられている様子が窺える。

    2年ほど前に『ネパールにも鉄道の時代がやってくるのか?』と題して、中国によるネパールへの鉄道建設のオファーについて取り上げたが、11月29日のRepublicaのこの記事の中で、ネパールと中国の両国が鉄道建設のための調査を開始することで合意に至ったことが明らかにされている。

    ここで言うところの『鉄道』とは、2006年にラサまで開通している青蔵鉄道のことで、ネパール側はとりあえず首都のカトマンズまでの延伸を主張しているが、中国側はルンビニーまで延長することを目論んでいる。

    もちろん建前としては中国が執心しているルンビニーの観光開発ということもあるはずだが、『世界の工場』たる中国にとっては、大量輸送の有効な手段である自前の鉄道を自国以外のアジアでもうひとつの巨大市場を目前にする場所まで引っ張ってくることにより『将来が大いに楽しみ』ということになる。

    だがインドにとっては、自国産業の保護という観点よりも、むしろ自分たちの主権の及ばない隣国に、長年の敵国である中国が深く食い込んでいくことについて安全保障上のリスクが懸念されることはもちろんだ。こともあろうに自国との国境のすぐ向こうのルンビニーまで『中国の鉄道が乗り入れる』となれば、まさに悪夢以外の何物でもない。

    これまでのどかだったインド・ネパール国境だが、中国の鉄道がルンビニーまで延伸されることになり、またネパールにおける中国のプレゼンスが今後さらに増していくことになれば、それそうおうの厳重な警戒が必要となってくる。当然、軍備面でもそうした措置が求められるようになる。

    中国という狡猾で危険な国に、インドから見れば文字通り血を分けた兄弟であるネパールが取り込まれつつあることについては、親中国のマオイストたちが現在のネパール政界に強い影響力を持っていることもあるが、インドのほうにも責任がないわけではない。

    ネパールが『腹黒そうだが今のところは気前が良くて面倒見も良い兄貴分』になびいてしまっている背景には、長年の付き合いの中で『横暴かつ財布のヒモが固くて冷淡な長兄』に愛想を尽かしてしまっているという部分も否定できない。ネパールに関して、いずれインドは高い代償を支払わなくてはならないだろう。

    中国とインドの狭間で、現代のグレート・ゲームの舞台のような具合になっているネパールは、両国の間でうまく立ち回り、上手に利益を引き出していくことになるのか、それとも今後は前者に従属的な立場になっていくのだろうか。

    長年、強い絆のあるパーキスターン以外の南アジアの国々に対して、近年様々な形での積極的に外交・援助を展開している中国。インドにとって安全保障上の大きな脅威である中国だが、それとは裏腹に中国にとってインドの存在はそれほどの重さを持つものではない。インドにとってかなり分が悪いことは言うまでもない。

  • 国境の飛び地問題

    しばらく前のことになるが、India Today誌を読んでいたら、隣国との関係でとても興味深い記事が目についた。インドとバーングラーデーシュの間の飛び地問題である。その記事の英語版が同誌ウェブサイトに掲載されているので以下をご参照願いたい。

    In a State of Limbo (India Today)

    印パ分離独立以来、つまりインド東部が現在のバーングラーデーシュの前身である東パーキスターンと分かれた際、双方の国境線内に両国の飛び地が存在しており、それが後々まで尾を引いており、飛び地の人たちについてどちらの国でも『外国人』として扱われており、事実上の無国籍であった。身分証明書の類も与えられず、医療や教育といった基本的な社会サービスを享受できないままに放置されていたのだという。

    そもそもこうした飛び地が発生した原因とは、印パ分離独立前に地元の藩王国であったクーチ・ビハールとラングプルが、それぞれの王がトランプやチェスでの賭け事の勝敗で土地のやりとりをしたことが原因なのだというから、とんだ為政者もあったものだ。ふたつの藩王国のうち、前者がインド、後者が分離独立時の東パーキスターンに帰属することになったことなったため、飛び地が両国国境をまたいで散在することになってしまった。飛び地問題の解消については、1958年、1974年そして1992年にも合意がなされたものの、実行に移されることはなかったようだ。

    今年の9月になってようやく両国がこれらの飛び地とそこにいる無国籍の人々の扱いについての合意がなされ、双方の領土内の飛び地の交換の実施とそこの人々には国籍選択の自由が与えられることになったとのことで、さすがに今度はそれらがきちんと実施されるのではないかと思うのだが、これらの人々が何らかの理由で、居住している土地の帰属先とは異なる国籍を選択するようなケースには、著しい不利益を被るであろうことは想像に難くない。

    インド側にある飛び地ではムスリムが多く、その反対側ではヒンドゥーが多いとのことである。単純にムスリムだからバーングラーデーシュ、ヒンドウーだからインドという図式ではなく、それまで自分たちを冷遇してきた行政つまり飛び地を内包していた国の政府への不信感とともに、『私(たち)が本来所属するべき国』への期待感(あるいは失うものよりも得るものが多いかもしれないという推測)から国境の向こう側の国籍を選択する例も決して少なくないだろう。とりわけバーングラーデーシュ領内の飛び地の人々にとっては、総体的に経済力の高いインドへの移住が合法となること自体が魅力であろう。

    土地の帰属のみで解消できるものではなく、結果的には一部の人口の流出と受け入れも伴うことにもならざるを得ないように思われる。政府の対応には不満があっても、住み慣れた土地を離れる当事者たちにとっては苦い『第二の分離』として記憶されることになる例も少なくないだろう。

    移住という選択があるにしても、それぞれの人々がこれまで築いてきた人間関係、仕事関係はもちろんのこと、通婚その他いろいろ抜き差しならぬ事情も報道でカヴァーされることのない色々な事例が沢山あることだろう。

    インド・バーングラーデーシュ飛び地問題については、以下のサイトにもいくつか参考になる動画がリンクされている。

    Indo-Bangladesh Enclaves (Indo-Bangladesh Enclaves)

  • あとはアルナーチャル・プラデーシュが門戸を開けば・・・ 1

    2011年は、ナガランド、マニプル、ミゾラムの3州にて、従前は入域に際して外国人に義務付けられていたPAP (Protected Area Permit)、RAP (Restricted Area Permit)が暫定的に不要になっている。インド人も同様に必要であったILP (Inner Line Permit)も同様に要らなくなっているようだ。これは2011年末までの1年間に限った臨時的な措置ということになっている。

    3年ほど前にアルナーチャル・プラデーシュが近くなる?と題した記事で書いたとおり、近年は簡略化される傾向が認められていたものの、RAP取得にはいろいろ面倒な条件があった。かなり前から周到に準備しないと入ることができなかったし、複数の同行者が求められたり、現地のかなり高額なツアーに参加することが必要であったりもした。

    今はインドの他州と同じように普通に出入りできるアッサム、メーガーラヤ、トリプラー(一部に不穏な地域も抱えているが)の3州についても、かつてはオフリミットの地であった。それが90年代前半に先述の中央政府内務省からの特別な許可が不要となった。

    ここ数年の間に許可取得の条件が緩くなってきていたことから、ナガランド、マニプル、ミゾラムの3州への入域に関して、今回の暫定的な措置が今後も延長あるいは恒久的なものとなることを期待したい。

    この措置により、地域の観光業の振興が期待されているところである。もう何年も前からインド政府観光局はインド北東部の魅力を積極的にアピールしてきていたが、アッサム、メーガーラヤ、トリプラー以外の州については、入域に厳しい制限があることから、まさに絵に描いた餅といった具合であった。

    許可なしで簡単に入ることができるようになっても、肝心の観光資源のほうはどうなのかといえば、あまり華やかなものではないような気もするが、中国の雲南省やタイ北部のように山岳少数民族の存在自体が、観光業発展のための大きな力となるように思われる。

    ただしインド北東7州、俗にセブン・シスターズと呼ばれる地域(アッサム、メーガーラヤ、トリプラー、ナガランド、マニプル、ミゾラム、アルナーチャル・プラデーシュ)の中で、個人的には一番興味深いと思われるのは、やはりアルナーチャル・プラデーシュだろう。

    中国占領下のチベット(中国は『チベット自治区』を自称)に突き出す形で位置する、ブラフマプトラ河流域の低地から海抜4,000mを越える高地までを抱える、主にチベット・ビルマ語族から成る65もの(100以上という説もある)異なる部族が暮らす土地だ。

    同州西部にはチベット仏教を信仰する人たちが多く、タワン僧院という有名な寺院があることでも知られているが、いっぽう州東部には南方上座部仏教を信仰する人々が暮らしている。さほど広い地域ではないにもかかわらず、伝播したルートの異なるふたつの仏教が同居しているのは興味深い。その他の人々は土地ごとのアニミズムを信仰している。

    他の東北州と異なり、内政面での不安は少ないにも関わらず、未だに外国人ならびにインドのその他の地域の人々の入域が厳しく管理されている背景には、この地域が中国との係争地帯であるという現実がある。アルナーチャル・プラデーシュの人々に対して、中国がヴィザ無し入国(中国にしてみればアルナーチャルは自国領なので自国民の国内での移動という解釈ができる)を認めたり、同州議会選挙についてこれを否定する声明を出したりといった活動等により、『アルナーチャルは我が国固有の領土の一部』であると内外に主張を続けている。

    また中国占領下のチベットに大きく張り出している地理的な条件により、軍事的な要衝であるということも、たとえ観光目的であっても外部の人々を積極的に呼び込むのは容易でないという部分もあるのかもしれない。

    それでも先述のように、民族的にも文化的にも非常にバラエティ豊かな土地であり、気候条件も多様性に富んでいるため、もしアルナーチャル・プラデーシュが観光客に対してオープンになる日が来たならば、やや大げさな言い方をすれば、アジアの観光地図にひとつの国が新たに書き加えられたような効果をもたらすのではないかと、私は考えている。

    <続く>

  • 本日挙式 ブータン国王夫妻

    以前、ブータンのロイヤル・ウェディングと題して、同国の国王が今年10月に挙式することを取り上げたが、その結婚式は本日とどこおりなく行なわれたようである。

    Bhutan’s royal wedding” ITVNews (Youtube)

    どうか末永くお幸せに!

     

  • インドにとってネパールは『第二のパーキスターン』となるのか?

    しばらく前から、北京に事務局を置く中国政府筋と関係の深い基金によるネパールのルンビニーにおける大規模な開発計画が各メディアによって取り上げられている。

    Nepal to build £1.9 billion ‘Buddhist Mecca’ (The Telegraph)

    China plans to help Nepal develop Buddha’s birthplace at Lumbini (Reuters)

    The Lumbini project: China’s $3bn for Buddhism (ALJAZEERA)

    このことについては、最近では朝日や読売といった日本のメディアによっても書かれており、記事を目にされた方は多いだろう。ちなみにその基金とは、亚太交流与合作基金会である。

    調達予定の資金額は何と30億ドルで、ネパールという国自体の年間の歳入の合計額に比肩するほどのものであるという。上記リンク先のロイターの記事によれば、計画には寺院の建築、道路や空港の建設、コンヴェンション・センター、仏教大学の設置等が含まれるとのことで、これが実行に移されることになれば、今は静かなルンビニーの町の様子が、近い将来には一変していることだろう。

    人類共通の遺産、とりわけアジアにおいて広く信仰されている仏教の聖地が整備されること、観光産業への依存度が高いネパールにおいて、観光資源が開発されること自体は大いに結構なことではあるものの、小国の年間歳入に匹敵するほどの資金を提供しようというプランの背後には、スポンサーである中国の国家的な戦略があることは無視できない。

    ちょうど昨年の今ごろ、ネパールは『中国の時代』を迎えるのか?』と題して、中国によるネパールへの積極的な進出について取り上げてみた。また一昨年には『ネパールにも鉄道の時代がやってくるのか?』として、中国の占領地チベット(中国は西蔵自治区を自称)からの鉄道の延伸計画等について触れてみたが、今度はインド国境から数キロという場所であることに加えて、ネパールでマデースィーと呼ばれる人たち、ネパール南部でインドの隣接する地域同様に、マイティリー、ボージプリー等を母語とする人々が暮らす地域に打って出た。

    インドにとっては国境すぐ向こうに『同族の人々』から成る『親中国の一大拠点』7が出来上がってしまうことを意味する。対外的には、特にインドにとっては大いに憂慮されるものであるが、ネパール政府にとっても、この計画は一方的に利を得るものとはならない可能性もある。

    同国で不利な状況下に置かれているマデースィーの人々の地域である。自治権拡大等を求めての活動が盛んで、中央政府に対する反感の強いマデースィーの人々のエリア。そこに外国による国家の歳入に比肩するほどの投資がなされるというのは尋常なことではない。

    現在までは、インドと中国を両天秤にかけて、うまく利益を引き出しているように見えるネパールだが、将来的には対インド関係においても、また内政面においても、同国が『パーキスターン化』するのではないか?と危惧するのは私だけではないだろう。決して好意的なものばかりではない様々な思いを抱きつつも、ときには関係が冷却したこともあるとはいえ、伝統的には特別な互恵関係にあった『身内』のインドとの対立と緊張、自国内でのさらに新たな摩擦と軋轢といった事柄が生じる可能性を秘めており、それらが現実のものとなる時期もそう遠い将来ではないような気がする。

    中国によるネパールへの数々の援助のオファーは純粋な善隣外交の意志からなされているものではなく、まさに自らの国益のためになされているということに対して大いに警戒するべきなのだが、目下、同国議会の第一党にあるのは、インドと一定の距離を置くいっぽう、中国寄りの姿勢を見せるネパール共産党毛沢東主義派である。

    以前、あるジャーナリストの方に話をうかがった際、手を替え品を替えといった具合に矢継ぎ早に繰り出す援助プロジェクト等のオファーにより、中国側に引き寄せられつつあるネパールのことについて、こんな風に表現されていたのを思い出す。

    『ネパールは、南側のインドという比較的ゆるやかな斜面と北側の中国という急峻な崖の間に位置する国。南側に転がれば怪我は軽いけど、北側の崖に転落したらどうなることか。けれども当人たちはそれがまだよくわかっていないようだ。』

    ネパールの空には、ネパール・インド双方に不幸を呼び込む暗雲が、北の方角からじわじわと押し寄せているように感じている。これが杞憂であればよいのだが・・・。

  • Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero

    Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero

    非常に遅ればせながら『Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero』をDVDで観た。公開されたらぜひ観たいと思っていたもののタイミングを逸し、その後は年月ばかり過ぎてしまっていた。ちょうど終戦記念日あたりということもあり「そういえば観てなかったな・・・」とこれを購入して、自宅で鑑賞してみることにした。

    今年12月には76歳の誕生日を迎える巨匠、シャーム・ベネガル監督が手がけた映画だ。彼の比較的最近の作品では『Well Done Abba! (2009年)』『Zubeidaa (2001年)』等があるが、昔から『Ankur (1974年)』『Nishaant (1975) 』等々で海外からも高い評価を受けてきた。個人的には『Mandi (1983年)』と『Trikal (1985年)』にとても感銘を受けた。とりわけ後者は、映画の制作国を問わず私が最も好きな映画のひとつである。

    音楽を担当しているのもA. R. レヘマーンということ、4時間近い大作であることなどから、期待するものは大きかったが、公開時はもちろんのこと、DVDが発売されるようになってからも、特に理由はないのだがこの作品に触れることなく過ごしてきた。

    細かな部分では、主役のボースがビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)でムガル最後の皇帝、バハードゥル・シャー・ザファルのダルガーに詣でる様子(当時彼はここを訪れたことになっているがインド政府の援助によって現地にダルガーが建設されたのは比較的最近のことであり、当事は存在していない)やビルマ人の習俗がベトナム風(?)になっていること等々、妙な部分は散見されるものの、映画としてはきちんとまとまっていた。

    イギリスの圧政への抵抗とそれに対する弾圧に対し得るのは武力であると確信したボースがガーンディーと袂を分かち、The Great Escapeとして知られるカルカッタ(現コールカーター)自宅軟禁下からの脱出劇と、それに続く精力的な活動が描かれている。

    カルカッタの自宅から忽然と姿を消して、アフガニスタンのカーブルへ、そしてドイツ、さらにはソ連を目指すものの、ドイツと同国が交戦に入ったことから断念した。その結果、日本、シンガポールへと移動し、マレー半島で日本に屈した英軍インド兵や現地在住インド系の人々からのボランティアを募り、INA(インド国民軍)を結成。日本軍とともにビルマ経由でインパールを目指し、さらに西進してデリーを目指そうという壮大な計画を実行に移した。

    そうした中で、INA内部での北インド系兵士に対する南インド系兵士(後者はマレー半島在住でボースの呼びかけに応じて参加した素人たちが多かった)の確執、INAを自軍の末端組織としてしか見ていない日本軍に対し、募っていくボースの不満と不信等々、要所を押さえて描いていてある。

    最後まで観てみて、ドキュメンタリー的なものとして観れば決して悪くない作品だと思った。しかし残念ながらそれ以上の印象はあまりない。今でもとりわけベンガル地方では『ネータージー』として慕われているスバーシュ・チャンドラー・ボースという人物の大きさが伝わってこないからだ。

    以前、『テロリズムの種』として取り上げてみたアーシュトーシュ・ゴーワーリカル監督の映画『Khelein Hum Jee Jaan Sey』同様に、独立の志士を取り上げた作品としては、いまひとつ不完全燃焼といった感じがする。

    ところで作品中では、彼がドイツ滞在中に秘書をしていたエミリーというオーストリア人女性と結婚して娘をもうけたことが描かれているが、そのボースの娘アニター・ボースは現在ドイツでアウグスブルグ大学経済学部教授となっている。

    彼女の写真を見ると、眼差しには父親の面影が濃く漂っているようだ。彼女には夫との間に子供が三人あり、アルン、クリシュナ、マーヤーと、インド風の名前を付けている。

    ガーンディーその他の人物や所属していた国民会議派との関係等から、ボースに対する評価については微妙な部分があるものの、インド近代史の中で燦然と輝く偉人の一人であることについては間違いない。

    晩年の彼が国外で指揮した武闘路線自体が、彼の母国の独立に対してどれほどの効果をもたらしたかについては様々な論のあるところであるが、敗走後に捕らえられた将兵たちを反逆罪で裁こうとする中での反英機運の昂揚は、イギリスによるインド支配に対する最後の一撃となったという間接的な側面を高く評価する向きもあるようだ。

    独立はともかく、INAに参加した人たち、その家族たちに対しては例えようもない直接的な影響を与えたことは間違いない。行軍や戦闘の中で、また日本軍とともに侵攻していったインパール作戦の失敗による敗走の中でおびただしい数の死者を出している。

    『安定した職場』として忠実に勤務してきた英軍が日本軍に負け、敗残兵として囚われの身になる中で、高邁な志というよりも、少しでもマシな待遇を求めてINAに参加した者、成り行きからそうせざるを得なくなった者は多かっただろうし、現地在住者の中から応召したインド系の若者たちは純粋に『自由なインド』を信じて、海の向こうの祖国からやってきた『偉い人』の後に付き従ったことだろう。

    ところで映画の主人公のネータージーが闇夜に紛れて脱出した自宅は現在、ネータージー・バワンとして公開されている。彼が寝起きした部屋が保存されているとともに、屋敷内の各部屋にはネータージーにまつわる数々の写真、ビデオ、身の回りの品々等が展示されている。多少なりとも関心があれば、カルカッタを訪れた際にはぜひ見学されることをお勧めしたい。ここでは彼にまつわる書籍やビデオ等も販売されている。これを運営するNetaji Research Bureauのウェブサイトでもそのごく一部を閲覧することはできる。

    彼の残した偉業の影には、今の私たちには見ることのできない甚大な犠牲者たちの姿がある。平和な今という時代に生まれたことに感謝するとともに、ネータージーという類まれな偉人と彼が率いたINAがインド近代史に与えた影響について静かに考えてみたい。

  • テロリズムの種

    テロリズムの種

    このところいくつかベンガル関係ネタが続いた。そのついでにベンガルを舞台にした映画について取り上げてみることにする。

    アーシュトーシュ・ゴーワーリカル監督の映画『Khelein Hum Jee Jaan Sey』(生死の狭間で)は半年以上前に公開された作品であるが、遅ればせながらこの映画について思ったことを綴ってみたい。

    この映画は1930年にチッタゴン(現バーングラーデーシュ東部の港町)で実際に起きた武装蜂起事件を題材にしたものである。

    反英革命を夢見る活動家集団に、サッカーに興じるグラウンドが英軍のキャンプ地として収用されてしまったことに不満を抱く少年たち等が加わり訓練を施された。少年たちは資金調達にも協力している。

    彼らはわずかな武器類を手に、夜陰に紛れて軍施設、英国人クラブ、鉄道、電報局等を襲撃する計画を実行に移す。軍施設でも武器庫に押し入ったものの、弾薬類がどこに保管されているのかわからず、その晩は聖金曜日であったため、クラブから英国人たちは早々に帰宅してしまっており肩すかしを食うこととなった。

    そのため現地駐在の英国の植民地官僚や家族などを人質にして、軍施設から奪った武器弾薬類で革命を拡大させていくという目論見は大きく外れる。事件勃発直後にすぐさま反撃に出た英軍(もちろん幹部を除いて大半の指揮官や兵士は同じインド人たちである)を前に貧弱な装備のままで蜂起グループは敗走することになる。近代的で豊富な軍備を持つ軍により、メンバーは次々に殺害・拘束されていき、蜂起の首領たちは潜伏先で軍に生け捕りにされる。

    蜂起に加わった一味は、裁判にて流刑、首謀者たちは死刑を宣告される。チッタゴン中央刑務所に収容された蜂起のスルジャー・セーンと革命の同志は、ある未明に刑務所内の処刑場に連行されて絞首刑に・・・といった筋書である。

    ヒンディー語による作品であるが、舞台がベンガル地方であるため、ところどころベンガル語による会話が挿入されたり、登場人物や地名等の発音がベンガル風になっていたりして、それらしきムードを醸し出すようになっている。

    アビシェーク・バッチャン演じる主役の元高校教師の革命家スルジャー・セーンは、映画では触れられていなかったが国民会議派の活動家としての経験もある。1918年にインド国民会議派のチッタゴン地域のトップに選出されたこともあり、なかなかのやり手だったのだろう。ベンガル地方東部の田舎町を拠点にしていたとはいえ、後世から見たインドの民族運動の本流にいたことになる。

    だがその後、思想的に先鋭化していった彼は武闘路線を歩んでいくこととなる。1923年にベンガル地方の主にヒンドゥー教徒たちから成る革命武闘集団、ユガンタール党のオーガナイザーのひとりでもあり、地元チッタゴン支部で活動しており、この映画で描かれた1930年4月に発生したチッタゴン蜂起の首謀者となった。

    インドの記念切手

    ちなみにインドでスルジャー・セーンは、1978年に記念切手に描かれたことがあり、バーングラーデーシュでも彼の生誕105周年にあたる1999年に記念切手が発行されている。

    時代物の映画はけっこう好きなのだが、こうした愛国的な内容のものとなると、そこにはやはり制作者と『国家意識』のようなものが色濃く反映されることになるため、第三者の私のような者が鑑賞すると咀嚼しきれないものがある。

    舞台設定のすべてが史実に基づいているのかどうかはよくわからないのだが、年端の行かない10代の少年たちを巻き込んで、軍駐屯地を襲撃して奪った武器弾薬をもとに革命を拡大させるという、あまりに稚拙な計画といい、聖金曜日を知らないという無知さ加減といい、天下を取ることを企図していたにしては、あまりにお粗末である。

    それはともかく、絞首台に上ったスルジャー・セーンの目には、刑務所の建物に翻るインドの三色旗の幻が描かれているが、1947年に東パーキスターンとしてインドから分離独立、そして1971年にパーキスターンから独立して現在のバーングラーデーシュが成立している。つまりスルジャー・セーンと彼の仲間たちが闘ったその地に、結局インドの三色旗が翻ることはなかった。

    もちろん後の東パーキスターンとしての独立にも彼らの活動が寄与したとはいえず、反英闘争の中で儚くも志半ばにして消え去った革命の無残な失敗例である。ただし現在は外国となっている東の隣国で、かつてインド独立を夢見て闘争を展開した『同朋』たちを描き、印パ分離の不条理を訴えたものという見方はできるかもしれない。

    だがスルジャー・セーンという人物自体、英雄視されるにはちょっと疑問符の付く人物ではある。そのため武闘路線に走る性急な過激派のボスとそれに引きずり込まれていく無垢な若者たちという具合に見えてしまう。時代と思想背景は違っても、カシミール、パーキスターンその他でテロに走る若者たちが、そうした道を歩んでしまう背景にも、こうした『テロの種を蒔く』似たようなメカニズムがあることと思う。

    作品中でスルジャー・セーンは善人として描写されているため、これは制作者の意図しているものではないであろうが、この革命家の抱く大義を普遍的な英雄的行為として捉えることは難しい。

    この映画を観た結果、どうも消化不良なので、この映画の原作となった本『Do and Die: The Chittagong Uprising: 1930-34』(Manini Chatterjee著)を読んでみたいと思っている。

    蛇足ながら、作品中に少し出てくる鉄道から眺めたこの時代のチッタゴンについて少々興味深い点がある。下の鉄道路線図(1931年当時)が示すとおり、現在のインドのアッサムから海港チッタゴンをダイレクトに結ぶ旧アッサム・ベンガル鉄道会社によるメーターゲージの路線が走っており、経済・流通の関係では今のインド北東部との繋がりの深い地域であった。そのため印パ分離による経済面での不都合はアッサム・東ベンガル(現バーングラーデーシュ)双方にとって大きなものであることがうかがえる。

     

    1931年当時のベンガル地方の鉄道路線

     

     

    バーングラーデーシュ国鉄本社は首都ではなくチッタゴンに置かれており、現在の同国鉄路線図の示すとおり、国土の東側はメーターゲージで、西側は分離前にコールカーターを中心としてネットワークを広げていたブロードゲージがカバーする形になっている。

    バーングラーデーシュ国鉄路線図

    歴史的に異なる幅の軌道が混在していたインドでは、近年インド国鉄の努力により総体的にブロードゲージ化が進んできている。それとは逆にバーングラーデーシュではブロードゲージの路線にメーターゲージの車両が走行できるように『デュアルゲージ化』を進めてきた。ブロードゲージの軌道の中にもう一本レールを敷いて、メーターゲージの列車が走行できるようにしてあるのだ。

    バーングラーデーシュ側では、メーターゲージ路線の距離数のほうが多く、また資金面でも費用のかかるブロードゲージ化で統一することは困難であること、ブロードゲージのインド側から貨物列車で石材等の資材輸入等といった事情があるようだが、ゲージ幅の違いを克服するために両国でそれぞれ異なるアプローチがなされているのは面白い。

  • ブータンのロイヤル・ウェディング

    ブータンのロイヤル・ウェディング

    ブータン国王と婚約者のジェツン・ペマさん

    今年4月29日にイギリスで行われたウィリアム王子とケイト・ミドルトンさんの結婚式は、国外にも広く放送されて注目を浴びたが、インド亜大陸北部のヒマラヤの王国ブータンでも今年10月にロイヤル・ウェディングが予定されている。

    2008年6月に父君の退位に伴い王位に就いた現在31歳のジグメ・ケサル・ナムギャル・ワンチュク国王が選んだお相手は、王族・貴族ではない民間人のジェツン・ペマさん。イギリスのリージェント・カレッジで学ぶ前には、インドのヒマーチャル・プラデーシュ州のヒルステーション、カサウリー近くにあるローレンス・スクール・サナーワル、その前には西ベンガル州のカリンポンのミッション・スクールで学ぶなど、インドとの縁も深い女性だ。

    残念ながら結婚式の様子をテレビで拝見する機会はなさそうだが、2008年から立憲君主制に移行した新しいブータンの顔として、今後も注目していきたい。

    His Majesty announces Royal Wedding (bhutanjournals.com)