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  • Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero

    Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero

    非常に遅ればせながら『Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero』をDVDで観た。公開されたらぜひ観たいと思っていたもののタイミングを逸し、その後は年月ばかり過ぎてしまっていた。ちょうど終戦記念日あたりということもあり「そういえば観てなかったな・・・」とこれを購入して、自宅で鑑賞してみることにした。

    今年12月には76歳の誕生日を迎える巨匠、シャーム・ベネガル監督が手がけた映画だ。彼の比較的最近の作品では『Well Done Abba! (2009年)』『Zubeidaa (2001年)』等があるが、昔から『Ankur (1974年)』『Nishaant (1975) 』等々で海外からも高い評価を受けてきた。個人的には『Mandi (1983年)』と『Trikal (1985年)』にとても感銘を受けた。とりわけ後者は、映画の制作国を問わず私が最も好きな映画のひとつである。

    音楽を担当しているのもA. R. レヘマーンということ、4時間近い大作であることなどから、期待するものは大きかったが、公開時はもちろんのこと、DVDが発売されるようになってからも、特に理由はないのだがこの作品に触れることなく過ごしてきた。

    細かな部分では、主役のボースがビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)でムガル最後の皇帝、バハードゥル・シャー・ザファルのダルガーに詣でる様子(当時彼はここを訪れたことになっているがインド政府の援助によって現地にダルガーが建設されたのは比較的最近のことであり、当事は存在していない)やビルマ人の習俗がベトナム風(?)になっていること等々、妙な部分は散見されるものの、映画としてはきちんとまとまっていた。

    イギリスの圧政への抵抗とそれに対する弾圧に対し得るのは武力であると確信したボースがガーンディーと袂を分かち、The Great Escapeとして知られるカルカッタ(現コールカーター)自宅軟禁下からの脱出劇と、それに続く精力的な活動が描かれている。

    カルカッタの自宅から忽然と姿を消して、アフガニスタンのカーブルへ、そしてドイツ、さらにはソ連を目指すものの、ドイツと同国が交戦に入ったことから断念した。その結果、日本、シンガポールへと移動し、マレー半島で日本に屈した英軍インド兵や現地在住インド系の人々からのボランティアを募り、INA(インド国民軍)を結成。日本軍とともにビルマ経由でインパールを目指し、さらに西進してデリーを目指そうという壮大な計画を実行に移した。

    そうした中で、INA内部での北インド系兵士に対する南インド系兵士(後者はマレー半島在住でボースの呼びかけに応じて参加した素人たちが多かった)の確執、INAを自軍の末端組織としてしか見ていない日本軍に対し、募っていくボースの不満と不信等々、要所を押さえて描いていてある。

    最後まで観てみて、ドキュメンタリー的なものとして観れば決して悪くない作品だと思った。しかし残念ながらそれ以上の印象はあまりない。今でもとりわけベンガル地方では『ネータージー』として慕われているスバーシュ・チャンドラー・ボースという人物の大きさが伝わってこないからだ。

    以前、『テロリズムの種』として取り上げてみたアーシュトーシュ・ゴーワーリカル監督の映画『Khelein Hum Jee Jaan Sey』同様に、独立の志士を取り上げた作品としては、いまひとつ不完全燃焼といった感じがする。

    ところで作品中では、彼がドイツ滞在中に秘書をしていたエミリーというオーストリア人女性と結婚して娘をもうけたことが描かれているが、そのボースの娘アニター・ボースは現在ドイツでアウグスブルグ大学経済学部教授となっている。

    彼女の写真を見ると、眼差しには父親の面影が濃く漂っているようだ。彼女には夫との間に子供が三人あり、アルン、クリシュナ、マーヤーと、インド風の名前を付けている。

    ガーンディーその他の人物や所属していた国民会議派との関係等から、ボースに対する評価については微妙な部分があるものの、インド近代史の中で燦然と輝く偉人の一人であることについては間違いない。

    晩年の彼が国外で指揮した武闘路線自体が、彼の母国の独立に対してどれほどの効果をもたらしたかについては様々な論のあるところであるが、敗走後に捕らえられた将兵たちを反逆罪で裁こうとする中での反英機運の昂揚は、イギリスによるインド支配に対する最後の一撃となったという間接的な側面を高く評価する向きもあるようだ。

    独立はともかく、INAに参加した人たち、その家族たちに対しては例えようもない直接的な影響を与えたことは間違いない。行軍や戦闘の中で、また日本軍とともに侵攻していったインパール作戦の失敗による敗走の中でおびただしい数の死者を出している。

    『安定した職場』として忠実に勤務してきた英軍が日本軍に負け、敗残兵として囚われの身になる中で、高邁な志というよりも、少しでもマシな待遇を求めてINAに参加した者、成り行きからそうせざるを得なくなった者は多かっただろうし、現地在住者の中から応召したインド系の若者たちは純粋に『自由なインド』を信じて、海の向こうの祖国からやってきた『偉い人』の後に付き従ったことだろう。

    ところで映画の主人公のネータージーが闇夜に紛れて脱出した自宅は現在、ネータージー・バワンとして公開されている。彼が寝起きした部屋が保存されているとともに、屋敷内の各部屋にはネータージーにまつわる数々の写真、ビデオ、身の回りの品々等が展示されている。多少なりとも関心があれば、カルカッタを訪れた際にはぜひ見学されることをお勧めしたい。ここでは彼にまつわる書籍やビデオ等も販売されている。これを運営するNetaji Research Bureauのウェブサイトでもそのごく一部を閲覧することはできる。

    彼の残した偉業の影には、今の私たちには見ることのできない甚大な犠牲者たちの姿がある。平和な今という時代に生まれたことに感謝するとともに、ネータージーという類まれな偉人と彼が率いたINAがインド近代史に与えた影響について静かに考えてみたい。

  • テロリズムの種

    テロリズムの種

    このところいくつかベンガル関係ネタが続いた。そのついでにベンガルを舞台にした映画について取り上げてみることにする。

    アーシュトーシュ・ゴーワーリカル監督の映画『Khelein Hum Jee Jaan Sey』(生死の狭間で)は半年以上前に公開された作品であるが、遅ればせながらこの映画について思ったことを綴ってみたい。

    この映画は1930年にチッタゴン(現バーングラーデーシュ東部の港町)で実際に起きた武装蜂起事件を題材にしたものである。

    反英革命を夢見る活動家集団に、サッカーに興じるグラウンドが英軍のキャンプ地として収用されてしまったことに不満を抱く少年たち等が加わり訓練を施された。少年たちは資金調達にも協力している。

    彼らはわずかな武器類を手に、夜陰に紛れて軍施設、英国人クラブ、鉄道、電報局等を襲撃する計画を実行に移す。軍施設でも武器庫に押し入ったものの、弾薬類がどこに保管されているのかわからず、その晩は聖金曜日であったため、クラブから英国人たちは早々に帰宅してしまっており肩すかしを食うこととなった。

    そのため現地駐在の英国の植民地官僚や家族などを人質にして、軍施設から奪った武器弾薬類で革命を拡大させていくという目論見は大きく外れる。事件勃発直後にすぐさま反撃に出た英軍(もちろん幹部を除いて大半の指揮官や兵士は同じインド人たちである)を前に貧弱な装備のままで蜂起グループは敗走することになる。近代的で豊富な軍備を持つ軍により、メンバーは次々に殺害・拘束されていき、蜂起の首領たちは潜伏先で軍に生け捕りにされる。

    蜂起に加わった一味は、裁判にて流刑、首謀者たちは死刑を宣告される。チッタゴン中央刑務所に収容された蜂起のスルジャー・セーンと革命の同志は、ある未明に刑務所内の処刑場に連行されて絞首刑に・・・といった筋書である。

    ヒンディー語による作品であるが、舞台がベンガル地方であるため、ところどころベンガル語による会話が挿入されたり、登場人物や地名等の発音がベンガル風になっていたりして、それらしきムードを醸し出すようになっている。

    アビシェーク・バッチャン演じる主役の元高校教師の革命家スルジャー・セーンは、映画では触れられていなかったが国民会議派の活動家としての経験もある。1918年にインド国民会議派のチッタゴン地域のトップに選出されたこともあり、なかなかのやり手だったのだろう。ベンガル地方東部の田舎町を拠点にしていたとはいえ、後世から見たインドの民族運動の本流にいたことになる。

    だがその後、思想的に先鋭化していった彼は武闘路線を歩んでいくこととなる。1923年にベンガル地方の主にヒンドゥー教徒たちから成る革命武闘集団、ユガンタール党のオーガナイザーのひとりでもあり、地元チッタゴン支部で活動しており、この映画で描かれた1930年4月に発生したチッタゴン蜂起の首謀者となった。

    インドの記念切手

    ちなみにインドでスルジャー・セーンは、1978年に記念切手に描かれたことがあり、バーングラーデーシュでも彼の生誕105周年にあたる1999年に記念切手が発行されている。

    時代物の映画はけっこう好きなのだが、こうした愛国的な内容のものとなると、そこにはやはり制作者と『国家意識』のようなものが色濃く反映されることになるため、第三者の私のような者が鑑賞すると咀嚼しきれないものがある。

    舞台設定のすべてが史実に基づいているのかどうかはよくわからないのだが、年端の行かない10代の少年たちを巻き込んで、軍駐屯地を襲撃して奪った武器弾薬をもとに革命を拡大させるという、あまりに稚拙な計画といい、聖金曜日を知らないという無知さ加減といい、天下を取ることを企図していたにしては、あまりにお粗末である。

    それはともかく、絞首台に上ったスルジャー・セーンの目には、刑務所の建物に翻るインドの三色旗の幻が描かれているが、1947年に東パーキスターンとしてインドから分離独立、そして1971年にパーキスターンから独立して現在のバーングラーデーシュが成立している。つまりスルジャー・セーンと彼の仲間たちが闘ったその地に、結局インドの三色旗が翻ることはなかった。

    もちろん後の東パーキスターンとしての独立にも彼らの活動が寄与したとはいえず、反英闘争の中で儚くも志半ばにして消え去った革命の無残な失敗例である。ただし現在は外国となっている東の隣国で、かつてインド独立を夢見て闘争を展開した『同朋』たちを描き、印パ分離の不条理を訴えたものという見方はできるかもしれない。

    だがスルジャー・セーンという人物自体、英雄視されるにはちょっと疑問符の付く人物ではある。そのため武闘路線に走る性急な過激派のボスとそれに引きずり込まれていく無垢な若者たちという具合に見えてしまう。時代と思想背景は違っても、カシミール、パーキスターンその他でテロに走る若者たちが、そうした道を歩んでしまう背景にも、こうした『テロの種を蒔く』似たようなメカニズムがあることと思う。

    作品中でスルジャー・セーンは善人として描写されているため、これは制作者の意図しているものではないであろうが、この革命家の抱く大義を普遍的な英雄的行為として捉えることは難しい。

    この映画を観た結果、どうも消化不良なので、この映画の原作となった本『Do and Die: The Chittagong Uprising: 1930-34』(Manini Chatterjee著)を読んでみたいと思っている。

    蛇足ながら、作品中に少し出てくる鉄道から眺めたこの時代のチッタゴンについて少々興味深い点がある。下の鉄道路線図(1931年当時)が示すとおり、現在のインドのアッサムから海港チッタゴンをダイレクトに結ぶ旧アッサム・ベンガル鉄道会社によるメーターゲージの路線が走っており、経済・流通の関係では今のインド北東部との繋がりの深い地域であった。そのため印パ分離による経済面での不都合はアッサム・東ベンガル(現バーングラーデーシュ)双方にとって大きなものであることがうかがえる。

     

    1931年当時のベンガル地方の鉄道路線

     

     

    バーングラーデーシュ国鉄本社は首都ではなくチッタゴンに置かれており、現在の同国鉄路線図の示すとおり、国土の東側はメーターゲージで、西側は分離前にコールカーターを中心としてネットワークを広げていたブロードゲージがカバーする形になっている。

    バーングラーデーシュ国鉄路線図

    歴史的に異なる幅の軌道が混在していたインドでは、近年インド国鉄の努力により総体的にブロードゲージ化が進んできている。それとは逆にバーングラーデーシュではブロードゲージの路線にメーターゲージの車両が走行できるように『デュアルゲージ化』を進めてきた。ブロードゲージの軌道の中にもう一本レールを敷いて、メーターゲージの列車が走行できるようにしてあるのだ。

    バーングラーデーシュ側では、メーターゲージ路線の距離数のほうが多く、また資金面でも費用のかかるブロードゲージ化で統一することは困難であること、ブロードゲージのインド側から貨物列車で石材等の資材輸入等といった事情があるようだが、ゲージ幅の違いを克服するために両国でそれぞれ異なるアプローチがなされているのは面白い。

  • ブータンのロイヤル・ウェディング

    ブータンのロイヤル・ウェディング

    ブータン国王と婚約者のジェツン・ペマさん

    今年4月29日にイギリスで行われたウィリアム王子とケイト・ミドルトンさんの結婚式は、国外にも広く放送されて注目を浴びたが、インド亜大陸北部のヒマラヤの王国ブータンでも今年10月にロイヤル・ウェディングが予定されている。

    2008年6月に父君の退位に伴い王位に就いた現在31歳のジグメ・ケサル・ナムギャル・ワンチュク国王が選んだお相手は、王族・貴族ではない民間人のジェツン・ペマさん。イギリスのリージェント・カレッジで学ぶ前には、インドのヒマーチャル・プラデーシュ州のヒルステーション、カサウリー近くにあるローレンス・スクール・サナーワル、その前には西ベンガル州のカリンポンのミッション・スクールで学ぶなど、インドとの縁も深い女性だ。

    残念ながら結婚式の様子をテレビで拝見する機会はなさそうだが、2008年から立憲君主制に移行した新しいブータンの顔として、今後も注目していきたい。

    His Majesty announces Royal Wedding (bhutanjournals.com)

  • バーングラーデーシュの旅行案内書

    バーングラーデーシュの旅行案内書

    地球の歩き方 バングラデシュ

    日本の出版社から出ているバーングラーデーシュのガイドブックといえば、旅行人の『ウルトラガイド バングラデシュ』くらいかと思っていたが、昨年10月に地球の歩き方から『バングラデシュ』が出ていることに今さらながら気がついた。

    近年、日本からアパレル産業を中心に企業の進出が盛んになってきているとともに、同国首都ダーカーに旅行代理店H.I.S.が支店をオープンさせるなど、観光の分野でも一部で注目を集めるようになってきているようだ。

    すぐ隣に偉大なインドがあるため、観光地としてクロースアップされる機会が少なく、存在すら霞んでしまう観のある同国だが、なかなかどうして見どころは豊富である。

    もちろんここがインドの一部であれば訪れる人は今よりも多かったことだろう。またインドとの間のアクセスは空路・陸路ともに本数は多く、両国の人々以外の第三国の人間である私たちが越えることのできる国境も複数あるため、行き来は決して不便というわけではない。

    だがインドのヴィザに近年導入された『2ケ月ルール』のため、インド東部に来たところで『ふと思い立ってバーングラーデーシュに行く』ことが難しくなってしまっている。インド入国前のヴィザ申請の時点で、隣国への出入国を決めておかなくてはならなくなったからだ。

    だからといって西ベンガル、アッサムその他インド東部まで来て、この実り豊かな麗しの大地を訪れないというのはもったいない話だ。

    インドでも西ベンガル州で親日家、知日家と出会う機会は少なくないが、ことバーングラーデーシュにおいては、日本のバブル時代に出稼ぎに行った経験のある人々が多いこと、日本のODAその他の積極的な援助活動のためもあってか、日本という国に対して好感を抱いてくれている人たちがとても多いようだ。

    それはともかく、歴史的にも地理的にも、『インド東部』の一角を成してきた『ベンガル地方』の東部地域だ。南側に開けた海岸線を除き、西・北・東の三方を東インド各州に囲まれ、本来ならばこれらのエリアとの往来の要衝であったはずでもある。

    またこの国の将来的な発展のためには、圧倒的に巨大な隣国インドとの活発な交流が欠かせない。同時にインドにとっても、人口1億5千万超という巨大な市場は魅力的だし、この国の背後にあるインド北東諸州の安定的な発展のためには、ベンガル東部を占めるこの国との良好な関係が不可欠である。もちろん今でも両国間の人やモノの行き来は盛んであるのだが、それぞれの国内事情もあり、決して相思相愛の仲というわけではない。

    イスラームやヒンドゥーの様々なテラコッタ建築、仏蹟、少数民族の居住地域、マングローブ等々、数々の魅力的な観光資源を有しながらも、知名度が低く訪れる人も多くない現況は、『インド世界』にありながらも『インド国内ではない』 がゆえのことだ。

    日本語のガイドブックが出たからといって、訪問者が急増するとは思えないものの、やはり何かのきっかけにはなるはず。今後、必ずや様々な方面で『バーングラーデーシュのファン』が少しずつ増えてくるように思われる。

  • バングラデシュフェスティバル2011

    今年も『バングラデシュフェスティバル』が開催される。

    会期は6月18日(土)と19日(日)のそれぞれ午前10時から午後8時まで。場所は東京都渋谷区の代々木公園だ。プログラムはこちらをご参照願いたい。

    1947年にインドから東西パーキスターンが分離独立した後、そのパーキスターンからバーングラーデーシュとして独立を達成したのが1971年。今年は記念すべき40周年目にあたる。

    隣国インドの陰に隠れてしまい、スポットライトを浴びる機会が少ない国ではあるが、それでも近ごろは労働力豊かな新たな投資先として、また1億5千万を超える膨大な人口(世界第8位!)を擁する市場としても注目されるようになってきているところだ。

    そうした動きも背景にあってか、同国を日本語で紹介するサイトも出てきている。

    banglanavi.com

    梅雨の時期のため天気が気になるところではあるが、両日とも盛況となることを願いたい。

  • ヤンゴンの書店

    ヤンゴンのアーロン・ロードとバホー・ロードの交差点脇NANDAWUNという店がある。主にこの国の工芸品を販売する店だが、その店舗の最上階にはミャンマーに関する図書のコーナーがある。

    決して広くはないフロアーの一角がそうした書籍の販売に充てられているだけなので、つい見落としてしまいそうだが、ところがどうしてなかなか面白い本も見つかる。

    20世紀初頭の英字紙ラングーン・タイムスのクリスマス特集複数年分を収めた複製本、1863年に­­­ボンベイに設立された英資本の会社で、チーク材や茶葉等の貿易を行なったボンベイ・ビルマ貿易会社の社史など、なかなかレアで興味深い(関心があれば・・・)図書があるし、その他歴史的な書籍の復刻版なども置かれている。聞けば、経営者は元国立図書館の館長さんとのことで「なるほど」と納得。

    ただしごく一般的な旅行案内書や写真集といった一般書も書棚に並んでいるため、正直なところ玉石混淆という観は否めないものの、ヤンゴンでは他にこうした書店が見当たらないため、印緬関係史に多少なりとも興味があれば、興味深い書籍がいくつか見つかることだろう。最も貴重な書籍はカギのかかった書棚におさめられており、閲覧のみ可能ということになっているが。

    NANDAWUNで販売している民芸品類は、ややアップマーケットな値段が付いているが、品揃え充実しているし質も高いものが多い。ミャンマーを訪問される際、ヤンゴンから飛び立つ前に立ち寄ってみるといいかもしれない。

    敷地内に独立した書店も経営しているが、そちらで扱っているのは英語の雑誌とビルマ語の実用書のみ。こちらは特に見るべきものはないので、お間違いのないように。

  • 早朝の散歩

    早朝の散歩

    こんな建物がまだまだ多く残されている

    早朝のヤンゴンのダウンタウンを散策。英領時代の都心であったこの地域では、今も当時の建物が多く残っている。朝6時を回ったところだ。まだ多くの店は閉ざされたままだが、路上に行き交う人々は少なくない。

    すでに路上には様々な食べ物屋が出ている。路上では南インド系の女性がマサーラー・ドーサーを焼いている。歩道上の茶屋の椅子には人々が集っている。インド人地区だが、その中で多数派を占めるのはインド系ムスリムだ。

    マハーラーシュトラやベンガル等、それぞれの出自ごとのモスクがある。そうした中で決して数は多くないものの、イラン系の人々も混住しており、彼らは父祖の言葉ペルシャ語は失っていても、この地域のムスリムの共通語ないしは身に付けるべき当然の教養として、ウルドゥー語を理解するのは『ノルマ』のようなものらしい。

    大樹のたもとの祠

    ヒンドゥーの寺も複数あるが、大樹の下にこんな祠もある。霊験あらたかなのかどうか知らないが、結構参拝している人たちがあり、なかなかキレイに手入れしてあるようだ。

    中国寺院入口

    インド人地区を少し越えると中華街になっている。中国寺院もいくつかあるが、その中のひとつにはこんな文章が掲げられていた。日本軍のビルマ侵攻時代の当地華僑たちの受難について触れられている。

    日本軍侵攻時の華僑の受難

    路地では菓子類、野菜、果物、肉類に魚介類とあらゆるものが販売されている。大地の豊かな恵みに富むデルタ地帯はここから近い。

    中華菓子?なのか知らないがド派手なお菓子
    さまざまな魚介類
    カエルたちもまた食材

    周りを見渡してみると、営業を 開始している店が多くなってきている。だんだんと気温も上がってきた。宿に戻って朝食を取ることにする。

  • 藩主の宮殿転じてブッダ博物館

    藩主の宮殿転じてブッダ博物館

    ミャンマーのシャン州にあるニャウンシュエの町の北側に『ブッダ博物館』がある。この建物は英領時代の藩王国の主の宮殿。しかしながら展示物にはその藩王国を偲ばせるものは何ひとつなく、独自の歴史や文化とは関係なくニュートラルな仏教に焦点を当てた展示となっている。

    ここの最後の藩主はイギリスからの独立後、最初のビルマ大統領となった人物であったとのこと。何かで読んだか耳にしたことがある・・・と記憶の糸をたどっていくと、行き着いたのはこの本である。 著者の姉が嫁いだ相手が、ビルマの初代大統領の息子ということであった。

    消え去った世界

    ―あるシャン藩王女の個人史-

    著者:ネル・アダムズ

    訳者:森博行

    出版社:文芸社

    ISBN-10: 4835541383

    シャン州には、ダーヌー、パラウン、ラフーその他さまざまな民族が居住しているが、『シャン』という州名が示すとおり、主要民族はタイ族の近縁にあたるシャン族だ。

    第三次英緬戦争の際に英国側に協力したシャン族の諸侯たちの土地は、コンバウン朝が終焉を迎えてからは、英領期のインドに割拠していた藩王国と同様の扱いとなった。

    イギリスが直接支配したビルマ族主体の中央地域と違い、その他の各民族がマジョリティを占める地域は、現地の諸侯たちの自治に委ねられており、イギリスは彼らを通じてそれらの土地を間接統治する形となっていた。ちょうどインド各地に割拠した藩王国のような具合である。あるいは現在のミャンマーの国土の『管区(division)』『州(state)』の区分は、当時の行政の版図を引き継いでいる。

    著者のネル・アダムズ (シャン名はサオ・ノン・ウゥ)は、当時のシャン州の藩王国のひとつロークソークで生まれ育ち、ミッションスクールで欧州人の子弟たちや地元の富裕層の子供たちと一緒に教育を受けた。

    当時の公用語は英語であったが、こうした全寮制の学校内では英語以外は禁止。イギリスその他の欧州人や英領であったインドからきた職員や教員たち。支配者たちに欧州的な価値観と規律を学ばせることにより、土地の支配層に自分たちと共通の価値観を持たせるとともに、支配層に親英的な空気をみなぎらせることも意図していたのだろう。

    今の時代においても国によって濃淡の違いこそあれ、学校教育の場は単に必要な教科を教えるだけではなく、民族教育の場でもあり、国家意識の陶冶の場でもある。

    ビルマ族の民族主義運動が高揚していった結果であるこの国の独立は、それまでイギリスに従属していても、ビルマ族に服属しているとは思っていなかった他の民族たちにとって、決して喜ばしいものではなかった。これはその後国内各地で長く続いた内戦の原因といえる。

    とりわけ1962年のネ・ウィン率いる国軍によるクーデター以降、中央政府が推し進めた『ビルマ式社会主義』政策は、この国独自の社会主義体制の建設とともに、社会・文化全般の『ビルマ化』でもあり、非ビルマ族がマジョリティを占める地域においては、ビルマ族による『侵略』であったともいえる。

    多民族社会における国家の統合おいて、主流派以外の人々が支払うことになる代償は大きい。とりわけその帰属が武力や権力により否応なしに押し付けられた場合には、それまで地域社会が育んできた独自の歴史や文化は軽んじられてしまいがちである。

    最後の藩王にして、初代のビルマ大統領であったSAO SHWE THAIKEの宮殿が、その来歴についての説明もなく、ただ『ブッダ博物館』として運営されていることは、まさにそれを象徴しているように感じられる。

  • インレー湖

    インレー湖

    宿で募っていたインレー湖のボートツアーに参加した。ノルウェー人男性、アメリカ人男性とその友人の日本人女性、そして私の計4人である。朝7時半に船頭が迎えに来た。

    インレー湖につながる水路

    ホテルを出て通りを左に直進したところにインレー湖につながる運河の船着場がある。両岸は土が崩れ落ちないように竹で護岸がなされている。ところどころで浚渫作業が進行中。放っておくと浅くなってしまい、船の往来に支障を来たすようになるのだろう。

    竹でできた護岸

    様々な船が行き交っている。野菜などの食料品その他の生活物資を載せたもの、建築資材を積んでいるもの等々。だがこの時間帯で最も多いのは、国内外からの観光客を乗せた船だろうか。

    船は速度を上げて進んでいく。やがて水路から湖に出て景色が一気に開ける。これまで写真等ではときどき目にすることのあった片足漕ぎの漁師たちの姿が見える。両手で作業しながらも船を進めることができるという利点があるが、傍で眺めていると何とも不自然な身体の使い方だ。

    インレー湖名物の片足漕ぎ
    インレー湖に出た

    船は、パウン・ドー・パヤーというお寺入口の船着場に着いた。本堂内中央には五体の仏像らしきものがあるが、いずれも大量に貼られた金箔のため、雪だるまのような有様になっている。

    パウン・ドー・パヤー
    大量の金箔で雪だるま状態

    隣にはマーケットもある。市場では食品や雑貨等いろいろ売り買いされている。規模もニャウンシュエよりもおよそ倍くらい大きい。マイノリティの人々も来ていて、民族色豊かでカラフルだ。

    マーケット

    そこから船は来たときとは異なる水路を進んで機織の村に行く。村といっても、水路沿いにある高床式の水上家屋がいくつか寄せ集まっているだけのことだが、周囲はどこもかしこも水で一杯なので、隣家に行くにも船が必要。どの家屋でも軒先には一隻以上の船を繋いである。近所で用を足すだけの自家用なのでほとんどは手漕ぎだ。

    そんな環境なので、このあたりでは小さい子供たちも上手に船を操っている。ごくわずかな陸地(?)のように見える部分は浮島になっており、季節の野菜類が栽培されている。どこの集落でも、いくばくかのこうした『耕作地』がある。

    水上家屋 水面上の緑色の部分は浮島状になっていて野菜等を植えてある。

    家の周りで自家消費に必要な魚類は簡単に調達できそうだが、耕作は容易ではないし、その他の生活物資の入手についても不便だろう。どうしてこういうところに人々は住み着いたのかわからないが、きっと何か合理的な理由があるに違いない。

    次にビルマ式の葉巻作りの作業場。大きな高床式建物の中で行われている。中には刻みタバコが詰めてあるが、外側の巻き材はイチジクの葉であるとのこと。女性たちが作る葉巻にはどこかのブランドの名前が付いていることから察するに、一定量の材料を手渡されて請負生産しているのだろう。ここは作業場とはいえ主にみやげ物を売ることを目的にした場所のようで、ビルマ漆器の大小様々なものが展示されている。

    次に訪れたのは銀細工の作業場。いろんな年齢層の職人たちがそれぞれ受け持っている異なった工程で作業を進めている。最初に訪れたお寺とマーケットからずっと、他グループの同じ顔ぶれの人たちと行く先々で出会う。どの船頭たちもほぼ同じコースを回っていることがわかる。

    銀細工作業場見学を終えてから近くにあるレストランで昼食を済ませた後、水上の耕作地に向かう。浮き草等の植物性の『土壌』から成る水上の畑だ。先述の浮島状の耕作地が大きくなったものである。季節により作物は変わるそうだが、この時期に栽培されているのはトマトである。本来は乾燥地に植える作物だが、ここで採れるトマトはどんな味がするのだろうか?

    水上のトマト畑

    そしてガー・ぺー・チャウンという、輪の中を飛び抜ける芸をするネコたちがいるお寺として知られているところ。複数の猫たちが係の(?)男に芸をさせられている。男が鈴を鳴らすと芸が始まる合図だ。猫を引き寄せて手にした輪で喉の下を数回擦る。すると猫が上向いて「やる気になった」らジャンプするというもの。

    ネコのジャンプ

    このお寺を最後に、船はニャウンシュエの船着場に戻る。本日同行した人たちと水路沿いにある飲み屋に繰り出して乾杯。付近には他にいくつか外国人が多く宿泊するホテル等がある中、界隈で唯一ジョッキの生ビールを出す店なので、けっこう賑わっている。

    目の前の水路を行き来する船を眺めているうちに、陽がとっぷり暮れてきた。

  • ニャウンシュエ

    ニャウンシュエ

    カローから朝7時半のマイクロバスで出発。隣席には髪にジャスミンの花を付けた太ったおばさん。ブロークンなヒンディーをしゃべる人懐っこい女性である。インド系のムスリムだそうだが、かなり混血が進んでいるようで、パッと見た感じはかなり肌色が濃い目のビルマ人といった感じだ。

    バスの終着のタウンジーまで行くとのことだが、そこに兄が住んでいるとか、日帰りでカローに戻ってくるのだといったことから始まり、しばらく耳を傾けているうちにおおよその家族構成などもわかってしまう。

    ミャンマーでは感じのいい人が多く、往々にしておしゃべりなので、ビルマ語がわかったらどんなに楽しいことだろうかと思う。

    1時間半ほどで国道からの分岐点のシュエニャウンの集落に着く。ここではタクシーやバイクタクシーがお客を待っており、インレー湖観光の基点となるニャウンシュエの町まで20分程度。

    いくつかの町を通過したのち、ヘーホーを通ってシュエニャウンに着く。ここまで1時間半くらいであっただろうか。国道とニャウンシュエに向かう道との交差点だが、ここでバイクタクシーとタクシーが客待ちしている。

    ニャウンシュエへと続く道路の左手には養魚場があり、いくつかの魚料理を出すレストランも見える。インレー湖周辺には川や池などが多いため、漁業が盛んなのだろう。

    バガン、マンダレーと並ぶミャンマーを代表する観光地だけに、マーケットの南側には外国人向けの宿やレストランなどがいくつも並んでいる。

    宿泊した宿は、ちょっと垢抜けて都会的な感じがするシャン族のご主人と、このあたりの少数民族のパラウン族出身で、あでやかな大輪の花を思わせる美しい奥さんの若夫婦が切り盛りするこじんまりしたゲストハウス。ミャンマーの他の多くの宿同様に朝食付きだが、それ以外にも暑い昼間に外出から戻ると飲み物とカットフルーツが沢山出てくるなど、なかなか気の利いたサービスをしている。

    そんなこともあってか外国人客たちに人気の宿であるらしい。中庭に日除けの大きなパラソル付きのテーブルとイスがあり、建物の中で部屋へと続く通路の手前にも座って読書したり、日記を書いたりできる共用スペースがあるなど、旅行者の溜り場としてのツボをうまく押さえている。

    自転車でゆったりと

    宿のすぐ隣に店を開いているレンタサイクル屋で自転車を借りて町中とその周辺を走ってみる。小さな町だがそれに不釣り合いなほど広々とした道路。さりとてクルマの往来はとても少ないのでのんびりと走りやすい。緑も多くてすがすがしくていい感じ。

    町周囲にいくつか運河があるようだが、商業地を通る部分では沢山の船が係留されている。湖周囲の水郷地帯への物流の起点でもあることをうかがわせてくれる。

    船でいっぱいの水路

    郊外に出る。ちょうど田植えの時期である。苗代から苗を集めている姿、数人で田植えしている姿がある。わずかに英語を話す農民によれば、昨年までは水が足りなかったが、今年は雨期入り前から雨が多く、水量充分で助かっているとのこと。

    そのまま自転車でインレー湖まで行こうと思ったが、この村から先はごく細い畦道になっており、徒歩でないと無理のようであった。諦めて町周辺の村や集落を見物することにした。どこも静かで質素ながらも清潔なたたずまい。多湿な気候で高床式の家屋は過ごしやすそうだ。蚊に対する防御は皆無という前提ではあるが。

    宿に戻ると、ちょうどカックーまでタクシーで行ってきたという日本人旅行者二人に会った。しばらくロビーで話をしてから夕食に出かける。その後、インレー湖へと続く運河のほとりにある店でジョッキに注がれた生ビールを楽しむ。

    メジャーな観光地の中のツーリストスポットであるものの、夜9時を回ると店じまいを始めている。支払いを済ませて外に出るとどこも扉を閉ざしていて深夜の雰囲気だ。

    隣国タイの観光地であれば、夜遅くまで音楽を大音響でかける飲食店があったり、いかがわしい商売の店、水商売の女性たちや客引きの男性たちなどの姿がそこここにあったりするところだが、そうした騒音・雑音の類なしに静かに過ごせる観光地というのがまたいい。

    水郷地帯なので蚊は多いものの、このあたりも海抜1300mほどの高原地帯なので、日没後は涼しく、夜は毛布にくるまって心地よく眠りに落ちることができた。

    雑貨屋の店先 帽子をかぶっておすましする幼女
  • 日帰りトレック2

    日帰りトレック2

    最初はお互いよそよそしくても、行程が進むにつれていろいろ話したりしながら打ち解けてきた。時間の経過とともに、だんだん『ひとつのチーム』になってくる。昼食を取ったあたりから、誰もがよく話すようになってきて、ちょっとした小休止のときも車座になって話が弾む。

    鉄路

    鉄路に出た。まさにこの鉄道建設のために、19世紀末から20世紀はじめにかけて多くのインド人たちがこの地にやってきたのだ。そこからしばらくは線路上を歩き、次の村に到着する。ここでは鍛冶屋もある。農耕具を作っているのだそうだ。

    ちょうどガーリックを収穫して干しているところであった。もち米で作った煎餅状のものを干してある。これを焼いて食べるのだそうだ。日本の煎餅と同じようものができることだろう。

    焼き上げる前の煎餅

    そこから少し下るとカリフラワーと豆の畑と水田があった。水量豊かで新鮮な野菜が採れる里。一瞬、理想郷という言葉が脳裏をかすめるが、そこに暮らしている人たちはそれが理想であるとは思っていないかもしれないし、山村での暮らしは楽であるはずもない。

    次の集落にたどりつく直前の坂道では、沢山のヒルがうようよしていた。今日も昨日以前のような調子でずっと雨が降っていたならば、きっと手足をひどくやられていたことだろう。

    本日最後に訪れたのはシャーマンの家。様々な生薬を配合した薬を作っているという。それで私たちはそれらを少しずつ味見する。たしかに生薬の味がする。それらが何か効果があるのかどうかは知らないが。

    シャーマン

    このシャーマンは代々長く継承されてきたものだというが、現在82才だというこの人物で途絶えることになりそうだという。彼の息子は複数いるが、誰一人として継がないのだという。

    その家のある集落を後にして再び線路の上に出る。そして他の7人とはお別れだ。さて、ここからはネパール人ガイドと二人でカローまで戻ることになる。予定では午後6時か7時には宿に帰着することになっていたが、ちょっと遅くなったようだ。

    もう陽がすっかり傾いている。じきに辺りは暗くなってしまうだろう。夕方の山の景色は美しかった。だが写真を撮る気にならないのはちょっと気が急いているからだ。治安の良好なミャンマーとはいえ、真っ暗になった山道を歩くのは決して誉められたものではない。

    人を襲うような獣が出てこなくても、足元に毒ヘビがいたところで、ボンヤリした懐中電灯の光では気が付かないかもしれない。本来ならまだ雨期入り前のはずだが、このところ雨が多いため田畑脇の道端などでヴァイパーの類の有毒ヘビをしばしば見かけたし、昼間の山道でもそうした毒蛇に遭遇した。そんなわけで夜道で一番気になったのがこれである。

    トレッキング中ではないが、町中で見かけた。雨が降ると乾いた場所を求めてニョロニョロ移動してたりする。

    ほとんどすれ違う人もなく、黙々と進む。ときおり反対側からやってくる帰宅途中の村人の姿がある。すでに真っ暗になっているのに牛を連れて帰る人たちもいた。すっかり周囲が見えなくなってから、私たちは懐中電灯を手にしているが、彼らは手ぶらだ。よく足元が見えるものだ。

    空は雲行きが怪しい。こんなところで真っ暗になってから大雨にやられたらたまらない。幸いにして宿に着くまで降らなかったが。

    しばらく進んで町に近くなってきたあたりに寺があり、そこにはネパール人がよく出入りするのだそうだ。サラスワティー寺院ということになっているが、ビルマ族、シャン族などは仏教の寺として参拝しているとのこと。

    カローの町はまだしばらく先であった。鉄路に出て枕木の上をしばらく歩く。枕木が等間隔で敷いてあればいいのだが、そうではないのでけっこう疲れる。細い川にかかる小さな鉄橋の上の線路を歩く。暗くて左右がどうなっているのかよく見えないためちょっと緊張する。水場に近いところでがチラチラと飛び回るホタルの灯が美しかった。

    ようやくカローの郊外に出た。カローホテルという政府経営のホテルの脇を通過する。20世紀初頭からの伝統を持ち、カローでもっとも古いホテルである。

    やがて裁判所等がある大きな通りに出て、モスクが見えてきた。ホテル到着は夜9時近かった。連れて帰ってくれたネパール系の道案内人に「外にメシでも食いに行かないか?おごるよ」と声をかけるが、彼は「もうおそいし、家がちょっと遠いので・・・」と夜道に消えていった。この人は宿の家族ではなく、必要に応じて呼ばれる日雇いの案内人である。

    デイパックを部屋に置き、近所のネパール食堂に行く。疲れた身体と空っぽになった胃に温かい食事が心地よい。ビールの酔いもまた最高だ。

    <完>

  • 日帰りトレック1

    日帰りトレック1

    この宿ではトレッキングのツアーをアレンジしている。カローから2泊3日でインレー湖に出るコースを勧められた。単に明日それで出発する他の人たちがいるからなのだが。しかしちょうど大きな低気圧が来ており、しばらく天候が非常に悪い。しばしば豪雨がやってきていたため日帰りにすることにした。他の人たちの行程の初日夕方で離脱する形である。

    この日のトレッキングに参加するのは、カナダ人4人、フランス人2人、ロシア人が1人、加えて日本人の私である。道案内は宿の女主人の息子と、手伝いのネパール系の男性。

    一行は出発する。町の西側に出てしばらく行くと竹で造った本尊のあるお寺。このあたりまではカローの町の郊外だが、そこから先は農村風景が広がる。さらに進むと、ところどころに少数民族の村が点在する山間の景色となってくる。

    この時期暑いばかりがミャンマーではない。見渡す限りの山岳風景の中で、あまり高度のある山は見受けられないが、オゾンをたっぷり含んだ空気と涼しい風が心地よい。途中幾度か驟雨に見舞われるが、そう長い時間続かないのは幸いであった。

    ちょっと小休止

    途中パラウン族、ダーヌー族といった少数民族の村々がある。ガイドブックにヴューポイントと記されているところの少し先にはネパール系の人が経営するトレッカー相手の簡単な食堂がある。

    本日のランチ

    南アジア系の人々の多くは町中で商業活動を営んでいたり、労働者として働いている人が多いようだが、このあたりの山中で耕作に従事しているネパール系の人々もけっこういるそうだ。この食堂の人たちも本業は農耕である。

    山間の耕作地では茶畑がいくつもあった。高原の冷涼な気候が栽培に適しているのだろう。そうした中にたまにごく少量のパイナップルが植えてあったりもするが、こちらは商業用ではなく自家消費目的なのだろう。

    茶の苗木が植えられている中にパイナップルもいくつかあった。

    ダーヌー族の村に行く。外国人たちの姿を見つけた子供たちが大勢駆け寄ってくる。家々では豚も買われている。立ち寄った村は地形によりふたつの部分に分かれている。

    子どもたちと案内人のR氏

    村の最初に訪れた部分では、茶の乾燥場があった。基壇部分の下では何か燃料、おそらく木を燃やしているはず。上の部分が熱くなっており、そこに広げている茶歯が乾燥されるようになっている。

    茶葉の乾燥場

    近年、村の暮らしぶりはよくなってきているとのことで、付近の川で簡単な水力発電が行なわれるようになったことから、ささやかながら電気が来るようになったとのこと。裸電球を灯すのがやっとで、他の電化製品を使用できるほどの規模のものではないそうだが。

    また付近で石灰岩が豊富に採れるという事情から、最近はコンクリート・ブロックで家屋を建てるケースが多くなっているとのことだ。

    一行は村長の家に向かう。伝統的な高床式の木造家屋である。どこからか年配女性たちがやってきて手工芸品を見せる。その中には嫁入り前の女性のみが着用する衣装がある。飾りのついた頭飾りがそれである。結婚してからはターバンをまとうことになっているそうだ。

    アレやコレやといろんな品々を見せてくるが、特にこちらが買う気がないことがわかると、彼女たち同士でのおしゃべりに興じている。もう孫がいるであろうと思われる年齢の女性は、嫁入り前のそうした衣装を付けてジッと鏡に見入っている。この人たちにも確かにそういう時代があったのである。

    花嫁姿?の元乙女たち

    高床式の家の中は風通しがよくて気持ちがいい。ちょっと磨き上げたら相当居心地の良い部屋になりそうだ。少なくともさきほど見たようなコンクリート・ブロックの家屋よりも健康的だと思われる。しかしコンクリート・ブロックであるがゆえに、その上に漆喰を塗り、さらにはペンキで仕上げて近代的な部屋にすることもできる。それにより長い年月維持できるだろう。どちらが良いのかなんともいえないが、少なくともこれを選択している人たちにとっては、それなりの合理的な理由があるに違いない。

    案内人パンジャービー系R氏と背後はネパール系のR氏

    そこからふたたびしばらく山道を歩く。ときおり芝生状にごく低い草が茂った開けた場所がある。周囲の山並みの眺めを楽しみながら歩く。

    <続く>