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カテゴリー: greater india

  • 早朝の散歩

    早朝の散歩

    こんな建物がまだまだ多く残されている

    早朝のヤンゴンのダウンタウンを散策。英領時代の都心であったこの地域では、今も当時の建物が多く残っている。朝6時を回ったところだ。まだ多くの店は閉ざされたままだが、路上に行き交う人々は少なくない。

    すでに路上には様々な食べ物屋が出ている。路上では南インド系の女性がマサーラー・ドーサーを焼いている。歩道上の茶屋の椅子には人々が集っている。インド人地区だが、その中で多数派を占めるのはインド系ムスリムだ。

    マハーラーシュトラやベンガル等、それぞれの出自ごとのモスクがある。そうした中で決して数は多くないものの、イラン系の人々も混住しており、彼らは父祖の言葉ペルシャ語は失っていても、この地域のムスリムの共通語ないしは身に付けるべき当然の教養として、ウルドゥー語を理解するのは『ノルマ』のようなものらしい。

    大樹のたもとの祠

    ヒンドゥーの寺も複数あるが、大樹の下にこんな祠もある。霊験あらたかなのかどうか知らないが、結構参拝している人たちがあり、なかなかキレイに手入れしてあるようだ。

    中国寺院入口

    インド人地区を少し越えると中華街になっている。中国寺院もいくつかあるが、その中のひとつにはこんな文章が掲げられていた。日本軍のビルマ侵攻時代の当地華僑たちの受難について触れられている。

    日本軍侵攻時の華僑の受難

    路地では菓子類、野菜、果物、肉類に魚介類とあらゆるものが販売されている。大地の豊かな恵みに富むデルタ地帯はここから近い。

    中華菓子?なのか知らないがド派手なお菓子
    さまざまな魚介類
    カエルたちもまた食材

    周りを見渡してみると、営業を 開始している店が多くなってきている。だんだんと気温も上がってきた。宿に戻って朝食を取ることにする。

  • 藩主の宮殿転じてブッダ博物館

    藩主の宮殿転じてブッダ博物館

    ミャンマーのシャン州にあるニャウンシュエの町の北側に『ブッダ博物館』がある。この建物は英領時代の藩王国の主の宮殿。しかしながら展示物にはその藩王国を偲ばせるものは何ひとつなく、独自の歴史や文化とは関係なくニュートラルな仏教に焦点を当てた展示となっている。

    ここの最後の藩主はイギリスからの独立後、最初のビルマ大統領となった人物であったとのこと。何かで読んだか耳にしたことがある・・・と記憶の糸をたどっていくと、行き着いたのはこの本である。 著者の姉が嫁いだ相手が、ビルマの初代大統領の息子ということであった。

    消え去った世界

    ―あるシャン藩王女の個人史-

    著者:ネル・アダムズ

    訳者:森博行

    出版社:文芸社

    ISBN-10: 4835541383

    シャン州には、ダーヌー、パラウン、ラフーその他さまざまな民族が居住しているが、『シャン』という州名が示すとおり、主要民族はタイ族の近縁にあたるシャン族だ。

    第三次英緬戦争の際に英国側に協力したシャン族の諸侯たちの土地は、コンバウン朝が終焉を迎えてからは、英領期のインドに割拠していた藩王国と同様の扱いとなった。

    イギリスが直接支配したビルマ族主体の中央地域と違い、その他の各民族がマジョリティを占める地域は、現地の諸侯たちの自治に委ねられており、イギリスは彼らを通じてそれらの土地を間接統治する形となっていた。ちょうどインド各地に割拠した藩王国のような具合である。あるいは現在のミャンマーの国土の『管区(division)』『州(state)』の区分は、当時の行政の版図を引き継いでいる。

    著者のネル・アダムズ (シャン名はサオ・ノン・ウゥ)は、当時のシャン州の藩王国のひとつロークソークで生まれ育ち、ミッションスクールで欧州人の子弟たちや地元の富裕層の子供たちと一緒に教育を受けた。

    当時の公用語は英語であったが、こうした全寮制の学校内では英語以外は禁止。イギリスその他の欧州人や英領であったインドからきた職員や教員たち。支配者たちに欧州的な価値観と規律を学ばせることにより、土地の支配層に自分たちと共通の価値観を持たせるとともに、支配層に親英的な空気をみなぎらせることも意図していたのだろう。

    今の時代においても国によって濃淡の違いこそあれ、学校教育の場は単に必要な教科を教えるだけではなく、民族教育の場でもあり、国家意識の陶冶の場でもある。

    ビルマ族の民族主義運動が高揚していった結果であるこの国の独立は、それまでイギリスに従属していても、ビルマ族に服属しているとは思っていなかった他の民族たちにとって、決して喜ばしいものではなかった。これはその後国内各地で長く続いた内戦の原因といえる。

    とりわけ1962年のネ・ウィン率いる国軍によるクーデター以降、中央政府が推し進めた『ビルマ式社会主義』政策は、この国独自の社会主義体制の建設とともに、社会・文化全般の『ビルマ化』でもあり、非ビルマ族がマジョリティを占める地域においては、ビルマ族による『侵略』であったともいえる。

    多民族社会における国家の統合おいて、主流派以外の人々が支払うことになる代償は大きい。とりわけその帰属が武力や権力により否応なしに押し付けられた場合には、それまで地域社会が育んできた独自の歴史や文化は軽んじられてしまいがちである。

    最後の藩王にして、初代のビルマ大統領であったSAO SHWE THAIKEの宮殿が、その来歴についての説明もなく、ただ『ブッダ博物館』として運営されていることは、まさにそれを象徴しているように感じられる。

  • インレー湖

    インレー湖

    宿で募っていたインレー湖のボートツアーに参加した。ノルウェー人男性、アメリカ人男性とその友人の日本人女性、そして私の計4人である。朝7時半に船頭が迎えに来た。

    インレー湖につながる水路

    ホテルを出て通りを左に直進したところにインレー湖につながる運河の船着場がある。両岸は土が崩れ落ちないように竹で護岸がなされている。ところどころで浚渫作業が進行中。放っておくと浅くなってしまい、船の往来に支障を来たすようになるのだろう。

    竹でできた護岸

    様々な船が行き交っている。野菜などの食料品その他の生活物資を載せたもの、建築資材を積んでいるもの等々。だがこの時間帯で最も多いのは、国内外からの観光客を乗せた船だろうか。

    船は速度を上げて進んでいく。やがて水路から湖に出て景色が一気に開ける。これまで写真等ではときどき目にすることのあった片足漕ぎの漁師たちの姿が見える。両手で作業しながらも船を進めることができるという利点があるが、傍で眺めていると何とも不自然な身体の使い方だ。

    インレー湖名物の片足漕ぎ
    インレー湖に出た

    船は、パウン・ドー・パヤーというお寺入口の船着場に着いた。本堂内中央には五体の仏像らしきものがあるが、いずれも大量に貼られた金箔のため、雪だるまのような有様になっている。

    パウン・ドー・パヤー
    大量の金箔で雪だるま状態

    隣にはマーケットもある。市場では食品や雑貨等いろいろ売り買いされている。規模もニャウンシュエよりもおよそ倍くらい大きい。マイノリティの人々も来ていて、民族色豊かでカラフルだ。

    マーケット

    そこから船は来たときとは異なる水路を進んで機織の村に行く。村といっても、水路沿いにある高床式の水上家屋がいくつか寄せ集まっているだけのことだが、周囲はどこもかしこも水で一杯なので、隣家に行くにも船が必要。どの家屋でも軒先には一隻以上の船を繋いである。近所で用を足すだけの自家用なのでほとんどは手漕ぎだ。

    そんな環境なので、このあたりでは小さい子供たちも上手に船を操っている。ごくわずかな陸地(?)のように見える部分は浮島になっており、季節の野菜類が栽培されている。どこの集落でも、いくばくかのこうした『耕作地』がある。

    水上家屋 水面上の緑色の部分は浮島状になっていて野菜等を植えてある。

    家の周りで自家消費に必要な魚類は簡単に調達できそうだが、耕作は容易ではないし、その他の生活物資の入手についても不便だろう。どうしてこういうところに人々は住み着いたのかわからないが、きっと何か合理的な理由があるに違いない。

    次にビルマ式の葉巻作りの作業場。大きな高床式建物の中で行われている。中には刻みタバコが詰めてあるが、外側の巻き材はイチジクの葉であるとのこと。女性たちが作る葉巻にはどこかのブランドの名前が付いていることから察するに、一定量の材料を手渡されて請負生産しているのだろう。ここは作業場とはいえ主にみやげ物を売ることを目的にした場所のようで、ビルマ漆器の大小様々なものが展示されている。

    次に訪れたのは銀細工の作業場。いろんな年齢層の職人たちがそれぞれ受け持っている異なった工程で作業を進めている。最初に訪れたお寺とマーケットからずっと、他グループの同じ顔ぶれの人たちと行く先々で出会う。どの船頭たちもほぼ同じコースを回っていることがわかる。

    銀細工作業場見学を終えてから近くにあるレストランで昼食を済ませた後、水上の耕作地に向かう。浮き草等の植物性の『土壌』から成る水上の畑だ。先述の浮島状の耕作地が大きくなったものである。季節により作物は変わるそうだが、この時期に栽培されているのはトマトである。本来は乾燥地に植える作物だが、ここで採れるトマトはどんな味がするのだろうか?

    水上のトマト畑

    そしてガー・ぺー・チャウンという、輪の中を飛び抜ける芸をするネコたちがいるお寺として知られているところ。複数の猫たちが係の(?)男に芸をさせられている。男が鈴を鳴らすと芸が始まる合図だ。猫を引き寄せて手にした輪で喉の下を数回擦る。すると猫が上向いて「やる気になった」らジャンプするというもの。

    ネコのジャンプ

    このお寺を最後に、船はニャウンシュエの船着場に戻る。本日同行した人たちと水路沿いにある飲み屋に繰り出して乾杯。付近には他にいくつか外国人が多く宿泊するホテル等がある中、界隈で唯一ジョッキの生ビールを出す店なので、けっこう賑わっている。

    目の前の水路を行き来する船を眺めているうちに、陽がとっぷり暮れてきた。

  • ニャウンシュエ

    ニャウンシュエ

    カローから朝7時半のマイクロバスで出発。隣席には髪にジャスミンの花を付けた太ったおばさん。ブロークンなヒンディーをしゃべる人懐っこい女性である。インド系のムスリムだそうだが、かなり混血が進んでいるようで、パッと見た感じはかなり肌色が濃い目のビルマ人といった感じだ。

    バスの終着のタウンジーまで行くとのことだが、そこに兄が住んでいるとか、日帰りでカローに戻ってくるのだといったことから始まり、しばらく耳を傾けているうちにおおよその家族構成などもわかってしまう。

    ミャンマーでは感じのいい人が多く、往々にしておしゃべりなので、ビルマ語がわかったらどんなに楽しいことだろうかと思う。

    1時間半ほどで国道からの分岐点のシュエニャウンの集落に着く。ここではタクシーやバイクタクシーがお客を待っており、インレー湖観光の基点となるニャウンシュエの町まで20分程度。

    いくつかの町を通過したのち、ヘーホーを通ってシュエニャウンに着く。ここまで1時間半くらいであっただろうか。国道とニャウンシュエに向かう道との交差点だが、ここでバイクタクシーとタクシーが客待ちしている。

    ニャウンシュエへと続く道路の左手には養魚場があり、いくつかの魚料理を出すレストランも見える。インレー湖周辺には川や池などが多いため、漁業が盛んなのだろう。

    バガン、マンダレーと並ぶミャンマーを代表する観光地だけに、マーケットの南側には外国人向けの宿やレストランなどがいくつも並んでいる。

    宿泊した宿は、ちょっと垢抜けて都会的な感じがするシャン族のご主人と、このあたりの少数民族のパラウン族出身で、あでやかな大輪の花を思わせる美しい奥さんの若夫婦が切り盛りするこじんまりしたゲストハウス。ミャンマーの他の多くの宿同様に朝食付きだが、それ以外にも暑い昼間に外出から戻ると飲み物とカットフルーツが沢山出てくるなど、なかなか気の利いたサービスをしている。

    そんなこともあってか外国人客たちに人気の宿であるらしい。中庭に日除けの大きなパラソル付きのテーブルとイスがあり、建物の中で部屋へと続く通路の手前にも座って読書したり、日記を書いたりできる共用スペースがあるなど、旅行者の溜り場としてのツボをうまく押さえている。

    自転車でゆったりと

    宿のすぐ隣に店を開いているレンタサイクル屋で自転車を借りて町中とその周辺を走ってみる。小さな町だがそれに不釣り合いなほど広々とした道路。さりとてクルマの往来はとても少ないのでのんびりと走りやすい。緑も多くてすがすがしくていい感じ。

    町周囲にいくつか運河があるようだが、商業地を通る部分では沢山の船が係留されている。湖周囲の水郷地帯への物流の起点でもあることをうかがわせてくれる。

    船でいっぱいの水路

    郊外に出る。ちょうど田植えの時期である。苗代から苗を集めている姿、数人で田植えしている姿がある。わずかに英語を話す農民によれば、昨年までは水が足りなかったが、今年は雨期入り前から雨が多く、水量充分で助かっているとのこと。

    そのまま自転車でインレー湖まで行こうと思ったが、この村から先はごく細い畦道になっており、徒歩でないと無理のようであった。諦めて町周辺の村や集落を見物することにした。どこも静かで質素ながらも清潔なたたずまい。多湿な気候で高床式の家屋は過ごしやすそうだ。蚊に対する防御は皆無という前提ではあるが。

    宿に戻ると、ちょうどカックーまでタクシーで行ってきたという日本人旅行者二人に会った。しばらくロビーで話をしてから夕食に出かける。その後、インレー湖へと続く運河のほとりにある店でジョッキに注がれた生ビールを楽しむ。

    メジャーな観光地の中のツーリストスポットであるものの、夜9時を回ると店じまいを始めている。支払いを済ませて外に出るとどこも扉を閉ざしていて深夜の雰囲気だ。

    隣国タイの観光地であれば、夜遅くまで音楽を大音響でかける飲食店があったり、いかがわしい商売の店、水商売の女性たちや客引きの男性たちなどの姿がそこここにあったりするところだが、そうした騒音・雑音の類なしに静かに過ごせる観光地というのがまたいい。

    水郷地帯なので蚊は多いものの、このあたりも海抜1300mほどの高原地帯なので、日没後は涼しく、夜は毛布にくるまって心地よく眠りに落ちることができた。

    雑貨屋の店先 帽子をかぶっておすましする幼女
  • 日帰りトレック2

    日帰りトレック2

    最初はお互いよそよそしくても、行程が進むにつれていろいろ話したりしながら打ち解けてきた。時間の経過とともに、だんだん『ひとつのチーム』になってくる。昼食を取ったあたりから、誰もがよく話すようになってきて、ちょっとした小休止のときも車座になって話が弾む。

    鉄路

    鉄路に出た。まさにこの鉄道建設のために、19世紀末から20世紀はじめにかけて多くのインド人たちがこの地にやってきたのだ。そこからしばらくは線路上を歩き、次の村に到着する。ここでは鍛冶屋もある。農耕具を作っているのだそうだ。

    ちょうどガーリックを収穫して干しているところであった。もち米で作った煎餅状のものを干してある。これを焼いて食べるのだそうだ。日本の煎餅と同じようものができることだろう。

    焼き上げる前の煎餅

    そこから少し下るとカリフラワーと豆の畑と水田があった。水量豊かで新鮮な野菜が採れる里。一瞬、理想郷という言葉が脳裏をかすめるが、そこに暮らしている人たちはそれが理想であるとは思っていないかもしれないし、山村での暮らしは楽であるはずもない。

    次の集落にたどりつく直前の坂道では、沢山のヒルがうようよしていた。今日も昨日以前のような調子でずっと雨が降っていたならば、きっと手足をひどくやられていたことだろう。

    本日最後に訪れたのはシャーマンの家。様々な生薬を配合した薬を作っているという。それで私たちはそれらを少しずつ味見する。たしかに生薬の味がする。それらが何か効果があるのかどうかは知らないが。

    シャーマン

    このシャーマンは代々長く継承されてきたものだというが、現在82才だというこの人物で途絶えることになりそうだという。彼の息子は複数いるが、誰一人として継がないのだという。

    その家のある集落を後にして再び線路の上に出る。そして他の7人とはお別れだ。さて、ここからはネパール人ガイドと二人でカローまで戻ることになる。予定では午後6時か7時には宿に帰着することになっていたが、ちょっと遅くなったようだ。

    もう陽がすっかり傾いている。じきに辺りは暗くなってしまうだろう。夕方の山の景色は美しかった。だが写真を撮る気にならないのはちょっと気が急いているからだ。治安の良好なミャンマーとはいえ、真っ暗になった山道を歩くのは決して誉められたものではない。

    人を襲うような獣が出てこなくても、足元に毒ヘビがいたところで、ボンヤリした懐中電灯の光では気が付かないかもしれない。本来ならまだ雨期入り前のはずだが、このところ雨が多いため田畑脇の道端などでヴァイパーの類の有毒ヘビをしばしば見かけたし、昼間の山道でもそうした毒蛇に遭遇した。そんなわけで夜道で一番気になったのがこれである。

    トレッキング中ではないが、町中で見かけた。雨が降ると乾いた場所を求めてニョロニョロ移動してたりする。

    ほとんどすれ違う人もなく、黙々と進む。ときおり反対側からやってくる帰宅途中の村人の姿がある。すでに真っ暗になっているのに牛を連れて帰る人たちもいた。すっかり周囲が見えなくなってから、私たちは懐中電灯を手にしているが、彼らは手ぶらだ。よく足元が見えるものだ。

    空は雲行きが怪しい。こんなところで真っ暗になってから大雨にやられたらたまらない。幸いにして宿に着くまで降らなかったが。

    しばらく進んで町に近くなってきたあたりに寺があり、そこにはネパール人がよく出入りするのだそうだ。サラスワティー寺院ということになっているが、ビルマ族、シャン族などは仏教の寺として参拝しているとのこと。

    カローの町はまだしばらく先であった。鉄路に出て枕木の上をしばらく歩く。枕木が等間隔で敷いてあればいいのだが、そうではないのでけっこう疲れる。細い川にかかる小さな鉄橋の上の線路を歩く。暗くて左右がどうなっているのかよく見えないためちょっと緊張する。水場に近いところでがチラチラと飛び回るホタルの灯が美しかった。

    ようやくカローの郊外に出た。カローホテルという政府経営のホテルの脇を通過する。20世紀初頭からの伝統を持ち、カローでもっとも古いホテルである。

    やがて裁判所等がある大きな通りに出て、モスクが見えてきた。ホテル到着は夜9時近かった。連れて帰ってくれたネパール系の道案内人に「外にメシでも食いに行かないか?おごるよ」と声をかけるが、彼は「もうおそいし、家がちょっと遠いので・・・」と夜道に消えていった。この人は宿の家族ではなく、必要に応じて呼ばれる日雇いの案内人である。

    デイパックを部屋に置き、近所のネパール食堂に行く。疲れた身体と空っぽになった胃に温かい食事が心地よい。ビールの酔いもまた最高だ。

    <完>

  • 日帰りトレック1

    日帰りトレック1

    この宿ではトレッキングのツアーをアレンジしている。カローから2泊3日でインレー湖に出るコースを勧められた。単に明日それで出発する他の人たちがいるからなのだが。しかしちょうど大きな低気圧が来ており、しばらく天候が非常に悪い。しばしば豪雨がやってきていたため日帰りにすることにした。他の人たちの行程の初日夕方で離脱する形である。

    この日のトレッキングに参加するのは、カナダ人4人、フランス人2人、ロシア人が1人、加えて日本人の私である。道案内は宿の女主人の息子と、手伝いのネパール系の男性。

    一行は出発する。町の西側に出てしばらく行くと竹で造った本尊のあるお寺。このあたりまではカローの町の郊外だが、そこから先は農村風景が広がる。さらに進むと、ところどころに少数民族の村が点在する山間の景色となってくる。

    この時期暑いばかりがミャンマーではない。見渡す限りの山岳風景の中で、あまり高度のある山は見受けられないが、オゾンをたっぷり含んだ空気と涼しい風が心地よい。途中幾度か驟雨に見舞われるが、そう長い時間続かないのは幸いであった。

    ちょっと小休止

    途中パラウン族、ダーヌー族といった少数民族の村々がある。ガイドブックにヴューポイントと記されているところの少し先にはネパール系の人が経営するトレッカー相手の簡単な食堂がある。

    本日のランチ

    南アジア系の人々の多くは町中で商業活動を営んでいたり、労働者として働いている人が多いようだが、このあたりの山中で耕作に従事しているネパール系の人々もけっこういるそうだ。この食堂の人たちも本業は農耕である。

    山間の耕作地では茶畑がいくつもあった。高原の冷涼な気候が栽培に適しているのだろう。そうした中にたまにごく少量のパイナップルが植えてあったりもするが、こちらは商業用ではなく自家消費目的なのだろう。

    茶の苗木が植えられている中にパイナップルもいくつかあった。

    ダーヌー族の村に行く。外国人たちの姿を見つけた子供たちが大勢駆け寄ってくる。家々では豚も買われている。立ち寄った村は地形によりふたつの部分に分かれている。

    子どもたちと案内人のR氏

    村の最初に訪れた部分では、茶の乾燥場があった。基壇部分の下では何か燃料、おそらく木を燃やしているはず。上の部分が熱くなっており、そこに広げている茶歯が乾燥されるようになっている。

    茶葉の乾燥場

    近年、村の暮らしぶりはよくなってきているとのことで、付近の川で簡単な水力発電が行なわれるようになったことから、ささやかながら電気が来るようになったとのこと。裸電球を灯すのがやっとで、他の電化製品を使用できるほどの規模のものではないそうだが。

    また付近で石灰岩が豊富に採れるという事情から、最近はコンクリート・ブロックで家屋を建てるケースが多くなっているとのことだ。

    一行は村長の家に向かう。伝統的な高床式の木造家屋である。どこからか年配女性たちがやってきて手工芸品を見せる。その中には嫁入り前の女性のみが着用する衣装がある。飾りのついた頭飾りがそれである。結婚してからはターバンをまとうことになっているそうだ。

    アレやコレやといろんな品々を見せてくるが、特にこちらが買う気がないことがわかると、彼女たち同士でのおしゃべりに興じている。もう孫がいるであろうと思われる年齢の女性は、嫁入り前のそうした衣装を付けてジッと鏡に見入っている。この人たちにも確かにそういう時代があったのである。

    花嫁姿?の元乙女たち

    高床式の家の中は風通しがよくて気持ちがいい。ちょっと磨き上げたら相当居心地の良い部屋になりそうだ。少なくともさきほど見たようなコンクリート・ブロックの家屋よりも健康的だと思われる。しかしコンクリート・ブロックであるがゆえに、その上に漆喰を塗り、さらにはペンキで仕上げて近代的な部屋にすることもできる。それにより長い年月維持できるだろう。どちらが良いのかなんともいえないが、少なくともこれを選択している人たちにとっては、それなりの合理的な理由があるに違いない。

    案内人パンジャービー系R氏と背後はネパール系のR氏

    そこからふたたびしばらく山道を歩く。ときおり芝生状にごく低い草が茂った開けた場所がある。周囲の山並みの眺めを楽しみながら歩く。

    <続く>

  • カローのスィク教徒の宿

    カローのスィク教徒の宿

    カローの町

    ミャンマーのシャン州内のヒルステーションとして知られるカローにやってきた。標高が1,300mくらいあるため、暑季でも充分涼しくエアコンは不要だ。年間で最も気温が上がる時期であるが、日中でも地元の人々の多くは長袖のシャツを着ている。夕方以降は気温が下がるため薄いジャケットが必要になる。

    田舎町だが、インド・ネパール系の南アジアをルーツに持つ人々の姿が少なくない。金色のパゴダがところどころにあることを除けば、インドの北東州に来ているような気がしてしまう。

    宿はスィク教徒家族の経営である。ロンリープラネットガイドブックの宿の紹介部分で「our pick」という推薦マークが付いているので、どんなところかと思って来たが、建物は木造で室内も壁は木材、天井は竹を編んだものであしらってある。バルコニーも広く、いかにも西洋人ウケしそうな感じのエコノミー宿である。

    年齢50代くらいの女主人と妹はかなり流暢なヒンディーを話すが、この家族に限らずカローの町ではこのあたりの世代がちょうどそのボーダーラインのようだ。3人の息子たちはみんなトレッキングガイドでもあるだが、あまり理解しない。家族内での会話はビルマ語であるとのこと。

    宿オーナーのパンジャービー家族

    彼らの先祖、女主人の祖父がインドから来緬したのは1886年だという。上ビルマがイギリスにより併合され、当時のビルマそのものが英領インドの行政区域の一部として組み込まれた直後に、パンジャーブ州のルディヤーナー近郊のマーナー(माणा)というところから、プラタープ・スィンという男性が妻のシャンター・カウルを伴って、鉄道建設のコントラクターとして来緬したのだそうだ。すでにインドの親戚との接触は途切れているが、所在さえわかればそうした遠戚に連絡を取ってみたいと思うとのこと。

    話を聞いていて気が付いたのだが、英領期に父祖が渡ってきた後、インド本土との往来がほとんどない人々にとって『パンジャーブ』とは、今私たちが認識しているものとはかなり違うようだ。それはしばしば19世紀末のインド地図の世界で、現在のヒマーチャル・プラデーシュもパーキスターン領となっている西パンジャーブも彼らにとってはひとつのパンジャーブであったりする。同様のことがヒンドゥスターン平原に先祖の起源を持つインド系ミャンマー人の言うU.P.にも言える。現在のウッタル・プラデーシュではなく、往々にして英領期のユナイテッド・プロヴィンスィズなのだ。

    近くにはネパール系の家族が経営しているレストランもある。ここの家族の来緬時期はだいぶ時代が下った第二次大戦中とのこと。歩いてグルッと回ることのできる小さな町だが、タミル系のファミリーとも出会ったし、町中にあるなかなか立派なモスクに出入りするのもやはり亜大陸系のムスリムたちだ。

    1947年の印パ分離の悲劇があまりに衝撃的であったがゆえに、これに関する文献、小説、映画等は沢山あるが、これに先立ち1937年に起きた『もうひとつの分離』であるビルマ(ミャンマー)のインドから分離して英連邦内のひとつの自治領となったこと、さらなるナショナリズムの高揚が1948年イギリスからの独立へと導き、さらには1962年のクーデター以降は多数派であるビルマ族主体の国粋化が進んでいく。

    こうした中で、当初はインドの新たなフロンティアとして約束されていたはずの地で、立場が次第に苦しくなっていく中、いつの間にかそこはもはやインドではなく、さらに英国が去った後、彼らは抑圧者の手先であった人々として、また出自の異なるヨソ者として遇されるようになっていく。

    そうした世相の変化の様子は、アミターヴ・ゴーシュの小説『THE GLASS PALACE』にも描かれているところであるが、この国における亜大陸系の人々の家族史を掘り起こしてみると、興味深いものが多いことと思われる。

  • MNL (Myanmar National League)に日本人選手

    MNL (Myanmar National League)に日本人選手

    ヤンゴン市内で、ミャンマーのプロサッカーリーグMNL (Myanmar National League)ヤンゴン・ユナイテッドFCグッズ販売店を訪れた。ちょうどJリーグのそれのように、タオル、カレンダー、Tシャツにゲームシャツなどといったものが陳列されている。

    記念にゲームシャツを一枚購入。欧米による経済制裁下の状況を反映してか、アディダスやナイキといったブランドの製品ではなく、隣国タイの大手スポーツウェアメーカーFBTが生産したものだ。高品質を誇る企業で、クオリティは欧米のトップブランドのものと比較しても遜色ない。

    ところで、以前『サッカーと軍政』と題して取り上げてみたMNLでは、今年1月からヤカイン州のラカプラ・ユナイテッドFCというチームに伊藤壇選手が在籍している。MNL初の日本人プレーヤーであるそうだ。

    ベガルタ仙台に在籍していたことのある選手で、これまでアジア・オセアニアの各地でプロチームでプレーしてきた。Indo.toでは昨年8月にI リーグでプレーした元Jリーガーとして取り上げたことがある。MNL入り前にはインドのゴアを本拠地とするチャーチル・ブラザースに所属していた。

    プロサッカー選手としてアジア・オセアニアを渡り歩く伊藤壇選手は日常をブログで公開している。彼にとって12か国目となる国ミャンマーでの活躍を期待したい。

  • チャット高

    チャット高

    とりあえず両替と食事のためにダウンタウンのボーヂョー・アウンサン・マーケット界隈へ向かう。

    以前は引く手あまたであった外貨両替だが、今回はかなり事情が違っていた。普段ならば随時ドル買いをしている貴金属や宝石等を扱う店で尋ねてみると、両替はしませんと即座に断られたり、レート調べると言ってどこかに電話してから「今日はやめておきます」などと言われたりもした。

    昨年以前は1米ドルあたり1,000 ~ 1,100チャット台であったと記憶している。それ以前は1,200 ~ 1,300チャット台の時期もあった。ところが現在は820 ~ 840前後くらいで推移しているようだ。

    あまりドルを歓迎するムードではないことにいささか驚きながらも、とりあえずまとまった金額のミャンマー通貨チャットを手にした。

    ところで両替のヤンゴンにおける市中レートを日々更新して伝えているウェブサイトもあり参考になる。

    Today’s Market Rates

    このチャット高については、宿にガサッと置いてあった週刊英字紙ミャンマータイムスのひと月近く前の古新聞に興味深い記事を見つけた。今年に入ってから、ミャンマーでは空前のドル余り状態にあるのだという。

    旧英領ながらも、英語で読めるきちんとした現地メディアがほとんど不在といえるミャンマー(New Light of Myanmarという英字日刊紙はあるものの、中身は政府広報紙プラス新華社通信からの配信記事とインターネット上に掲載の各種メディアからの転載)で、唯一の英文によるクオリティ・ペーパーである。

    政治、経済、エンターテインメントその他各方面につき、なかなか興味深い記事と分析が掲載されている。日刊紙ではなく週刊というのは寂しいところだが。

    『ドル余り』といっても、常時外貨準備高不足および加えて先進国による経済制裁という苦難を強いられてきたこの国である。是非については色々取り沙汰されている昨年11月に実施された総選挙結果により『文民政権』が発足したことを受けて、近々経済制裁が解除されるのではないかという期待から、国外からの投資が急増しているらしい。

    加えて、今年1月から2月にかけて国有資産の大規模な売却があり、これについて海外から9億ドル近い大量の資金の流入があったと書かれていた。これが本当であるとすれば、外貨準備高20億ドル少々の国に、いきなりそれの半分近くの外貨が雪崩れ込んだことになる。

    具体的にどの国のどういった方面の資金が流入しているのかについては触れられていなかったものの、近年のドル安という外的要因に加えて、ミャンマー国内へのドル流入の急増という内的要因が作用していることはわかった。チャット高により、輸出関連産業は打撃を受けており、とりわけ10%の輸出税が徴収される国外市場向けの製造分野への投資には急ブレーキがかかっている状態であるとのことだ。

    そんなわけで外国人旅行者を宿泊させる許可を得ている宿や観光地の入場料、入域料といったものは原則ドル現金払いであるのだが、自国通貨ベースにすると著しく目減りしてしまうのを避けるためか、チャット払いを選好するところもある。従前の逼迫した外貨事情によるものであるものとはいえ、本来ミャンマー国内での支払いは、同国通貨チャットでなされるべきものなのだが。

    ここしばらく毎年ヤンゴンを訪れているが、旧市街で植民地時代に造られた建物の取り壊しと新しいビルの建設が続いており、街並みは確実に変化してきている。

    昔は苔むしたコロニアル建築が多い河港の街であることから、コールカーターのそれを連想させるものがあったが、今はそうした景観にシンプルなコンクリート仕上げのビルが多く混じり、中国ないしはタイ等の東南アジアの他の国々の街を思わせるものがある。

    かつて英領インドの一部を成していたこともある植民地時代の残滓を、今の時代になってようやく脱ぎ捨てようとしているかのようである。また今のミャンマーに影響を与えている国はどこであるかを示しているともいえるだろう。

    現在のチャット高には、各国の経済界から『東南アジア最後のフロンティア』市場としての大きな期待感があるのだろう。果たして経済制裁が解除される日が近いのかどうかについては何とも言えないものの、それでもこの国が大きな節目を迎えつつあることは間違いはずだ。

  • 放射能検査

    バンコク出発から1時間ほど経つと、ヤンゴン到着の機内アナウンスが流れる。郊外を旋回しながら高度を下げていく中、地上には燦然と黄金色に輝くいくつかの仏塔が見えてくる。まもなく飛行機はヤンゴン国際空港に着陸する。2007年に完成した国際線ターミナルビルは、バンコクのそれとは比較にならないほど規模は小さいものの、きれいでモダンな造りである。

    イミグレーションの列に並ぶ。ヤンゴンに乗り入れている航空会社は近隣国のものばかりであり、機材も大きなものは使用されていない。発着便数も少ないため、そう長く待たされることもなく、実に気楽な空の玄関口だ。

    出迎え等の人々がたむろする待合室からは、大きなガラス張りになっている室内がすべて見渡せる。入国審査、機内預け荷物が出てくるターンテーブル、カスタムズ等を通過して出口にやってくる人々の姿がよく見える。すぐ横に隣り合う旧態依然の国内線ターミナルとはずいぶんな違いだ。

    私の順番が来て係官にパスポートを差し出すと「向こうに戻って放射能検査を受けてください」とのこと。今年3月11日に発生した東日本大震災により、福島第一原子力発電所で深刻な事故が起きたことを踏まえての措置である。

    白衣を着た係員が私の身体全体をなめまわすように測定器を当てる。もちろん何の反応も出ないのだが。もし放射能の高い数値が出たら入国できないのかと尋ねると、「どうなんでしょうねぇ。ちょっと私もわかりません」と屈託のない笑顔を見せてくれる。

    現場の人たちにしてみれば「わからないけど、上のほうからそういう指示が出たからやっています」というわけなのだろう。居住地ではなく国籍で検査の有無を決めているのがおかしい。たとえ米国在住で長らく自国に戻っていない日本人が「あなたは日本人だから」と検査させられたり、千葉県在住のカナダ人はチェックされなかったりという具合なのだ。

    ともあれこれほどの規模の原発事故を経験した国は他には旧ソビエトのみ。世界中で大きなパニックを呼んだチェルノブイリの事故と同じレベル7という最大級のカテゴリーに区分されていることもあり、不安に思われるのは仕方ないだろう。

    バンコクを出るときに買ってみた週刊の邦字新聞『バンコク週報』には、在タイの日本食レストランの客離れによる苦戦が伝えられている。また食品のみならず工業製品等も検査のため海港や空港等で長いこと留め置かれるという事例が多々あることが伝えられている。

    今や日本産、日本製という『ブランド』が安心と品質のシンボルではなく、『放射能にまみれている・・かも?』と、かなりの疑念を持って見られるようになっているのははなはだ残念である。

  • バーングラー詣で

    長らく世界の工場として様々な外国企業の生産活動の拠点としての立場を欲しいままにしていた中国だが、昨今では賃上げ圧力が高くなり、ストが相次いで操業に支障を来すなどといった例が頻発している。

    その結果、アパレル製造業等を中心としたバーングラーデーシュのブームが続いていることはご存知のとおり。特にユニクロを運営するファーストリテイリングが進出を決めてから更に拍車がかかったようだ。 そうした企業等を対象にした視察ツアーを組む会社もある。

    人件費は中国よりもかなり低めとはいえ、インフラ事情は中国と比較にならず、法体制の不備も指摘されているところだ。加えて高い政治意識と盛んな組合活動を背景に様々な理由でハルタールが頻発するお国柄。それでも外資は次々に同国にやってきては事業を展開していくはずだ。

    世界最大級の被援助国が世界の工場に変身する日は遠くないのかもしれない。その過程の中で明るいニュースもあれば、ネガティヴな側面も出てくるのだろう。東ベンガルの大地でも人の世の移ろうスピードが今後ずいぶん速くなっていくことだろう。

  • MAI (Myanmar Airways International) 成田空港に乗り入れる日はそう遠くない?

    MAI (Myanmar Airways International) 成田空港に乗り入れる日はそう遠くない?

    1996年から2000年まで関空からヤンゴンまで直行していた全日空のフライトが休止となって以来、日本からミャンマーへダイレクトの便は長らく存在しなかった。

    そんな中、この春先にカンボジアのスィアム・レアプ、そしと中国の広州へと新規乗り入れを果たしたMAI (Myanmar Airways International)が近い将来ヤンゴンから成田への乗り入れを計画しているそうだ。

    同社は長らく国営航空会社として知られていたが、同国を代表する民間銀行のひとつKANBAWZAが昨年2月に80%の株式を取得し、残りの大半を政府が保有という形になっている。

    昨年11月に実施された総選挙により『民政移管を果たした』として、先進国による経済制裁の解除を熱望するミャンマー政府だが、同国が加盟するASEAN自体も同国の国際社会復帰を期待している。そうした中で、ミャンマーは2014年にASEAN議長国となることを希望する意志を表明している。これによって政権の正統性を示すとともに積極的な外交への足掛かりとしたいのだろう。

    ミャンマーの『民政移管』については、軍人が制服を脱いだだけとの批判もあるものの、ともすればいくつもの『小さな国々』に分裂しかねなかった独立後の歴史の中で、同国の統一を維持するために国軍が果たしてきた役割は大きかったことは無視できないため、そのすべてを否定することはできないと私は考えている。どこの国にも独自の事情や歴史背景があるものだ。

    インドの北東諸州の延長上にある(ナガ族のようにインドとミャンマーにまたがって暮らす民族もいる)民族と文化のモザイクといえる地域だ。東南アジア、南アジアそして中国といった三つの異なる世界がせめぎ合う土地であるだけに、ASEANの他国とは比較にならない固有の不安定な要因を抱えている。

    それはともかく、国際社会への飛躍を画策しているのは政府だけではない。1946年にUnion of Burma Airwaysとして設立され、1972年にBurma Airwaysに改称、そして1993年にMyanmar Airways Internationalとなって現在に至るまで、ナショナル・フラッグ・キャリアとしての長い歴史を持つ航空会社も同様だ。

    同国を代表する航空会社でありながら、これまで国外の乗り入れ先といえばシンガポール、クアラルンプル、バンコクといったASEAN近隣国首都に加えて、週一便でインドのガヤー(こういうフライトがあるのは面白い)のみという寂しいものであった。

    それが先述の最近就航したスィアム・レアプ便、広州便に加えて、今後は東京、ソウル、デリー、ドゥバイ、ジャカルタ、デンパサールといった街への乗り入れという積極的な攻勢をかけようと画策しているというから只事ではない。『民政移管』をテコとしてなんとか飛躍を図りたいという政府とビジネス界双方の強い意志の表れのひとつだろう。今後ミャンマーはこれまで以上に大きく変わる予感がする。

    それが同国の国際舞台への復帰と多国間での盛んな経済交流を生むことになるのか、それとも先進国不在の間に積極的に進出してきている中国の草刈り場のままでいることになるのか、それは日本を含めた先進諸国の足並み次第ということになる。