
ミャンマーのマンダレー近郊の町アマラプラにあり、よく写真で紹介される高い橋桁の木造橋である。インドの作家、アミターヴ・ゴーシュの小説『The Glass Palace』の表紙のイラストにもあしらわれており、一度機会があれば訪れてみたいと思っていた。

グーグルでの遠景
大きな地図で見る
グーグルでの拡大図
大きな地図で見る
下は河かと思ったが湖であった。Thaungthaman湖というもので、乾季には橋の下の大部分が畑になっているが、雨季には水で一杯になるのだという。橋が建設されたのは1849年ということで、1885年にマンダレーが英領化されるよりもさらに前のことである。そしてチーク材で出来た橋として世界最長(1.2 km)ということになるそうだ。

河辺に広がる牧草地や田園風景といったのどかな景観はもちろんのこと、そんな橋が今もこうして人々やモノの行き来に役に立っており歴史的な価値もまた大きい。橋の途中にはいくつかの東屋があり、物売りたちがお客を待ち構えていたり、涼んでいたり昼寝していたりする人たちの姿がある。



だが『橋』としての役割のみについて言うならば、ちょっと考えさせられるものがある。ここを通るのは大人だけではない。子どもたちも通るし、老人だって通る。また夕方以降暗くなってから通らなくてはならない場合だってあるだろう。橋から落ちて命を落とすかどうかはやや微妙なところだが、確実に大怪我をする。場合によっては死んでしまうだろう。雨季で水で一杯のときには溺死する可能性も高い。
ミャンマーに限ったことではないが、日本のように国民がほぼ誰でも泳ぐことができる(程度の差はあっても)という国はあまり多くないのだ。ただし両端の入り口のところにゲートのようなものがあったため、ある一定の時刻に締め切り、朝決まった時間に開けるようになっているのかもしれないが。


橋を渡りきったところには二軒ほどの食堂がある。軒先では調理したカニを売っていた。淡水のカニにしてはけっこう大ぶりで上海蟹くらいのサイズはある。茹でて真っ赤になっているカニの甲羅は外してあり、カニミソがたっぷり詰まっていて旨そうだ。小エビのかき揚げも売られており食欲をそそられる。
近くには寺や学校もある。かなり規模の大きな集落になっているようだ。

カテゴリー: greater india
-
U Bein Bridge
-
彼方のインド 5
ヒルステーションとはいえ、また暑季とはいえ、観光客でごった返すインドのそれとは違い、ピンウールィンは英領期の古いものがほどよく残っている。
また高原とはいってもほぼ平坦な土地であることから、自転車で巡るのも苦にならず、休暇を過ごすにはもってこいの土地であった。
ピンウールィンはさておき、ミャンマー全般に言えることだが、またミャンマーの人々に対して失礼かもしれないが、ただインドの隣の国であるということのみならず、インドの北東部にいるかのような気がすることがある。
モンゴロイドの多い(州によってその度合いは様々だが)北東州のすぐ東に位置しており、インド平地からの移民も多いこともある。加えてインドの様式を取り入れた植民地建造物であったり、旧英領各地でも今でも見られるゼブラに塗り分けられた道路縁石であったりするのは、かつてはインドと合邦していたという経緯のためである。
ミャンマーの最高学府ヤンゴン大学は、1878年にカルカッタ大学を構成するカレッジの中のひとつとして創設されている。やがて独立したひとつの大学としてラングーン大学として再構成されるのだが、イギリスから独立してからもしばらくの間は、東南アジア随一の名門大学として内外から高い評価を受けていたようだ。
すぐ東のタイに較べて地理的に近いこともあり、文化的にインドから与えられた影響もかなり強いことは言うまでもない。町中には、同様に本来インドではなかったとはいえ、多かれ少なかれインド文化の影響を受けてきたモンゴロイドの人たちが暮らすインド北東州と共通するたたずまいがあるような気がするのだ。
仮にイギリスのビルマに対する進出がもっと早い時期から始まっていたら、あるいはビルマ族が人口規模や文化的なまとまりを欠いていたならばどうなっていただろうか。彼らを除けばかなり人口規模の小さい幾多の民族から成るビルマは、現在のインド北東州のうちのいくつかで今でも武装闘争が続いているのと同じように、不満を抱く人々が少なくないながらも、インドという大きな国家の中に従属していたかもしれないとも思う。
ミャンマー北西部サガイン管区のインド寄り地域には、インドのナガランド州同様にナガ族が生活している。よく民族のモザイクと表現されるインドだが、そのインド世界の外延部にあたる北東州と合わせて、印緬国境を越えて広がる多民族・多文化の回廊地域として捉えることもできるのではないかと思う。
各民族による自治要求をめぐる運動が活発であることも共通しており、今でこそミャンマーも各武装勢力との和解も進んできているものの、かつては『ラングーン政府』と揶揄された時代もあった。ミャンマー国内で概ねビルマ族がマジョリティを占める地域は管区(Division)、その他の民族の勢力が強い地域は州(State)と色分けされているようだ。
インド北東部、ミャンマーともに中央の政府によりひとつの国家として治めていくのはなかなか難しい地域でもあるようだ。 -
彼方のインド 4
ピンウールィンの駅舎の前にある線路を超えた先には鉄道車庫や貨物用の引き込み線などがあった。そのあたりは鉄道関係者の住宅地域でもある。
町から見て線路向こうのほうにイギリス人墓地があるとのことだが、それらしきものは見当たらない。通りがかりのインド系とおぼしき男性にイギリス人墓地について尋ねてみる。北東へ走る線路の向こう側に見える大きな教会の脇にあるとのこと。
そこは今でも現地のクリスチャンが亡くなれば埋葬されている場所とのことで、今では特にイギリス人墓地ということではないらしい。もちろん現在もピンウールィンに数多く暮らすアングロ・インディアン、アングロ・バーミーズの人々が亡くなるとそこに葬られるようだ。

自転車で出かけてみると10分くらいで着いた。カルカッタのパークストリート墓地のような立派なものではなく、無数の十字架が並んでいた。ただしよく見てみると墓標のあるものもあり、1877年に豪州で生まれた人のものもある。この人は海外領出身のイギリス人とであるとみて間違いないだろう。独立後もここに残ったらしく、1963年に亡くなったことが記されている。

その後、昨日同様にクリスチャン墓地に行く。場所はかなり広いが、あまり大きな墓標はない。ひどく崩れてしまっていたり、文字が読めなくなってしまっているのも多い。
しかしここは英領としての歴史さほど長くなかったこと、植民地としての格もインド本土の主要な都市と較べて高くないため、英国人墓地といっても、植民地史上あまり著名な人物は埋葬されていないものと想像できる。
墓地のあまりに荒涼とした様子が不憫であった。

-
VISA ON ARRIVAL@MYANMAR
ミャンマーのヴィザに関するルールが一部改定されていることに、5月1日から変更されていたことに今更ながら気がついた。それはヤンゴン・マンダレー両空港における、ちゃんとした『オン・アライヴァル』ヴィザ導入である。
これまで、ミャンマーのヴィザは事前にわざわざ大使館に出向いて取得しなくてはならなかった。あるいは『アライヴァル・ヴィザ』なる制度があり、事前にミャンマー現地にあり、当局から取り扱いの指定を受けている旅行代理店を通じて申請、到着時に『ヴィザを受け取る』というものであった。後者については入国の1か月前くらいには申請しなくてはならなかった。時期によっては運用が停止されていることもあったし、団体客だけという時期もあった。
どちらにしても入国するに先立って準備をしなくてはならず、『ちょっと時間が出来たから旅行に出よう』と突然思い立ったり、滞在先(主にタイ)で、『ミャンマーに行こう!』と気が向いた翌日あたりに飛んだりするのはなかなか難しかった。そうでなくとも事前に大使館に二度も出向く(申請と受領とで)のは面倒である。
ASEANの大半の国々では日本を含めた多くの先進国の人々に対して、一定期間の観光目的での滞在についてはヴィザ免除ないしは入国地点で到着時にヴィザ取得が可能という措置を講じていることもあり、特に関心のある人でなければ、あまりミャンマーへ足が向かなかったのではないかと思う。
基本的には空路からの出入国(ごく一部例外的な部分もあるが)になること、まだミャンマーに乗り入れる航空会社が少ないこと、それも周辺国からのフライトしかないことなど、観光客誘致については障害となる部分は少なくないとはいえ、今後は隣国でフライト数が多く、チケット代金も低廉なタイを経由しての訪問が特に増えることだろう。
またインド滞在中でコールカーターからヤンゴンを往復するという利用もあるかと思う。ただしインドのヴィザに2ヵ月ルールが導入されたことがネックにはなる。マルチプル・エントリーのヴィザを所持していてもそのまま出国してしまうと2ヵ月間は入国できなくなってしまう。インドのヴィザ取得時に第三国とインド間で出入りする予約の入った航空券と旅程表などを提出することにより、それよりも短い期間でインドに戻ることは可能になるようだが。
ヤンゴンあるいはマンダレー到着時のミャンマーのヴィザ取得条件等については、Myanmar P.L.G. Travel & Tours Co. Ltd.のブログ『PING LONG 現地生情報』をご参照願いたい。
ヤンゴンで日付をまたいでの乗り換え需要もあるかといえば、そうではないようだ。現在までのところヤンゴン空港に離着陸しているナショナル・フラッグ・キャリアのMyanmar Airways International (MAI)のフライトは、バンコク以外にはクアラルンプルとシンガポール便のみと寂しい限り。
ずいぶん長きにわたり経済的に停滞している国への乗り入れ需要が少ないこともあるが、、欧米諸国等による経済制裁下にあるということも大きい。特にアメリカの場合、ミャンマー製品を自国に輸入することさえ禁じており、例えば旅行者が現地で購入した民芸品のような他愛のないものであっても、米国内に郵送することは不可となっているようだ。
ミャンマー政府は、とうの昔にビルマ式社会主義という国家理念に基づく計画経済を放棄して市場主義経済化を推進、様々な分野における民営化を積極的に実施してきたのだが、この国にとって欧米という大きなマーケットが存在せず、それら先進国からの直接投資を得る機会もまず無いといった、政治的・人為的な要因で浮上の機会を失っているという側面もある。
そうした中でミャンマーと積極的に経済交流を深めている中国は独り勝ち状態で存在感を高めているというのは皮肉である。
さて、この新しいアライヴァル・ヴィザの制度が今後安定して運用されることを期待するが、今後この国を訪れる人々の数がどのように推移するのかについても注目していきたい。
※彼方のインド 4は後日掲載します。 -
彼方のインド 3
どこかの教会からカランカランカランカランと長く連続する鐘の音が聞こえてくる。植民地時代からずっと続いてきたものなのだろう。はるか彼方から渡ってきたイギリス人たちが去ってからも、彼らがこの地に残したクリスチャンたちの間でその信仰はしっかりと根付いているのだろう。

宿で自転車を借りて市内散策。まずはPURCEL TOWERという時計台のあたりへ。ここは賑わうマーケットとなっている。屋根の付いた大きな市場もあるし、その脇の道路では様々な食べ物の屋台が店を開いている。

このあたりにはインド系の人々も多く、いくつものヒンドゥー寺院やモスクがある。通りを数台のバイクにまたがったスィク教徒の若者たちの姿もある。インド系の人が経営する安宿もあるようだ。そんなわけでこのエリアではインド系の人、とりわけ一軒の店を構えている人物相手ならば、かなり普通にヒンディーが通じる。


そうした人々が切り盛りする店のひとつに入って腹ごしらえする。ローティーとともにサブズィーやダール等のおかずのターリー。客席で注文を取る男も厨房で大汗かいて働いている人も北インド平原部で見かけるような風貌の人たちであるだけに、インドのダーバーと同じようなものが出てきたが、口にしてみるとかなり砂糖の甘みを感じることに、ここが東南アジアであることを感じる。

食事を終えてから自転車にまたがると、サドルから突き出ていた金具にズボンが引っかかって裂けてしまった。メインストリートを渡ったところにある屋根付きの市場に行く。インドにしてもミャンマーにしても、身に付けるものが壊れても、修理屋がすぐそこにあるのはありがたい。
いくつかの仕立屋があった。働いているのは若い女性が多かった。大汗かいて湿った、ところどころ塩を噴いたようになっているズボンを託すのは気恥ずかしいため、どこかオジサンのやっているところはないか?と思えば、ほどなく見つかった。ロンジー(インドでいうところのルンギー)を借りて、ズボンを預ける。
店の人、Sさんはかなり流暢なヒンディーを話し、英語もなかなか上手な感じである。話すこともなかなか知的で、町角の仕立屋さんというよりも学校教師のような雰囲気がある。ズボンが直ってからもしばらく彼の話を聞いていると、もうひとりインド系の人がやってきた。このKさんは長らくヒンディーを教えることを生業してきたのだという。ミャンマーの学校教育でヒンディーが教えられることはないのだが、個人的に家庭教師や講師として雇われて教えてきたそうだ。
同胞が集中しているコミュニティで生活していれば自然と身に付いていくものとはいえ、そうではない生活条件の人もある。またミャンマーでのヒンディーは生活や仕事の中での口語が中心である。ヒンディーによる報道等のメディアは原則として禁止されているし、文芸活動も無い等しいだろう。そんなわけで、ビルマ語の読み書きは問題なく(この国の識字率は89.7パーセント。ベトナムとともに後発発展途上国の中では突出している)ても、ヒンディーによる読み書きはできないということが珍しくないようだ。それがゆえにヒンディー教師の需要があるらしい。

SさんもKさんもビハールからやってきた移民の四代目にあたる。前者はムスリムで後者はヒンドゥー。どちらも先祖が農業移民としてやってきた。今も昔もビハールは無尽蔵の労働力の供給基地のようだ。多くの場合、数世代経ると先祖の故郷の土地の名前は知っていても、すでに遠縁となった現地の親戚との繋がりは途絶えてしまうが、驚いたことKさんは2000年に訪印して曽祖父が生まれ育ったガヤー近郊の村を訪問したのだという。
たとえその言葉をヒンディーと呼んでもウルドゥーと呼んでも、そのコトバで話すことがやけに歓迎され、店先で「これ試してみてよ」とミターイーを渡されたりもする。そのコトバがインドではずいぶん隅に置かれているのとはかなり違うようだ。
もちろん本場同様、社会的に高いステイタスを持たない普段着のコトバであるにしても、『本場』ではごく当たり前で誰もが話す普遍的な言葉であるのに対して、ここでは、ビルマ語の大海の中で、自分たちのコミュニティ内でしか通用しない利便性の低い言語ではあるものの、裏を返せばコミュニティの結束や文化・伝統を維持する民族語としての誇りがあるがゆえのことだろう。
インド系とはいっても、圧倒的大多数はインドを訪れたことがない。それでも強い関心はあるようだ。デリーやムンバイーの街の様子、現在のラクナウーやパトナーがどんな具合かといったことを少し話すだけで、矢継ぎ早に様々な質問を受けることになる。
独立後の政策により、とりわけ1960年代以降は、行政・教育等のビルマ語化が強力に推し進められてきたこの国では、意外なほど英語が通じない。また私はビルマ語はまったく知らないので、旅行中は往々にして無言の行みたいになってしまう。それだけにビルマ語の大海の中に点在するインド空間では人々の話がいろいろ聞けて和む。
メイミョーへのインド系移民の出身地の最たるものは、やはりU.P.こと英領時代のUnited Provinces(ウッタラーカンドが分離する前のウッタル・プラデーシュととほぼ同じ範囲)とビハールが多いそうだ。カマルさんの曽祖父はビハールのパトナーからやってきた人のことで、鉄道建設関係でも、兵士でも役人でもなく、農業移民だったとのこと。今も昔もビハールは労働力の供給基地みたいな感じである。
他にも祖父が鉄道員だったとか、軍人であったという人たちの話も聞いた。1857年の大反乱以降、それ以前は兵士のリクルート先として比重の高かったベンガルを中心とする東部から、パンジャーブを中心とする西部ならびにネパールのグルカ兵へと比重が移っていったため、後者の場合はそれらの地域を起源とする人たちが多かったのである。

根掘り葉掘り尋ねたりしなくても、なぜあなたがたがここに?と問うだけで、人々は自らの家族史を語り始めるので聞いていてなかなか面白い。
英領期のインドからの移民の送り出し要因、出向いた先の引き寄せ要因などはいろいろ研究されている。しかしながらここに渡ってきた人々の日々の生活と収入の手段の変遷、何割くらいの人々が契約・赴任期間満了等で出身地に戻ったのか、故郷に帰ることなくここに定着した人々がそれを決めた理由、現地定住以降のコミュニティ形成、故郷との連絡状況、婚姻や通過儀礼等、社会・経済的立場等々を調べると、いろいろ興味深いものが出てくるのではないかと思う。
20世紀初頭には、ラングーン(現ヤンゴン)の人口のおよそ半分はインド人たちが占め、当時のビルマ最大の都市は文字通り『インドの街』であったこともある。その他ピンウールィン、シットウェー、パテインその他インド系の人々が多数定住しているところは多いが、1937年の英領インドとの分離、1948年のイギリスからの独立、1962年の軍事クーデターいう三つの大きな節目はそれぞれインド系の人々に不利に働いたため、多くの資本や人々がこの国を離れてインドないしは第三国へ移動している。
インドの一部を成していた時代には、様々な分野の労働者以外に、行政の中堅・下級官吏の多くをインド人たちが占め、軍の将兵の多くもインド人たちであったが、その後彼らはそうした地位から追われることとなり、行政・政治の分野で支配的な立場から姿を消すこととなった。そんなわけでインドの年配者の中で『昔、ビルマで生まれ育ちました』という人に今でもごくたまに出会うことがある。
せっかくミャンマーまでやってきて、こんなことに関心を持つのもなんだが、やはり「一時期インドの一部を成していたビルマ」である。

先日取り上げてみた Candacraigをはじめとするヘリテージ・ホテルに転用されたもの以外にも、往時に建設されたバンガローはいくつも現存している。また政府の建物にも英領期のくたびれたものが多く見られる。
発展から取り残された国であるがゆえに、インドのヒルステーション全般と比較して、植民地期のものがよく残っているといえる。そうしたものが取り壊されることなく、また最近出来た新しい建物に規模の点でも圧倒されることなく、豪壮な威厳を保っていることも特徴であるといえる。しかしそうした状態は、いかにこの国の停滞ぶりを示すものであり、決して文化財や歴史的建造物の保全が充実しているといったものではない。
目下、ビンルーウィンことメイミョーは、ITシティーとしての発展が期待されているのだという。今のところ町を流してみてITを感じさせるものは何ひとつ見当たらないが、国としてはそういう方針らしい。高原の町ということもあり、インドのバンガロールを小さく小さくスケールダウンしたようなものを目指しているのだろうか。
〈続く〉 -
KKHの湖
中国の援助により1966年に着工し、20年後の1986年に全線開通したパーキスターン北部から中国新疆ウイグル自治区へと抜ける国道35号線、通称カラコルム・ハイウェイ(KKH)は、厳しい地理条件のところを通っているため、しばしば崖崩れや落石で不通となるが、今回はこれまでになく深刻である。中パの間の陸路交通手段の途絶以上に現地の多くの方々の人命や財産にかかわる大きなトラブルが発生しているからだ。
フンザ地区で今年1月に発生した大規模な崖崩れが発生。その際にふたつの村とそこに暮らしていた人々が犠牲となっているが、岩石や土砂がダムを形成し、川が堰き止められたことにより湖が出来上がってしまい、周辺地域の他の村落等が水没するなどの影響を及ぼしている。カラコルム・ハイウェイもこの部分で交通が途絶している。
Update: Pakistan’s Karakoram Highway Blocked by Major Landslide (Matador Trips)
現在、湖はコンスタントに成長しているおり、近々決壊することが予想されるなど、非常に危険な状態にあるそうだ。そういう事態となれば、大量の水が土砂とともに鉄砲水のように下流地域の村々を襲うことになるからだ。
パーキスターンで観光ガイドをされている方のブログ『フェイサル・シャーのパキスタン便り』でもその模様を取り上げており、「5月から雪解け水が増えるから6月から8月までフンザ河の流れがとても激しくなり・・・」とあるように、ますます拡大する湖を前に緊迫した状況がうかがえる。
今後の進展が気になるところである。
The water bomb (DAWN.COM) -
彼方のインド 2
酷暑のマンダレーからシェアタクシーで走ると肌に当たる風が熱い。それでも比較的なだらかな斜面を上っていくにつれて、熱風の中にときどき爽やかな冷気のようなものがかすかに感じられるようになってくる。
昼下がりに海抜1,100 mにも満たない場所にあるピンウールィンに到着してみると、さほど清涼な気候とはいえなかった。それでも平地の暑さに較べればまだしのぎやすいことは確かだ。日没後はエアコンなど不要で、ときおりテラスを抜けいく風が心地良く、半袖で快適に過ごすことができた。
ここでの宿泊先はThiri Myaing Hotel。通称Candacraigと呼ばれている。もともとはBombay Burmah Trading Corporationの保養施設として設立されたときの名称だ。

エジンバラ出身で1840年代にボンベイへと渡り、主に茶葉の取引に携わっていたイギリス人実業家がラングーン(現ヤンゴン)で1860年代にラングーンで設立した、主にビルマとタイのチーク材の取引を行なう歴史的な会社である。現在ではインドのワディア・グループの一部門となり、ムンバイーを本拠地としているが、同社ウェブサイトのトップページ
を見てわかるとおり、業務の主軸を紅茶、コーヒー、ゴムのプランテーションとしている。

Candacraigはピンウールィンを代表するヘリテージ・ホテルとはいえ、本来は植民地期の会社の施設であり、ホテルとしての伝統や格式などは持ち合わせない。しかしヒルステーションでこうした歴史的な建物に宿泊できるということ自体がちょっと嬉しい。
ヒルステーションとはいえ、暑季はオフシーズンなので朝食付き一泊25ドルとエコノミーであった。可処分所得の低い国であるため、国内旅行産業があまり発達していないことの証でもあり、インドとはかなり事情が異なる。
1906年に完成したこの建物は、1948年にこの国が独立した際に国有化されてから農業省管轄下でホテルに転用され、現在では政府系の観光促進機関であるMHTS (Myanmar Hotels and Tourism Services)が運営している。
ピンウールィンには、MHTSが経営するホテルがあと2軒ある。ひとつは同じくBombay Burmah Trading Corporationの施設であったGandamar Myaing Hotelで、往時はCroxtonと呼ばれていたもので、Candacraigとよく似た様式の建物である。

もうひとつはNan Myaing Hotelで、別名Craddock Courtとも呼ばれている。もともと何の建物であったのかはよくわからないが、『しばしば幽霊が出る』という噂があるようだ。
ただし政府系のホテルであるがゆえに、『ミャンマー政府の手による旅行会社や宿を使わずに民間にお金がいくようにしよう』と唱えているロンリープラネットのガイドブックには、これらを宿泊先としては紹介されていない。ただ見どころとして建物を挙げているのみだ。同社のガイドブックは、タイトルによって著者が違う。そのためチャプターの構成はどのタイトルも共通しているものの、書き手の視点がかなり異なることもよくある。
ミャンマーのガイドブックについては、あくまでも反政府的な視点となっており、まずは「ミャンマーに行くべきか行かざるべきか」というチャプターさえもある。旅行ガイドブックなので、行くも行かないもないだろうと思うのだが。
インターネットでの情報源として、THE IRRAWADDYやMIZZIMAなど、いくつか優れたニュース関係サイトを紹介してあるのはいいのだが、どれもミャンマー国外をベースとする反政府なスタンスのものばかりだ。ミャンマー政府がどうであるかについては各自が考えるべきものであり、ガイドブックやその著者が押し付けるべきものではないだろう。
政府、政府と批判しているが、批判されるべきは軍をバックグラウンドとするこの国の政権であり、政府機構そのものではない。1988年の民主化運動の際、デモに加わっていたのは学生や民間セクターの人々ばかりではなく、非常に大勢の政府職員や公共セクターの人々もそれに参加していたことを忘れてはいけない。
公務員はそこに雇用されている労働者に過ぎない。多くの場合、自らの生産手段を持たないがゆえに、雇用を得るために就職した先がたまたま公の機関であるということである。もちろんその採用の際に何がしかの出費ないしはコネが必要であったとしても。
そうしたことはともかく、コロニアルなホテルがあるのならばどこの所有だろうが泊まってみたほうがいい。往々にして『政治史』『行政史』に偏りがちな歴史の中で、あまり記されることのなかった在緬の民間イギリス人たちの出入りが感じられる。まさにこの場所で彼らは活動していたのだ。
宿泊費込みの朝食以外を注文することはできず、昼食と夕食はどこか外に出かけなくてはならないという商売っ気のなさだが、Candacraigはメンテナンスも良く、往時の雰囲気をかなりきちんと残しているように思われるのでなかなかオススメの宿である。
ここはしばしば映画やドラマのロケにも利用されるのだそうだ。私が滞在しているときにも、グラウンドフロアーで撮影が進行中であった。撮影中には映画のディレクターの父親が同行しており、この人は数年間日本で暮らした経験があるとのことで、日本語のできる人であった。ミャンマー映画についてはよく知らないが、彼によるとけっこう有名な俳優たちが出演するアクション映画なのだとか。

演技をしている彼らを照明その他様々な小道具等の担当者が取り囲んでいるが、比較的ゆったりとしたペースで仕事が進行中であった。私はしばらく見物してから外出したが、日中一杯カンダクレイグでの撮影は続いていたようだ。ようやく日没近くなってから終了し、撮影の機材関係の人たちは、チャーターした乗合ピックアップトラックの屋根にまで、人間・機材ともに満載で帰るところだった。映画撮影とはいえ素朴なものであった。 -
彼方のインド 1

ミャンマーのマンダレーから乗り合いタクシーに乗って2時間ばかり揺られるとピンウールィンに着く。かつてはメイミョーと呼ばれていたヒルステーションである。
1885年に開始、翌1886年にビルマ最後の王朝であったコンバウン朝を降伏させ、イギリ英領としてビルマを統一するとともに、これを英領インドに編入させることになった。
その3年後にはメイミョーの建設が始まっている。国土のほぼ中央に位置する高原に設置された英軍の基地の町であったが、夏季には乾燥した灼熱の大地となる中部ビルマにありながらも、海抜1,000メートル前後という立地のため比較的過ごしやすい気候であるがゆえに、インドでのそれと同様のヒルステーションとして発展することとなる。
開発当初は軍の駐屯地ならびに保養地、のちに文民たちをも含めた避暑地としてのヒルステーションへと発展というパターンは、インドの多くのヒルステーションと同様だ。
ちなみにメイミョーとは『メイの町』の意味。1857年のインド大反乱を経験したヴェテラン軍人、メイ大佐のちなんだ命名である。今でもアングロ・バーミーズ、アングロ・インディアン、その他のクリスチャンが多い土地だ。
同様にインド系、ネパール系の住民がとても多いことでも知られている。前者は北インド系が大半だが、中でもパンジャービーは後者の中でグルカ兵としてやってきた人の占める割合が高いネパール系とともに軍人として渡ってきた人々の子孫であることが多いようだ。
またビハールやU.P.出身者は鉄道建設や農業労働者として来た人々の末裔が高い割合を占めているようだ。ここの人々が言うところのU.P.とは、往々にして現在のUttar Pradeshではなく、United Provinces of Agra and Oudhないしは、1921年に行政区が改名されてからのUnited Provincesである。どちらにしてもウッタラーカンドが分離する前のUttar Pradeshの範囲とほぼ重なるのだが。
鉄道建設とヒルステーションも非常に縁の深いものがある。避暑地とはいえ政治的にも文化的にも重要性の高い土地であったからこそ鉄道が引かれたのか、あるいはもともとそれなりの規模があったことが需要を喚起したことにより鉄道が敷設されたのか、卵が先かニワトリか?みたいなことになるが、インドでも第一級のヒルステーションでは鉄道によるアクセスが可能だ。
ダージリンは1878年、シムラーは1898年、ウータカマンドでは1908年に、俗にトイトレインと呼ばれる狭軌のゲージに小型車両が走行する鉄道オープンしている。
ピンウールィンことメイミョーは、マンダレー管区とシャン州の境目に位置する。19世紀末に開通したマンダレーから北東方面のラーショーへと向かう路線の途中駅である。

同じくマンダレーからほぼまっすぐ北上するミッチーナーが終着駅となる路線の途中駅にはカターという町がある。現在ビハール(当時はベンガル・プレジデンシー)のモーティハーリーで生まれたイギリス人作家ジョージ・オーウェルが警察官として赴任したことのある町である。英国時代には北部辺境地域を臨む前哨地域として大きな意味を持つ場所であったようだ。
カターの町は、オーウェルの処女作『Burmese Days(邦題:ビルマの日々)』の中ではチョークタダーという名前に変えてある。この小説の冒頭にはオーウェル自身がスケッチした町の簡単な地図が挿絵として掲載されている。
その地図、また作品の中で描写される町のたたずまいが、今でも当時とあまり変わらずに現在に至っているとのことだ。長らく発展から取り残されてきたことから、意外に古いものがよく残っているということはミャンマーでは珍しくない。今回は訪れてみる時間がないのだが、いつか機会があれば足を伸ばしてみたい。

-
ヒルステーション
家族連れがそぞろ歩いていたり、カップルがいちゃいちゃしていたりする、軽井沢みたいな土地のどこがいいのだ?と言われれば、確かにそうだと頷くしかない。確かにそういう雰囲気に特に何の関心もない。小洒落たカフェやナイトスポットならば、もっといいところが平地の大都会にはいくらでもある。
結局のところ避暑地であるが、欧州列強の植民地、往々にして熱帯の土地であるが、暑季の耐え難い気候から一時的に逃れるため、あるいは療養などを目的に訪れるためなどに建設された町である。もちろん暑さに参ったのは文民だけではない。ヒルステーションには往々にして相当規模の軍の駐屯地も存在してきた。
今の時代は、どこでもエアコンの効いているスペースならば暑さを忘れることができるとはいえ、暑季のインドで標高の高いところに来たときのアウトドアでの清涼感は何ものにも替えがたい。だが涼しいだけならば、標高の高いところならばどこでも清涼な気候を楽しむことができるわけだが。
だがヒルステーションにしかないものもある。それは英領期に築かれた歴史的な遺産とそうした土地であるがゆえの空気である。例えとしては適切ではないかもしれないが、敢えて言ってみれば、広大な中国で漢民族たちはどこにも同じような街を作っている。北京、上海だろうが、非漢民族の自治区(主要都市のマジョリティは漢民族だったりするが)の大都市、たとえウルムチであれ、ラサであれ中心部の街角は酷似している。
同様にイギリス人たちが築いたヒルステーションは、どこも立地といい、町の佇まいといい、非常に共通するものが多い。『リッジ』があり、『モール』があり、数々の公共の建物や教会、今も残るバンガローその他の個人所有の建物等々が並ぶ。
たとえ彼らがその地を去って60年以上の歳月が経過しているとはいえ、往時の面影を色濃く残しているものである・・・と言いたいところだが、90年代以降のインド国内での観光ブームによる開発のため、あながちそうとはいえない。とりわけハイ・シーズンに訪れると、そこはまさに日本の軽井沢状態であったりする。
植民地的な景観の『町並み保存』を訴える向きがあるのかどうかは知らないが、英国的な景観には事欠かないインドにあって、特にそうしたものに興味関心もないであろうことは容易に想像がつく。
スリランカのヌワラ・エリヤ、マレーシアのゲンティン・ハイランド、旧仏領のベトナムのダラート、旧蘭領であったインドネシアのバンドゥンなどがよく知られており、アフリカにもそうした保養地はいくつかあるが、ヒルステーションが最も発達を遂げたのはインドだ。かつての英国の海外領土の中でも別格で、イギリス本国の植民地省とは別のインド省を通じて支配された地域であり、英領時代のボンベイ管区はアラビア半島で貿易港アデン他の拠点を管轄するなど、言うならば「海外植民地を持つ植民地」のような存在であっただけのことはある。
また単なる避暑地のみならず、ダージリンやシムラーのように、暑季に行政の中枢が平地から移動する夏の臨時首都といった様相を呈するほどの重要性を持ったヒルステーションは、旧植民地であった南の国々にあっても稀だ。
なにしろエアコンのない時代であり、医療も発達していなかった時代だ。インドに駐在するイギリス人をはじめとする欧州人たちの死亡率は今と比較にならないくらい高かった。とりわけ暑季は彼らの生命をも左右する、としては言い過ぎであるにしても、政治・行政機能を期間限定で移転するという非効率さと膨大なコストと引き換えにまでして得たかったのが、そうした時期のヒルステーションの気候と環境だ。
日本の軽井沢や清里がそうであるように、インドの人々にとってもそこは単に避暑地であり商業活動の場である。資本主義の世の中で、需要があれば供給がなされる。それによって訪れる人々は必要なサービスを受け、そこで働く人々は収入を得る。
そうした中で景観が変わっていくのは当然のことだが、数十年の時間を経てもなお往時の面影を感じられることこそが、ヒルステーションの味わいではないかと思う。
チャンディーガルからシムラーに向かうルートから枝道に入ると到着するカサウリーは、シムラーが大変込み合う時期でも比較的空いており、あまり商業的に活発な場所ではないためもあって、旧い町並みがよく残っている。ただし歴史的に軍とのつながりが非常に強く、カサウリーのかなりの部分の土地を今でも軍用地が占めているのがやや難ではあるのだが。
数年前に『カサウリー ビールとIMFL(Indian Made Foreign Liquor)の故郷』として取り上げてみたように、インドにおけるビールを含めた洋酒の原点とも言える土地である。ここで創業したダイヤー・ブルワリーは、現在パーキスターンとなっている西パンジャーブ地方のヒルステーションとして知られるマリーでも同様に酒造業を展開していた。
他にも現在パーキスターンとなっている土地ではラーワルピンディー、クエッタ、インドではシムラーやウーティー、現在ミャンマーとなっているマンダレーといった広範囲にも酒造業の拠点を築くに至った。洋酒文化の伝播という点からもヒルステーションが果たした役割は大きかったといえる。 -
背中に記したメッセージ
先日、池袋で開催された『カレー フェスティバル & バングラデシュ ボイシャキ メラ』にて、揃いの黒ヴェストを着用している男性たちを見かけた。

東京都大田区蒲田にある礼拝所への寄付を募っている人々で、背中にURLがプリントされている。
東京都内にあるモスクとしては、トルコ大使館が音頭を取って建設した東京ジャーミィ、パーキスターン人が中心になって運営している大塚モスク、サウジアラビア大使館関係施設であるアラブ・イスラーム学院内の広尾モスクなどがよく知られている。
また、東武伊勢崎線沿線にデーオバンド系で、厳格な教義を持つタブリーギー・ジャマアト関係の小さなモスクや礼拝所がいくつか存在している。
ひとくちにイスラーム教の信仰といっても、現実にはいろいろあるし、居住地や勤務先と遠く離れていては用をなさない。礼拝施設は同時に同胞たちとのコミュニケーションの場でもあるため、どれでもいいというわけにはいかないだろう。
そのため、都心各地の繁華街で働く信徒たちが、雑居ビルの中の一室を礼拝用に借り上げていたり、雑貨屋の店舗内を近所で働く同胞たちの金曜礼拝のために提供していたりすることはよくある。
蒲田の礼拝所は、そうした場所のひとつで主にベンガル人ムスリムたちが出資して借りている場所らしい。母国から遠く離れた彼らの信仰の場であるとともに、同胞たちとのつながりを保つためにも必要な集会施設としての機能も持ち合わせていることだろう。
ウェブサイトにはいくつかの写真が掲載されているが、もともとは住居として作られた建物のようで、ごく限られた空間に沢山の人たちが集まっている様子がうかがえる。
在住する年月が長くなり、集まる人数も増えてくると、それなりにしっかりとした施設を持ちたいと考えるのは当然の成り行きである。
もちろん礼拝施設のみならず、結婚して所帯を持てばやがて子供たちも生まれてくるだろう。教育の問題もあれば、人生の通過儀礼の実施についての事柄もある。
イスラーム的な環境の存在しない日本で信仰と日常生活の折り合いをどうつけていくかということについても考えるところいろいろあるだろう。そして誰もがいつかは死を迎えることになるが、日本で土葬が認められている場所はごく限られてもいる。
現時点では、日本で暮らす一般的な日本人の間に彼らの声が届くことはまずないし、そうした認識を持つ人もほとんどないと思われる。日本に定住するムスリム人口が拡大していくということは、こうした問題を抱える人の数が増えていくということであり、やがて社会的に大きな発言力を持つ人も出てくることだろう。
彼らの声がすぐそこで聞こえるくらいに大きくなってきたとき、初めて日本の人口の中で無視し得ない一角を占めるようになった彼らに対する処遇を慌てて検討することになるのではないかと思う。
多くは日本人やその社会に対する好感と敬意を表してくれている友好的な隣人たちであり、こちらも同様に敬意と誠意を持って対応すべきであることは言うまでもない。だが果たして私たちにそうした度量や用意があるのかどうかについては、正直なところ今はまだ自信を持てない。
これまで、少なくとも私が知る限りでは、2001年に富山県で起きた事件を除き、在日ムスリムの人々が日本の大衆の目に付くところで、私たちに訴えの声を上げた例はまずなかった。
件の黒ヴェストの人たちが背中にウェブサイトのURLとともに記したメッセージは、今彼らが暮らしている社会に対して、理解と協力を求めるよう動きつつある兆候であるかもしれない。 -
池袋に集うベンガルの人々

4月18日(日)に東京の池袋駅すぐ近くの袋西口公園にて、今年で11回目となる『カレー フェスティバル & バングラデシュ ボイシャキ メラ』が開催された。
池袋駅にごく近いこともあり、人の出入りは大変激しかったが、会場にいる人々の姿を見渡してみると、半数近くがベンガルの人々であったようだ。
会場のあちこちで、友人や知人たちの姿を見つけては、大げさに喜んだり、挨拶を交わしたりしてている。もともと異郷で暮らす彼ら自身が新年を祝うイベントとして始めたもののようだが、駅前広場というあけっぴろげなところで、どこの人間であれ来る者拒まずというオープンな姿勢は、彼らの多くが日本に定住し、今後もこの国を構成する一員として暮らしているというスタンスを象徴しているようだ。
一般的に、日本に暮らすようになったバーングラーデーシュの人々といえば、ごく一部の例外を除き、バブル期以降に来日した人々がその大半を占める。日本とバーングラーデーシュの間では、観光目的の短期滞在について、ヴィザの相互免除の取り決めがあったため、ひとたび航空券の代金を負担することができれば、比較的簡単に来日できた時期があった。
言うまでもなく、そうした人々の大半の滞日目的は物見遊山などではなく、『好景気』『円高』で注目されるようになっていた当時の日本で、とにかく仕事を得て稼ぐことであった。当時は『人手不足』と言われる時代であった。
とりわけ特に3Kと称される職場では、仕事の担い手が足りず、バーングラーデーシュ以外にもパーキスターン、イランといった、やはり日本との間で観光査証の相互免除の措置がなされていた国々からやってきた人々が、日本人のやりたがらない仕事を肩代わりしてくれていた。
彼らを必要とする現場は多くとも、外国人が単純労働目的で来日することを認めていないこと、在留資格の内容とは異なる目的で入国・在留している人々が多いことを重く見た行政は、そうした人々の摘発に積極的に乗り出すこととなり、また外交上でもそれらの国との間の査証相互免除を停止することとなった。
入国の戸口が大幅に狭められることによって新規来日者が大幅に減り、既存の在留者たちの中からは、それなりに出稼ぎの目的を果たして帰国する者や摘発を受けて退去させられる者などあり、その数を漸減させていくこととなった。
日本のバブル期に、彼らとほぼ同時にその数を急増させていたのは、ブラジルやペルーなどからやってきた日系人たちだ。バーングラーデーシュやパーキスターンなどの人々が短期滞在ヴィザで来日して就労することは非合法であったのに対して、こちらは日系人であるがゆえに在留資格『定住』が与えられるため、日本国内で仕事に従事することについて何ら問題もない。
従前は、日系二世にまで与えられてきた『定住』の資格だが、1990年の入管法改正により、これが三世にまで認められるようになると、入国者数増に拍車がかかった。そうしたこともあり、バーングラーデーシュその他の人々が減った分、彼らがその後を占めるようになった。
その後の景気後退により、就業機会が減ったこと、条件も悪くなったことと合わせて、在留資格上問題のある人を使用すると雇用者側にも罰則が与えられるようになった。短期滞在の資格でしかもオーバーステイという立場の人々は、日本での雇用機会から締め出されるようになっていった。
バブルの頃にやってきた人々の大半は帰国するなり、第三国に向かうなりして、この国からいなくなってしまっているが、それでも今なお少なからず日本に定着した人たちもあった。『投資・経営』『技能』といった滞在資格を得て、日本で中古車取引や食品関係等の事業を行なうようになったり、日本人との結婚により『日本人の配偶者等』(『定住』と同じく活動に制限がない)の資格を得た人たちなどである。
後者については、時代は違えども19世紀初頭から20世紀はじめにかけて中国から東南アジアに移住した華僑たち、また中南米に移住したラテン系の人々と共通した背景がある。
外国へ出稼ぎに向かう人々の相当部分が20代の未婚男性であることが多い。在留国と自国を定期的に行き来できるような気楽な身分ではないこともあり、交際することになる異性、やがて人生の伴侶となる相手とは、滞在先での存在がほとんど無に近い自国の女性ではなく、現地の女性となるのはごく自然な成り行きである。
そうしたカップルの間から生まれた、バーングラーデーシュと日本というふたつの国の血を受け継いだ二世たちは、すでに高校生くらいの年齢に達している者もあり、そろそろ社会人として、日本で世の中にデビューする人たちも出てくるだろう。
またこれらとは異なる形でやってきた人たちの姿もある。国費(日本政府の奨学金)ないしは私費にて留学生として来日した人々である。とりわけ前者については、圧倒的に理系学生が多く、しかも修士あるいは博士といった学位まで取得することを目指す高学歴志向であることも特徴だ。
大手通信企業、広く名前の知られた外資系IT関連企業等に職を得て活躍する人たちは多く、もちろん中には自らそうした分野で起業している例もある。
こうした人たちの場合、自国との行き来に障害があるとすれば、経済的な要因ではなく、往々にして仕事が繁忙であることくらいであるためもあってか、少なくとも私の見知っている範囲では、自国で身内が決めた相手と結婚している例が多いようだ。
経済的に安定しているため、自身や妻の兄弟といった身内の日本留学の便宜を図ったり、あるいは学費・生活費等丸抱えで支弁するという例も目立つ。
バブル期に出稼ぎに来た人たちと留学生としてやってきた恵まれた立場の人たちの間で共通する点として、日本への定住志向があるようだ。すでに日本を終の棲家と定めて国籍を取得した『ベンガル系日本人』として生活している人も少なくない。
こちらの流れからも毎年次々に日本での留学や卒業後日本国内での就業を目指して来日する人々があるとともに、新たに生まれてくる子供たちも加わり、大半は外国人学校ではなく、普通の日本の公立小学校へ入学している。
今、日本国内でアクティヴな南アジア系の定住コミュニティといえば、こうしたバーングラーデーシュを祖国とするベンガル系の人々である。大半が日本語も堪能で、この国に対する知識も深い。日本人社会の中にどっぷり浸かって仕事や生活をしている人が多く、文字通り『日本に骨を埋める』覚悟の人々が占める割合がとても高いという点からも、将来に渡り、日本で彼らのコミュニティは発展には注目していきたい。
コミュニティの成長とともに、母国からの人の流れは今後も活発に続いていくことだろうことから、ある時期を境に新規の流入がほぼ途絶えた中南米の日系社会とは対照的に、長きに渡ってベンガルらしさは保たれるであろうし、祖国の『伝統』や『今のトレンド』も確実に吸収したうえで、日本における生活文化が築かれるのではないかとも思われ、とても興味深いものがある。 -
最高峰への挑戦
世界最高峰エヴェレストの標高といえば、8,848mであると思っていたが、長きに渡りネパールと中国の間で論争が続いていたようだ。『頂上』についての定義の違いによるものであり、前者は文字通り一番高くなっている部分、雪や氷に包まれた頂がそれであり、後者によれば氷雪の下にある岩石部分こそがエヴェレストの頂であるというもの。
8848mとは、前者の主張に沿うものであり、中国側の言い分ではそれよりも4mほど低くなるらしい。だがこのほど中国はネパールによる『8848m説』を受け入れたことにより、この論争に終止符を打ったのだという。
Official height for Everest set (BBC NEWS South Asia)
だが上記BBCの記事の最後にあるように、US National Geographic Societyの計測によれば、8,850mであるとのことで、まだ『標高8,848m』異論を唱える人たちはいるようだ。
ところで、エヴェレストといえば、言うまでもなく世界最高峰であるがゆえに、ベースキャンプからの最短時間登頂、最多登頂回数、最高齢登頂等々、数々の記録が話題になる山である。
偉大な記録の樹立は、人々の大きな喝采と祝福とともにメディアを飾ることになるが、まさに記録とは破られるためにあるという言葉のとおり、更に上を行く人物が出てきて世間を驚かせてくれるものだ。
こうしている今、新たな記録樹立を狙いネパール入りしているアメリカ人の少年がいる。彼、ジョーダン・ロメロが目指しているのは最年少登頂記録だ。1996年7月12日生まれの13歳である。
American boy, 13, to attempt Mount Everest climb (ABC News)
もちろん彼は素人などではなく、近年タンザニアのキリマンジャロ、アルゼンチンのアコンカグア、アラスカのマッキンレーその他の高峰を制してきたキャリアを持つ、極めて早熟なクライマーである。これまで最年少記録といえば、2001年5月に16歳17日で頂上を極めたネパールのシェルパ族のテンバ・ツェリ。それを大幅に下回る年齢での登頂が成功したとしても、後にその記録を塗り替える例はなかなか出てきそうにない。
登山家としてはあまりに低年齢すぎる子供にこうしたチャレンジをさせることについて、医学面ではもちろんのこと、倫理的に問題であると捉える意見も多い。
私自身、ジョーダンよりもいくばくか年下の息子を持つ親としては、登頂の成否云々よりも、彼が無事に帰還することを切に願いたい。
同時期に、インドからは16歳の少年アルン・ヴァジペィーが同じくエヴェレスト山頂を目指しており、こちらもメディアで話題になっているところだ。
Not eyeing records, says youngest Everest challenger (The Hindu)
ちなみに女性でエヴェレスト登頂最年少記録を保持しているのはインド人。ヒマーチャル・プラデーシュのマナーリー近郊の村に暮らすディッキー・ドルマが1993年5月に19歳35日で登頂に成功している。
