ただいまメンテナンス中です…

カテゴリー: greater india

  • THE GLASS PALACE

    THE GLASS PALACE

    一度読み終えた小説を再び手に取ることはほとんどないのだが、今年ミャンマーの暑季にマンダレーを訪れてから『時間が取れたらもう一度読もう』と思い出した作品があった。  

    コールカーターで生まれ、ドゥーン・スクールを経てデリー大学、そしてオックスフォードで学び、数々の話題作を世に送り出してきた小説家アミターヴ・ゴーシュが10年前に発表した傑作『The Glass Palace』である。 

     

    書名:The Glass Palace

    著者:Amitav Ghosh

    出版社:Harper Collins Publishers

    ISBN-10: 000651409X

    人気作家の話題作であったことに加えて、舞台設定が英領期のビルマ、インド、マラヤということもあって興味を引かれて、ペーパーバック版が出てからすぐに購入したので、確か最初に読んだのは2001年だったと思う。窓際で陽の当たる書棚に置いていてすっかり日焼けしてしまった本を久しぶりに取り出してページをめくってみた。 

    ストーリーは、ベンガルから家族とともに当時のビルマに移住後、不幸にも父母が相次いで亡くなり孤児となったラージクマール少年が、マンダレーの市街地で印緬混血の女性が切り盛りする道端の屋台で手伝いをしながら糊口をしのぐ場面から始まる。  

    当時、コンバウン朝の王都マンダレーでは、最後の王となるティーボーが王妃スパヤラートとともに王宮で暮らしていた。タイトルのTHE GLASS PALACEとは、その宮殿のことを言う。 

    時は1885年、第三次英緬戦争勃発。ビルマ軍は敗走を続け、英軍はついにコンバウン朝の首都マンダレーを陥落させる。第二次英緬戦争により1853年以降、下ビルマを占領していたイギリスだが、コンバウン朝を倒して上下ビルマを統一することに成功した。翌1886年、ビルマは英領インドに編入される。 

    マンダレーが英軍の手に落ち、側近や衛兵も散り散りになって無防備になった王宮にマンダレー市民たちが押し寄せてきて略奪が始まる。そうした群衆の中にいたラージクマールは、王家の侍女として仕えていた孤児の少女ドリーと初めて出会うことになる。 

    ビルマ最後の王ティーボーは、王妃スパヤラートと幼い王女たちとともにマドラスに移送され、2年後の1887年に王家はインド東海岸の現在マハーラーシュトラ州のラトナギリーに移され、ここが王自身にとっての終の棲家となる。ちょうど1857年にインドで起きた大反乱の旗印として担ぎ出されたムガル最後の皇帝バハードゥル・シャー・ザファルが捕らえられた後に妃と息子たちとともにラングーン(現ヤンゴン)に流されたのと同じパターンだ。 

    王家の侍女ドリーは、王家の流刑先でも彼らに甲斐甲斐しく仕えていたが、ここにコレクターとして赴任してきた若くて有能なベンガル人官僚の妻ウマーと親しくなる。ウマーは外の世界をほとんど知らずに結婚適齢期を迎えているドリーを不憫に思っていた。 

    ラージクマールは、英領となった上ビルマで人生の転機を迎えていた。マンダレー陥落前にマレー半島からやってきた華商サヤー・ジョンの仕事の手伝いを初めていた。後にマラヤに戻ってゴム園で成功するサヤーだが、彼が当時のビルマで手掛けていたチーク材取引は順調に拡大していき、能力を認められたラージクマールはサヤーの右腕として重宝されるようになった。やがて独立して自身の力で道を切り拓いていくようになる。 

    日の昇る勢いで出世街道を邁進していたラージクマールだが、王都陥落の混乱の中で出会ったドリーのことが気にかかっていた。 

    その後、ラージクマールは訪印した際にラトナギリーに出向き、ドリーと再会する。当初は彼に関心ある素振りさえ見せず冷淡にあしらっていたドリーだが、ついにラージクマールと一緒になってビルマに戻ることに同意する。 

    ・・・といったあたりが物語の導入部だ。ラージクマールとドリーの夫婦、サヤー・ジョン、そしてウマーの身内といった三つの家族とその子、孫の代にかけて、ビルマ、インド、マラヤの三つの地域にまたがり、王都マンダレー滅亡から第二次大戦を経てこの地域の旧英領の国々の独立、そしてビルマの民主化運動後までの110年もの長きに渡る時空のもとで話が展開する。 

    描かれる時代や場所により、一人称で語られる人物が次々に入れ替わっていくが、世代による物事の考え方や価値観の違いも描き出されていく。主人公と呼ばれるべき人物が複数あり、それぞれ異なる軸からストーリーが見事に紡ぎ出されていく。 

    1956年生まれの著者のアミターヴ・ゴーシュは、ビルマに在住した経験はないが、ニューデリーに遷都される前、1911年までは英領インドの首都であり、インド東部に位置する西ベンガルの州都コールカーターは、地理的にもビルマに近い。今でもラール・バーザール東側の10A, Eden Hospital Rd.にビルマ系の人々が出入りするMyanmar Buddhist Temple (Burmese Buddhist Templeから改称)というテーラワーダ仏教の礼拝所がビルの中に入っている。そうした環境のためビルマから引き揚げてきた人たちと接する機会もあったのではないかと思う。 

    それにも増して大きな動機として、著者であるアミターヴ・ゴーシュの父親と叔父が英軍将校としてビルマに駐在しており、インド国民軍との戦闘体験もある。著者自身、父親や叔父から当時のビルマの話をよく聞かされていたようだ。そのあたりの経緯については作品の後書に記されている。『この小説のアイデアは、私が生まれるよりかなり前に父と叔父によってインドの我が家にもたらされた』とあり、作家自身が格別な思い入れと渾身の力を込めて綴った物語であることが感じられる。 

    ビルマやマラヤにおけるインド系の人々の移民史、植民地行政史に関するある程度の予備知識が必要かもしれない。アジアにおけるイギリス支配の中心地であったこのエリアにおける、インド系とりわけベンガル人の視線から見た近代から現代にかけての歴史ドラマだ。 

     20世紀初頭にはラングーンの人口のおよそ半分がインド系であり、文字通り『インドの街』であった。今でもダウンタウンには、ベンガル、U.P. ビハール、タミルナードゥその他に起源を持つ人々が大勢暮らしている。地域に点在するヒンドゥー寺院や祠はもとより、ジャイナ教寺院、グルドワラーがあり、父祖の出身地域コミュニティごとのインド系の人々のモスクがいくつもある。 

    ムスリム地区の一角には、シナゴーグがひっそりと佇んでいる。もはやユダヤ教徒は数えるほどしか残っていないというが、かつてここで繁栄を享受した彼らはユダヤ系インド人であった。 

    この物語の中心人物のひとり、ラージクマールに話を戻す。一時は羽振りの良い材木商として、人々にとって自家用車など夢また夢であった時代に、息子に当時の最新型の自動車を買い与えるなどしていたが、日本軍のビルマ侵攻で全てを失ってインドに難民として逃れる。

    頼った先は妻ドリーとの間柄を取り持ってくれた恩人であり、親しい友人でもあるウマーの実家。彼が死ぬまでの20年間、ビルマにて一代で築き上げたすべてを失い無一文となったラージクマールは、ウマーとその家族の好意にすがって静かに余生を送る。 

    この物語に出てくる人物は、コンバウン朝最後の王ティーボーとその家族を除きすべて架空の人物だが、ビルマにおけるインド系移民の盛衰を鮮明に描き出している点もまた興味深い。 

    ビルマ征服を企てたのはイギリス人であったが、軍の大半はインド兵たちであり、ビルマを統治した役人たちの多くもインド人、鉄道や道路といったインフラを建設したのもインド人ならば、都会で商業活動の中核を成していたのもインド人たちであった。もちろん農作業や家内工業その他非熟練労働に従事するインド出身者たちも沢山いたとはいえ、当時のビルマの人々がいつも目にする『外来の抑圧装置』といえば、やはりインド人たちということになってしまう。

    旺盛な勤労意欲と企業家精神から、当時彼らの帝国の版図に新たに加わったビルマで大きな財を成したインド系の人々は多かったようだ。だがビルマでの独立を求める機運と反英運動は当然のことながら、『植民地の中の植民地』として君臨するインド人(とともにこの国で商業的に成功した華人たち)に対する反感と切り離すことは不可能であった。 

    インドでは独立運動が地域や民族を横断する包括的なムーヴメント(印パ分離という悲劇はあったものの)となり、独立後も民族のモザイクを統合する方向に努力が続けられたのとは対照的に、ビルマでは国内最大の民族集団であるビルマ族中心の民族主義が台頭した。 

    独立前後からすでにあったインド系・中国系を排除する動きのみならず、民族的にも文化的にもインド顔負けの多様性に富んだ国内をビルマ族の言語と文化で国内を統合しようとした結果、長年に及ぶ内戦が続くことになったのはご存知のとおり。 

    ビルマからのインド系の人々の流出には幾度かのピークがあった。最初は1937年の行政的にインドからの分離した際、次は第二次大戦期の日本軍侵攻から1948年のビルマ独立にかけてのナショナリズムの高揚期、そして1962年のネ・ウィン将軍によるクーデターによる軍政が始まった時期である。これらは、印パ分離の陰にかくれてあまり語られることがない、もうひとつの『インド社会の分離と離散』の時代でもある。 

    この作品は2007年に日本語に訳されて、邦題『ガラスの宮殿』として新潮クレスト・ブックスから出ている。多少なりとも興味のある方には一読をお勧めしたい。 

    書名:ガラスの宮殿

    著者:アミターヴ・ゴーシュ

    翻訳:小沢自然・小野正嗣

    出版社:新潮社

    ISBN-10: 4105900625

  • ホテル ヤンゴン空港目の前

    Seasons of Yangon

    ヤンゴンの空港正面にシーズンズ・オブ・ヤンゴンというホテルがある。もともとは米国資本でラマダ・エアポート・ホテルと呼ばれていたが、ラマダ・ホテルが撤退するのを受けて、マレーシア資本が名乗りを上げた。シーズンズ・オブ・ヤンゴンとして開業したのは今から15年ほど前のことになるようだ。 (さらに…)

  • タメルの憂鬱

    ネパールのカトマンズの旅行者ゾーン、タメルといえば同国を訪れる人たちの多くが一度は宿泊や買い物などで利用するエリア。

    Nepalopediaで、街中の様子を見ることができるが、かつてはのんびりした風情であったこの一角は、今や賑やかな繁華街となっている。

    そのNepalopediaのウェブサイト左上部で、英語・日本語・中国語に切り替えることができるようになっているのを見てもわかるとおり、近年は中国からの観光客が急増している。漢字の看板を掲げた中国人専門のようになっている宿、彼らが多く利用する中国人経営のレストランなども見かけられるなど、客層にも大きな変化が生じているようだ。 (さらに…)

  • Japanese Rupee

    ヤンゴンのダウンタウンで、よく古銭屋が道端で品物を並べている。中には小さな店舗を構えたものもある。

    ごちゃごちゃと並べられた紙幣やコインは玉石混淆。英領インド期の銀貨もあれば、諸外国の新旧の通貨もある。中にはどこかの国のゲームセンターのメダルもあったりして、インドの古銭屋と似たようなものだ。

    そんな中で一際目を引く?のは、日本国政府発行のルピー紙幣だろうか。もともと戦時中大量に出回り、終戦とともに紙切れとなってしまったものだが、それだけに複製するための『版』には事欠かなかったのだろう。露店ではオリジナルとおぼしきものは見かけないが『手の切れるような新札』がふんだんに出回っている。 (さらに…)

  • ボーヂョー・アウンサン博物館

    ボーヂョー・アウンサン博物館は閉鎖中

    ヤンゴンでボーヂョー・アウンサン博物館に行ってみた。ダウンタウンの北側のカンドーヂー湖の北側にある。

    建国の父アウンサン将軍が1947年に暗殺される前に居宅としていた屋敷という歴史的な価値からヤンゴン市の文化遺産に登録されている。

    父親が亡くなったとき、まだ2歳だったアウンサンスーチーさんは、幼少時をしばらくここで過ごしている。

    2009年に訪れたときには閉まっており、改装工事でもしているのかと思ったが、残念ながら今回もそうであった。付近の住民に尋ねてみると「なんだかずっと閉まってますねぇ」とのことであまり多くを語らないが、どうやら政治的な理由であるらしい。

    政権にとって長年の懸案となっているスーチーさんの存在があるため、彼女の父親ゆかりの場所というのは、国内政治的に憂いをはらむものなのだろう。

    そういえば昔のミャンマーの紙幣にはアウンサン将軍の肖像画があしらわれていたものだが現在はまったく見当たらなくなっている。 (さらに…)

  • マハーガンダーヨン僧院

    ミャンマーのマレダレー近郊、アマラプラのウー・ベイン橋を後にして、近くのマハーガンダーヨン僧院へ。かなり格の高い寺院のようで、修行する僧侶集団の数もとりわけ多いところとされているようだ。ここでは朝10時半過ぎから僧侶たちの食事が行われる。
    僧院敷地内の広々としたキッチンで食事の準備が完了したところだった。1,000人分というだけに大変な量である。調理する人たちは近くに住む人々でみんなボランティアであるとのこと。
    キッチン
    一度の食事で炊く米は400kgに及ぶという。非常に大きなジャーの中に大量の米飯。あまりに大量であるため、茹でこぼし法ではなく蒸し上げて炊くのである。しゃもじの代わりに園芸用の大きなシャベルを使っている。
    副菜を調理する鍋もこれまた巨大で、風呂桶くらいありそうだ。鶏肉の煮物、野菜の煮物、ちょっとした付け合せといったものが用意されている。どれもおいしそうだった。デザートにバナナが付く。
    大きな看板に今日の食事を寄付した人たちの名前が書かれているが、その脇では寄進者と思しき人物が合掌したまま、幹部クラスと思われる僧侶と話をしている。
    食事の時間を伝える鐘の音が鳴り響き、僧侶たちが列をなして集まってくる。あまりに大勢の僧侶たちがいるのに誰一人として私語はなく、一糸乱れぬ行列の続く中で『静謐』な空間という不思議な気がした。列を成すにも何か順番があるのかもしれない。
    行列する僧侶たち
    僧侶たちの行列に対して大きなお椀でひとりひとりにサービスする役目は観光客でもできるとのことで、タイから来たツアーグループの人たちがそうした世話を買って出ていた。僧侶たちは手にした托鉢用の鉢にご飯を入れてもらっている。洗面器くらいのサイズだけに相当な量になる。テーラワーダ仏教の僧侶たちは、午後になると食べ物を摂取することが許されないため、この時間帯までにその日の食事を済ませなくてはならない。
    食事が始まる
    20100619-monks3.jpg
    全員が席に着いてから、一斉に食事を始める。食事の際にも会話する者はなく、みな黙々と食べている。あっという間に食事が終わり、僧侶たちは立ち去っていく。まだ食べているのは幼い尼たちだけだ。多くの僧侶たちはバナナをそのまま持ち帰っている。僧坊でゆっくり食べるのだろうか。
    どこからか鉄道の汽笛が聞こえてくる。インド国鉄でおなじみのあの音が耳に心地よい。ミャンマーで使用されている機関車と車両はインド製なのである。

  • U Bein Bridge

    THE GLASS PALACE by Amitav Ghosh
    ミャンマーのマンダレー近郊の町アマラプラにあり、よく写真で紹介される高い橋桁の木造橋である。インドの作家、アミターヴ・ゴーシュの小説『The Glass Palace』の表紙のイラストにもあしらわれており、一度機会があれば訪れてみたいと思っていた。
    U Bein's Bridge
    グーグルでの遠景

    大きな地図で見る
    グーグルでの拡大図

    大きな地図で見る
    下は河かと思ったが湖であった。Thaungthaman湖というもので、乾季には橋の下の大部分が畑になっているが、雨季には水で一杯になるのだという。橋が建設されたのは1849年ということで、1885年にマンダレーが英領化されるよりもさらに前のことである。そしてチーク材で出来た橋として世界最長(1.2 km)ということになるそうだ。
    U Bein's Bridge
    河辺に広がる牧草地や田園風景といったのどかな景観はもちろんのこと、そんな橋が今もこうして人々やモノの行き来に役に立っており歴史的な価値もまた大きい。橋の途中にはいくつかの東屋があり、物売りたちがお客を待ち構えていたり、涼んでいたり昼寝していたりする人たちの姿がある。
    背後に東屋
    20100612-cow.jpg
    20100612-water.jpg
    だが『橋』としての役割のみについて言うならば、ちょっと考えさせられるものがある。ここを通るのは大人だけではない。子どもたちも通るし、老人だって通る。また夕方以降暗くなってから通らなくてはならない場合だってあるだろう。橋から落ちて命を落とすかどうかはやや微妙なところだが、確実に大怪我をする。場合によっては死んでしまうだろう。雨季で水で一杯のときには溺死する可能性も高い。
    ミャンマーに限ったことではないが、日本のように国民がほぼ誰でも泳ぐことができる(程度の差はあっても)という国はあまり多くないのだ。ただし両端の入り口のところにゲートのようなものがあったため、ある一定の時刻に締め切り、朝決まった時間に開けるようになっているのかもしれないが。
    茹でたカニ
    サーモーサーと小エビのかきあげ
    橋を渡りきったところには二軒ほどの食堂がある。軒先では調理したカニを売っていた。淡水のカニにしてはけっこう大ぶりで上海蟹くらいのサイズはある。茹でて真っ赤になっているカニの甲羅は外してあり、カニミソがたっぷり詰まっていて旨そうだ。小エビのかき揚げも売られており食欲をそそられる。
    近くには寺や学校もある。かなり規模の大きな集落になっているようだ。
    子供たち

  • 彼方のインド 5

    ヒルステーションとはいえ、また暑季とはいえ、観光客でごった返すインドのそれとは違い、ピンウールィンは英領期の古いものがほどよく残っている。
    また高原とはいってもほぼ平坦な土地であることから、自転車で巡るのも苦にならず、休暇を過ごすにはもってこいの土地であった。
    ピンウールィンはさておき、ミャンマー全般に言えることだが、またミャンマーの人々に対して失礼かもしれないが、ただインドの隣の国であるということのみならず、インドの北東部にいるかのような気がすることがある。
    モンゴロイドの多い(州によってその度合いは様々だが)北東州のすぐ東に位置しており、インド平地からの移民も多いこともある。加えてインドの様式を取り入れた植民地建造物であったり、旧英領各地でも今でも見られるゼブラに塗り分けられた道路縁石であったりするのは、かつてはインドと合邦していたという経緯のためである。
    ミャンマーの最高学府ヤンゴン大学は、1878年にカルカッタ大学を構成するカレッジの中のひとつとして創設されている。やがて独立したひとつの大学としてラングーン大学として再構成されるのだが、イギリスから独立してからもしばらくの間は、東南アジア随一の名門大学として内外から高い評価を受けていたようだ。
    すぐ東のタイに較べて地理的に近いこともあり、文化的にインドから与えられた影響もかなり強いことは言うまでもない。町中には、同様に本来インドではなかったとはいえ、多かれ少なかれインド文化の影響を受けてきたモンゴロイドの人たちが暮らすインド北東州と共通するたたずまいがあるような気がするのだ。
    仮にイギリスのビルマに対する進出がもっと早い時期から始まっていたら、あるいはビルマ族が人口規模や文化的なまとまりを欠いていたならばどうなっていただろうか。彼らを除けばかなり人口規模の小さい幾多の民族から成るビルマは、現在のインド北東州のうちのいくつかで今でも武装闘争が続いているのと同じように、不満を抱く人々が少なくないながらも、インドという大きな国家の中に従属していたかもしれないとも思う。
    ミャンマー北西部サガイン管区のインド寄り地域には、インドのナガランド州同様にナガ族が生活している。よく民族のモザイクと表現されるインドだが、そのインド世界の外延部にあたる北東州と合わせて、印緬国境を越えて広がる多民族・多文化の回廊地域として捉えることもできるのではないかと思う。
    各民族による自治要求をめぐる運動が活発であることも共通しており、今でこそミャンマーも各武装勢力との和解も進んできているものの、かつては『ラングーン政府』と揶揄された時代もあった。ミャンマー国内で概ねビルマ族がマジョリティを占める地域は管区(Division)、その他の民族の勢力が強い地域は州(State)と色分けされているようだ。
    インド北東部、ミャンマーともに中央の政府によりひとつの国家として治めていくのはなかなか難しい地域でもあるようだ。

  • 彼方のインド 4

    ピンウールィンの駅舎の前にある線路を超えた先には鉄道車庫や貨物用の引き込み線などがあった。そのあたりは鉄道関係者の住宅地域でもある。
    町から見て線路向こうのほうにイギリス人墓地があるとのことだが、それらしきものは見当たらない。通りがかりのインド系とおぼしき男性にイギリス人墓地について尋ねてみる。北東へ走る線路の向こう側に見える大きな教会の脇にあるとのこと。
    そこは今でも現地のクリスチャンが亡くなれば埋葬されている場所とのことで、今では特にイギリス人墓地ということではないらしい。もちろん現在もピンウールィンに数多く暮らすアングロ・インディアン、アングロ・バーミーズの人々が亡くなるとそこに葬られるようだ。
    墓地入口
    自転車で出かけてみると10分くらいで着いた。カルカッタのパークストリート墓地のような立派なものではなく、無数の十字架が並んでいた。ただしよく見てみると墓標のあるものもあり、1877年に豪州で生まれた人のものもある。この人は海外領出身のイギリス人とであるとみて間違いないだろう。独立後もここに残ったらしく、1963年に亡くなったことが記されている。
    古い墓標で今でもちゃんと読めるものは数少ない
    その後、昨日同様にクリスチャン墓地に行く。場所はかなり広いが、あまり大きな墓標はない。ひどく崩れてしまっていたり、文字が読めなくなってしまっているのも多い。
    しかしここは英領としての歴史さほど長くなかったこと、植民地としての格もインド本土の主要な都市と較べて高くないため、英国人墓地といっても、植民地史上あまり著名な人物は埋葬されていないものと想像できる。
    墓地のあまりに荒涼とした様子が不憫であった。
    寂寞とした墓地敷地内

  • VISA ON ARRIVAL@MYANMAR

    ミャンマーのヴィザに関するルールが一部改定されていることに、5月1日から変更されていたことに今更ながら気がついた。それはヤンゴン・マンダレー両空港における、ちゃんとした『オン・アライヴァル』ヴィザ導入である。
    これまで、ミャンマーのヴィザは事前にわざわざ大使館に出向いて取得しなくてはならなかった。あるいは『アライヴァル・ヴィザ』なる制度があり、事前にミャンマー現地にあり、当局から取り扱いの指定を受けている旅行代理店を通じて申請、到着時に『ヴィザを受け取る』というものであった。後者については入国の1か月前くらいには申請しなくてはならなかった。時期によっては運用が停止されていることもあったし、団体客だけという時期もあった。
    どちらにしても入国するに先立って準備をしなくてはならず、『ちょっと時間が出来たから旅行に出よう』と突然思い立ったり、滞在先(主にタイ)で、『ミャンマーに行こう!』と気が向いた翌日あたりに飛んだりするのはなかなか難しかった。そうでなくとも事前に大使館に二度も出向く(申請と受領とで)のは面倒である。
    ASEANの大半の国々では日本を含めた多くの先進国の人々に対して、一定期間の観光目的での滞在についてはヴィザ免除ないしは入国地点で到着時にヴィザ取得が可能という措置を講じていることもあり、特に関心のある人でなければ、あまりミャンマーへ足が向かなかったのではないかと思う。
    基本的には空路からの出入国(ごく一部例外的な部分もあるが)になること、まだミャンマーに乗り入れる航空会社が少ないこと、それも周辺国からのフライトしかないことなど、観光客誘致については障害となる部分は少なくないとはいえ、今後は隣国でフライト数が多く、チケット代金も低廉なタイを経由しての訪問が特に増えることだろう。
    またインド滞在中でコールカーターからヤンゴンを往復するという利用もあるかと思う。ただしインドのヴィザに2ヵ月ルールが導入されたことがネックにはなる。マルチプル・エントリーのヴィザを所持していてもそのまま出国してしまうと2ヵ月間は入国できなくなってしまう。インドのヴィザ取得時に第三国とインド間で出入りする予約の入った航空券と旅程表などを提出することにより、それよりも短い期間でインドに戻ることは可能になるようだが。
    ヤンゴンあるいはマンダレー到着時のミャンマーのヴィザ取得条件等については、Myanmar P.L.G. Travel & Tours Co. Ltd.のブログ『PING LONG 現地生情報』をご参照願いたい。
    ヤンゴンで日付をまたいでの乗り換え需要もあるかといえば、そうではないようだ。現在までのところヤンゴン空港に離着陸しているナショナル・フラッグ・キャリアのMyanmar Airways International (MAI)のフライトは、バンコク以外にはクアラルンプルとシンガポール便のみと寂しい限り。
    ずいぶん長きにわたり経済的に停滞している国への乗り入れ需要が少ないこともあるが、、欧米諸国等による経済制裁下にあるということも大きい。特にアメリカの場合、ミャンマー製品を自国に輸入することさえ禁じており、例えば旅行者が現地で購入した民芸品のような他愛のないものであっても、米国内に郵送することは不可となっているようだ。
    ミャンマー政府は、とうの昔にビルマ式社会主義という国家理念に基づく計画経済を放棄して市場主義経済化を推進、様々な分野における民営化を積極的に実施してきたのだが、この国にとって欧米という大きなマーケットが存在せず、それら先進国からの直接投資を得る機会もまず無いといった、政治的・人為的な要因で浮上の機会を失っているという側面もある。
    そうした中でミャンマーと積極的に経済交流を深めている中国は独り勝ち状態で存在感を高めているというのは皮肉である。
    さて、この新しいアライヴァル・ヴィザの制度が今後安定して運用されることを期待するが、今後この国を訪れる人々の数がどのように推移するのかについても注目していきたい。
    ※彼方のインド 4は後日掲載します。

  • 彼方のインド 3

    どこかの教会からカランカランカランカランと長く連続する鐘の音が聞こえてくる。植民地時代からずっと続いてきたものなのだろう。はるか彼方から渡ってきたイギリス人たちが去ってからも、彼らがこの地に残したクリスチャンたちの間でその信仰はしっかりと根付いているのだろう。
    Purcell Tower
    宿で自転車を借りて市内散策。まずはPURCEL TOWERという時計台のあたりへ。ここは賑わうマーケットとなっている。屋根の付いた大きな市場もあるし、その脇の道路では様々な食べ物の屋台が店を開いている。
    屋台
    このあたりにはインド系の人々も多く、いくつものヒンドゥー寺院やモスクがある。通りを数台のバイクにまたがったスィク教徒の若者たちの姿もある。インド系の人が経営する安宿もあるようだ。そんなわけでこのエリアではインド系の人、とりわけ一軒の店を構えている人物相手ならば、かなり普通にヒンディーが通じる。
    シュリー・クリシュナ寺院
    シュリー・ガネーシュ寺院
    そうした人々が切り盛りする店のひとつに入って腹ごしらえする。ローティーとともにサブズィーやダール等のおかずのターリー。客席で注文を取る男も厨房で大汗かいて働いている人も北インド平原部で見かけるような風貌の人たちであるだけに、インドのダーバーと同じようなものが出てきたが、口にしてみるとかなり砂糖の甘みを感じることに、ここが東南アジアであることを感じる。
    ターリー
    食事を終えてから自転車にまたがると、サドルから突き出ていた金具にズボンが引っかかって裂けてしまった。メインストリートを渡ったところにある屋根付きの市場に行く。インドにしてもミャンマーにしても、身に付けるものが壊れても、修理屋がすぐそこにあるのはありがたい。
    いくつかの仕立屋があった。働いているのは若い女性が多かった。大汗かいて湿った、ところどころ塩を噴いたようになっているズボンを託すのは気恥ずかしいため、どこかオジサンのやっているところはないか?と思えば、ほどなく見つかった。ロンジー(インドでいうところのルンギー)を借りて、ズボンを預ける。
    店の人、Sさんはかなり流暢なヒンディーを話し、英語もなかなか上手な感じである。話すこともなかなか知的で、町角の仕立屋さんというよりも学校教師のような雰囲気がある。ズボンが直ってからもしばらく彼の話を聞いていると、もうひとりインド系の人がやってきた。このKさんは長らくヒンディーを教えることを生業してきたのだという。ミャンマーの学校教育でヒンディーが教えられることはないのだが、個人的に家庭教師や講師として雇われて教えてきたそうだ。
    同胞が集中しているコミュニティで生活していれば自然と身に付いていくものとはいえ、そうではない生活条件の人もある。またミャンマーでのヒンディーは生活や仕事の中での口語が中心である。ヒンディーによる報道等のメディアは原則として禁止されているし、文芸活動も無い等しいだろう。そんなわけで、ビルマ語の読み書きは問題なく(この国の識字率は89.7パーセント。ベトナムとともに後発発展途上国の中では突出している)ても、ヒンディーによる読み書きはできないということが珍しくないようだ。それがゆえにヒンディー教師の需要があるらしい。
    Sさん(左)とKさん(右)
    SさんもKさんもビハールからやってきた移民の四代目にあたる。前者はムスリムで後者はヒンドゥー。どちらも先祖が農業移民としてやってきた。今も昔もビハールは無尽蔵の労働力の供給基地のようだ。多くの場合、数世代経ると先祖の故郷の土地の名前は知っていても、すでに遠縁となった現地の親戚との繋がりは途絶えてしまうが、驚いたことKさんは2000年に訪印して曽祖父が生まれ育ったガヤー近郊の村を訪問したのだという。
    たとえその言葉をヒンディーと呼んでもウルドゥーと呼んでも、そのコトバで話すことがやけに歓迎され、店先で「これ試してみてよ」とミターイーを渡されたりもする。そのコトバがインドではずいぶん隅に置かれているのとはかなり違うようだ。
    もちろん本場同様、社会的に高いステイタスを持たない普段着のコトバであるにしても、『本場』ではごく当たり前で誰もが話す普遍的な言葉であるのに対して、ここでは、ビルマ語の大海の中で、自分たちのコミュニティ内でしか通用しない利便性の低い言語ではあるものの、裏を返せばコミュニティの結束や文化・伝統を維持する民族語としての誇りがあるがゆえのことだろう。
    インド系とはいっても、圧倒的大多数はインドを訪れたことがない。それでも強い関心はあるようだ。デリーやムンバイーの街の様子、現在のラクナウーやパトナーがどんな具合かといったことを少し話すだけで、矢継ぎ早に様々な質問を受けることになる。
    独立後の政策により、とりわけ1960年代以降は、行政・教育等のビルマ語化が強力に推し進められてきたこの国では、意外なほど英語が通じない。また私はビルマ語はまったく知らないので、旅行中は往々にして無言の行みたいになってしまう。それだけにビルマ語の大海の中に点在するインド空間では人々の話がいろいろ聞けて和む。
    メイミョーへのインド系移民の出身地の最たるものは、やはりU.P.こと英領時代のUnited Provinces(ウッタラーカンドが分離する前のウッタル・プラデーシュととほぼ同じ範囲)とビハールが多いそうだ。カマルさんの曽祖父はビハールのパトナーからやってきた人のことで、鉄道建設関係でも、兵士でも役人でもなく、農業移民だったとのこと。今も昔もビハールは労働力の供給基地みたいな感じである。
    他にも祖父が鉄道員だったとか、軍人であったという人たちの話も聞いた。1857年の大反乱以降、それ以前は兵士のリクルート先として比重の高かったベンガルを中心とする東部から、パンジャーブを中心とする西部ならびにネパールのグルカ兵へと比重が移っていったため、後者の場合はそれらの地域を起源とする人たちが多かったのである。
    第三次英緬戦争時にマンダレーに上陸する英軍
    根掘り葉掘り尋ねたりしなくても、なぜあなたがたがここに?と問うだけで、人々は自らの家族史を語り始めるので聞いていてなかなか面白い。
    英領期のインドからの移民の送り出し要因、出向いた先の引き寄せ要因などはいろいろ研究されている。しかしながらここに渡ってきた人々の日々の生活と収入の手段の変遷、何割くらいの人々が契約・赴任期間満了等で出身地に戻ったのか、故郷に帰ることなくここに定着した人々がそれを決めた理由、現地定住以降のコミュニティ形成、故郷との連絡状況、婚姻や通過儀礼等、社会・経済的立場等々を調べると、いろいろ興味深いものが出てくるのではないかと思う。
    20世紀初頭には、ラングーン(現ヤンゴン)の人口のおよそ半分はインド人たちが占め、当時のビルマ最大の都市は文字通り『インドの街』であったこともある。その他ピンウールィン、シットウェー、パテインその他インド系の人々が多数定住しているところは多いが、1937年の英領インドとの分離、1948年のイギリスからの独立、1962年の軍事クーデターいう三つの大きな節目はそれぞれインド系の人々に不利に働いたため、多くの資本や人々がこの国を離れてインドないしは第三国へ移動している。
    インドの一部を成していた時代には、様々な分野の労働者以外に、行政の中堅・下級官吏の多くをインド人たちが占め、軍の将兵の多くもインド人たちであったが、その後彼らはそうした地位から追われることとなり、行政・政治の分野で支配的な立場から姿を消すこととなった。そんなわけでインドの年配者の中で『昔、ビルマで生まれ育ちました』という人に今でもごくたまに出会うことがある。
    せっかくミャンマーまでやってきて、こんなことに関心を持つのもなんだが、やはり「一時期インドの一部を成していたビルマ」である。
    インドとの分離直前のビルマ
    先日取り上げてみた Candacraigをはじめとするヘリテージ・ホテルに転用されたもの以外にも、往時に建設されたバンガローはいくつも現存している。また政府の建物にも英領期のくたびれたものが多く見られる。
    発展から取り残された国であるがゆえに、インドのヒルステーション全般と比較して、植民地期のものがよく残っているといえる。そうしたものが取り壊されることなく、また最近出来た新しい建物に規模の点でも圧倒されることなく、豪壮な威厳を保っていることも特徴であるといえる。しかしそうした状態は、いかにこの国の停滞ぶりを示すものであり、決して文化財や歴史的建造物の保全が充実しているといったものではない。
    目下、ビンルーウィンことメイミョーは、ITシティーとしての発展が期待されているのだという。今のところ町を流してみてITを感じさせるものは何ひとつ見当たらないが、国としてはそういう方針らしい。高原の町ということもあり、インドのバンガロールを小さく小さくスケールダウンしたようなものを目指しているのだろうか。
    〈続く〉

  • KKHの湖

    中国の援助により1966年に着工し、20年後の1986年に全線開通したパーキスターン北部から中国新疆ウイグル自治区へと抜ける国道35号線、通称カラコルム・ハイウェイ(KKH)は、厳しい地理条件のところを通っているため、しばしば崖崩れや落石で不通となるが、今回はこれまでになく深刻である。中パの間の陸路交通手段の途絶以上に現地の多くの方々の人命や財産にかかわる大きなトラブルが発生しているからだ。
    フンザ地区で今年1月に発生した大規模な崖崩れが発生。その際にふたつの村とそこに暮らしていた人々が犠牲となっているが、岩石や土砂がダムを形成し、川が堰き止められたことにより湖が出来上がってしまい、周辺地域の他の村落等が水没するなどの影響を及ぼしている。カラコルム・ハイウェイもこの部分で交通が途絶している。
    Update: Pakistan’s Karakoram Highway Blocked by Major Landslide (Matador Trips)
    現在、湖はコンスタントに成長しているおり、近々決壊することが予想されるなど、非常に危険な状態にあるそうだ。そういう事態となれば、大量の水が土砂とともに鉄砲水のように下流地域の村々を襲うことになるからだ。
    パーキスターンで観光ガイドをされている方のブログ『フェイサル・シャーのパキスタン便り』でもその模様を取り上げており、「5月から雪解け水が増えるから6月から8月までフンザ河の流れがとても激しくなり・・・」とあるように、ますます拡大する湖を前に緊迫した状況がうかがえる。
    今後の進展が気になるところである。
    The water bomb (DAWN.COM)