BBC World Serviceによるこのプログラムは、もともと『Climate Change : Taking the Temperature』という特集の中で、地球温暖化による社会への影響を探る試みのなかのひとつとして、バングラーデーシュのデルタ地帯の水際で生活する人々を例にとって2週間に渡ってリポートするものであった。だが先週のバングラーデーシュを襲ったサイクロンと時期が重なり、その被害に関する報道とジョイントした内容になっている。
悠久を思わせる大河の眺めとは裏腹にグローバルな規模で進行中の深刻な気候の変化。ここに取り上げられた写真と文章を見ながら、何か身近なところでできることはないか考えてみるのはどうだろうかと考えさせられるとともに、今回のサイクロンの被害については、本日まで各メディアを通じて耳にしている数字よりも大きな被害となりそうで、たいへん気にかかるところだ。
それでも、バングラーデーシュの豊かな自然、とりわけ水際のとても美しい景色を想うと、いますぐ私もそこに出かけてみたくなる。おりしも乾季のシーズンでもある。バングラーデーシュ側でもインドの西ベンガル州側でもいいのだが、世界最大のマングローブの森、スンダルバンを訪れてみたいなあ、とボンヤリ思う。
Bangladesh River Journey
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カテゴリー: greater india
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Bangladesh River Journey
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お隣さんはどこに行く??
それにしても今のパーキスターンの混迷ぶりは気にかかる。その有様を眺める世間の視線もまた気になる。世の中で広く『民主主義=善』『軍事政権=悪』と認識されている。広く民意を募り、つまり公平で自由な選挙という手段によって選ばれたもの、人々の信任を得たものが最良であるという前提がある。国民の総意を結集して樹立した政府に能力の不足や不手際があればふたたび選挙によりそれを交代させることができるという、政治勢力間の競争原理が働くがゆえに、ベターなガバナンスが可能となる・・・はずなのだろう。
しかしどうした具合か、パーキスターンではその民主主義がうまく機能しないことが多い。文民政府が迷走し、あるいは腐敗の度合いを深めると、「コラーッ!』と怒鳴り込んでくる『雷オヤジ』か、または腐敗した政府に鉄槌を下すための『懲罰機関』であるかのような観さえある。これまで市民の間にもそれをある程度許容する部分があったのだろう。政界で選挙を通じて選び出された政権と軍の威光が並立してきたその背景にあるのは、民主主義というシステムの機能不全である。
しかし軍政=強硬派による兵倉国家という図式にならないのがパーキスターンである。現在大統領職にあるムシャッラフ氏は、有能な統治者であり軍籍にありながらも、政治的には穏健でリベラルな思想を持つ人物として認識されてきた。隣国インドにとっても、『テロと闘う盟友』のアメリカにとっても、パーキスターンの指導者として少なくとも今までところは『余人を持ってかえがたい』存在である。
ムシャッラフは、兼務している陸軍参謀長を11月末までに辞任して軍籍から離れ、次期は文民として大統領職に就きたいとの意向を明らかにした。また11月15日に下院が任期満了により解散し、翌16日に選挙管理内閣が発足。上院議長モハンマド・ミヤーン・スームローが暫定首相に任命されている。1月9日までに予定される総選挙は非常事態下で行われる可能性が高い。つまり集会や結社の自由などが保障されない状態での選挙となることから、公平性や透明性が期待できないとの批判を招くことだろう。
総選挙を前にして、現在同国の政治を率いるムシャッラフ、彼と組んで与党として政権を運営してきたPML、首相返り咲きを狙って帰国したブットーと彼女が率いるPPPという、三者三様の思惑が渦巻く中、先行きは不透明なままである。しかしながら米国にとっては、ムシャッラフ+PML、ムシャッラフ+ブットー率いるPPP、はてまた非常事態宣言に続いて二度にわたる自宅軟禁を受けてムシャッラフに対して激しい批判の声を上げ始めたブットーとPPPがこのままムシャッラフとの距離を広げていっての独走も、場合によってはありえるのかもしれないが、いずれが浮上しても、親米という路線は不変であろう。ムシャラフ氏の専横の度が過ぎて、米国は表面では圧力をかけつつも、本音はちょっと違うのだろう。、最終的に勝ち馬に乗ればいいのだから、目下冷静に様子見である。現在のところパーキスターンとの関係がまずまず良好な隣国インドは大きな変化を望むはずはなく、前者の組み合わせでの現状維持を期待するといったところだろう。
しかしながら万が一、この三つの勢力に批判と抵抗を続ける原理主義勢力が急伸し、強硬な反米政権が樹立されることになったどうなるのだろうか。今のところ既存の宗教系政党でそこまでの力を持つものはないので心配はないが、数年後はどんな構図になっているかわからない。原理主義過激派が暗躍する素地を作ってきたのはパーキスターンの歴代の政治による部分が大きいとはいえ、昨今こうした勢力が急速に台頭しているのも民意の表われのひとつでもある。
だがもっと現実味のある危険なシナリオもありえるかもしれない。軍の中に現在のムシャッラフのスタンスに反感を抱く勢力もあり、新たなクーデターの懸念が出ていることがそれだ。こうした懸念があってこそ、先日『ムシャッラフが自宅軟禁』というデマが流れたのではないだろうか。再度のクーデターにより、いくつもの欠陥があれどもとりあえずは前進してきた民主化のプロセスが水泡に帰してしまうだけではない。世俗的かつ穏健派であったムシャッフラに異議を唱えるのはどういう人物であるかということを思えば、かなり危険なものを感じてしまう。
それだけではない。まだ64歳で健康面での不安が伝えられることもないムシャッラフ氏だが、これまで幾度となく暗殺の危機を切り抜けてきた。果たして身近なところに敵対勢力への内通者がいるのかどうかわからないが、流動的な状況のもとで今後も同様の事件が起きても不思議はない。盤石な支持基盤を持つ大政党を背後に持たない彼が、ある日突然この世からいなくなるようなことがあったら、いったいどうなるのだろうか。混沌下で権力の継承がなされぬままに、突然ポッカリと大きな真空状態が生まれてしまうことが一番恐ろしい。
6月10日の総選挙後、北部オランダ語圏と南部フランス語圏の地域間対立をもとに新たな政権を樹立できない空白状態が150日を越えるという稀有な迷走ぶりを見せているベルギーのような国もあるが、パーキスターン政治の混迷は大規模な流血の事態を招きかねず、経済や市民生活に与えるインパクトも甚大である。パーキスターンは事実上の核保有国であることから、有事の際にパーキスターンによる核使用を懸念しなくてはならない隣国インドはもちろん、他国等への核拡散の不安もあることから、遠く離れた国々にあっても無関心ではいられない。
圧政の継続か民主主義の復権かが問われるところだが、本来尊重されるべき『民意』の中にも実にいろいろな部分がある。単に自らの保身というわけではなく無用な流血や混乱を避けるとともに、自国の将来を見据えて平和裏に軟着陸させようと、ベターな『落としどころ』を懸命に探っているのが現在のムシャッラフ氏なのではないかと推測するが、今後かたときも目が離せないパーキスターン情勢である。
〈完〉 -
お隣さんはどこに行く??
9月10日のナワーズ・シャリーフ前首相の帰国直後の逮捕と国外追放、10月18日のベーナズィール・ブットー前首相の帰国当日夜のカーラーチーでの凱旋パレードの際に起きた、パーキスターン史上最大級と言われる被害を出した自爆テロ事件、大統領選立候補資格の有無をめぐる最高裁との対立、テロの拡大等を理由にした非常事態宣言発令、司法の痛烈な批判と最高裁長官の首すげ替え、閣僚宅への過激派による自爆攻撃、ブットー前首相の自宅軟禁とその解除を繰り返すなど、混迷が続くパーキスターン情勢。
亜大陸の反対側にあるバングラーデーシュも、今年1月に総選挙が実施されるはずであったが、対立する政党間での軋轢が激化した結果、大統領による非常事態宣言発令、選挙管理内閣による統治へ。選挙は現在のところ来年10月以降になりそうな見込み。こちらもまた先行き不透明だ。
もっともインドもかつて為政者が強権を発動した時期がなかったわけでもないし、北東部やカシミールでの分離活動やそうした地域で主に軍による人権抑圧、オリッサ、ビハール、アーンドラ・プラデーシュその他広い地域で活動する極左集団、カーストやコミュニティをベースにした対立等々さまざまな問題を抱えている。また90年代から経済的に目覚しい発展を遂げることになったとはいえ、それ以前は長く停滞にあえいでいた。
それでも総体として今のインドの好調さと安定ぶりは際立っている。旧英領『インド』としての歴史を共有する兄弟国でありながら、なぜこうも違うのだろうか?という思いを抱かないでもない。もっとも分離前の広大な地域をまとめあげたのは、亜大陸に住む人々自身ではなく、イギリスの統治によるものであったことから、元々同じ国であったとすること自体に幻想が含まれているのかもしれない。
もっとも今のインドにしても、現在の優位が未来永劫に続くという保証があるわけではない。20世紀には『来たる××年代の大国』『次世紀のアメリカ』と目された国が失速していく例はいくつもあった。インドとて、10年、20年後どうなっているかについては誰も正確な予言をすることはできないだろう。そもそも経済とは自国内のみで完結するものではないし、特に今の時代にあっては国際情勢その他、自分たちではどうにもコントロールできない事象に影響されることも多い。
〈続く〉 -
サイクロン接近!
ベンガル地方に時速200kmという強い風速の大型サイクロンが接近中。すでにインドの隣国バングラーデーシュの主要港であるチッタゴンやコックス・バーザールは操業を停止しているのだとか。嵐は本日11月15日夕方から翌16日にかけて、ベンガル地方を縦断する見込みだ。
早期警戒システムの導入とコンクリート製のサイクロンシェルターを多数建設したおかげで、バングラーデーシュにおけるサイクロンの被害は相当少なくなってきているとはいうものの、デルタ地帯からなる低地が国土の大半を占めるため、風雨による直接のインパクトに加えて、高潮による影響も懸念される。
このサイクロン、バングラーデーシュはもとより、インド東部沿岸部やミャンマー西部海岸地域にもかなりの爪痕を残すのではないかといわれている。今からほぼ24時間の事態の推移が気になるところだ。下記のロイターによる記事にあるように、今回のサイクロンは『Terrain lower than 3 metres (10 feet) above sea level may be flooded requiring massive evacuation of residential areas as far inland as 10 km (6 miles).』『Complete destruction of mobile homes 』という事態を含めた甚大な被害が心配される規模であるらしい。
洋の東西を問わず、自然災害に際して貧しい人ほどその影響を受けやすく、また被災からの回復にも時間がかかるものだ。明日、明後日以降に私たちが目にするニュースが心痛むものでないことを願うばかりである。
Super cyclonic storm Sidr (Reuters)
Storm lashes Bangladesh coast, thousands evacuated (Reuters) -
東西ベンガルの都 鉄道ルート開通近し
コールカーター・ダッカ間を結ぶ列車の運行が近々再開されるようだ。バングラーデーシュ独立前、東パーキスターン時代の1965年から42年もの長きにわたり、両国間の鉄道リンクは断ち切られたままであったが、ここにきてようやくあるべき姿に戻るといったところだろうか。この背景には様々な要因がある。まず両国の間に横たわる様々な問題がありながらも、これら二国間の関係が比較的安定しているという前提があってのことだが、経済のボーダーレス化、グローバリズムの流れの一環ともいえるのだろう。国土面積は日本の4割程度とはいえ、実に1億4千万超の人口を抱える世界第8位番目の人口大国であるバングラーデーシュは、隣国インドにとっても無視することのできない大きな市場であり、産業基盤の脆弱なバングラーデーシュにとってみても、すぐ隣に広がる工業大国インドは決して欠くことのできない存在だ。
ベンガル北部大きく迂回した細い回廊部分によりかろうじて物理的に『本土』とつながるインド北東諸州にとっても、人々の移動や物流面で平坦なガンジスデルタ地域に広がるバングラーデーシュ国内を『ショートカット』して通すことができれば非常に都合が良い。『インド国内』の運輸という点からも、バングラーデーシュとの良好な関係から期待できるものは大きいだろう。コールカーター・ダッカ間のバス開通に続き、ダッカからアガルタラー行きのバスが運行されるようになったのと同じように、やがてはダッカからインド北東部へと向かう列車が走るようになるのだろうか。旅客輸送のみならず、現在両国間の貨物の往来はどうなっているのか機会があれば調べてみたい。
地勢的に東北諸州を含むインド東部とバングラーデーシュは分かち難いひとつの大きな地域であることから、本来相互依存を一層深めるべき関係にある。今後、『そこに国境があるということ』についての不便さや不条理さを意識すること、国土が分離したことに対する高い代償を意識する機会がとみに増えてくるのではないだろうか。またバングラーデーシュが低地にあるため治水面でインドの協力がどうしても必要なこと、今後懸念される海面上昇のためもともと狭い国土中の貴重な面積が消失することが懸念されていることなどを考え合わせれば、隣国とのベターな関係を築くことをより強く必要としているのはバングラーデーシュのほうだろう。経済の広域化と協力関係が進展するこの時代にあって、これら両国が今後どういうスタンスで相対することになるのか、かなり気になるところだ。
First India-Bangladesh train link (BBC South Asia) -
右ハンドルでKeep Right !
インドの隣国ミャンマーの道路について特に印象に残ったことがある。路上を走る車両のほとんどが右ハンドルながら右側通行であることだ。
この環境下で左ハンドルという『正しい仕様』のクルマといえば、日本のマツダが現地で合弁生産しているジープ、ポンコツの中国製トラック、さらに稀なものとしてメルセデスやBMWなど西欧の自家用車など非常に限定的なものである。それに対して大多数のクルマは商用車から自家用車、小型車から大型車まで、目にするクルマのほとんどが日本やタイといった左側通行の国から運ばれてきた日本メーカーの中古車ばかりだ。聞くところによると、ミャンマーでこれらの車両の輸入に関わる人たちにはインド系、とりわけムスリムの人々の存在が大きいらしい。日本から自国やロシアなどに中古車を輸出するパーキスターン人の業者は多いが、これらの取引でいろいろつながりがあるのかもしれない。
ともあれ、左側通行の日本を走るクルマがほぼすべて左ハンドルになったようなもので、なんとも危なっかしい。自家用車はもちろんのこと、特にバスやトラックのような大型車両が前を走る同サイズのクルマを追い越そうとする際、本来あるべき左ハンドルの車両よりもずっと大きく反対車線にハミ出ることになるのが恐ろしい。
中央車線寄りに運転席があれば、少し白線を越える程度で先方の状況がわかるが、運転席がその反対にあれば巨大な車幅のほぼ全体を左にスライドさせないと見渡すことができないのだ。この原因による事故はかなり多いはずだ。
対向車線を走るバスがいきなり『ニュ〜ッ』とこちら側に飛び出してくるのを目にするのも怖いが、そこにしか空きがなくてバス前方左側に座らされるのもかなりスリリングだ。
こういう環境に育つと『右側通行である。ゆえに右ハンドルなのだ』という間違った思い込みをしてしまうのではないかと思う。ほとんどのクルマの供給元が左側通行である日本(およびタイ、シンガポールといった近隣国)を走っていた右ハンドルの中古車である以上、右側通行に固執するのには無理がある。
バスの場合は乗降口の問題もある。ヤンゴンの市バスはさすがにドアを車両右側に付け替えてある(ゆえにドアの折り返しが反対になってしまう)が、同様のタイプで都市間を結ぶ数時間程度の中距離バスにも使用されているものは日本で走っていたままに左側のドアから客を乗り降りさせている。大型シートのハイデッカータイプの長距離専用バスについても同じだ。国道で他のクルマがビュンビュン走る側に降車することになるため、見ていてハラハラする場面が少なくない。
ところで旧英領であったこの国は元々右側通行であったそうだ。1970年のある日、突然右側通行に変更になったのだという。切り替え後には相当事故が起きたことだろう。もっともその時代はクルマ今よりずっと少なかったはずではあるが。今となってはまた左にシフトするのは無理だろう。
それがゆえに、右ハンドルの日本車ではなく左ハンドルの韓国や中国の車両の需要が大きいのではないかと思うのだが、前者がほぼ皆無で後者もごく限られた数しか入ってきていないのはどうしたことだろうか。
実情をわきまえずに左側通行から右側通行に変更するという、今から40年近く前に起きた過ちのツケを今なお人々危険な思いをし、時にはそのツケを『命』でもって支払っていることであろうことは容易に想像がつく。民意の届かない国ではあるが、早急に何とかしなくてはイカンのではないだろうか。 -
ミャンマーのインドな国鉄
ヤンゴン駅発バゴー行きの7UPという急行列車に乗りこんだ。ここを出て2時間あまりで到着する最初の駅がバゴーである。モン族の王朝の古都で英領時代にペグーと呼ばれていた。
アッパークラスの車両では通路左側に一列、右側に二列の大型な座席が並んでいる。リクライニングもついていてなかなか快適だ。この列車はバゴーを出てからさらに北上を続け、マンダレイなどにも10数時間かけて走るのだが、そんな長距離でもこれならば寝台でなくとも充分耐えられそうだ。これで空調が付いていると更に良いのだが。


ちょっと見まわしてみて、車両の造りがずいぶんインドのそれに似ているなあと思った。まず気がついたのは前席背面に付いている折り畳みテーブルである。ここに『SUTLEJ』の文字が入っているので、ひょっとしてこの車両はインド製ではないのだろうか。そう気がつくと、天井の扇風機、壁のプレートの合わせ目の細いアルミ板のシーリング、戸の引き手や窓の造 り、つまり外側の鎧戸、内側のガラス戸、そして座席番号を示すプレート等々、どこに目をやってもインド風である。
果たしてトイレに行こうと出入口のほうに行ってみると、トイレのドアを開けるとそこにあったのはまさしくインドの車内風景であった。そして手を洗おうと差し出すとそこには見慣れた蛇口と金属の洗面台。シンクの縁にはインド国鉄のマークまで入っていて、ちょっとビックリ。上に目をやると、そこには『Railcoach Factory, Kapurthala』というプレートがあった。これは紛れもないインド製車両であった。 -
ヤンゴンのインドなエリア 6

ミャンマーは東南アジアの西端に位置し、南アジアの東端のバングラーデーシュとインド東部と国境を接するなど地理的にも近いため景観や自生する植物などからインドを想起させるものも少なくない。またインド系の人々の存在、インドの血が混じっているとされるミャンマー西部の少数民族など人々の風貌、仏教やイスラームを通じて西から入ってきた文化の影響など、インド亜大陸起源のものがいろいろ目につくこともあるのだが、同時に英領時代の名残という部分も少なくないのではないだろう。それは植民地期の建物であったり街並みの造りだったりするが、特にヤンゴン河沿いのコロニアルなエリアでは、インド人街の外にあっても、ずいぶん強く『インドが香る』気がする。かつてインドからやってきたここに暮らした人々の存在感だけが、あたかもこの空間に残っているかのような。
イギリスの植民都市としてはそれほど古いとはいえないのだが、現在ダウンタウンとなっているかつての行政中心地界隈は、港湾を中心とした街づくりがなされており、水際近くに英領時代の重要な施設がギュッと固まっているという感じだ。どことなくコーチンのような陸上交通が発達する以前に建設された都市とイメージが重なるものがある。統治機能以外に、ここから多数の産物を外界へと輸出する重要な港町であったことも大きいのだろうが、インドやスリランカなどに比べてかなり遅れて入手した領土であったため、鉄道や自動車が走れる道路の建設が後手に回り、こうしたクラシックなスタイルの水際都市を築くことになったのではないだろうか。
1885年に英領インドに編入され、1937年にインドの行政区分から切り離されるまで、当時のビルマはインドの中のひとつのプロヴィンスとなる。まさに上から下まで各層のインド人たちが押し寄せてきて定住し、当時のラングーンはほとんど『インド人の街』となり、1930年代に入るころには市の人口のマジョリティをインド人たちが占めるまでになっていたのだという。
イギリスの植民地であったビルマだが、インドがそうであったようにイギリス人たちの姿はごく限られており、市井の人々が政府機関に所属する白人を目にする機会はそう多くなかったようだ。それに引き換え中・下級官吏、軍人、警官としてインド『本国』からやってきたインド人たちは、彼らにしてみれば日常的に目にする支配者たちであった。ビルマが英領となるよりもずっと前から、イギリスが作り上げた社会システムの中で経験を積み、能力を高めてきたインドは各分野において人材の宝庫であった。イギリスが彼らを新たに編入した新天地に導入していくこと、インド人たちの間から『自国』の一部となり可能性に満ちた新天地に赴くことを希望する者が後から後から続くことはごく自然な流れであったのだろう。
こうした人々が当時のビルマに近代的な統治機構、鉄道や道路といったインフラ、そして教育機関を次々に建設していくことになる。ちなみに1878年創立のラングーン大学(現在のヤンゴン大学)も元々はカルカッタ大学の一キャンパスという位置付けであった。1940年代から50年代あたりまでは、東南アジア地域きっての名門大学として知られ内外から多くの優秀な学生たちがここを目指してやってきたのだという。
官の世界以外でも、商人、投資家、エンジニア、労働者その他としてやってきた人たちもまた都市部を中心に各々の領域を広げていく。こうした大勢のインド人たちの進出の結果、地元の人々の活躍の場、生活の糧を次第に蚕食されてしまうことになった。同様に大量に移住してきた中国系市民たちも地元の人々にとっては脅威であったようだ。

そうした動きの中でビルマの人々のナショナリズムが高まり、やがて1937年のインドとの分離へとつながっていく。ビルマの人々にとってひとつの快挙であり、独立に向けたひとつの節目であったのだが、インド系の人々にとっては印パ分離に10年先立ち、もうひとつの『分離』があったことになるのだろう。
インド本土でも反英機運が高まる中、当時のビルマでは地元の人々による反英とともに反インド人、反中国人といったムードの中で、住み慣れた土地、不動産その他ここで築き上げてきた財産を手放してインドに戻る、あるいは他の土地に移った人々は多かった。これとは反対に、その時期までにインド本土に移住していたビルマ人たちも少なからずあったことだろう。政治の流れに翻弄された様々な人生ドラマがあったようで、訪問中に出会ったインド系の人たちからしばしばそうした話を耳にした。
国が合併するのも大変だが、分離することもまた多くの痛みを伴うものである。インドと当時のビルマはもともとひとつの地域であったわけではなく、外来勢力であるイギリスにより合併させられたものである。印緬分離の10年後に起きた印パ分離独立のように元来不可分であった地域が、インドと東西パーキスターンに引き裂かれたときほどの強力なインパクトがあったとはいえないにしても、在住のインド系の人々にとっては非常に辛いものであったことは想像に難くない。
現在のミャンマーによる自国の近代史の中における位置付けにあって、ナショナリズムの高揚による誇るべき快挙について、同国のマイノリティであるインド系の人々により『悲劇』として外に語られることはないだろう。
現在のミャンマーによる近代史における視点からではなく、当時のインド系居住者たちにより書き残されたものがあればぜひ目にしてみたいと思う。
〈完〉

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ヤンゴンのインドなエリア 5

インド人街を出てしばらく東に進むと聖マリア教会という立派な建物がある。四基地内で写真撮っていると男が手招きしている。聖職者か教会関係者であろうと思い、話でもうかがってみようと近づいてみると、『寄付をお願いしたいのですが』と言う。だがよく聞いてみると『彼自身に』ということだ。年老いた母親の面倒を見るためにお金が必要なので・・・』とか。彼自身は60歳前後あたりだろうか。欧州風の容姿から外国からやってきた教団関係者かと思ったが、この施設とは特に関係がないようだ。
彼によれば父はイギリス人、母親はビルマ人であったそうだ。なかなか風格のある顔立ちで、ここの牧師だといえば『ああそうか』と信じてしまいそうだ。しかも非常に流暢な英語をミャンマー人らしからぬアクセントでしゃべる。かなり教養は高い人物なのかもしれない。今でも都市部では英国系ミャンマー人は決して珍しくないようなので、彼も本当にアングロ・バーミーズなのだろう。唐突にキプリングの小説『少年キム』を思い出す。これが『お金をくれ』と物乞いの手を差し伸べられる出会いでなければ、いろいろ話を聞いてみたいところではある。
教会の扉は閉まっており周囲に誰もいない。初老男性とはいえいきなり強盗に早変わりすることがないともいえないので、穏便に相手をして適当な距離を保ったままそこを立ち去ることにした。 -
ヤンゴンのインドなエリア 4

インド地区のムスリムエリアの只中にシナゴーグがある。1896年に完成したThe Musmeah Yeshua Synagogueである。
18世紀初頭あたりから現在のイラクやその周辺から渡来したユダヤ教徒たちがラングーンに定住するようになっていたとされるが、彼らが本格的にコミュニティを形成するのはイギリスが下ビルマに支配を確立した1852年の第二次英緬戦争以降である。その時代になると、ユダヤ教徒といってもインド人地区にあることが示すとおり、インドのボンベイ、コーチン、カルカッタなどから渡ってきたユダヤ教徒が多かったらしい。他にイランから来たもの、イギリスから渡ってきたものなども加えた一大集団が形成されていたという。1885年の第三次英緬戦争で当時のビルマの王朝が滅亡し、翌1886年にインドに併合されると、移民の流入にさらに拍車がかかった。
第二次大戦前の最盛期には2500人ほどが生活していたそうだ。主に米、チーク材、綿花などの輸出業にたずさわっており、政府関係者としては軍人が多かった。19世紀初頭のユダヤ教徒移民たちはオピウムの取引にかかわる者も少なくなかったらしい。
日本軍の侵攻前後に多くが国外、主にカルカッタへ逃亡したとされる。また1948年にビルマが独立して、彼らの商売の後ろ盾でもあった旧宗主国のイギリスが去ったこともコミュニティが敢えてこの地に留まる理由を失わせることになった。
それでも当時新興国であったイスラエルとの関係が良好であったこと、そのころのビルマは東南アジア地域の中でも特に豊かな国のひとつであったことから、この地に残ったユダヤ教徒たちにとって比較的平穏な時が流れていたようだ。しかしビルマに残ることを選んだユダヤ教徒たちの多くに他国に出ることを決意させる出来事が起きたのは1962年に発生した軍によるクーデターである。それに続く基幹産業の国有化の波はユダヤ教徒たちの生業に対するとどめの一撃となったようだ。現在のミャンマーにはわずか8家族にして25名となったとされるユダヤ教徒である。
前述のシナゴーグでは1960年代半ば以降、司祭は常駐しておらずかつては毎週行われていた礼拝もそれ以降中止されている。
現地在住のユダヤ教徒はごくわずかとなっている今、この礼拝施設の維持等にかかる費用はここを訪れる海外からのユダヤ人観光客頼みになっているらしい。
それも現在の政権と欧米先進諸国との関係において、非常に好ましくない状態が続いており、ここを訪れる団体客・個人客ともに減っているため、存続の危機にあるとも聞く。
今回、私は訪れていないのだがMyanma Gone Yi Streetと交差する91st Streetにはユダヤ教徒墓地があるという。アウンサン・スタジアムの北東、Lutheran Bethlehem Churchの近くである。
一時期インドの一部であったこともあるミャンマーだが、ユダヤ教徒を通じた印緬間の交流が盛んな時期もあったということは今回訪れるまで知らなかった。何かの機会があれば、いつかぜひ調べてみたいものだ。

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ヤンゴンのインドなエリア 3
バンコクのインド人街およびその他インド系の人々が多く暮らしている地域の場合、インド本国はもちろん、パーキスターンやバングラーデーシュとの間で人々の行き来は現在でも少なくなく、仕事や結婚その他で新たに定住する人のほか一時滞在者も多い。そのため古くからの居住者や数世代現地で生活しているインド系の人々が次第に現地化していっても、あとから続く新規移民たちによりコミュニティの中にインド(およびその隣国)の言葉、文化、生活習慣その他『現在進行形のインドらしさ』が新たに注入されていくことになる。
1960年代に入るあたりまでは『タイより豊か』とまで言われていたというミャンマーだが、現在は周辺国に幾重もの周回遅れのトラックをヨロヨロと進むような有様。商業的にも生活水準においても、どこの国から見てもメリットを感じさせるものは何もない。軍政下であることもさることながら(主要民族であるビルマ族による)民族主義的色合いが濃い政権下にあり、外来民族であることの懸念もあるだろう。この国に住む人々には失礼だが、今の時代に南アジアの国からわざわざこの国に移住しようなどという考えを持つ人はまずいないだろう。
そのため、常に新しい移民が後から続いてくるバンコクとの最も大きな違いは、ヤンゴンにはごくわずかな商用や観光等で訪れるインド(およびその周辺国)の人々はいても、ここに定住するため流入するインド系人口はまずないと思われることだ。ここでは父祖から代を継いで語り継がれてきた『旧い時代のインド』の記憶がコンスタントに風化していき、やがてそれらが自ら生まれ育った現地のものと入れ替わっていくのではないだろうか。
ヤンゴンのインド人地区で文語としてはすでに機能していないように見えるヒンディー/ウルドゥー語ではあるが、この地域で保守的なムスリム、知識人、富裕層といった条件が加わると、とても流暢かつ語彙豊かにして本場風(!)アクセントで話す人もいるようだ。
ヤンゴンの場合外は数は多くないもののインド(およびその周辺国)から商用や観光で訪れる人々以外に、新たに現地に定着するインド系人口はほとんどないものと思われる。
地域に数多いモスクはそれぞれ先祖の地域ごとのトラストに属しており、信仰の場であるとともに同郷組織的な役割も果たしているのではないかと思われる。例えば『ベンガル人スンニー派モスク』といった具合である。
祈りの場が父祖の地域性に直結するため、信仰心厚く知的にも経済的にもゆとりのある人が言葉の上での『インド人らしさ』をより強く保つことになるのは当然のことかもしれない。
『ウルドゥーを理解すること』が彼らの信仰に結びついているがゆえではないだろうか、この地域のインド系ムスリムの人にしばしば『じゃああなたもムサルマーンなんだ!』(ヒンディー/ウルドゥーを理解することについて)と言われた。
もとより地区では人口規模からヒンドゥー、ジェィンなどよりもはるかにムスリムの存在感が大きい。インド系以外にもペルシャ系、ごく少数ながらアラブ系の子孫も住んでいるそうだ。英領時代、繁栄した港町であったヤンゴンに希望を見出して移住してきた人たちの末裔なのだろう。
外国人が利用できる宿が集まるエリアではあること以外、ここを訪れる旅行者の多くは特に興味を示すことはないようだが、意外にもかなり興味深い地域であるようだ。
〈続く〉 -
ヤンゴンのインドなエリア 2


ひとたび足を踏み入れると、コロニアルな建物+林立するモスク+亜大陸系の顔=インドのどこかで見たような空間・・・が広がっているのだ。
街のあちこちで目にする黄金色の仏塔を持つパゴダと優しい顔をした仏様からなる世界とは打って変わり、アザーンの呼びかけが流れる街中を立派なあごひげをたくわえたオジサンや黒いブルカーを被った年齢不詳の女性が行き交う。次のブロックの辻では巨木のたもとにしつらえた祠にヒンドウーのカラフルな神像。『ああこんなところにインドが・・・』と思わず立ち止っているとプージャーリーが出てきて喜捨を求めるといった具合である。

ミャンマーの総人口5300万人のうちインド系の占める割合はわずか2%というが、地域的な偏りが著しいようで、ヤンゴン、パテイン、マウルミャイン、シットウェーといった港町の商業地区に多いようだ。そしてヤンゴンのこの地区における彼らのプレゼンスの大きさときたら、まるでインドの飛び地であるかのような気がするくらいである。
