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カテゴリー: greater india

  • 東西ベンガルの都 鉄道ルート開通近し

    コールカーター・ダッカ間を結ぶ列車の運行が近々再開されるようだ。バングラーデーシュ独立前、東パーキスターン時代の1965年から42年もの長きにわたり、両国間の鉄道リンクは断ち切られたままであったが、ここにきてようやくあるべき姿に戻るといったところだろうか。この背景には様々な要因がある。まず両国の間に横たわる様々な問題がありながらも、これら二国間の関係が比較的安定しているという前提があってのことだが、経済のボーダーレス化、グローバリズムの流れの一環ともいえるのだろう。国土面積は日本の4割程度とはいえ、実に1億4千万超の人口を抱える世界第8位番目の人口大国であるバングラーデーシュは、隣国インドにとっても無視することのできない大きな市場であり、産業基盤の脆弱なバングラーデーシュにとってみても、すぐ隣に広がる工業大国インドは決して欠くことのできない存在だ。
    ベンガル北部大きく迂回した細い回廊部分によりかろうじて物理的に『本土』とつながるインド北東諸州にとっても、人々の移動や物流面で平坦なガンジスデルタ地域に広がるバングラーデーシュ国内を『ショートカット』して通すことができれば非常に都合が良い。『インド国内』の運輸という点からも、バングラーデーシュとの良好な関係から期待できるものは大きいだろう。コールカーター・ダッカ間のバス開通に続き、ダッカからアガルタラー行きのバスが運行されるようになったのと同じように、やがてはダッカからインド北東部へと向かう列車が走るようになるのだろうか。旅客輸送のみならず、現在両国間の貨物の往来はどうなっているのか機会があれば調べてみたい。
    地勢的に東北諸州を含むインド東部とバングラーデーシュは分かち難いひとつの大きな地域であることから、本来相互依存を一層深めるべき関係にある。今後、『そこに国境があるということ』についての不便さや不条理さを意識すること、国土が分離したことに対する高い代償を意識する機会がとみに増えてくるのではないだろうか。またバングラーデーシュが低地にあるため治水面でインドの協力がどうしても必要なこと、今後懸念される海面上昇のためもともと狭い国土中の貴重な面積が消失することが懸念されていることなどを考え合わせれば、隣国とのベターな関係を築くことをより強く必要としているのはバングラーデーシュのほうだろう。経済の広域化と協力関係が進展するこの時代にあって、これら両国が今後どういうスタンスで相対することになるのか、かなり気になるところだ。
    First India-Bangladesh train link (BBC South Asia)

  • 右ハンドルでKeep Right !

    インドの隣国ミャンマーの道路について特に印象に残ったことがある。路上を走る車両のほとんどが右ハンドルながら右側通行であることだ。
    この環境下で左ハンドルという『正しい仕様』のクルマといえば、日本のマツダが現地で合弁生産しているジープ、ポンコツの中国製トラック、さらに稀なものとしてメルセデスやBMWなど西欧の自家用車など非常に限定的なものである。それに対して大多数のクルマは商用車から自家用車、小型車から大型車まで、目にするクルマのほとんどが日本やタイといった左側通行の国から運ばれてきた日本メーカーの中古車ばかりだ。聞くところによると、ミャンマーでこれらの車両の輸入に関わる人たちにはインド系、とりわけムスリムの人々の存在が大きいらしい。日本から自国やロシアなどに中古車を輸出するパーキスターン人の業者は多いが、これらの取引でいろいろつながりがあるのかもしれない。
    ともあれ、左側通行の日本を走るクルマがほぼすべて左ハンドルになったようなもので、なんとも危なっかしい。自家用車はもちろんのこと、特にバスやトラックのような大型車両が前を走る同サイズのクルマを追い越そうとする際、本来あるべき左ハンドルの車両よりもずっと大きく反対車線にハミ出ることになるのが恐ろしい。
    中央車線寄りに運転席があれば、少し白線を越える程度で先方の状況がわかるが、運転席がその反対にあれば巨大な車幅のほぼ全体を左にスライドさせないと見渡すことができないのだ。この原因による事故はかなり多いはずだ。
    対向車線を走るバスがいきなり『ニュ〜ッ』とこちら側に飛び出してくるのを目にするのも怖いが、そこにしか空きがなくてバス前方左側に座らされるのもかなりスリリングだ。
    こういう環境に育つと『右側通行である。ゆえに右ハンドルなのだ』という間違った思い込みをしてしまうのではないかと思う。ほとんどのクルマの供給元が左側通行である日本(およびタイ、シンガポールといった近隣国)を走っていた右ハンドルの中古車である以上、右側通行に固執するのには無理がある。
    バスの場合は乗降口の問題もある。ヤンゴンの市バスはさすがにドアを車両右側に付け替えてある(ゆえにドアの折り返しが反対になってしまう)が、同様のタイプで都市間を結ぶ数時間程度の中距離バスにも使用されているものは日本で走っていたままに左側のドアから客を乗り降りさせている。大型シートのハイデッカータイプの長距離専用バスについても同じだ。国道で他のクルマがビュンビュン走る側に降車することになるため、見ていてハラハラする場面が少なくない。
    ところで旧英領であったこの国は元々右側通行であったそうだ。1970年のある日、突然右側通行に変更になったのだという。切り替え後には相当事故が起きたことだろう。もっともその時代はクルマ今よりずっと少なかったはずではあるが。今となってはまた左にシフトするのは無理だろう。
    それがゆえに、右ハンドルの日本車ではなく左ハンドルの韓国や中国の車両の需要が大きいのではないかと思うのだが、前者がほぼ皆無で後者もごく限られた数しか入ってきていないのはどうしたことだろうか。
    実情をわきまえずに左側通行から右側通行に変更するという、今から40年近く前に起きた過ちのツケを今なお人々危険な思いをし、時にはそのツケを『命』でもって支払っていることであろうことは容易に想像がつく。民意の届かない国ではあるが、早急に何とかしなくてはイカンのではないだろうか。

  • ミャンマーのインドな国鉄

    ヤンゴン駅発バゴー行きの7UPという急行列車に乗りこんだ。ここを出て2時間あまりで到着する最初の駅がバゴーである。モン族の王朝の古都で英領時代にペグーと呼ばれていた。
    アッパークラスの車両では通路左側に一列、右側に二列の大型な座席が並んでいる。リクライニングもついていてなかなか快適だ。この列車はバゴーを出てからさらに北上を続け、マンダレイなどにも10数時間かけて走るのだが、そんな長距離でもこれならば寝台でなくとも充分耐えられそうだ。これで空調が付いていると更に良いのだが。
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    ちょっと見まわしてみて、車両の造りがずいぶんインドのそれに似ているなあと思った。まず気がついたのは前席背面に付いている折り畳みテーブルである。ここに『SUTLEJ』の文字が入っているので、ひょっとしてこの車両はインド製ではないのだろうか。そう気がつくと、天井の扇風機、壁のプレートの合わせ目の細いアルミ板のシーリング、戸の引き手や窓の造 り、つまり外側の鎧戸、内側のガラス戸、そして座席番号を示すプレート等々、どこに目をやってもインド風である。
    果たしてトイレに行こうと出入口のほうに行ってみると、トイレのドアを開けるとそこにあったのはまさしくインドの車内風景であった。そして手を洗おうと差し出すとそこには見慣れた蛇口と金属の洗面台。シンクの縁にはインド国鉄のマークまで入っていて、ちょっとビックリ。上に目をやると、そこには『Railcoach Factory, Kapurthala』というプレートがあった。これは紛れもないインド製車両であった。

    (さらに…)

  • ヤンゴンのインドなエリア 6

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    ミャンマーは東南アジアの西端に位置し、南アジアの東端のバングラーデーシュとインド東部と国境を接するなど地理的にも近いため景観や自生する植物などからインドを想起させるものも少なくない。またインド系の人々の存在、インドの血が混じっているとされるミャンマー西部の少数民族など人々の風貌、仏教やイスラームを通じて西から入ってきた文化の影響など、インド亜大陸起源のものがいろいろ目につくこともあるのだが、同時に英領時代の名残という部分も少なくないのではないだろう。それは植民地期の建物であったり街並みの造りだったりするが、特にヤンゴン河沿いのコロニアルなエリアでは、インド人街の外にあっても、ずいぶん強く『インドが香る』気がする。かつてインドからやってきたここに暮らした人々の存在感だけが、あたかもこの空間に残っているかのような。
    イギリスの植民都市としてはそれほど古いとはいえないのだが、現在ダウンタウンとなっているかつての行政中心地界隈は、港湾を中心とした街づくりがなされており、水際近くに英領時代の重要な施設がギュッと固まっているという感じだ。どことなくコーチンのような陸上交通が発達する以前に建設された都市とイメージが重なるものがある。統治機能以外に、ここから多数の産物を外界へと輸出する重要な港町であったことも大きいのだろうが、インドやスリランカなどに比べてかなり遅れて入手した領土であったため、鉄道や自動車が走れる道路の建設が後手に回り、こうしたクラシックなスタイルの水際都市を築くことになったのではないだろうか。
    1885年に英領インドに編入され、1937年にインドの行政区分から切り離されるまで、当時のビルマはインドの中のひとつのプロヴィンスとなる。まさに上から下まで各層のインド人たちが押し寄せてきて定住し、当時のラングーンはほとんど『インド人の街』となり、1930年代に入るころには市の人口のマジョリティをインド人たちが占めるまでになっていたのだという。
    イギリスの植民地であったビルマだが、インドがそうであったようにイギリス人たちの姿はごく限られており、市井の人々が政府機関に所属する白人を目にする機会はそう多くなかったようだ。それに引き換え中・下級官吏、軍人、警官としてインド『本国』からやってきたインド人たちは、彼らにしてみれば日常的に目にする支配者たちであった。ビルマが英領となるよりもずっと前から、イギリスが作り上げた社会システムの中で経験を積み、能力を高めてきたインドは各分野において人材の宝庫であった。イギリスが彼らを新たに編入した新天地に導入していくこと、インド人たちの間から『自国』の一部となり可能性に満ちた新天地に赴くことを希望する者が後から後から続くことはごく自然な流れであったのだろう。
    こうした人々が当時のビルマに近代的な統治機構、鉄道や道路といったインフラ、そして教育機関を次々に建設していくことになる。ちなみに1878年創立のラングーン大学(現在のヤンゴン大学)も元々はカルカッタ大学の一キャンパスという位置付けであった。1940年代から50年代あたりまでは、東南アジア地域きっての名門大学として知られ内外から多くの優秀な学生たちがここを目指してやってきたのだという。
    官の世界以外でも、商人、投資家、エンジニア、労働者その他としてやってきた人たちもまた都市部を中心に各々の領域を広げていく。こうした大勢のインド人たちの進出の結果、地元の人々の活躍の場、生活の糧を次第に蚕食されてしまうことになった。同様に大量に移住してきた中国系市民たちも地元の人々にとっては脅威であったようだ。
    20070604-rangoon1.jpg
    そうした動きの中でビルマの人々のナショナリズムが高まり、やがて1937年のインドとの分離へとつながっていく。ビルマの人々にとってひとつの快挙であり、独立に向けたひとつの節目であったのだが、インド系の人々にとっては印パ分離に10年先立ち、もうひとつの『分離』があったことになるのだろう。
    インド本土でも反英機運が高まる中、当時のビルマでは地元の人々による反英とともに反インド人、反中国人といったムードの中で、住み慣れた土地、不動産その他ここで築き上げてきた財産を手放してインドに戻る、あるいは他の土地に移った人々は多かった。これとは反対に、その時期までにインド本土に移住していたビルマ人たちも少なからずあったことだろう。政治の流れに翻弄された様々な人生ドラマがあったようで、訪問中に出会ったインド系の人たちからしばしばそうした話を耳にした。
    国が合併するのも大変だが、分離することもまた多くの痛みを伴うものである。インドと当時のビルマはもともとひとつの地域であったわけではなく、外来勢力であるイギリスにより合併させられたものである。印緬分離の10年後に起きた印パ分離独立のように元来不可分であった地域が、インドと東西パーキスターンに引き裂かれたときほどの強力なインパクトがあったとはいえないにしても、在住のインド系の人々にとっては非常に辛いものであったことは想像に難くない。
    現在のミャンマーによる自国の近代史の中における位置付けにあって、ナショナリズムの高揚による誇るべき快挙について、同国のマイノリティであるインド系の人々により『悲劇』として外に語られることはないだろう。
    現在のミャンマーによる近代史における視点からではなく、当時のインド系居住者たちにより書き残されたものがあればぜひ目にしてみたいと思う。
    〈完〉
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  • ヤンゴンのインドなエリア 5

    St. Mary's Cathedral
    インド人街を出てしばらく東に進むと聖マリア教会という立派な建物がある。四基地内で写真撮っていると男が手招きしている。聖職者か教会関係者であろうと思い、話でもうかがってみようと近づいてみると、『寄付をお願いしたいのですが』と言う。だがよく聞いてみると『彼自身に』ということだ。年老いた母親の面倒を見るためにお金が必要なので・・・』とか。彼自身は60歳前後あたりだろうか。欧州風の容姿から外国からやってきた教団関係者かと思ったが、この施設とは特に関係がないようだ。
    彼によれば父はイギリス人、母親はビルマ人であったそうだ。なかなか風格のある顔立ちで、ここの牧師だといえば『ああそうか』と信じてしまいそうだ。しかも非常に流暢な英語をミャンマー人らしからぬアクセントでしゃべる。かなり教養は高い人物なのかもしれない。今でも都市部では英国系ミャンマー人は決して珍しくないようなので、彼も本当にアングロ・バーミーズなのだろう。唐突にキプリングの小説『少年キム』を思い出す。これが『お金をくれ』と物乞いの手を差し伸べられる出会いでなければ、いろいろ話を聞いてみたいところではある。
    教会の扉は閉まっており周囲に誰もいない。初老男性とはいえいきなり強盗に早変わりすることがないともいえないので、穏便に相手をして適当な距離を保ったままそこを立ち去ることにした。

    (さらに…)

  • ヤンゴンのインドなエリア 4

    インド人街のムスリム地区にあるシナゴーグ
    インド地区のムスリムエリアの只中にシナゴーグがある。1896年に完成したThe Musmeah Yeshua Synagogueである。
    18世紀初頭あたりから現在のイラクやその周辺から渡来したユダヤ教徒たちがラングーンに定住するようになっていたとされるが、彼らが本格的にコミュニティを形成するのはイギリスが下ビルマに支配を確立した1852年の第二次英緬戦争以降である。その時代になると、ユダヤ教徒といってもインド人地区にあることが示すとおり、インドのボンベイ、コーチン、カルカッタなどから渡ってきたユダヤ教徒が多かったらしい。他にイランから来たもの、イギリスから渡ってきたものなども加えた一大集団が形成されていたという。1885年の第三次英緬戦争で当時のビルマの王朝が滅亡し、翌1886年にインドに併合されると、移民の流入にさらに拍車がかかった。
    第二次大戦前の最盛期には2500人ほどが生活していたそうだ。主に米、チーク材、綿花などの輸出業にたずさわっており、政府関係者としては軍人が多かった。19世紀初頭のユダヤ教徒移民たちはオピウムの取引にかかわる者も少なくなかったらしい。
    日本軍の侵攻前後に多くが国外、主にカルカッタへ逃亡したとされる。また1948年にビルマが独立して、彼らの商売の後ろ盾でもあった旧宗主国のイギリスが去ったこともコミュニティが敢えてこの地に留まる理由を失わせることになった。
    それでも当時新興国であったイスラエルとの関係が良好であったこと、そのころのビルマは東南アジア地域の中でも特に豊かな国のひとつであったことから、この地に残ったユダヤ教徒たちにとって比較的平穏な時が流れていたようだ。しかしビルマに残ることを選んだユダヤ教徒たちの多くに他国に出ることを決意させる出来事が起きたのは1962年に発生した軍によるクーデターである。それに続く基幹産業の国有化の波はユダヤ教徒たちの生業に対するとどめの一撃となったようだ。現在のミャンマーにはわずか8家族にして25名となったとされるユダヤ教徒である。
    前述のシナゴーグでは1960年代半ば以降、司祭は常駐しておらずかつては毎週行われていた礼拝もそれ以降中止されている。
    現地在住のユダヤ教徒はごくわずかとなっている今、この礼拝施設の維持等にかかる費用はここを訪れる海外からのユダヤ人観光客頼みになっているらしい。
    それも現在の政権と欧米先進諸国との関係において、非常に好ましくない状態が続いており、ここを訪れる団体客・個人客ともに減っているため、存続の危機にあるとも聞く。
    今回、私は訪れていないのだがMyanma Gone Yi Streetと交差する91st Streetにはユダヤ教徒墓地があるという。アウンサン・スタジアムの北東、Lutheran Bethlehem Churchの近くである。
    一時期インドの一部であったこともあるミャンマーだが、ユダヤ教徒を通じた印緬間の交流が盛んな時期もあったということは今回訪れるまで知らなかった。何かの機会があれば、いつかぜひ調べてみたいものだ。
    商業地の只中にある

  • ヤンゴンのインドなエリア 3

    バンコクのインド人街およびその他インド系の人々が多く暮らしている地域の場合、インド本国はもちろん、パーキスターンやバングラーデーシュとの間で人々の行き来は現在でも少なくなく、仕事や結婚その他で新たに定住する人のほか一時滞在者も多い。そのため古くからの居住者や数世代現地で生活しているインド系の人々が次第に現地化していっても、あとから続く新規移民たちによりコミュニティの中にインド(およびその隣国)の言葉、文化、生活習慣その他『現在進行形のインドらしさ』が新たに注入されていくことになる。
    1960年代に入るあたりまでは『タイより豊か』とまで言われていたというミャンマーだが、現在は周辺国に幾重もの周回遅れのトラックをヨロヨロと進むような有様。商業的にも生活水準においても、どこの国から見てもメリットを感じさせるものは何もない。軍政下であることもさることながら(主要民族であるビルマ族による)民族主義的色合いが濃い政権下にあり、外来民族であることの懸念もあるだろう。この国に住む人々には失礼だが、今の時代に南アジアの国からわざわざこの国に移住しようなどという考えを持つ人はまずいないだろう。
    そのため、常に新しい移民が後から続いてくるバンコクとの最も大きな違いは、ヤンゴンにはごくわずかな商用や観光等で訪れるインド(およびその周辺国)の人々はいても、ここに定住するため流入するインド系人口はまずないと思われることだ。ここでは父祖から代を継いで語り継がれてきた『旧い時代のインド』の記憶がコンスタントに風化していき、やがてそれらが自ら生まれ育った現地のものと入れ替わっていくのではないだろうか。
    ヤンゴンのインド人地区で文語としてはすでに機能していないように見えるヒンディー/ウルドゥー語ではあるが、この地域で保守的なムスリム、知識人、富裕層といった条件が加わると、とても流暢かつ語彙豊かにして本場風(!)アクセントで話す人もいるようだ。
    ヤンゴンの場合外は数は多くないもののインド(およびその周辺国)から商用や観光で訪れる人々以外に、新たに現地に定着するインド系人口はほとんどないものと思われる。
    地域に数多いモスクはそれぞれ先祖の地域ごとのトラストに属しており、信仰の場であるとともに同郷組織的な役割も果たしているのではないかと思われる。例えば『ベンガル人スンニー派モスク』といった具合である。
    祈りの場が父祖の地域性に直結するため、信仰心厚く知的にも経済的にもゆとりのある人が言葉の上での『インド人らしさ』をより強く保つことになるのは当然のことかもしれない。
    『ウルドゥーを理解すること』が彼らの信仰に結びついているがゆえではないだろうか、この地域のインド系ムスリムの人にしばしば『じゃああなたもムサルマーンなんだ!』(ヒンディー/ウルドゥーを理解することについて)と言われた。
    もとより地区では人口規模からヒンドゥー、ジェィンなどよりもはるかにムスリムの存在感が大きい。インド系以外にもペルシャ系、ごく少数ながらアラブ系の子孫も住んでいるそうだ。英領時代、繁栄した港町であったヤンゴンに希望を見出して移住してきた人たちの末裔なのだろう。
    外国人が利用できる宿が集まるエリアではあること以外、ここを訪れる旅行者の多くは特に興味を示すことはないようだが、意外にもかなり興味深い地域であるようだ。
    〈続く〉

  • ヤンゴンのインドなエリア 2

    インド人地区
    モスク
    ひとたび足を踏み入れると、コロニアルな建物+林立するモスク+亜大陸系の顔=インドのどこかで見たような空間・・・が広がっているのだ。
    街のあちこちで目にする黄金色の仏塔を持つパゴダと優しい顔をした仏様からなる世界とは打って変わり、アザーンの呼びかけが流れる街中を立派なあごひげをたくわえたオジサンや黒いブルカーを被った年齢不詳の女性が行き交う。次のブロックの辻では巨木のたもとにしつらえた祠にヒンドウーのカラフルな神像。『ああこんなところにインドが・・・』と思わず立ち止っているとプージャーリーが出てきて喜捨を求めるといった具合である。
    祠
    ミャンマーの総人口5300万人のうちインド系の占める割合はわずか2%というが、地域的な偏りが著しいようで、ヤンゴン、パテイン、マウルミャイン、シットウェーといった港町の商業地区に多いようだ。そしてヤンゴンのこの地区における彼らのプレゼンスの大きさときたら、まるでインドの飛び地であるかのような気がするくらいである。

    (さらに…)

  • ヤンゴンのインドなエリア 1

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    ヤンゴンで『都心』といっても地域的にかなり広がりがあるし、重要な施設等はかなりあちこちに散在している。そのためどこを街のヘソと呼べばいいのかよくわからない。だが旅行者たちにとってはコロニアルな建物が並ぶ、英領期から行政機能が集中しており、大きなマーケットや繁華街がいくつもあって商業的にとても栄えているヤンゴン河沿いのダウンタウン地区こそが『都心』と感じられることだろう。
    公式にはヤンゴンはすでにミャンマーの首都ではない。昨年10月に同国政府が同国中部のピンマナー市郊外の軍用地に建設されたとされるネピドーへの遷都を宣言し、政府機能の大半を移動してしまっているためだ。移転先の新首都には官庁その他の行政機関が引っ越したものの、一般人の出入りは制限されており内情がよくわからない謎めいた街らしい。人口規模からも経済・商業的な規模からもヤンゴンこそがミャンマー随一の『都』であることは今も変わらない。
    水際に政府関係の重要施設や様々な機能が集中し、威圧感あふれる巨大な欧風建築が林立する植民地的港湾都市風景がそのまま残っているのが面白い。
    20070526-yangon2.jpg
    このダウンタウンの真ん中、道路のロータリーに囲まれたスーレー・パゴダはよそ者にとって非常にわかりやすいランドマークだ。
    このあたりにはイギリス、オーストラリア、ニュージーランドなどといった外国の大使館も多い。スーレー・パゴダ横にあるマハー・バンドゥーラー・ガーデンという公園の南端歩道側に赤いこんな看板があった。
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    ———————————————-
    PEOPLE’S DESIRE
    Oppose those relying on external elements, acting as stooges, holding negative views.
    Oppose those trying to jeopardize stability of the State and progress of nation.
    Oppose foreign nations interfering internal affairs of the State.
    Crush all internal & external destructive elements as the common enemy.
    ———————————————-
    第一次英緬戦争を戦った国民的な英雄、コンバウン朝のバンドゥーラー将軍の名前をかぶせたこの公園はミャンマーの国民の主権を象徴するものでもある。この『自主独立』を固持する『人民』たちが、ミャンマーに対する経済制裁を続ける外国勢に対して発した抗議という形式を取ったつもりなのだろう。ミャンマー当局により道路をはさんだ正面に建つある国の大使館へ向けた露骨な挑戦状らしい。

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  • インドの東、タイの西

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    インドの隣国であり、一時期インドの一部でもあったミャンマー。北西部にはナガ族のようにインドとミャンマーにまたがって暮らす少数民族もあるし、ラカイン族はビルマ族と南アジア系の人々との混血であるとされる。また都市部を中心にインド系人口も少なくない。また中部には英領時代に兵士として入ってきたグルカの人々の子孫も定住している。衣食ともに中国とインド双方の影響を色濃く受けてきた東南アジア地域の中でも、特に『インド度』が高い国のひとつといえるだろう。
    他の東南アジアの他国に比べてやや面倒な部分もある。たとえばヴィザである。この地域では、日本あるいは他の先進国等の国籍を持っている人たちにつき、シンガポールやマレーシアのように一定期間内の観光目的による滞在については査証が免除されている国がある。またタイのように当該国と相互免除の取り決めがなくても、先進国等の人々に対して2週間からひと月程度の期間、ヴィザ無しでの滞在を認めている国も少なくない。こうした措置がない国々においても、ラオス、ベトナム、カンボジアのでは、陸路・空路ともに到着時にその場で取得できるようになっているので簡単だ。外貨獲得における観光業からの収入の割合が高く、それを大いに振興させようという狙いがあるのだろうが、いずれにしても人々の往来がかつてなく盛んになっている昨今、多くの場合特に問題が生じていない国の人々については出入国関係手続きについて簡略化が進んでいる昨今である。
    現在のASEAN加盟国で、どこの国の人についても頑として事前に査証取得を求めている国といえば、ミャンマーくらいだろうか。ミャンマー政府の中でも、とりわけ財務関係や観光振興関係の部局などは、このあたりの手続きを簡素化して外国人観光客を多く呼び込みたいところなのであろうと私は想像している。
    1990年に行われた総選挙の結果を受けての平和裏な手段での政権交代を否定し、そのまま居座り続ける軍主導政権のありかた、人権侵害や少数民族などに対する強制労働その他により欧米を中心とした国々による経済制裁を受けているこの国にとって、外貨収入の貴重な手段であるからだ。
    しかしその一方、政治的な問題から、ひょっとしたらジャーナリストかもしれないし、人権活動家かもしれない外国人たちが入国する前に一度きちんとフィルターにかけておきたいという、セキュリティの面からくる要請があるのだろう。軍政下にあるとはいえ、政府内でも閣僚たちや省庁等により、いろいろ意見のあるところであるはずだ。

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  • 最後のムガル皇帝、ここに眠る 2

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    高さ約100mの巨大な黄金色の仏塔がそびえるシュエダゴン・パゴダから東南方向、バハードゥル・シャー・ザファルのダルガーへと向かう。地元ではよく知られた場所らしく、途中幾人かに道を尋ねたが皆ここのことを知っていた。
    広い道路、中央分離帯、そして道の両側に軍施設があるエリア、要人らしき人たちの邸宅が並ぶ高級住宅地になっている。界隈の屋敷の造りといい、道路の縁石や緑地のしつらえかたといい、どこかインドを思わせるものがあるのは、やはり英領時代の名残なのだろう。
    こういう場所なので歩く人はほとんどなかった。辻ごとに警戒するポリスや軍人のほかに目に入るものといえば、広くスムースな道路をスピードを上げて駆け抜けていくクルマくらいだろうか。
    緑多く閑静な市街地の一角にそのダルガーはあった。ここNo. 6, Theatre Roadは生前、彼が幽閉されていた場所のすぐ近くである。建物もごく新しいものであるが、規模は想像していたよりもかなり小さかった。先述のとおり、界隈はごちゃごちゃしたムスリム地区などではなく、まさにその対極にあるようなエリアだ。ここを訪れた人はダルガーの立地としてはミスマッチな印象を受けることだろう。
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    敷地に足を踏み入れてみる。階段を少し上ったところにある礼拝所があり、その反対側の小部屋に三つの墓が並んでいる。入って手前からバハードゥル・シャー・ザファル、妻のズィーナト・メヘル、孫娘のラウナク・ザマーニー・ベーガムの墓石である。だがこれらはオリジナルではなく、あくまでもそれら3人を追悼する意図のもとに再建されたものだ。室内にはこれらの人物の写真や絵も飾られている。

    (さらに…)

  • 最後のムガル皇帝、ここに眠る 1

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    1857年の大反乱から今年5月でちょうど150年の節目となっている。メディア等でも何かとこの関連の記事が掲載されているのを見かけるこのごろだ。
    インドやイギリスでは、この大事件の舞台を巡るツアーも出ている。主だった史跡の中にはこれを機に大きな改修の手を加えたところもあると聞く。ラクナウのレジデンシーのようなメジャーどころではなく、人々からすっかり忘れ去られたマイナーな戦跡等の中には、たまたまこうした風潮の中で観光客たちの姿を見かけるようになったような場所もあるのかもしれない。
    私もこの機会に大反乱に関わる場所を訪れてみようかといくつかの場所を思い浮かべてみたが、結局ミャンマーのヤンゴンに足を延ばしてみることにした。ここは大反乱そのものとは縁がないが、騒ぎが平定された後にムガル最後の皇帝、バハードゥル・シャー・ザファル(1775〜1862年)がここに流刑となりこの地で没している。私は彼の墓を見に行きたいと思った。ここは現在ダルガーとして近郊の信者たちを集めているそうだ。
    彼の治世のころ、すでにムガル朝は政治的にも財政的にも衰退しきってデリーとその周辺を治める小領主のような存在に成り下がってしまっていたともに、跡継ぎを決めるのも、地方から上京してきた藩王に謁見するについても、デリーに進駐していたイギリス当局の許可を必要とするなど、支配者としての主権をすっかり失っていた。当局の『そろそろこの王朝の存続を打ち切りにしてしまおうか』という意図も見え隠れしていた時期である。
    イギリスに対して叛旗をひるがえした勢力は、名目上の首領として当時のムガル皇帝を担ぎ出すことになったが、老齢の皇帝自身もこの機を形勢挽回の最後のチャンスと見て賭けに出たのだろう。しかしその代償は非常に高くついたことは言うまでもない。

    (さらに…)