ヤンゴンのインドなエリア 5

St. Mary's Cathedral
インド人街を出てしばらく東に進むと聖マリア教会という立派な建物がある。四基地内で写真撮っていると男が手招きしている。聖職者か教会関係者であろうと思い、話でもうかがってみようと近づいてみると、『寄付をお願いしたいのですが』と言う。だがよく聞いてみると『彼自身に』ということだ。年老いた母親の面倒を見るためにお金が必要なので・・・』とか。彼自身は60歳前後あたりだろうか。欧州風の容姿から外国からやってきた教団関係者かと思ったが、この施設とは特に関係がないようだ。
彼によれば父はイギリス人、母親はビルマ人であったそうだ。なかなか風格のある顔立ちで、ここの牧師だといえば『ああそうか』と信じてしまいそうだ。しかも非常に流暢な英語をミャンマー人らしからぬアクセントでしゃべる。かなり教養は高い人物なのかもしれない。今でも都市部では英国系ミャンマー人は決して珍しくないようなので、彼も本当にアングロ・バーミーズなのだろう。唐突にキプリングの小説『少年キム』を思い出す。これが『お金をくれ』と物乞いの手を差し伸べられる出会いでなければ、いろいろ話を聞いてみたいところではある。
教会の扉は閉まっており周囲に誰もいない。初老男性とはいえいきなり強盗に早変わりすることがないともいえないので、穏便に相手をして適当な距離を保ったままそこを立ち去ることにした。


聖マリア教会のすぐ裏手の通りに面したグルドワラーに行く。入口のところにいたおばさんは、少しインド系が入っているかのような顔立ちをしているので声をかけてみると、一応ヒンディーは通じた。彼女はヒンディーでもウルドゥーでもなく、『パンジャービー』を話しているつもりらしいが。
彼女の父はパンジャービー、母親はビルマ人であったという。すでに両親とも他界しているそうだ。父親はスィク教徒であったのかどうか知らないが、現在の彼女はクリスチャン。 このグルドワラーに出入りする洗濯人なのだそうだ。 ヤンゴン在住のスィク教徒は現在わずか10家族になっていると彼女はいう。その数字が本当であるとすれば、こうした施設を維持しているのは大変なことである。特に手入れが悪いわけではなく、きちんと保たれている。 現在でも宗教関係者たちによるインド本国との行き来はしばしばあるらしい。
グルドワラーの看板
入口から少し入ったあたりに英語で書かれた古い碑文があった。 それによるとこのグルドワラーは1887年から2年間かけて建築されたものであり、ビルマに駐留していたスィク教徒の連隊が礼拝施設を必要としたのをきっかけに建てられることになったのだという。スィク寺院としての機能とともに、スィクおよびヒンドゥー両教徒たちの集会施設兼巡礼宿としての役割を持っていたそうだ。おそらく当時のイギリス人たちの『クラブ』に相当したのではないだろうか。
寺院として特徴的なことは、ヤンゴンのスィクコミュニティは軍人たちから始まったものであることから、主に軍人、軍属およびその関係者を対象とした施設であったことだ。建設計画を実行に移した設立委員たち、また落成してから寺院経営にあたった運営委員たちはみな軍人たちで、先述の碑文に所属・階級とともに氏名が刻まれている。
このグルドワラーがインド人街の一角にあるのではなく、英領時代にヤンゴンに暮らした欧州系住民たちのための教会、植民地政府による官庁などが並ぶエリアにあるということは、まさに彼らが『政府側の人々』『支配層』にあったことを象徴しているようだ。
ビルマの人々にとって、インド人とはイギリス人の手足となって動く存在だった。また民衆の前には滅多に顔を出さず、ごく少数派でもあったイギリス人と違い、インド人官憲、警官、兵士たちは人々の目に見える帝国主義支配の象徴であり、自分たちに直接作用してくる『抑圧装置』であったことだろう。さらに商・工業にたずさわる投資家や経営者たち、雇用を求めて押し寄せてくる民衆たちの流れもあり、まさに国が乗っ取られかねないと人々が懸念したのはうなずける。一時期、まさに社会の上から下まで、インド人だらけになってしまったのがヤンゴンだ。1930年前後には、ヤンゴン市内人口のマジョリティをインド系の人々が占めるまでになっていたという。同様にパテイン、スィットウェー、マウルミャインといった主要や港町でもインド系人口がとても多かったそうだ。
まさに『もうひとつのインド』がその時代のこの地にあったわけである。
グルドワラー
〈続く〉

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