最初はお互いよそよそしくても、行程が進むにつれていろいろ話したりしながら打ち解けてきた。時間の経過とともに、だんだん『ひとつのチーム』になってくる。昼食を取ったあたりから、誰もがよく話すようになってきて、ちょっとした小休止のときも車座になって話が弾む。
鉄路に出た。まさにこの鉄道建設のために、19世紀末から20世紀はじめにかけて多くのインド人たちがこの地にやってきたのだ。そこからしばらくは線路上を歩き、次の村に到着する。ここでは鍛冶屋もある。農耕具を作っているのだそうだ。
ちょうどガーリックを収穫して干しているところであった。もち米で作った煎餅状のものを干してある。これを焼いて食べるのだそうだ。日本の煎餅と同じようものができることだろう。
そこから少し下るとカリフラワーと豆の畑と水田があった。水量豊かで新鮮な野菜が採れる里。一瞬、理想郷という言葉が脳裏をかすめるが、そこに暮らしている人たちはそれが理想であるとは思っていないかもしれないし、山村での暮らしは楽であるはずもない。
次の集落にたどりつく直前の坂道では、沢山のヒルがうようよしていた。今日も昨日以前のような調子でずっと雨が降っていたならば、きっと手足をひどくやられていたことだろう。
本日最後に訪れたのはシャーマンの家。様々な生薬を配合した薬を作っているという。それで私たちはそれらを少しずつ味見する。たしかに生薬の味がする。それらが何か効果があるのかどうかは知らないが。
このシャーマンは代々長く継承されてきたものだというが、現在82才だというこの人物で途絶えることになりそうだという。彼の息子は複数いるが、誰一人として継がないのだという。
その家のある集落を後にして再び線路の上に出る。そして他の7人とはお別れだ。さて、ここからはネパール人ガイドと二人でカローまで戻ることになる。予定では午後6時か7時には宿に帰着することになっていたが、ちょっと遅くなったようだ。
もう陽がすっかり傾いている。じきに辺りは暗くなってしまうだろう。夕方の山の景色は美しかった。だが写真を撮る気にならないのはちょっと気が急いているからだ。治安の良好なミャンマーとはいえ、真っ暗になった山道を歩くのは決して誉められたものではない。
人を襲うような獣が出てこなくても、足元に毒ヘビがいたところで、ボンヤリした懐中電灯の光では気が付かないかもしれない。本来ならまだ雨期入り前のはずだが、このところ雨が多いため田畑脇の道端などでヴァイパーの類の有毒ヘビをしばしば見かけたし、昼間の山道でもそうした毒蛇に遭遇した。そんなわけで夜道で一番気になったのがこれである。
ほとんどすれ違う人もなく、黙々と進む。ときおり反対側からやってくる帰宅途中の村人の姿がある。すでに真っ暗になっているのに牛を連れて帰る人たちもいた。すっかり周囲が見えなくなってから、私たちは懐中電灯を手にしているが、彼らは手ぶらだ。よく足元が見えるものだ。
空は雲行きが怪しい。こんなところで真っ暗になってから大雨にやられたらたまらない。幸いにして宿に着くまで降らなかったが。
しばらく進んで町に近くなってきたあたりに寺があり、そこにはネパール人がよく出入りするのだそうだ。サラスワティー寺院ということになっているが、ビルマ族、シャン族などは仏教の寺として参拝しているとのこと。
カローの町はまだしばらく先であった。鉄路に出て枕木の上をしばらく歩く。枕木が等間隔で敷いてあればいいのだが、そうではないのでけっこう疲れる。細い川にかかる小さな鉄橋の上の線路を歩く。暗くて左右がどうなっているのかよく見えないためちょっと緊張する。水場に近いところでがチラチラと飛び回るホタルの灯が美しかった。
ようやくカローの郊外に出た。カローホテルという政府経営のホテルの脇を通過する。20世紀初頭からの伝統を持ち、カローでもっとも古いホテルである。
やがて裁判所等がある大きな通りに出て、モスクが見えてきた。ホテル到着は夜9時近かった。連れて帰ってくれたネパール系の道案内人に「外にメシでも食いに行かないか?おごるよ」と声をかけるが、彼は「もうおそいし、家がちょっと遠いので・・・」と夜道に消えていった。この人は宿の家族ではなく、必要に応じて呼ばれる日雇いの案内人である。
デイパックを部屋に置き、近所のネパール食堂に行く。疲れた身体と空っぽになった胃に温かい食事が心地よい。ビールの酔いもまた最高だ。
<完>