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カテゴリー: greater india

  • 1988年 アマゾネス女性たちと蒸し暑い部屋の悩ましい記憶

    1988年 アマゾネス女性たちと蒸し暑い部屋の悩ましい記憶

    英領期の建物もどんどん姿を消しつつあるヤンゴンだが、上の写真の建築物の左隣とそのまた隣はずいぶん前に取り壊されて、モダンな高層ビルが建つようになっている。この建物もすっかり空き家になっているようで、窓が壊れていたり、荒れ放題なので、もうじきこの世から姿を消すのだろう。

    かつて、この建物には外国人が宿泊できるゲストハウスが入っていた。そして建物右手の地上階には国営の旅行会社のオフィスが入居していた。初めてミャンマー(当時はビルマと呼ばれていた)を訪問した際、そこに宿泊したことがある。当時は強制両替というのがあり、ひどく割の悪いレートで一定金額の外貨をビルマのチャットに交換させられたものだ。その対策(?)として、バンコクの空港免税店で、ジョニ赤と555の1カートンを購入して、ヤンゴンの繁華街で売ると、それらの品物の購入金額相当の米ドルを闇で両替するよりも割のいいレートでチャットが手に入る、という手段もあった。

    まずこのゲストハウスに宿泊し、その近隣でウィスキーとタバコを売り、それから閉店前までに国営旅行会社(外国人を相手にするのはここだけだった)で列車チケットを予約してマンダレーとバガンを駆け足で回るのが、当時のお決まりのコースだった。なにしろヴィザの滞在期間がわずか一週間しかなかったし、当時はまだ内戦も各地で行われていたため、確実に訪れることができるところはごく限られていたのだ。そんなことを思い出しながら、この建物の前でたたずんでいると、ヤンゴン、はるか昔、当時のラングーン到着の最初の日のことをふと思い出した。

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    そう、あれは1988年のことだった。 午後のフライトでバンコクから到着。ウイスキーとタバコを免税で買って入国。聞いたとおり強制両替があって、市内のこの宿に着いてから、階下にウロウロしていた商売人に売却。国営旅行社に行って、マンダレー行きのチケットを購入しようとしていると、順番待っているうちに営業時間終わりとなって閉店。困った。翌日は週末で旅行社は休みだ。駅で当日券あるかな?と仕方なく、隣の食堂で麺をかきこんで、旅行社が面しているパゴダを見物。地元の同年代の当時の若者たちとしばらく世間話していると時間が遅くなった。

    宿に戻り、私が宿泊するドミトリー(沢山のベッドが置かれた大部屋)に足を踏み入れて、このときはじめて気が付いたのだが、20近くもぎっしり詰め込んだベッドのうち、他の宿泊客はみんな西洋人の若い女性ばかり。しかも暑い国で室温は40℃近いはず。クーラーもないので、当然のごとく小さなパンティー以外何も身に着けていない。ヌードグラビアから出てきたかのような女性たちの美しい姿にドギマギした。

     

    目のやり場に困り、とりあえずシャワーでも浴びようと共同の浴室に向かうと、ドアがバァンと開いて、私の胸元にぶつかりそうになったのは、浴びた水がまだ髪の毛からしたたる全裸の女性。思わず鼻血がほとばしるかと思った。思わず目を下に逸らすと、彼女のつつみ隠さぬ股間が目に入り、頭に血が上って、こめかみあたりでドクドクと鼓動を感じてしまう。

    どうしてこういうことになっているのか頭の中が整理できない私は、とりあえずシャワーをザーザーと浴びて頭を冷やすことにした。「大部屋・私以外みんな女性でグラマー・しかもほぼ裸」という空間に入っていくのかと思うと、非常に得をしたような気分ではあったものの、その反面大変に気が重いことでもあった。

    バンコクからの飛行機は同じながらも、隣室のドミトリーをあてがわれていた日本人男性は、私のドミトリーの入り口で「すげぇ、アマゾネスの部屋やんか!?」なんて小声で呟いて私の顔を見てニタニタ笑っている。

    彼と外にタバコを吸いに出てから部屋に戻り、隣のベッドの女性と少し話をするものの、豊かな胸元から視線を外すと、今度は素敵な腰の曲線部が気になって仕方なくなるし、そこから目を逸らすと、今度はその背後ではこれまたグラマーな女性が衣服を脱いで、見事なまでに豊かなバストがどさっとこぼれ落ちるところであった。もはやどうしようもないので、早々に寝ることにした。幸いなことに、翌日早く出発する人たちが多いようで、まもなくドミトリーは消灯。

    だが困るのは、ほとんど間隔もなくぎっしりと並べられたベッドに横たわるほぼ裸体の女性たちの魅力的な肢体が月明かりに煌々と照らし出されていて、実によく見えてしまうのだ。脱水症状になりそうな蒸し暑さの中、手を伸ばせばすぐに届く距離に、たわわなバストが、尻が、脚が・・・。右にも、左にも、頭上にも、足元にも・・・。まるでこれは拷問のようだ。

    夜になっても生温かく澱んだ暑い空気の中で、天井で回るファンだけがカタカタと音を立てている。頭の中を様々な煩悩が行き来して、それらをなんとか振り払おうと試みるものの、新たな煩悩がその行く手を遮る。少しウトウトするも、その淫靡な妄想がそのまま形になった夢になって現れては、目が覚めてしまう。

    そんなこんなで、大変困った状態でまんじりともせずにいると、いつしか東の空が少し明るくなってくる。心なしか風も少し涼しくなってきたかのような気がする。

    ところどころで、誰かのバックパックの中から「プププ」「ジリジリジリ」という目覚まし時計のアラーム音が聞こえてくる。早朝の列車だかバスだかで出発するのだろう。

    そのあたりで、煩悩やら妄想やらに振り回されてクタクタに疲れている自分に気が付き、どど~んと眠りの深みに落ちていった。

    ハッと気が付くと、すでに朝10時過ぎ。宿の使用人が「おーい、チェックアウトの時間で過ぎてますぞ!」と私を起こす。もはや早朝に駅で当日券買ってマンダレー行きなんていうタイミングではなくなっていた。 周りのベッドには女性たちの姿も彼女らの荷物もなく、すべてもぬけの殻となっていた。滞在可能な日数がとても短かった当時、時間を無駄にする者はいない。

    昨夜ずっと悩まされた光景は、夢か幻かと反芻しつつ、すでに気温が急上昇している街中へと繰り出した。

    ※画像はイメージであり、文中の女性たちとは何ら関係ありません。

  • ヤンゴンの空港のレンタルSIM

    ミャンマーでもこのところ一気に普及してきている携帯電話。その中に占めるスマートフォンの割合も高く、商店街ではいくつもの携帯電話屋が軒を連ねている。

    数年前までは、SIMカード自体が非常に高額な商品であったため、携帯電話を所持する人は周辺諸国に比べて極端に少なかったものだが、まさにその遅れを一気に挽回しようとでもしているかのような勢いだ。

    今に、インドのようにサイカ―(客の座席がサイドカーになっているサイクル・リクシャー)の運転者や道端の野菜売りのおばちゃんなどが持つのも当たり前のこととなり、文字通り誰もが自前の携帯電話回線を所持しているという環境になる日も遠くないだろう。

    そんな具合ではあるものの、現在までのところ、旅行で訪れる外国人にとっては、SIMカードを購入するのはなかなか敷居が高い。不可能というわけではないが、めでたく開通するまでに数日かかってしまうようだ。

    そのため、不本意ではあるものの、ヤンゴンの空港にカウンターを構えているレンタルSIMの業者を利用することにした。以前も2012年、2013年にお世話になったことがある。

    到着ロビーにあるBlue Ocean Mobile Rental Serviceというカウンターがそれで、いろんな日数でのプランがあるが、概ね1日あたりのレンタル料金が約12ドルもする。だがこれに通話料金やデータ通信料は含まれておらず、別途10ドル程度のチャージをする必要が出てくるため、かなり割高である。インドでSIMを購入して通話とデータ通信を行なうのとは、コストの面で雲泥の差となる。また、日本から海外用のインターネット接続ルーターをレンタルするのと変わらない料金(ミャンマー用のは他エリア用のものに比べて割高だが、現地レンタルのSIMがそれと同程度のコストとなってしまう)となるのはなんとも悩ましいところだ。

    だが、私自身、ミャンマー滞在中に仕事関係の連絡が入らないとも限らず、また最近は私自身がどこを訪れてもスマホ環境があるというのが当たり前のことになってしまっているため、ずいぶん損な感じはするものの、やはり借りることにした。

    利用することになるネットワークは、国営のMPTの回線となる。ヤンゴン市内はもとより、地方に行っても通話自体の品質や繋がり具合には問題ないようだ。しかしデータ通信の部分においては、ヤンゴン市内にあってもかなり不安定で、途切れ途切れ通信できるという感じ。おそらく回線のキャパが利用者数によるニーズに追いついていないことが原因であると思われる。そのため、利用者が少ない深夜や早朝は安定して動作してくれるのだ。そのような時間帯ではスカイプの利用も可能であった。

    地方では、データ通信環境が3Gではなく、2Gであったりすることもあるため、ヤンゴンでのような比較的スムースな通信環境は望めないが、メールなどは「なんとかゆっくりと繋がる」というような具合であるが、やはり込み合う時間帯はなかなか難しいようで、「ここはデータ通信の圏外なのか?」と思っていると、やはり深夜や早朝にはちゃんと通じたりする。

    料金が高い割には環境が貧弱なため、トホホな感じではあるものの、近々複数の海外企業もミャンマー国内の通信事業に参入する予定であるという話も耳にする。今後、短期間のうちに通信環境が劇的に向上するかどうかはさておき、料金面では競争による大幅なコトスダウンを期待したいところである。

    決して高い評価をつけるわけにはいかない現状においても、ほんの数年前までレンタルSIMさえ存在せず、電話は町中の「電話屋」から発信するだけ、ネットは数あまり多くないサイバーカフェで、昔の日本のダイヤルアップ環境よりも体感速度ははるかに遅いスピードで、ウェブメールやニュースサイトは政府による閲覧制限がかけられていたりした頃に較べると、格段に向上したといえる。何しろこれらが自分の好きな時に、自分の掌の中で実行できるのだから。

    いずれにしても、現状がボトムレベルであるだけに、今後の伸びしろは相当大きいはずだ。半年後、1年後、2年後には、この記事を書いた2014年5月時点とは大きく異なる状況になっていることだろう。

  • 鮮度が命 ヤンゴンのダウンタウンで新規オープンの宿

    つい数年前まで、つまり「ミャンマー・ブーム」が到来する前までは、ヤンゴンでの宿泊施設はかなり手頃であった。一流ホテルを除けば、エコノミーな宿から中級のホテルくらいまでは、かなり安めであったと思う。

    エアコンが効いて、清潔な部屋を十数ドル程度で利用することができたし、30ドル、40ドル出すだけで、かなり良いところに宿泊することができた。

    空港正面にあるSeasons of Yangonという、元米国資本のラマダホテルで、90年代に撤退したことを受けて、オーストラリアのホテルグループがミャンマー政府と合弁で営業しているものだが、これが25ドルとか30ドルという料金で利用することができた。

    だがそのホテルも現在の宿泊料金は70ドルになっているし、ヤンゴンのダウンタウンで、十数ドル程度で宿泊できたところも40ドル、50ドル取るようになってしまっている。

    宿代が高騰している背景には、突然やってきたブームのために、宿泊施設が不足しているという背景があるためで、おそらく目端の利く人たちは、しばらく前にそれを見込んで先行投資していたに違いない。だから市内各所で新しいホテルの建設が進行中なのである。

    「宿といってもどうせ夜寝るために戻るだけ」という向きには、大変ありがたくない話だろう。旅行者として滞在するならば、やはり便利なダウンタウンで、わざわざ安旅行者のための宿泊施設を運営するというのは、非常に付加価値が高くなっているこのエリアにおける不動産の有効な活用方法とは思えないので、いくらブームとはいえこの地区で新しい宿泊施設がどんどん出来てくるということはなさそうだ。

    だが、嬉しいことに、あまり効率的とはいえないやりかたをしている例もまったくないわけではない。スーレー・パゴダ・ロードから西側3本目の路地、Bosunpat Street、具体的にはスーレー・パゴダ・ロードに面して建つスーレー・シャングリラ(旧トレイダーズ・ホテル)からそのまま西へ移動したところには、ごく最近、古い建物を改装してオープンしたピカピカのゲストハウスが2軒並んでいる。 ボーヂョー・アウンサン・マーケットから目の前の大通りを渡ってすぐ左手の路地を入ってすぐ、というロケーションだ。

    そのうちのひとつは外国人を宿泊させないため言及しないが、もうひとつの宿、Yangon Guest House(所在地:317-323, Bosunpat Street, Pabedan Township, Yangon 電話:01-252420, 01-252632)は私たち日本人も宿泊できる。ここのフロントは電子メールを利用していないため、予約は電話でのみ可能。宿泊費は2014年5月現在で15ドルである。エアコン付きのシングルルームとしては、一番安いカテゴリーということになるが、内装をフルに新しくしてオープンした宿なので、かなりのお得感があるだろう。

    この宿で面白いのは、ひとつの建物を縦にふたつに分けており、道路から向かって右側がミャンマー人用、左が外国人用となっていることだ。部屋の造りや施設は同じだというものの、入口も別々になっている。何かと外国人料金の適用が多いこの国らしく、宿泊費もミャンマー人と外国人とでは異なる。先述のとおり外国人は15ドルだが、ミャンマー人は6,000チャットである。

    地元の人用の料金に比べてずいぶん高いとはいえ、このエリアにある外国人向けの宿に比べるとかなり安めであるため、ここが旅行者たちに知られていくにつれて、周囲の相場に合わせて料金を上げることが容易に予想できる。

    そもそも、エコノミーな宿は新規オープン時にのみ、エクストラな価値があり、こうした宿の宿命である標準化の段階に入る前には、ひとクラス、ふたクラス上の快適さがあるものなので、こういう物件が新鮮なうちにはぜひ利用したいところだ。

    もちろん、これから半年、1年経過したあたりでの利用については、メンテナンスの欠如や周囲の相場に合わせて料金が上昇することは目に見えているため、お勧めしない。だが2014年5月、6月あたりにヤンゴンのダウンタウンでエコノミーな宿を探している方には、「ちょっと部屋を見せてもらうだけでもどうだろう?」と提案したいところである。少なくとも開業間もない今の時点では、とても好条件な宿であるはずだ。

  • ヤンゴン到着

    ヤンゴン到着

    ヤンゴンに着いた日の晩は、空港目の前のホテルSEASONS OF YANGONに宿泊した。

    数年前には朝食込で一泊の料金が25ドル、30ドルといった料金で、ずいぶんなお得感があったものだが、ミャンマー・ブームで市内の宿泊料が急騰のご時勢だけに、70ドルというところまで来ている。私は、翌朝早い時間帯にフライトに搭乗する予定がある場合、ホテルから道路を渡るだけで国内線ターミナルにも国際線ターミナルにも着いてしまうという安心感から利用していた。

    今回は、翌朝のフライトは午前11時という非常に楽な時間帯ではあるものの、朝の時間をゆったり過ごしたくて、ここに泊まることにした次第であるが、たかが「寝るだけ」のスペースのために70ドルというのは無駄に感じられるとともに、また近い将来訪れる際にはさらに金額が上昇していることは間違いないので、私がこのホテルをまた利用することはないように思う。

    空港近くに宿泊していると、雑踏が恋しくなり、タクシーでダウンタウン地区まで出ることにした。ところどころで、新しくオープンしたらしい時計やカバン等の高級ブランドの直営店(?)などが目に入ってくる。これまではインドの街に似ている印象を持っていたヤンゴンの街だが、今にタイの街のような感じになっていくのだろうか。

    ダウンタウンで下車して、中華料理屋で夕食を取った後、ドーナツ屋でコーヒーを飲みながら店内のWIFIを利用してメールのチェック。隣の席には子連れの母親が彼女自身の妹らしき女性と楽しそうに会話している。小学校に入るあたりの子供がいながらも、非常にお洒落で美しい人がいるというのは、やはりこれから豊かになりつつある都会らしいところなのかもしれない。生活にゆとりがあるゆえのことである。

    窓の外を行き交う人々を眺めていると、とりわけ若者たちの間ではロンジー姿ではない洋装になっている人たちがずいぶん多くなっていることに気が付いたりもする。通りには携帯電話のハンドセットを販売する店が増えているが、前はどんな商売をしている店舗が並んでいたのかよく思い出せない。

    ミャンマー・ブームの到来は、ビジネスだけではなく観光客も大いに誘致する結果となったことを受けて、スーレー・パゴダ近くのこのエリアには、まだ商品は垢抜けないものの、明らかに外国人観光客のみを相手にするみやげもの屋もいくつか出来ている。今後も通りの眺めはどんどん変化していくことだろう。

    日没後、次第にあたりが暗くなっていくこの時間帯、店内に入ってくる人や出ていく人、外を歩いている人たちの様子などをウォッチングしているのもなかなか楽しかったりする。

  • ヤンゴンの両替

    ヤンゴンに着いてから空港で両替をした。2014年5月3日時点で1ドル=960チャット。

    同日に市内の両替屋に表示されるレートを見てもこれとほぼ同じであったし、空港だからといって市中の両替所ではかからないような高い手数料が取られるわけでもない。なかなか良心的なのではないだろうか。

    もっとも内外から批判の多かった為替の二重レートが解消して、空港や市内にライセンスを得た両替所が次々にオープンしたのは2012年4月以降のことであるので、両替事情は今後もいろいろ推移していくものと思われる。

    ほんの数年前まで、両替といえば闇換金しかなかったミャンマーだが、現在は観光客が多く訪れそうなダウンタウンや大きなショッピングモールなどには両替カウンターがオープンして便利になってきている。KBZ銀行のような大手銀行が出している両替所以外に、様々な民間業者があり、こうした換金が闇であった時代に元締めをしていたところが、今はライセンスを取得して、大手を振って営業しているのではないか?と想像してしまう。

    両替といっても、ほぼ現金から現金に限られる。つまりトラベラーズチェックの換金は期待しないほうがいいだろう。現金であっても、どの両替所でも換えられる通貨といえば、まずは米ドルであるが、ヤンゴン市内においてはユーロやシンガポールドルなども扱っている店は多い。日本円を含めたその他の通貨となると、対応している店は限られてくる。

    ともあれ、主要通貨と周辺国の通貨からのミャンマー通貨への両替については、こちらをご覧願いたい。表示されるレートは、日々アップデートされるので、市内で両替される場合の参考になることだろう。

  • エスニックフェスタStand Up for Your Rights

    今年2月の大雪で一度中止となったエスニックフェスタだが、日を改めて5月11日(日)に開催されることとなっている。時間は午後1時から午後8時まで、場所は東京都文京区の見樹院である。詳細についてはこちらをご覧いただきたい。

    エスニックフェスタ – Stand Up for Your Rights- 開催のお知らせ (特定非営利活動法人APLA)

    エスニックフェスタのイベントページ (facebook)

    これはAPLAジュレー・ラダックジュマネットが主催するイベントであり、他にも対象をインド地域とするものには、ナガ・ピース・ネットワークが参加する予定だ。

    日本のメディアでは取り上げられる機会が少ないマイノリティの人々を取り巻く問題について考えてみる良い機会となることだろう。

  • パキスタン・日本フレンドシップバザール

    4月26日(土)ならびに27日(日)に東京都台東区の上野公園にて、パキスタン・日本フレンドシップバザールが開催される。

    このところ日中は「ちょっと暑い」と感じるくらいにまで気温が上がる日もあり、屋外イベントの季節がやってきたことを感じる。

    しかしながらやはりそこは屋外であるがゆえに、天気に左右される部分が大きい。こうした催しのときにはいつも思うのだが、好天に恵まれることを願いたい。

  • パーキスターンに味の素進出

    かつてアジアで「グルタミン酸を旨みと認識する食文化圏はヒマラヤの手前まで」と言われていたことがあった。

    確かに中国や東南アジアではそのような食文化が展開されていて、インドから西はといえば、異なる味覚の世界という捉え方がなされていたようだ。

    もちろんそれらの国々でも肉の旨みというのは誰もが判っていたこととは思うが、グルタミン酸調味料の大きな商圏といえば、やはりアジアの東側であったことは間違いない。

    だがここ数年は、エジプトで「行商スタイル」での営業活動を展開する味の素が売上を伸ばしていること、人口増加率が高くて若年層の人口が厚く、今後順調な所得増が見込まれるイスラーム圏(といってもあまりに広大だが)での販路を求めて様々な策を練っている様子が伝えられている。

    なぜエジプトで“味の素”が売れるのか?(東洋経済)

    味の素、東アフリカに進出へ ケニアに拠点、来年度から販売 (SankeiBiz)

    また、最近は日本初のハラールファンドが設立されて、日本の食品業界が本腰を入れてイスラーム圏へ進出を図りつつある様子もうかがえる。

    日本初のハラルファンド 地銀など50億円出資 (日本経済新聞)

    このあたりの動きが可能となったのは、やはり化学調味料メーカーの営業努力はもとより、昨今のグローバル化により、食の分野でも多様化が進んだことも背景にあるのだろう。

    同様に、日本国内の消費が長く頭打ちであること、中国や東南アジア方面でも競合相手が増えて、マーケットが飽和状態にあるため、これまでは「圏外」であった地域に活路を求めなくてはならなったという事情もある。

    そこにきて、4月に入ってから新聞紙上を賑わせていたこんな記事もあった。

    味の素、パキスタン進出 「ハラル」市場の攻略拠点に(日本経済新聞)

    これらの地域へのグルタミン酸を主原料とする調味料等の販売はネスレをはじめとする欧州勢が先行しており、日本企業はこれを追う形になるのだが、化学調味料の浸透とともに、地元の食の世界もジワリと変化を迎えつつあるのだろう。

    果たしてそれが良いことなのか、そうでないのかは定かではないものの、今後の行方に注目していきたい。

  • 第23回東京ダジャン

    今年で23回目となる東京ダヂャンが千代田区の日比谷公園にて、4月13日(日)に開催される。長らく北区の飛鳥山公園で開催されてきて、一時期吉祥寺市の井の頭公園に場所を移し、その後日比谷公園で開かれるようになっている。

    こうしたイベントでは往々にしてその国の駐日大使館が「後援」名義を与えていたり、来賓として最初に少し顔を出したりするものだが、東京ダヂャンについてはそうしたものは一切なく、純粋に日本で生活するビルマ市民たちの集まりである。

    もともと日本に在住するビルマの人々はほとんどいなかったのだが、1988年の民主化デモとそれに続くクーデター、1990年の総選挙におけるNLDの大勝利という結果を無視して、政権を移譲することなく軍政の続行という時代に、祖国での迫害を逃れて、あるいはそうした状況に希望を失って他国に活路を求めた人々の中で、行き先に日本を選択する例が少なくなかったため、突如として日本の東京その他の大都市を中心に、ビルマ人コミュニティが出現することとなった。

    その中で、政治活動を志す活動家がどれほどの割合で存在してきたのかはよくわからないが、多くは生活の糧を得るために日々忙しく働いてきたことだけは知っている。それでもあまり政治に関心のないという人は珍しく、多くは自身でできる範囲で、余暇の時間に祖国を良くするための政治活動に時間を割いたり、経済的な負担を引き受けたりしてきている。

    とりわけ88世代と呼ばれる、1988年のデモに端を発した民主化要求運動の時代に、中心的な活動家として、あるいはそれを周囲で支えたり、あるいは賛同して運動に加わったりした大学生を中心とする当時の若者たちの世代はその傾向が特に強い。

    多民族国家だけあり、ビルマ人としてのまとまりを欠く部分はあるかもしれないが、日本における民族ごとの活動も盛んである。そうした各民族が集まってビルマ正月を祝うというのがこの集まりである。

    当日は好天に恵まれて、賑やかで和やかな集まりとなることを期待したい。

     

    第23回東京ダジャン(ビルマ市民フォーラム)

     

     

  • 第15回カレーフェスティバル&バングラデシュボイシャキメラ

    長年に渡って恒例のイベントとなっているJAPAN BANGLADESH SOCIETYによる「第15回カレーフェスティバル&バングラデシュボイシャキメラ」4月20日(日)に池袋西口公園にて開催される。

    関東一円ならびにその他の地方からも在住のバーングラーデーシュ出身の人々が集まり、このときばかりは日本国内での催しものとは思えないほど大勢のベンガル人たちの姿が見られる。私自身もここに出向くと、そのあたりからやってきて日本に定住している知人たちとよく再会するので楽しみにしている。

    南アジア系の料理屋も多く出店しているので、東京都内でどこか新しいお店を開拓してみようかと思っている方にも、味見したりスタッフと話してみたりするのにちょうどいい機会であることだろう。

    この手のイベントは天候に左右される部分が大きいので、当日は好天に恵まれることを祈る。

  • ミャンマー国際航空が関空に就航予定

    ミャンマー国際航空(MAI)が関西国際空港へ年内に就航する方向で調整中との報道があった。

    関空―ヤンゴンに定期便就航へ ミャンマー国際航空(日本経済新聞)

    昨年から全日空が成田・ヤンゴンの直行便を就航させているが、同じくミャンマー国際航空も成田便就航を模索してみたり、茨城空港にチャーター便を飛ばしてみたりと、いろいろ検討を続けていたようだ。また本日時点ではまだ、ミャンマー国際航空の本社サイトの「Route Map」には「Future Route」として日本の就航予定先は東京であることが示されているものの、最終的には先行した全日空のルートと重複せず、日本の空のもうひとつの表玄関である関空に就航という形で落ち着くようだ。

    途中で乗り換えることになく、ヤンゴンまでそのまま移動できることについてのメリットは大きい。ミャンマー・ブームが過熱していく中で、西日本方面からのビジネス、観光等による需要を手中にすることとなる。

    現在までのところ、成田からヤンゴンへのフライトの需要については、提携航空会社(全日空・タイ航空・日本航空)のフライトによる成田・バンコク間の移動、そしてバンコク・ヤンゴン間はミャンマー国際航空によるフライトという組み合わせでの発券を実施しており、当面はこの形で対応していくということになるのだろう。

    今後、ミャンマー国際航空は、ヤンゴンからデリー便、ドバイ便、ソウル便を計画している。ヤンゴン国際空港のウェブサイトを眺めてみると判るとおり、現時点では同空港に乗り入れている航空会社は自国の国内線キャリアを除いた国際線ルートでは、アセアン諸国や中国といった周辺国が主体で、その他の国々から乗り入れている航空会社といえば、全日空(日本)、大韓航空、アシアナ航空(韓国)、カタール航空(カタール)、エア・インディア(インド)、ビスミッラー航空(バーングラーデーシュ)くらいのものだ。フライトの所要時間にして1時間20分程度のところに、シンガポールと並ぶ東南アジアのハブ空港のひとつであるバンコクのスワンナプーム空港があるため、欧米からの直行便が乗り入れるような状況にはなっていない。

    しかしながら、軍政末期のヤンゴン国際空港の寂しい状況とは打って変わって、近隣国との間を結ぶフライトが急増している昨今であり、空港施設の拡張が早急に求められる状況になっている。ちなみに、すでにパンク状態にあった国内線ターミナルビルをはじめとする国内線関係の施設のアップグレードは、つい先日完了したばかりだ。

    昨年11月にお伝えしたとおり、ミャンマーの国内線キャリアがネットによる予約とクレジットカードによる支払いが可能となったことと同様に、当然ながらミャンマー国際航空についてもウェブ上でのブッキングと支払いができるようになっている。

    個人的にミャンマーに強い関心を抱いているものの、当のミャンマーの方々には申し訳ないのだが、私自身の興味の対象は英領期のミャンマー、つまり英領であった当時のインドのそのまた植民地であった国におけるインド人入植者たちの動向、そうした人々の子孫である現在ミャンマーに居住しているインド系コミュニティのありかたである。

    そのあたりについては、また別の機会を設けることにしたいと思う。

  • ヤンゴン空港ウェブサイトを眺めて思う

    ヤンゴン空港ウェブサイトを眺めて思う

    いつから出来たのかよく知らないが、最近ようやくヤンゴン空港ウェブサイトが開設されている。

    諸外国や国内各地からのフライトの発着状況が確認できるようになっていて、なかなか好評らしい。国際線は今のところ近隣地域を行き来するものが多いとはいえ、ここ数年間で便数は驚くほど増えていることから、2007年開業で近代的ながらもこじんまりとした国際線ターミナルは、ほどなく手狭になってしまうことだろう。ちなみに旧態依然の古い国内線ターミナルも今年3月から新築された建物に移転している。

    インドの隣国、このところ目まぐるしく変化していくミャンマーの旧首都にして最大の商都でもあるヤンゴンに関するニュースは、日本を含めた各国のメディアに登場しない日はほとんどないと言っていいだろう。

    「国際社会」というのはいい加減なもので、2010年11月に実施された総選挙による「民政移管」について、茶番だの軍政による看板のかけ替えに過ぎないなどといろいろ批判していた割には、新体制がスタートして積極的な改革意欲とその実施を目の当たりにすると、いきなり現在なお沸騰中の「ミャンマー・ブーム」に突入することになった。

    確かに、2008年にデルタ地帯を中心にサイクロン・ナルギスによる甚大な被害がもたらされたその年に強硬採択した新憲法により、224議席から成る上院、440議席から成る下院ともに、それぞれ四分の一の議席が国軍による指名枠であり、これと現在の与党であり軍籍を離脱した元国軍幹部を中心とするUSDP (Union Solidarity and Development Party)が過半数を確保すれば実質の軍政は安泰という、旧体制に著しく有利な安全弁を備えての「民政」となっている。

    この憲法の変更を目指そうにも議会の四分の三+1の支持がなければ不可能であるため、仮に選挙で選ばれる四分の三の議席を軍に敵対する勢力が奪取したとしても、国軍により指名された議員の中から民主勢力に寝返る者が1名出ないことには、憲法を変えることができないという、非常に高いハードルがあるため、将来に渡って憲法改正の可能性は限りなくゼロに近い。

    それにもかかわらず、旧体制のやりかたをそのまま引き継ぐのではないかと危惧された新体制は、予想以上のスピードで「国際社会」の意に沿う形での改革に積極的に取り組み、政治・経済両面での自由化を推し進めた結果、「民主化が進展している」と評価される形になっている。

    国外にいて、ビルマ語も判らない私たちにとっても見えるミャンマーの「迅速な改革」が可能であることの裏側には、それを上意下達的に着実かつスピーディーに実施できるシステムが機能しているわけであり、「軍政から看板をかけ替えた」だけの新体制であるがゆえのことだろう。

    もっとも、「軍政=悪」という図式について、個人的には疑問に思うところがある。ミャンマーの「軍政」については、1962年にネ・ウィン将軍のクーデターによる政権奪取、そして彼が組織した「ビルマ式社会主義」を標榜するBSPP (Burma Socialist Programme Party)による支配から始まるものとするか、1988年の民主化要求運動の最中に起きたソウ・マウン国軍参謀総長によるクーデター、そして1990年の総選挙結果を無視しての民主化勢力の弾圧と軍事支配の継続を指すかについては意見の分かれるところかもしれない。

    しかしながらBSPP時代も党幹部の大半は軍幹部からの横滑りであったことから、1962年から続いてきた軍政であるといって差し支えないことと思う。

    それはともかく、ビルマの民族主義運動が高まっていく過程で、第二次大戦による日本軍の侵攻、占領下での傀儡政権の樹立、日本の敗戦とともにイギリスによるビルマ支配の復活といった動きの中で、この国の民族主義運動とは多民族から成るモザイク国家の人々すべてがこれに共鳴する形にはならず、多数派のビルマ族によるビルマ民族主義運動がこれをリードすることとなった。

    植民地時代にイギリス当局は、少数民族がマジョリティを占めていた各地では、主に藩王国を通じて間接統治をしていたわけだが、ビルマの独立以降はこうした地域について、中央集権的なシステムに移行、つまり言語その他の様々な分野で国粋化すなわちビルマ民族化する形で統治していくことを目論んでいた点が、同様に多民族から成るインドとは大きく異なっていたと言える。

    とりわけ1962年のネ・ウィン将軍のクーデターによる政権樹立以降は、ビルマ族以外の格民族語による教育や出版活動等が困難となり、教育の仲介言語も英語からビルマ語に置き換えられることとなった。旧英領の国でありながら、また教育はそれなりに、少なくとも初等・中等教育は広く普及しているにもかかわらず、英語の通用度が著しく低いことには、こうした背景がある。

    多民族から成る国における「ビルマ民族主義」による統治の是非にまで言及するつもりはないが、これに反旗を翻して各地で活発な反政府武力闘争が続いてきたこの国で、国土の統一の継続を成すには、どうしても軍の力に頼らざるを得なかったという現実があった。

    ゆえに、この国の「民主化」が進展しているとしても、各民族との和解に至って、すべての民族が対等な立場になったという訳ではないことについては今後も注視していく必要があるだろう。

    これまで各地で国軍と武闘を繰り広げてきた反政府勢力と中央政府との和解の例がいろいろと伝えられる昨今ではあるが、政府側が彼らを慮って高度な自治を認めるようになったというわけではなく、政治的にも経済的にも安定してきた(・・・がゆえに、先進国による経済制裁解除を念頭に、憲法改正、そして総選挙の実施という手続きを踏むことができるようになった)政府に対して、武力で拮抗することができなくなったからである。ゆえに和解した地域では社会のビルマ化が進展し、和解を拒む地域に対しては断固たる軍事圧力をかけているという実態があるようだ。

    そういう状況であるだけに、今後もまだ紆余曲折はあることとは思うが、今後も政治の改革や経済の開放とこれら対する外資の堰を切ったように流入にはブレーキがかかることはないはずだ。

    今や改革と自由化の旗手となった現政権を激しく批判する国はほとんどなくなっており、政府は国際世論をあまり気にすることなく、反政府勢力を「テロリスト」であるとして厳しく処分するお墨付きを得たような状態でもある。

    政治というものは実にゲームのようなもので、「軍政」は、そのルールを巧みに利用して自らを延命するどころか、今や諸外国から賞賛されるような存在になっている手腕には、舌を巻かざるを得ない。

    だが今も実は形を変えた軍政が継続しているとしても、人々が総体的に豊かになっていくことを下支えしているとすれば、これもまた決して悪いことではないのではないかとも思う。独立以来、各地で内戦が続いていたこの国で「国防」の意味するところは、国内で反政府勢力に対する軍事作戦を断行するというものであったが、ようやく相当程度の安定を得ることができた昨今は、軍事関係に割いていた力を経済や民生の分野に振り向けることができる。

    真の民主化であろうが、隠れた軍政の継続であろうが、より多くの人々が安心して生活していくことができ、昨日や今日よりもベターな明日を期待することができる国になることのほうが大切なことであると私は思うのである。