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カテゴリー: greater india

  • ヤンゴン到着

    ヤンゴン到着

    ヤンゴンに着いた日の晩は、空港目の前のホテルSEASONS OF YANGONに宿泊した。

    数年前には朝食込で一泊の料金が25ドル、30ドルといった料金で、ずいぶんなお得感があったものだが、ミャンマー・ブームで市内の宿泊料が急騰のご時勢だけに、70ドルというところまで来ている。私は、翌朝早い時間帯にフライトに搭乗する予定がある場合、ホテルから道路を渡るだけで国内線ターミナルにも国際線ターミナルにも着いてしまうという安心感から利用していた。

    今回は、翌朝のフライトは午前11時という非常に楽な時間帯ではあるものの、朝の時間をゆったり過ごしたくて、ここに泊まることにした次第であるが、たかが「寝るだけ」のスペースのために70ドルというのは無駄に感じられるとともに、また近い将来訪れる際にはさらに金額が上昇していることは間違いないので、私がこのホテルをまた利用することはないように思う。

    空港近くに宿泊していると、雑踏が恋しくなり、タクシーでダウンタウン地区まで出ることにした。ところどころで、新しくオープンしたらしい時計やカバン等の高級ブランドの直営店(?)などが目に入ってくる。これまではインドの街に似ている印象を持っていたヤンゴンの街だが、今にタイの街のような感じになっていくのだろうか。

    ダウンタウンで下車して、中華料理屋で夕食を取った後、ドーナツ屋でコーヒーを飲みながら店内のWIFIを利用してメールのチェック。隣の席には子連れの母親が彼女自身の妹らしき女性と楽しそうに会話している。小学校に入るあたりの子供がいながらも、非常にお洒落で美しい人がいるというのは、やはりこれから豊かになりつつある都会らしいところなのかもしれない。生活にゆとりがあるゆえのことである。

    窓の外を行き交う人々を眺めていると、とりわけ若者たちの間ではロンジー姿ではない洋装になっている人たちがずいぶん多くなっていることに気が付いたりもする。通りには携帯電話のハンドセットを販売する店が増えているが、前はどんな商売をしている店舗が並んでいたのかよく思い出せない。

    ミャンマー・ブームの到来は、ビジネスだけではなく観光客も大いに誘致する結果となったことを受けて、スーレー・パゴダ近くのこのエリアには、まだ商品は垢抜けないものの、明らかに外国人観光客のみを相手にするみやげもの屋もいくつか出来ている。今後も通りの眺めはどんどん変化していくことだろう。

    日没後、次第にあたりが暗くなっていくこの時間帯、店内に入ってくる人や出ていく人、外を歩いている人たちの様子などをウォッチングしているのもなかなか楽しかったりする。

  • ヤンゴンの両替

    ヤンゴンに着いてから空港で両替をした。2014年5月3日時点で1ドル=960チャット。

    同日に市内の両替屋に表示されるレートを見てもこれとほぼ同じであったし、空港だからといって市中の両替所ではかからないような高い手数料が取られるわけでもない。なかなか良心的なのではないだろうか。

    もっとも内外から批判の多かった為替の二重レートが解消して、空港や市内にライセンスを得た両替所が次々にオープンしたのは2012年4月以降のことであるので、両替事情は今後もいろいろ推移していくものと思われる。

    ほんの数年前まで、両替といえば闇換金しかなかったミャンマーだが、現在は観光客が多く訪れそうなダウンタウンや大きなショッピングモールなどには両替カウンターがオープンして便利になってきている。KBZ銀行のような大手銀行が出している両替所以外に、様々な民間業者があり、こうした換金が闇であった時代に元締めをしていたところが、今はライセンスを取得して、大手を振って営業しているのではないか?と想像してしまう。

    両替といっても、ほぼ現金から現金に限られる。つまりトラベラーズチェックの換金は期待しないほうがいいだろう。現金であっても、どの両替所でも換えられる通貨といえば、まずは米ドルであるが、ヤンゴン市内においてはユーロやシンガポールドルなども扱っている店は多い。日本円を含めたその他の通貨となると、対応している店は限られてくる。

    ともあれ、主要通貨と周辺国の通貨からのミャンマー通貨への両替については、こちらをご覧願いたい。表示されるレートは、日々アップデートされるので、市内で両替される場合の参考になることだろう。

  • エスニックフェスタStand Up for Your Rights

    今年2月の大雪で一度中止となったエスニックフェスタだが、日を改めて5月11日(日)に開催されることとなっている。時間は午後1時から午後8時まで、場所は東京都文京区の見樹院である。詳細についてはこちらをご覧いただきたい。

    エスニックフェスタ – Stand Up for Your Rights- 開催のお知らせ (特定非営利活動法人APLA)

    エスニックフェスタのイベントページ (facebook)

    これはAPLAジュレー・ラダックジュマネットが主催するイベントであり、他にも対象をインド地域とするものには、ナガ・ピース・ネットワークが参加する予定だ。

    日本のメディアでは取り上げられる機会が少ないマイノリティの人々を取り巻く問題について考えてみる良い機会となることだろう。

  • パキスタン・日本フレンドシップバザール

    4月26日(土)ならびに27日(日)に東京都台東区の上野公園にて、パキスタン・日本フレンドシップバザールが開催される。

    このところ日中は「ちょっと暑い」と感じるくらいにまで気温が上がる日もあり、屋外イベントの季節がやってきたことを感じる。

    しかしながらやはりそこは屋外であるがゆえに、天気に左右される部分が大きい。こうした催しのときにはいつも思うのだが、好天に恵まれることを願いたい。

  • パーキスターンに味の素進出

    かつてアジアで「グルタミン酸を旨みと認識する食文化圏はヒマラヤの手前まで」と言われていたことがあった。

    確かに中国や東南アジアではそのような食文化が展開されていて、インドから西はといえば、異なる味覚の世界という捉え方がなされていたようだ。

    もちろんそれらの国々でも肉の旨みというのは誰もが判っていたこととは思うが、グルタミン酸調味料の大きな商圏といえば、やはりアジアの東側であったことは間違いない。

    だがここ数年は、エジプトで「行商スタイル」での営業活動を展開する味の素が売上を伸ばしていること、人口増加率が高くて若年層の人口が厚く、今後順調な所得増が見込まれるイスラーム圏(といってもあまりに広大だが)での販路を求めて様々な策を練っている様子が伝えられている。

    なぜエジプトで“味の素”が売れるのか?(東洋経済)

    味の素、東アフリカに進出へ ケニアに拠点、来年度から販売 (SankeiBiz)

    また、最近は日本初のハラールファンドが設立されて、日本の食品業界が本腰を入れてイスラーム圏へ進出を図りつつある様子もうかがえる。

    日本初のハラルファンド 地銀など50億円出資 (日本経済新聞)

    このあたりの動きが可能となったのは、やはり化学調味料メーカーの営業努力はもとより、昨今のグローバル化により、食の分野でも多様化が進んだことも背景にあるのだろう。

    同様に、日本国内の消費が長く頭打ちであること、中国や東南アジア方面でも競合相手が増えて、マーケットが飽和状態にあるため、これまでは「圏外」であった地域に活路を求めなくてはならなったという事情もある。

    そこにきて、4月に入ってから新聞紙上を賑わせていたこんな記事もあった。

    味の素、パキスタン進出 「ハラル」市場の攻略拠点に(日本経済新聞)

    これらの地域へのグルタミン酸を主原料とする調味料等の販売はネスレをはじめとする欧州勢が先行しており、日本企業はこれを追う形になるのだが、化学調味料の浸透とともに、地元の食の世界もジワリと変化を迎えつつあるのだろう。

    果たしてそれが良いことなのか、そうでないのかは定かではないものの、今後の行方に注目していきたい。

  • 第23回東京ダジャン

    今年で23回目となる東京ダヂャンが千代田区の日比谷公園にて、4月13日(日)に開催される。長らく北区の飛鳥山公園で開催されてきて、一時期吉祥寺市の井の頭公園に場所を移し、その後日比谷公園で開かれるようになっている。

    こうしたイベントでは往々にしてその国の駐日大使館が「後援」名義を与えていたり、来賓として最初に少し顔を出したりするものだが、東京ダヂャンについてはそうしたものは一切なく、純粋に日本で生活するビルマ市民たちの集まりである。

    もともと日本に在住するビルマの人々はほとんどいなかったのだが、1988年の民主化デモとそれに続くクーデター、1990年の総選挙におけるNLDの大勝利という結果を無視して、政権を移譲することなく軍政の続行という時代に、祖国での迫害を逃れて、あるいはそうした状況に希望を失って他国に活路を求めた人々の中で、行き先に日本を選択する例が少なくなかったため、突如として日本の東京その他の大都市を中心に、ビルマ人コミュニティが出現することとなった。

    その中で、政治活動を志す活動家がどれほどの割合で存在してきたのかはよくわからないが、多くは生活の糧を得るために日々忙しく働いてきたことだけは知っている。それでもあまり政治に関心のないという人は珍しく、多くは自身でできる範囲で、余暇の時間に祖国を良くするための政治活動に時間を割いたり、経済的な負担を引き受けたりしてきている。

    とりわけ88世代と呼ばれる、1988年のデモに端を発した民主化要求運動の時代に、中心的な活動家として、あるいはそれを周囲で支えたり、あるいは賛同して運動に加わったりした大学生を中心とする当時の若者たちの世代はその傾向が特に強い。

    多民族国家だけあり、ビルマ人としてのまとまりを欠く部分はあるかもしれないが、日本における民族ごとの活動も盛んである。そうした各民族が集まってビルマ正月を祝うというのがこの集まりである。

    当日は好天に恵まれて、賑やかで和やかな集まりとなることを期待したい。

     

    第23回東京ダジャン(ビルマ市民フォーラム)

     

     

  • 第15回カレーフェスティバル&バングラデシュボイシャキメラ

    長年に渡って恒例のイベントとなっているJAPAN BANGLADESH SOCIETYによる「第15回カレーフェスティバル&バングラデシュボイシャキメラ」4月20日(日)に池袋西口公園にて開催される。

    関東一円ならびにその他の地方からも在住のバーングラーデーシュ出身の人々が集まり、このときばかりは日本国内での催しものとは思えないほど大勢のベンガル人たちの姿が見られる。私自身もここに出向くと、そのあたりからやってきて日本に定住している知人たちとよく再会するので楽しみにしている。

    南アジア系の料理屋も多く出店しているので、東京都内でどこか新しいお店を開拓してみようかと思っている方にも、味見したりスタッフと話してみたりするのにちょうどいい機会であることだろう。

    この手のイベントは天候に左右される部分が大きいので、当日は好天に恵まれることを祈る。

  • ミャンマー国際航空が関空に就航予定

    ミャンマー国際航空(MAI)が関西国際空港へ年内に就航する方向で調整中との報道があった。

    関空―ヤンゴンに定期便就航へ ミャンマー国際航空(日本経済新聞)

    昨年から全日空が成田・ヤンゴンの直行便を就航させているが、同じくミャンマー国際航空も成田便就航を模索してみたり、茨城空港にチャーター便を飛ばしてみたりと、いろいろ検討を続けていたようだ。また本日時点ではまだ、ミャンマー国際航空の本社サイトの「Route Map」には「Future Route」として日本の就航予定先は東京であることが示されているものの、最終的には先行した全日空のルートと重複せず、日本の空のもうひとつの表玄関である関空に就航という形で落ち着くようだ。

    途中で乗り換えることになく、ヤンゴンまでそのまま移動できることについてのメリットは大きい。ミャンマー・ブームが過熱していく中で、西日本方面からのビジネス、観光等による需要を手中にすることとなる。

    現在までのところ、成田からヤンゴンへのフライトの需要については、提携航空会社(全日空・タイ航空・日本航空)のフライトによる成田・バンコク間の移動、そしてバンコク・ヤンゴン間はミャンマー国際航空によるフライトという組み合わせでの発券を実施しており、当面はこの形で対応していくということになるのだろう。

    今後、ミャンマー国際航空は、ヤンゴンからデリー便、ドバイ便、ソウル便を計画している。ヤンゴン国際空港のウェブサイトを眺めてみると判るとおり、現時点では同空港に乗り入れている航空会社は自国の国内線キャリアを除いた国際線ルートでは、アセアン諸国や中国といった周辺国が主体で、その他の国々から乗り入れている航空会社といえば、全日空(日本)、大韓航空、アシアナ航空(韓国)、カタール航空(カタール)、エア・インディア(インド)、ビスミッラー航空(バーングラーデーシュ)くらいのものだ。フライトの所要時間にして1時間20分程度のところに、シンガポールと並ぶ東南アジアのハブ空港のひとつであるバンコクのスワンナプーム空港があるため、欧米からの直行便が乗り入れるような状況にはなっていない。

    しかしながら、軍政末期のヤンゴン国際空港の寂しい状況とは打って変わって、近隣国との間を結ぶフライトが急増している昨今であり、空港施設の拡張が早急に求められる状況になっている。ちなみに、すでにパンク状態にあった国内線ターミナルビルをはじめとする国内線関係の施設のアップグレードは、つい先日完了したばかりだ。

    昨年11月にお伝えしたとおり、ミャンマーの国内線キャリアがネットによる予約とクレジットカードによる支払いが可能となったことと同様に、当然ながらミャンマー国際航空についてもウェブ上でのブッキングと支払いができるようになっている。

    個人的にミャンマーに強い関心を抱いているものの、当のミャンマーの方々には申し訳ないのだが、私自身の興味の対象は英領期のミャンマー、つまり英領であった当時のインドのそのまた植民地であった国におけるインド人入植者たちの動向、そうした人々の子孫である現在ミャンマーに居住しているインド系コミュニティのありかたである。

    そのあたりについては、また別の機会を設けることにしたいと思う。

  • ヤンゴン空港ウェブサイトを眺めて思う

    ヤンゴン空港ウェブサイトを眺めて思う

    いつから出来たのかよく知らないが、最近ようやくヤンゴン空港ウェブサイトが開設されている。

    諸外国や国内各地からのフライトの発着状況が確認できるようになっていて、なかなか好評らしい。国際線は今のところ近隣地域を行き来するものが多いとはいえ、ここ数年間で便数は驚くほど増えていることから、2007年開業で近代的ながらもこじんまりとした国際線ターミナルは、ほどなく手狭になってしまうことだろう。ちなみに旧態依然の古い国内線ターミナルも今年3月から新築された建物に移転している。

    インドの隣国、このところ目まぐるしく変化していくミャンマーの旧首都にして最大の商都でもあるヤンゴンに関するニュースは、日本を含めた各国のメディアに登場しない日はほとんどないと言っていいだろう。

    「国際社会」というのはいい加減なもので、2010年11月に実施された総選挙による「民政移管」について、茶番だの軍政による看板のかけ替えに過ぎないなどといろいろ批判していた割には、新体制がスタートして積極的な改革意欲とその実施を目の当たりにすると、いきなり現在なお沸騰中の「ミャンマー・ブーム」に突入することになった。

    確かに、2008年にデルタ地帯を中心にサイクロン・ナルギスによる甚大な被害がもたらされたその年に強硬採択した新憲法により、224議席から成る上院、440議席から成る下院ともに、それぞれ四分の一の議席が国軍による指名枠であり、これと現在の与党であり軍籍を離脱した元国軍幹部を中心とするUSDP (Union Solidarity and Development Party)が過半数を確保すれば実質の軍政は安泰という、旧体制に著しく有利な安全弁を備えての「民政」となっている。

    この憲法の変更を目指そうにも議会の四分の三+1の支持がなければ不可能であるため、仮に選挙で選ばれる四分の三の議席を軍に敵対する勢力が奪取したとしても、国軍により指名された議員の中から民主勢力に寝返る者が1名出ないことには、憲法を変えることができないという、非常に高いハードルがあるため、将来に渡って憲法改正の可能性は限りなくゼロに近い。

    それにもかかわらず、旧体制のやりかたをそのまま引き継ぐのではないかと危惧された新体制は、予想以上のスピードで「国際社会」の意に沿う形での改革に積極的に取り組み、政治・経済両面での自由化を推し進めた結果、「民主化が進展している」と評価される形になっている。

    国外にいて、ビルマ語も判らない私たちにとっても見えるミャンマーの「迅速な改革」が可能であることの裏側には、それを上意下達的に着実かつスピーディーに実施できるシステムが機能しているわけであり、「軍政から看板をかけ替えた」だけの新体制であるがゆえのことだろう。

    もっとも、「軍政=悪」という図式について、個人的には疑問に思うところがある。ミャンマーの「軍政」については、1962年にネ・ウィン将軍のクーデターによる政権奪取、そして彼が組織した「ビルマ式社会主義」を標榜するBSPP (Burma Socialist Programme Party)による支配から始まるものとするか、1988年の民主化要求運動の最中に起きたソウ・マウン国軍参謀総長によるクーデター、そして1990年の総選挙結果を無視しての民主化勢力の弾圧と軍事支配の継続を指すかについては意見の分かれるところかもしれない。

    しかしながらBSPP時代も党幹部の大半は軍幹部からの横滑りであったことから、1962年から続いてきた軍政であるといって差し支えないことと思う。

    それはともかく、ビルマの民族主義運動が高まっていく過程で、第二次大戦による日本軍の侵攻、占領下での傀儡政権の樹立、日本の敗戦とともにイギリスによるビルマ支配の復活といった動きの中で、この国の民族主義運動とは多民族から成るモザイク国家の人々すべてがこれに共鳴する形にはならず、多数派のビルマ族によるビルマ民族主義運動がこれをリードすることとなった。

    植民地時代にイギリス当局は、少数民族がマジョリティを占めていた各地では、主に藩王国を通じて間接統治をしていたわけだが、ビルマの独立以降はこうした地域について、中央集権的なシステムに移行、つまり言語その他の様々な分野で国粋化すなわちビルマ民族化する形で統治していくことを目論んでいた点が、同様に多民族から成るインドとは大きく異なっていたと言える。

    とりわけ1962年のネ・ウィン将軍のクーデターによる政権樹立以降は、ビルマ族以外の格民族語による教育や出版活動等が困難となり、教育の仲介言語も英語からビルマ語に置き換えられることとなった。旧英領の国でありながら、また教育はそれなりに、少なくとも初等・中等教育は広く普及しているにもかかわらず、英語の通用度が著しく低いことには、こうした背景がある。

    多民族から成る国における「ビルマ民族主義」による統治の是非にまで言及するつもりはないが、これに反旗を翻して各地で活発な反政府武力闘争が続いてきたこの国で、国土の統一の継続を成すには、どうしても軍の力に頼らざるを得なかったという現実があった。

    ゆえに、この国の「民主化」が進展しているとしても、各民族との和解に至って、すべての民族が対等な立場になったという訳ではないことについては今後も注視していく必要があるだろう。

    これまで各地で国軍と武闘を繰り広げてきた反政府勢力と中央政府との和解の例がいろいろと伝えられる昨今ではあるが、政府側が彼らを慮って高度な自治を認めるようになったというわけではなく、政治的にも経済的にも安定してきた(・・・がゆえに、先進国による経済制裁解除を念頭に、憲法改正、そして総選挙の実施という手続きを踏むことができるようになった)政府に対して、武力で拮抗することができなくなったからである。ゆえに和解した地域では社会のビルマ化が進展し、和解を拒む地域に対しては断固たる軍事圧力をかけているという実態があるようだ。

    そういう状況であるだけに、今後もまだ紆余曲折はあることとは思うが、今後も政治の改革や経済の開放とこれら対する外資の堰を切ったように流入にはブレーキがかかることはないはずだ。

    今や改革と自由化の旗手となった現政権を激しく批判する国はほとんどなくなっており、政府は国際世論をあまり気にすることなく、反政府勢力を「テロリスト」であるとして厳しく処分するお墨付きを得たような状態でもある。

    政治というものは実にゲームのようなもので、「軍政」は、そのルールを巧みに利用して自らを延命するどころか、今や諸外国から賞賛されるような存在になっている手腕には、舌を巻かざるを得ない。

    だが今も実は形を変えた軍政が継続しているとしても、人々が総体的に豊かになっていくことを下支えしているとすれば、これもまた決して悪いことではないのではないかとも思う。独立以来、各地で内戦が続いていたこの国で「国防」の意味するところは、国内で反政府勢力に対する軍事作戦を断行するというものであったが、ようやく相当程度の安定を得ることができた昨今は、軍事関係に割いていた力を経済や民生の分野に振り向けることができる。

    真の民主化であろうが、隠れた軍政の継続であろうが、より多くの人々が安心して生活していくことができ、昨日や今日よりもベターな明日を期待することができる国になることのほうが大切なことであると私は思うのである。

  • ヤンゴンのホテル代に思うこと

    ヤンゴンを訪問する際、国内線であれ国際線であれ、そこからの出発が早朝の場合、前日はいつも空港目の前にあるSeasons of Yangonというホテルを利用することにしている。

    国際線ターミナルの正面、国内線ターミナルはそのすぐ脇なので、寝坊してもまったく心配ない。歩いても目と鼻の先なのだが、頼むまでもなくクルマで送ってくれる。

    90年代前半に撤退した米資本のラマダグループのホテルであったが、その後豪州資本のホテルグループに買収されて現在に至っている。

    これについて昨年も書いたとおり、建物や施設はくたびれているものの、空港目の前というロケーションと廉価な宿泊費を考え合わせると、かなりお得感のあるホテルであった。

    「・・・であった。」と過去形なのは、25米ドル、30米ドル程度で宿泊できた数年前と違い、昨年は50米ドルにまで上がり、現在は70米ドルにまでなっているからだ。

    もちろん昨今のミャンマーブームにより、最大の商都ヤンゴンの宿代の急騰ぶりは様々なメディアでも報じられており、市内のどのホテルも2倍どころか3倍以上も吊り上がっており、これはホテルの格を問わず、安宿でも同様にずいぶん高くなってしまっている。

    そんな具合なので、以前から宿泊施設を運営しているような場所では「景気が良くなった」と実感していることだろうが、便利な立地のところはどこも地価の上昇著しく、安宿から中級程度のホテルといったリーズナブルな料金の宿を新たに建築するには、ちょっと敷居が高くなってしまっているようだ。そんな状態なのに需要はどんどん伸びているがゆえに、ますます宿泊費がうなぎのぼりに上がっていく。

    それでもやはりそこに商機があれば、積極的に参入する者が増えるのは当然のことであるため、まさに建築ブームとなっている市内では、新たに建築されるホテルの類もまた多い。

    ミャンマーブームはしばらくの間冷めることはなさそうなので、こうした供給の側が追い付いてくるようにならない限り、ホテル代の上昇は今後も続くであろうことは言うまでもない。

    ダウンタウン在住で、ちょっと目端の利く人は、このブームを見越して、旧首都のもともと価格の高かった地域の物件を手放して得た資金でまだ価格が手ごろだった郊外で、しかも良好な環境で家屋を入手したりもしていたようだ。もちろんそうした動きもまた今後も引き続き続いていくはずだ。

    ただし、そうした地価上昇とともに、そうした利ザヤ目当てで売買できる立場ならば良いが、ダウンタウンで賃貸暮らしをしている人たちにとっては、昨今の状況は「収入はそうでもないのに家賃ばかりがガンガン上がっていく」という憂慮すべきことかもしれない。

    加えて、景気が良くなれば苔むしたような建物が並ぶダウンタウン地区に再開発という話が出るのもそう遠くない将来のことではないかと思う。大規模な開発がなくても、大きな建物がまるごと次々に取り壊されて新しくなるということも続いている。

    あちこちに植民地時代の面影を色濃く残すダウンタウンのインド人地区、中国人地区といった趣のあるタウンシップも、街並みの保存という概念が広まる前に、凄まじい勢いで追憶の彼方に消え去ってしまうかもしれないし、経済的な理由でそのあたりからの人口流出と新たな流入により、地域の個性も失われてしまうのではないかと少々気になったりもするこのごろである。

  • ディブルーガル1

    シブサーガルで2泊してから、ディブルーガルに向かった。シブサーガルからバスで2時間半程度の距離である。

    アッサムといえば、13世紀から19世紀にかけてこの土地を支配したアホム王国で知られているが、もともとアホムの支配者たちはタイ系の民族であったわけだが、インドのこのあたりは民族的にもモンゴロイド系の人々とアーリア系の人々が混住する地域であることから、ちょうど南アジアと東南アジアとの境目(・・・から南アジアに入ったところ)にあることが感じられる。

    人々の顔つきもさまざまだ。インド人らしい顔だちもあれば、モンゴロイドが混じっている風貌もある。もちろん、ここにもUPやビハールといった州から働きに来ている人たちはたくさんいるわけだし、東側のナガランドやマニプルといったモンゴロイド系の人々がマジョリティを占める州から出てきている人たちもいるはずなので、正直なところ町中で視界に入っている人たちの中で、誰がアッサム人で、誰がそうでないかについて見分ける自身はあまりない。それでもたとえばベンガル州の平地あたりと較べた場合、総体的に人々の集合体の中でモンゴロイド系の人々やモンゴロイドの血が入っていると思われる人々の割合が高いことはわかる。

    バスはひた走る。シブサーガルから2時間半程度の距離にある。霧がかかっているものの、クルマの往来の妨げになるというほどのものではない。道路両側はどこを見渡しても茶畑が続いており、いかにも世界最大の紅茶生産地といった佇まいである。

    クルマの揺れに眠りを誘われて、少しウトウトしている間に、どうやらディブルーガル郊外に入ったらしい。あまり密度が高くなく、ややまばらに広がっているらしい市街地。ブラフマプトラ河のほとりに広がる街だ。ここから少し北や西に行くと、アルナーチャル・プラデーシュ州に入る。

    2011年元旦から、インド北東州で入域に制限があったナガランド、ミゾラム、マニプルの3州が外国人に対して門戸を開いている(それまでは一定の条件下でパーミットを事前に取得する必要があった)ので、まだこうした規制が残っているのはアルナーチャル・プラデーシュ州だけとなった。

    ナガランドをはじめとする3州については、長年続いてきた反政府勢力との停戦と和解の方向への進展による治安の改善がこのような措置を可能にしたわけであるが、アルナーチャル・プラデーシュ州の場合は、インドが実効支配していながらも、中国との係争地帯であるという、国防上の理由が背景にあるようだ。

    政治的には北東インド地域の中では最も安定しており、治安も非常に良好であるとされる州であるが、さらには平地から雪山まで、チベット仏教圏からアニミズムを信仰する部族地域までを含む、地理的、文化的、民族的に非常に多様性に富んだ州でもあるため、この州が外国人訪問者に対して開放される日がやってきたら、「インドの観光地図を塗り替える」とまではいかないまでも、中央政府や北東地域の各州政府が目論む観光業の振興への強力な起爆剤となることは間違いないだろう。

    入域制限についても「規制緩和」が進んでいる中、アルナーチャル・プラデーシュも入域に当たって、現地の旅行代理店を通じてパーミットを申請する「グループ」における最低の人数が近年では「3人」そして「2人」と緩くなり、現在では事実上「1人」でも取得可能となっている。敢えて「事実上」としたのは、公式には「2人」という条件はあるものの、そうした申請を取り扱う旅行代理店に他のグループと混ぜてしてもらった取得したパーミットにより、「個人旅行」が可能となっているという事情がある。

    この個人旅行については、旅行代理店によっては、自社でのガイドとクルマの手配を前提としてパーミットの取得を代行するところもあれば、パーミット申請のみのハンドリングを行なってくれるところもある。

    私自身は、まだアルナーチャル・プラデーシュ州を訪問したことはなく、今回も訪れる予定はないのだが、アッサム在住でこれまで幾度かアルナーチャル・プラデーシュ州を訪れたことがある方の話によると、「公共交通が極端に少なく、クルマをチャーターしないと移動もままならない」とのことなので、やはりインドの他の地域とはかなり事情が異なるようである。

    〈続く〉

  • モコクチュンのクリスマス 3

    モコクチュンのクリスマス 3

    教会といえば大半がバプティスト
    教会

    朝7時に頼んでいた朝食を摂るために階下に降りる。隣席にはアッサムから家族と来ているインド人。この人は釣りが趣味とのことで、北東地域ではとりわけアルナーチャル・プラデーシュがお気に入りとのこと。

    「でもどの土地も所有者が決まっていて、釣りしていると、ここではダメだと言われることもよくある。これが平地と違うところだね。平地でも土地の所有者は決まっているけれども、釣りをしていて何か言われることは特にないよ。」

    この人は、アッサム州の人で、近隣州に住んでいることもあるかと思うが、アルナーチャル・プラデーシュ州の少数民族事情にもかなり詳しい。最近のインドの人たちは、自国内を広く観光するようになったこともあってか、その地域のマイノリティの習慣や社会についてもかなり知識や関心を持っている人が増えているようだ。

    昔はインド人の観光といえば、タージマハルのような超メジャー級の観光地か巡礼地と相場が決まっていたが、今はインド中どこに行っても、それこそ西洋人の姿を見かけないところであっても、インド人観光客はいたりする。バイクで旅行する人たちが多くなってもいる。

    90年代から一大ブームとなった国内観光も、さすがにこれだけの年月を経ると、いろんなスタイルの人たちが出てきている。夏にラダックで会った、デリーでの勤めを辞めてバイク旅行していた若者のように、「自分探し」の旅行をしている人たちもいる。自分探しというのは決して悪いことではないと思う。もともとありもしない自分を探すのではなく、「こう成り得る自分」を追求する旅であるからだ。この人は、ライター志望で、そのために旅行していた。ライターとして身を立てる自分と自身が書く題材を見つけるための旅である。

    外に出て歩いてみると、昨日はクルマが出入りしていたり、路肩に駐車していた商業地では車両の姿をまったく見かけないようになっているし、どこに行っても商店はすべて閉まっているという徹底した休日モードである。走るクルマもほとんどない。皆が自発的に休みとしているのか、それとも行政や組合が休みとするように強制しているのかはよくわからない。インドの他の地域と大きく異なるのは、どこまでも徹底して休みとなるので外で食事はおろか、軽食さえもみつかならないこと、そして交通機関も姿を消してしまうため、移動もできないことだ。クリスマスだけではなく、ふだんの週末も同様の状況となる。

    どこも店は閉まっている。
    人々は自発的に休んでいるのか、それとも政治的に強要されるのか?

    教会には人々が集まり、ミサを行っている。しばしば賛美歌が聞こえてくる。細い路地で行き交う人々と「メリー・クリスマス!」と声かけ合うのが心地よい。ミサの後はクリスマスの食事が教会近くで振舞われている。年に一度の大きな行事なのでみな楽しそうである。精一杯のおしゃれをして教会に集まっているのだ。住宅地あちこちにクリスマスの飾り付けがなされている。万国共通のデザインではあるものの、クリスマスツリーの意匠は日本のそれとずいぶん異なる。

    教会近くの広場で、ミサに集まった人々に振舞われる食事

    教会に人が沢山集まっているのとは裏腹に、家の中で家事にいそしむ人たちもある。教会への関心はやはり人それぞれなのだろう。私が受けた印象では、教会に集まるのはどうしても、より知的でどちらかといえば裕福な層が多いように思える。晴れ着を持っていないと、そういう場に出るのは気が引けるということもあるかもしれない。男性は洋装が多いが、ナガのショールを纏って出席する人もいる。女性も洋装が多いが、ナガの伝統的な女性の衣装の人たちの姿もある。どちらもパリッと着こなしていて、いい感じだ。

    今日もあちこちで爆竹が鳴り響いている。精一杯着飾った人たちが教会に出入りして、賛美歌が流れてくる雰囲気と、戦争でもしているかのような轟音が響く爆竹とではどうもイメージがオーバーラップしないが、おそらく教会には行かないようなタイプの子が鳴らしているのではないかと思う。

    モコクチュンにはカレッジまであるが、卒業後に就業機会はなかなかないらしい。就職先として最も条件が良いのは公務員ということになるようだ。他には、何か家業があればそれを引き継ぐか、さもなければ自分で小さな仕事でも始めるしかないという具合とのことで、日本の過疎の田舎と似たようなところもあるかと思う。世帯にはだいたい三人から四人くらいの子供がいるのが普通であるというから、やはりみんなが将来に渡り食べていくには、就業機会が必要である。

    斜面の頂上を中心に広がる町なので、ダージリンやシムラーなどのヒル・ステーションとも遠景は似ている。ただしこれらと大きく違うのは英国時代の遺産と思われる建物は見当たらないこと、旅行産業がまだ端緒についてさえいないので、観光客相手らしきレストラン、みやげもの屋といった類が不在であることだ。

    観光産業といえば、オーガナイズツアーがまだまだ中心のようだが、そもそも交通のインフラがとても貧弱であることは、そう簡単に克服できることではないだろう。山奥の部族社会であったため、人が造ったもので歴史的な建造物はないため、多くの人々を集めることができるかどうか期待するのは難しいように思う。景色にしても他のヒマラヤ地域のほうが優れているし、文化的な遺産も比較のしようがないほど多い。今後治安が本当に良くなったとしても、トレッキングの需要が高まるとも思えない。ごく最近、パーミット無しで行き来できるようになったという新鮮さはあるが、果たしてこの地で観光業が今後振興するかといえば、かなり困難を伴うように思える。

    ただし、可能性といえば、インドの北東部の治安が安定に向かっていること、ビルマの西側も同様であること、ミャンマーが経済の開放に舵を切ったことにより、最近言われているインドとミャンマーを繋ぐ物流ルートが出来ることになったならば、このあたりの経済は大きく変わることだろう。だがそれは、ここにインド本土から巨大な投資とモノと人が流入してくることであり、これまで独立を求めて闘ってきた地元の意思とは相反するものとなる。やがては大インドにそのまま吸収されていくことになるのではないかと思ったりもする。

    ここでは日没は午後4時過ぎだ。太陽は山々の向こうに姿を隠している。まだしばらく明るさは残っているが、太陽が見えなくなると急に寒くなってくる。やれやれ。

    坂だらけの斜面の町なので、さほどの距離でなくても、かなりくたびれる。こういう町に暮らしていると、高齢者は外出が億劫になることだろう。また足が悪い人のクルマ椅子も危険で使えるような環境ではない急斜面なので、身体の具合の悪い人は外出の機会も少ないことだろう。

    日本では山地の町や集落は谷間に形成されることが多いが、ここでは山の頂上ということが多い。社会習慣や伝統上の違いといえばそれまでだが、やはり水の確保は容易ではないらしい。たまたま知り合った地元の水道局職員としばらく話をしたのだが、ずいぶん下の谷間を流れる水をポンプで汲み上げて供給しているという。

    コヒマもそうだが、モコクチュンもここまで町が大きくなったのは、比較的近くにそういた水源があること、加えて現在は電気等を利用した技術があるがゆえに、このような規模で人々が居住できることになったのだろう。

    モコクチュン郊外にも小さな茶畑がある。気候条件はダージリンあたりに似ているはずなので茶の栽培は当然できるだろう。だがあまりよく手入れされているようではなく、茶の木がかなり背が高くなってしまっているものもある。自家消費用だろうか?

    のどかな山間の町のモコクチュンだが、早朝や夜間などに出歩いていると、向こうからやってくる数人組の男性が機関銃を持つ軍人であることにギョッとしたりする。ライフルを背負った警察官ではなく、プロの戦闘員が警備をしているというのが、停戦により平和を救助していながらも、いまだ不安を払拭しきれないナガランド州にいることを感じさせてくれる。

    現在、反政府勢力による大きな騒擾が起きていないのは喜ばしいことだ。しかしながら内戦時代を通じて、中国製の武器が大量に流入していること、中国による戦闘員に対する訓練等がなされてきたといった事柄があるがゆえに、インド独立以来半世紀以上に渡って、彼らが当地に展開しているインド軍と互角に渡り合ってきたということになるのだが、同時に市民の間にも相当量の武器類が出回っているものと考えてよいだろう。

    これまで、反政府組織による外国人を狙った誘拐行為などは起きていないようだ。また、一般のナガの人たちは礼儀正してく親切だが、どこの国にも悪い奴はいるものである。政治的な問題はさておき、そういう者が武器を持って強盗を働いたり、山賊行為をしたりということは当然あるはずだ。

    インド国内にありながらも、インド文化圏外にあり、南アジア世界と東南アジア世界の境目にあることを感じさせてくれるのがこのエリアだ。ただしこの「世界の境目」もまた、ナガランド、マニプル、ミゾラムなど、州や地域により民族や文化習慣等も様々であることは大変興味深い。

    北東インドらしくサッカーは盛んなようだ。こちらは地元の大会のポスター。

    〈完〉