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カテゴリー: greater india

  • ETIM パーキスターンと中国

    ETIM パーキスターンと中国

    このところ中国ではイスラーム主義者によるものであるとされるテロが相次いでいる。中国の新疆ウイグル自治区の分離独立を訴える集団による犯行であるとされるが、中国に対するジハードを唱え、中国から民族自決を要求する運動から、中国をイスラーム教徒の敵であると主張するものに変質してきている。

    この組織、ETIM(East Turkestan Islamic Movement)は現在パーキスターンのFATA (Federally Administered Tribal Areas ※連邦直轄部族地域)に活動拠点を置いており、中国の手が及ばないところで軍事訓練、武器や資金の供与などを受けているとされる。

    この地域はインドが英領であった時代に遡る歴史的な経緯から、パーキスターン領内でありながらも、同国の立法権限が及ぶのは「国道上のみ」という形になっている。同国政府による行政ではなく、ここに暮らす部族による統治がなされる特殊なエリアである。中央政府の権限が及ばない「無法地帯」であることに加えて、部族民たちの尚武の気風もあり、同じイスラーム教徒の反政府組織やテロ組織等に対しては格好の潜伏場所を提供しているとも言える。

    常々、「テロ組織を隠匿している」と名指しでインドから非難されてきたパーキスターンだが、これまで地域の最大の友邦として同国を厚遇してきた中国にとって、自国でテロを展開するETIMの活動がエスカレートしていくにつれて、この集団が潜伏しているパーキスターンに対して、強い態度に出る日も遠くはないものと思われる。パーキスターンの港湾や道路等々のインフラ整備に手を尽くすほかに、地域最大の友好国として厚遇を与えてきた中国も、そろそろ考えを改める必要性を検討しているかもしれない。

    もちろん中国だけではなく、同地域に潜り込んでいるテロ組織に対する強い懸念を抱く国は少なくないため、パーキスターンに対する外圧は相当なものであるため、ときおりこの地域への軍事作戦がなされている。

    ETIM operatives among 50 killed in Pakistan airstrikes (INTER AKSYON)

    しかしながら、このような行動は根本的な解決からほど遠いことは誰の目にも明らかであり、パーキスターン政府にとっての「一応、出来ることはやっている」というアリバイ作りに過ぎない。各国が望みたいのは、このような無法地帯の存在を許す現在のシステムの変更であるが、パーキスターンにとってはそのような「暴挙」は自国北西部の安定と秩序を破壊するものであり、隣国アフガニスタンにもまたがって暮らす部族民たちとの信頼関係を根底から崩すことにより、内戦に突入する危険をも覚悟しなくてはならない一大事となる。

    最も大きな問題は、当のパーキスターンが自国領内のFATA地域のこうした問題を解決する能力も意思も持たないことだ。FATAのありかたは、今まで以上に地域の安定と秩序に及ぼす影響は非常に大きなものとなる可能性があり、今後目を離すわけにはいかない。

    標的にされる中国 「全イスラム教徒の敵」(asahi.com)

    ジハード呼びかける動画、狙いはウイグル族 (THE WALL STREET JOURNAL)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 1 (CCTV)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 2 (CCTV)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 3 (CCTV)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 4(CCTV)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 5 (CCTV)

    Online terrorism East Turkestan Islamic Movement terror audio and video part 6 (CCTV)

  • ミャンマー初の世界遺産登録

    このほどユネスコの世界遺産として、ミャンマー中部のエーヤーワディ河流域の「ピュー古代都市群」が登録されることとなった。同国の経済関係以外の文化面における国際社会への復帰を象徴するかのような出来事といえるだろう。

    ビルマ族最初の王朝であるバガン王朝以前に、ミャンマーの先住民族であるピュー族が建設した古代都市遺跡で、みっつの都市の遺構に宮殿、要塞、埋葬所、産業地域、仏塔、灌漑施設等が残っている。

    他にも文化的遺産が豊富な同国で、ちょっと専門的な知識がなければ見物してもよく判らないような遺跡がなぜ一番最初に登録されることになったのか不思議に思う向きもあるかもしれないが、敢えてビルマ族による文化遺産ではなく、先住民族が創り上げた都市国家遺跡を登録することによlり、従前はビルマ族の民族主義をゴリ押ししつつ、国内に暮らすその他の民族のナシュナリズムの高揚を圧殺してきた同国政府が、国内外に自国における多民族・多文化の共存をアピールする政治的な意味があるのではないだろうか。しかもピュー族自体はすでに消滅してしまっているがゆえに、現在ミャンマーに暮らしている少数民族たちのナショナリズムを刺激することもないため、政府にとって「安心」でもある。

    世界三大仏教遺跡に数えられるバガンの遺跡群については1996年に当時の軍事政権が申請を提出したものの、保全計画の不備を理由(ならびに軍事政権に対する圧力?)により、却下されてしまった経緯がある。今後はバガンの世界遺産登録に向けての最申請の準備が進められているようである。観光業振興にも大いに役立つ看板にもなるため、他にもこの国から世界遺産登録申請はいくつか続くことと思われる。

    Myanmar’s first site inscribed to World Heritage List (UNESCO)

  • サイクルリクシャーあれこれ

    サイクルリクシャーあれこれ

    Rickshawの発祥の地といえば横浜(東京の日本橋という説もある)で、日本発祥の乗り物はアジア各地に伝播して、それぞれの土地で発展していき現在に至っている。

    リクシャー、つまり力車こと人力車を文字通り人がテクテク走って引いていたころのものは、日本から輸出した車両とそれを模倣したものが幅を利かせていたため、どこの国も白黒写真に残るそれらの姿は、これらの復刻版が行楽客向けに走る横浜、浅草、鎌倉などの観光地で見られるものとほとんど同じ形をしている。現在、唯一カルカッタの残るこうしたオリジナルの様式のリクシャーは、江戸東京博物館に展示されている人力車にほぼ忠実なコピーと言って差し支えないだろう。

    この人力車の発展形がサイクルリクシャーであり、日本でもリンタクとして一時期走っていた。江戸東京博物館のウェブサイトによれば、信じられないことにこれが1988年まで東京で走っていたということだ。今はイベント等で営業している業者がいるのだが。また、Velo Taxiはサイクルリクシャーの最新型ということになる。

    しかしながら、このサイクルリクシャーについては、動力の効率や操作性の観点からは、南アジアの引き手の後部に座席が備わっているものが一番良いのではないかと思うのだが、ベトナムやカンボジアのように乗客の座席が前に付いているもの、ミャンマーのようにサイドカーとなっているものなど、いろいろなバリエーションを生んだ。

    インド
    ベトナム
    ミャンマー

    座席が前だと眺めは良いし、乗り心地も優れているのだが、自動車やバイクその他の乗り物が忙しく行き来する現代においては、混雑している交差点などではちょっとスリリングである。右折しようとしているところで、腰かけている乗客のところに他の車両が突っ込むという事故を目にした際には「やはり」という気がした。サイドカーのタイプだと、運転手との会話が容易であるところが好ましくも思える。後部が座席となっているものの場合、往々にして乗客が座る部分はかなり高い位置となるので、見晴しは良かったりするし、多少の雨ならば蛇腹式の傘部分である程度防ぐことができる。もちろん運転手はずぶ濡れになるしかないのだが。

    サイクルリクシャーの駆動部分の自動化を進めたものがオートリクシャーであり、このエンジンの環境負荷を取り除く目的で開発されたのが、サファー・テンポーであり、e-rickshawでもある。

    これまでサイクルリクシャーが活躍してきた地域でも、都市の過密化と住民たちの自前の交通手段の普及による交通渋滞、市街地の拡大による生活権の拡大等により、利用者の減少、乗り入れ地域の制限などにより、先細りの稼業であることは間違いない。先進国におけるVelo Taxiにしてみても、これが実用的な交通手段として機能するかといえば、そうであるとは全く言えないだろう。いずれは各地で消えゆく運命にあるとはいえ、中進国や途上国においては小規模な町での需要はまだまだ高い。

    先進国においても環境意識の高まりや都市部以外での若年層人口の流出などによる高齢者の日常の足としての可能性も否定できるものではなく、サイクルリクシャー営業を試みたら、一定の評価を得るのではないかと思ったりもする。

  • ミャウー 3

    ミャウー 3

    ミャンマーで洋式の朝食はインドと同様だ。インドのものとサイズのトースト、バターとジャム、そして目玉焼きかオムレツ、紅茶である。これは旧英領の国、またその他の国でも往々にして同様なのだが、ベンガルみたいな周囲の景観と合わせて、ちょっとインドに来ているかのような気分になる。

    歴史的遺産の保存としてはいかがなものかと思うが、新旧ごちゃまぜの空間はそれはそれで興味深い。

    まずは外に出て、昨日の店でレンタサイクルを借りて、これでお寺巡りとなる。歴史的な寺院遺跡群なのだが、現代も信仰されている寺となっているところも多いため、寺の中に古い部分とそれと隣接したり上に新たな建造物が加えられていたりして、原状の保存という具合にはなっていないところも多々あるのはミャンマーらしいところかもしれない。遺跡の修復具合はあまり良好とはいえない。バガンでも国外からいろいろ批判もあるようだが、ミャウーのそれも安易でチープな修復に留まっているように思われる。

    朝の時間帯は曇っているように見えていたが、日が高くなるにつれてどんどん明るくなってくる。おそらく雲の厚みは同じなのだろうが、日差しが強くなるためそうなるのだろう。ちょうど雨季に移行しようという時期であるため、薄曇りの天気となるようだ。それでも日中の最も暑い時間帯には40℃を少し超えるくらいとなる。

    町の北東にあるコー・タウン・パヤーを手始めに、行ける範囲にあるお寺をいくつか訪れてから、船着場のほうまで足を延ばしてみる。自転車で自由にのんびりと行き来できるのはよい。バガンでもそうであった。もっともあちらはここの暑さの比ではなかったが。

    行き交う人々で賑わうマーケット
    旬な果物ライチー
    料理に使われるフィッシュペースト。日本で言えば味噌のようなもの。
    様々な干し魚類
    ゼンマイの類
    自炊したくなってくる。
    ビンロウジュの実。インドほどではないがこの国にもこれを愛好する人たちは多い。
    強い日差しのもと、こうした帽子は必需品

    昨日は訪れた時間帯が遅すぎてほぼ誰もいなくなっていた市場だが、昼間の早い時間帯に行くとにぎわっていた。今が旬のライチー購入。食べてみるとあまり甘くなくて酸っぱい。だが海や川の産物が豊富で、干し魚には様々な種類がある。また黒くて味噌のようなものがあったが、これは魚の発酵させたもののペースト。料理に使うダシというか、まさに味噌のようなものでもある。

    本日の午後、暑い中を自転車で町中を走っていると、マーケットから少し進んだ静かな住宅地で民家の前の道路にテントを張りだして、数人の人たちが席に座っているのを見た。何か結婚式でもあるのか、それにしてはテントが小さいと思いきや、お通夜であった。小さなベッドの上に洋式のズボンとシャツを着た壮年男性の遺体があり、口には黒いマスクがかけられている。ベッドには蚊帳が張ってあり、小さな電飾が光っている。この気候の中でどのくらいの間そうしていられるのかわからないが。

    気温が高いため、夕方になるとさすがにヘトヘトになってくる。宿近くの食堂では生ビールを出していたので二杯ほど引っかけるとちょうどいい具合になってきた。

    〈完〉

  • ミャウー 2

    ミャウー 2

    レセプションが入っている建物
    室内はこんな感じ

    ここでの宿泊は、Shwe Thazing Hotelである。スィットウェにも同じ名前のホテルがあったが、同じオーナーによる所有だという。開業から4年経ったというが、きれいに手入れしてあり、スマートな感じのコテージ形式。一泊55ドルとかなり高めではあるが、短い期間の旅行であり、エアコンは常時使いたいし、日記等を書くためにも停電に対するバックアップ電源を持つところというと、選択肢はかなり限られてくる。

    宿の隣のレンタルサイクルを借りて市内散策に出発。風景はベンガルとよく似ている。もともと地続きであるし、ベンガルのチッタゴンはもともとヤカインに所属すべきであるという主張が一部にあるように、隣接している地域なので気候風土は似通っているのだろう。ヤカイン州のアラカン山脈はヒマラヤの東端にあたる。そして今私がいる部分は、アラカン山脈が終わったその先なので、ヒマラヤから続く山地が終わったその部分にいるということになる。人々の顔立ちにしてもバーングラーデーシュにいてもおかしくないような風貌も少なくない。ただし、ミャウーがベンガルと違うのは、ヒンドゥーたちのお寺がないこと、モスクからアザーンの呼びかけが聞こえてくることはなく、モスクもないことだろうか。やはりここは仏国土なのだ。

    もし英領下の1937年におけるインドからビルマの分離がなく、1947年のインドのイギリスからの独立に伴う印パ分離がなく、よって地域もインドの一部であったとしたら、もとより人口圧力の高いベンガル地域から大量のベンガル人流入があり、またUPやビハールからも同様に沢山の人々が移住して、すっかりインドの一部になってしまっていたことだろう。政治というものは、そして国境というものは人々の間に垣根を作るが、同時にそこに暮らす人々を外からの影響から守る働きもある。

    大量生産の衣類、プラスチック製品があることなどを除けば100年以上前とほとんど同じかもしれない。
    こんな感じの家屋が続く
    村のこどもたちのおやつの時間
    村はずれにヘリパッドがあるのは不思議といえは不思議

    自転車で町はずれ・・・といっても少し走るとすぐに町の外に出てしまうのだが、そこからは村が広がっている。未舗装のダートの両側には竹で作られた家屋が並び、やや豊かと思われる家には柱組を木で作った家だったりする。こういう家屋では雨季を過ごすのは大変困難なことだろう。豪雨に見舞われることもたびたびある。ましてやサイクロンが襲来した場合、このような家屋が持ちこたえることができるとは到底思えない。2007年のナルギスの後、2010年にもヤカインにはサイクロンがやってきてかなりの被害が出たというが、このあたりはどうだったのだろうか?

    町から出ると電線が見当たらない。村には電気は来ていないものと思われるし、水道もないようだ。井戸で水汲みをしてアルミの壺に入れて運んでいる女性たちやそれを手伝う子供たちの姿がある。井戸がない集落では、どこまで汲みに行くのかは知らないが、かなり遠くまで足を延ばしているように見える。流れる川に飛び込んで遊ぶ子供たちの姿もあり、なかなかたくましい。かなり厳しい生活環境のように見えるものの、村の中は和やかな雰囲気である。

    町のマーケットで売られているアルミの水がめ。これで村の女性たちは水汲みに出かける。

    そうした景色を目にしながら自転車のペダルを踏む。昼間の気温はかなり高く、摂氏40度前後くらいだろうか。それでもこの時期のバガンほどの酷暑ではないのは助かる。また少しばかりの気持ちの余裕を持って走りまわることができる。

    ラカイン族の最後の王朝の都(1430~1784)であり、欧州や中東との海運で栄えたとのことだが、コンバウン朝に征服された後に英領となり、ビルマ独立以降は同国の一部を構成することとなった。現在は小さな町となっており、今も数多く残る仏教建築を除けば、栄華の過去を偲ばせるものはほとんど残っていない。王都として繁栄した当時には、欧州系やアラビア系の人たちも少なからず都に暮らしていたというが、今もそうした血筋を引く人たち、あるいは先祖にそういう人がいたという言い伝えのある人たちは残っているのだろうか。

    日本人との縁もないわけではなかったらしい。江戸時代にキリシタンとして迫害された日本人も王宮の警備に雇われていたという。東洋のベニスとも称されたりもした水運の町であったとのこと。今はそういう面影は感じられないのだが、いくつか残っている運河では小さな船や竹を組んだ筏が行き来しているのを目にすることができる。

    筏の往来

    旧王宮には、石垣と建物がかつて存在していた部分の基部の石しか目にすることはできず、王宮は木造であったとのことだが、往時を想像するには大変なイマジネーションの豊かさが必要となる。

    王宮跡

    王宮で写真を撮っていると、突然砂嵐のような具合になってきた。突風とともに砂塵が巻き上がり、とても目を開けてはいられない。強い雨が来る前触れだろうと、そそくさと王宮跡を出る。どこもすごい突風で、店先の日除けは落ちるし、何か風で吹っ飛んだりしていたりで、ちょっと注意が必要だ。

    しばらく走っても収まらないので、英語で看板を出しているゲストハウスの隣の食堂に入り、ヌードルスープとコーヒーを注文する。しばらくの間は風と砂塵がひどく、店の中にいても目が痛くなりそうなくらいだ。食事を終えるあたりで強風がようやく静まると、外では雷が鳴り始めた。少し雨もパラついてきた。幸い、ひどい降りにはならなかったので、店を出て再び走り回ることにした。

    夕方4時から王宮跡のすぐ東側にあるグラウンドでサッカーの公式戦(?)が行われていた。地元のチームの試合のようだが、いくつものバナーが掲げられており、ずいぶんたくさんの観客が集まっている。娯楽らしい娯楽がなさそうなので、こうした機会を楽しみにしているのだろう。

    サッカーの公式戦
    見物する人たちの姿が沢山!
    出場者たちは裸足かソックス履きのみであった。

    不思議なのはラインが引かれていないことだ。どこまでがピッチなのか、どこまでがペナルティエリアなのか、ハーフウェイラインはどこまでか、とにかくこれらすべてが審判の目分量ということになる・・・と思ったら、よく見るとラインは地面を掘ってあった。躓きそうな感じなのであまり良くないと思うが。

    ラインの代わりに溝が掘られていた・・・。

    また、誰もがシューズを履かずにプレーしているのにも驚いた。ソックスを履いているものはソックスのままで、ソックスを持たないものは短パンの下には何も身に着けていない。これでも公式戦らしく、ちゃんと大会本部席があるし、スコアも記録しているようだ。当然、それらしい恰好をした主審やラインズマンたちが判定している。それでも競技をしたいという気持ちを大いに買いたい。

    内容については云々するようなものは特にないし、やがてこういうところからも優れた選手が出てくる日が来るのかどうかは知らないが、だんだんとレベルが上がって来る日も来るだろう。やはりこれも現状が低すぎるだけに、将来の伸びしろは大きいということになるのではないだろうか。

    ただ残念なのはコトバが通じないため、どういう大会なのか、どういうチームなのか、なぜ裸足なのかその他いろいろ質問したいことはあるのだが、尋ねることができる相手がいないことだ。英語が通じそうな人は見当たらないし、適当に尋ねてもやはり通じない。

    民家の庭先のジャックフルーツの木。これが一本あるとありがたい。
    とにかく暑いので、夕方のビールで生き返る感じ。

    〈続く〉

     

  • ミャウー 1

    ミャウー 1

    ミャンマーのMPTのレンタルSIMを入れたスマホは、ヤンゴンを出てからまったくネット接続が出来ておらず通話専用となっていたのだが、朝早く起きて操作してみると、かなり不安定ながらも3Gで繋がることが判った。おそらくユーザー数に対する回線の容量が常時不足する状態にあり、利用者が少ない時間帯のみ通じるという具合になるのだろう。

    ミャウー行きの船からの眺め
    船内はこんな具合

     

    これからスィットウェからミャウー(Mrauk-U)に行く船に乗る。政府系の公社を含めて複数の船会社が運航しており、どれも毎日出ているわけではない。それぞれ往路・復路(往路の翌日が復路)の曜日が決まっているのだが、概ね毎日どこかしらの会社が船を出しているようだ。

    午前6時前に船着き場に到着、カラーダーン河に繋がる運河に係留してある船に乗船したあたりで朝日が昇ってきた。もっと小さな船を想像していたが、荷物とともに大量の貨物も運搬することができる大きな船である。

    出発!
    カラーダーン河に繋がる水路を進む
    ようやく河に出る。

     

    午前7時の定刻に船は出発。少し進んだ先でカラーダーン河に出る。ちょうどここは河口部に位置しているため、河というよりも海の眺めといったほうがいい。停泊しているいくつかの大型船の姿があり、中小の船影が目の前を行き来している。

    向こうの船は巡視艇のようである。
    竹を組んだ筏
    魚を獲るための仕掛け?

     

    筏に編まれた大量の竹材が河下に向かう様子、魚を採るための仕掛け、岸部で孝之式住居が並ぶ村落やお寺の眺めなどを楽しみながら船上のゆったりとした時間を楽しむことができる。水量豊富な平地を流れる河だけに、海原のような景色を眺めているのも束の間、遡上していくにつれて、次から次へと他の河川との合流点があり、これらを通過するたびに河幅は見る見るうちに細くなっていく。水面と陸地の高さにほとんど差がないため、雨季の眺めは今とはずいぶん違うことだろう。

    水面と大地に高低差がほとんどない。

     

    昼寝中の乗客

    モンスーン期には河幅はもっと広くなっているであろうし、もともとあった土地が削られたり、他の土地が新しく形成されたりという具合に、岸部の形状も継続して変化していくはずだ。河の流れも少しずつコースを変えていることと思う。そして氾濫しては流れを変えているのだろう。ときにサイクロンが来たりすると、流域は劇的に変化するはず。

    集落
    大きな建物も見える。
    途中の村から乗船する人々
    川面の風景

    しばらくうとうとして目を覚ますと、もはや同じサイズの船が行き違いできるような幅ではなくなっている。このあたりまで来ると、同じ大きさの船が擦れ違うことはできない。蛇行しながら流れる川筋の先はブラインドコーナーになっていて、船は汽笛をけたたましく鳴らしながら航行を続けていく。向こうから船が来たら衝突してしまうからだ。

    観光客が増えるにつれて船は増便していくのだろうが、すぐに限界が来ることは目に見えている。やがては陸路でのバスも外国人に許可する日が来るのではなかろうか。スィットウェとミャウーの間はバスも走っているものの、外国人は乗車することが許されていない。しかしながら、こういう場所に来て、水際の様子を水面から眺めることなしでいるのはもったいないので、陸路での移動が可能となっても、やはりここは船旅を選びたいものだ。

    船内の売店で買った袋菓子はバーングラーデーシュ製

    ミャウーの近くまで来ると川幅はとても狭くなる。

    すっかり川幅は狭くなり、こんな大きな船が航行して座礁しないのか?と思うほどになってきたあたりで集落が見えてきた。そこがミャウーの船着場であった。ちょうど正午であったので、スィットウェから5時間ほどの船旅であった。

    ミャウーの船着場

    〈続く〉

  • スィットウェへ3

    スィットウェへ3

    この町で少々気になったことがある。ヤカイン州といえばロヒンギャー問題で海外にもよく知られているところだ。ロヒンギャーとは、ベンガル系のチッタゴン方言に近い言葉を母語とするムスリム集団のことだが、すでにこの国に数世代に渡って生活しているにもかかわらず、「ベンガル人の不法移民」「外国人」とされており、この国で市民権を与えられていない宙に浮いた存在である。

    近年は、ムスリムに対する暴動が発生して、モスクやムスリムの家屋に対する破壊行為が起きたこと、多数の死傷者が出るとともに、避難民を数多く発生させたこともメディアで伝えられていたのを目にした人も多いだろう。

    ミャンマーの中ではとりわけイギリスによる植民地史の中で早い時期からインド系の移民の波にさらされた土地であること、港町として南アジアとの往来も盛んであったことから、インド系の人々の姿が非常に多いであろうことを予想していたのだが、意外にも港湾エリアを中心とする繁華街ではインド系の人々、ムスリムの人々の姿が非常に少ない。

    繁華街の目抜き通り(Main Rd.)には、ジャマーマスジッドという名で、立派なムガル風建築のモスクがあり、おそらくこのあたりには相当数のムスリムが住んでいたのではないかと思われるが、周囲のマーケットはそのような雰囲気ではない。モスクそのものも現在は使われていないようで、入口につながる小道にはバリケードがあり、武装した治安要員が警備に当たっており、足を踏み入れるまでもなく、その前に立ち止まるだけで追い払われてしまう。

    ヤンゴンから飛行機で到着した際の空港から市内への道筋にも、小ぶりながらも由緒ありそうな凝った建築のモスクがいくつかあったのだが、どれもそうした制服の男たちが入口を塞いでいた。


    市内中心部でも繁華街の目抜き通り(Main Rd.)から西に進んだエリアに行くと、ところどころでインド系の人々を目にした。そんな中に、いくつかのヒンドゥー寺院があった。おそらく最も大きなものが、マハーデーヴ・バーリーという、名前からしていかにもといったシヴァ寺院だ。

    入口の鉄扉を開けて中に入ると、若い男性が「何か用か?」といった不審そうな面持ちで出てきたが、インド系の人々のお寺に関心があること、ぜひ神殿で拝ませて頂きたいという来意を伝えると、快く迎えてくれた。


    お堂の中は簡素で、祭壇にはシヴァの絵と小さなリンガムが祀られているというシンプルなもの。だがその反対側の壁にはシヴァの連れ合いであるドゥルガーの立派な神像があり、本尊は実は後者なのではないかと思われるくらいにアンバランスである。ドゥルガーやカーリーへの信仰の厚いベンガル系の信者から寄進されたものではないかと思う。


    ミトゥン・チャクラボルティーという、ヒンディー語映画のベテラン俳優みたいな名前のこの男性はこのお寺のプージャーリー。快活な感じのする男性で、ヒンディー語もなかなか上手い。名前の示すとおりのベンガル系で、20代後半で昨年結婚したばかりだが、来月初めての子供が生まれる予定であるとのことで、境内には身重の奥さんもいたが、彼女はヒンディーを話すことはできないようであった。

    現在、母親とお嫁さんとの3人暮らしであるそうだ。父親は20年ほど前にカルカッタに行ったきり、消息を絶っているとのこと。「父が先代のプージャーリーで、私がこうして継ぐまでしばらく空いているんです。私が幼いときに仕事を求めてカルカッタに行ったのですが、それっきりどうしているのかも判りません。もちろん私たちはベンガル人ですが、父はカルカッタに何かツテがあったのかどうかは判りません。そんな具合であったので、母は大変苦労したようです。」

    特に身の上話を尋ねたわけではないのだが、いろいろと聞かせてくれるのはインド系の人らしいところかもしれない。しばらく世間話をした後、「少々お待ちいただけますか。」と言い残してどこかに姿を消した彼は、サフラン色のローブを纏って現れて、私のためにプージャーをしてくれた。

    彼の家族は曽祖父の代にベンガルから移民してきたというが、今でもベンガル語とヒンディー語は使えるということから、この地のインド系のコミュニティの絆はもちろんのこと、人口規模も決して小さなものではないことが窺える。


    そこからごく近いところに、ダシャー・プージャー・バーリーというヒンドゥー寺院もあり、ここもまたプージャーリーの男性に挨拶すると、非常に愛想よく迎え入れてくれた。こちらはカーリーとドゥルガーを祀った寺であり、プージャーリーはさきほどのマハーデーヴ・バーリーのプージャーリーと同じ苗字を持つベンガル系のブラフマンの50代男性だが、親戚ではないそうだが、年代が上であるだけに、さきほどの男性よりもヒンディーが流暢で、彼らのコミュニティに関する知識も豊かなようである。

    彼によると、この町に暮らすヒンドゥーの人々はおよそ3,000人程度。インド系という括りで言えば、ムスリムがマジョリティで彼らは少数派だそうだ。かつてはもっと多くのヒンドゥー(およびインド系ムスリム)が暮らしていたそうだが、1962年のネ・ウィン将軍によるクーデター以降、多くは国外に移住したとのことだ。

    近年においては、この地における反ムスリムの動きが、彼らヒンドゥーの立場をも悪くしているという。「このあたりでは、インド系といえばムスリムのほうが多いでしょう。ロヒンギャーの問題もあるし、私らヒンドゥーも同じように見られてしまう部分がある。とりわけムスリムに対する攻撃が始まってからは、私らも必要なとき以外はなるべく外に出ないようにしています。この地域に暮らすということはリスクと不便があまりに多い。」とのこと。あれほどインド本国では圧倒的な重みを持つインド文化も、この地にあってはその輝きほとんどなく、まるで隠れキリシタンのような趣さえある。

    「私の祖父がインドからやってきました。ここのヒンドゥーの間ではベンガル人が多いですが、U.P.やビハールからの移民もいれば、マールワーリーもいるし、グジャラーティーもいます。でも私らの間では正直なところ、先祖がやってきた地域の区別はあまりないんです。結局、同じヒンドゥーでしょう?」

    この界隈には、他にゴーランガー・マハー・プージャー・バーリー、ハリ・マンディル、ラーダー・クリシュナー・マンディルといったヒンドゥー寺院がある。

    翌日にはこの地域のインド系の人の結婚式があるので、ぜひ出席しないかと誘われた。ぜひともよろしくお願いしますと言いたいところであったが、タイトなスケジュールでのミャンマー訪問で、その日にはすでに移動する予定であったので、後ろ髪を引かれる思いながらも辞退せざるを得なかった。寺院を出て、しばらく進んだ先では着飾ったヒンドゥー女性たちが乗合自動車から降りてどこかに向かうところであったので、この婚礼と関連するものが行われていたのではないかと思う。

    寺の外でも、インド系の人々は総じてフレンドリーな印象を受けたが、この「インド系タウンシップ」を徘徊するのはなかなか面倒なことでもあった。というのは、辻のそこここに警察のバリケードがあり、POLICEと大書きした車両が行き交う中で、そうした地域に足を向けようとすると、往々にして「こちらに立ち入るな」と追い返されたり、職務質問を受けたりするからだ。

    中には非常にガードが堅い路地もあり、一体その先には何があるのかと興味をそそられるものの、路地の反対側から進入することを目指しても、迂回路を探してみても入ることができなかったりする。

    ときに多少の英語ができる警官もおり、「ロヒンギャーたちがいる地域であるから危険なので入らないこと。」とのこと。ロヒンギャーの人々が危険であるのかどうかはともかく、このように常に監視の対象になっているということ、それが州都であることを思えば、その他の地域では一体どんな扱いをされているのかと思う。

    こうした中で、ヒンドゥーたちが監視の対象になっているのか、保護の対象になっているのかわからないが、やはりインド系の人々全体がロヒンギャーと同義に扱われているかのような印象を受けるとともに、こうしたインド系が住むエリアそのものが警備の対象となっているようにも感じられた。

    英領期に、ここに移住してきたインド系の人々の多くは、当時のヒンドゥスターンの新天地として入植してきたはずだが、結局こうしたやってきた大地はいつの間にかヒンドゥスターンの一部ではなくなり、彼らの父祖の故地もひとつのインドからインドとバングラデシュに分かれてしまい、コミュニティとしては大きなものであったインド系の人々自体がいつの間にかマイノリティとなり、しかも監視の対象にさえなってしまったことになる。

    かつてイギリス領であったこと、隣接しているインド亜大陸からの移民が多いことから、しばしばインドの北東部にいるかのような気にさせられることもあるミャンマーの中でも、地理的に最もインド世界に近い場所にある地域だ。

    インドの北東部でモンゴロイド系の住民がマジョリティを占めるエリアを訪れると、「インドの中にあってインドでない」といった印象を受けるが、それでもインド共和国という政治システムの中の一地方であるがゆえに、インドという存在は至高のものであるとともに、圧倒的な存在感をもってその地に君臨している印象を受けるものだ。しかし、その法的・軍事的な強制力が及ぶ圏外であるここでは、インドという国が非常に遠く感じられるとともに、インド系の住民なり文化なりが非常に無力なものに感じられる。

    もしインドの北東部が本土から分離するようなことがあったりすると、まさにこのような感じになるのではないかと思ったりもする。


    〈完〉

     

  • スィットウェへ2

    スィットウェへ2

    ミャンマー・ブームでヤンゴンの宿泊費が高騰しているのはよく知られているところだが、地方の観光地もまた同様の傾向がある。国際的にも有名なバガンやマンダレーはそれでも元々の客室数のキャパがあるので急騰するというほどのことはないのかもしれないが、よりマイナーで訪れるお客が少なかったところでは、存在する宿の数が限られているため、ヤンゴンのようなビジネスや投資関係での需要はほとんどなくても、観光客がこれまでよりも少し多く訪れるようになるだけで、ずいぶん影響が出るようだ。

    スィットウェで、エアコンが付いているちょっと小奇麗なシングルルームが40ドル前後もするというのは明らかにおかしい。経営者たちの間でそういう密約があるのかどうかは知らないが、宿の数自体が数えるほどしかないため、そのようなことが可能となってしまう。これについては外国人料金が設定されているため、地元の人たちが同額を支払っているわけではないようだ。

    たいていの宿では外国人料金がいくらで、地元料金がいくらであるかは教えてくれなかったりするのだが、ごく新しく出来た比較的安めの一軒ではその料金が前者はドル建て、後者についてはチャット建てで表記されていた。チラリと見ただけだが倍以上の開きがあるようだ。

    今後、ミャンマーの経済成長が進み、観光のインフラも整備されていくにつれて、国内の旅客の潜在的な需要も大きい。今後、宿泊費に関する内外格差が解消するのかどうかはよくわからないが、宿泊施設が増えていくことにより、相対的に料金が手頃になっていくことを期待したいものだ。


    結局、この町ではストランド・ロードにあるストランド・ホテルという名前のホテルに宿泊することにした。まるでヤンゴンにある東南アジアを代表する名門のひとつであったホテルのようなロケーションと名前だが、これとはまったく無関係の新築ホテルである。シングルルームで60ドルと、この田舎町にしてはずいぶん強気な設定だが、開業してからまだひと月とのことで、ロンリープラネットのようなガイドブックにもまだ取り上げられていないのだが、すっかりくたびれた感じの宿に40ドル、50ドル支払うよりも気持ちがいいので投宿することにした。やはり宿は新しいに限る。非常に清潔で、コテージタイプというのもいい。室内もスタイリッシュだし、スタッフもフレッシュな雰囲気でキビキビと働いている。

    水際に政府関係の大きな建物や市場などが並び、水運時代の植民地期に開かれた当時のたたずまいを残しているようだ。ここを軸にして背後に繁華街、そしてさらに裏手には住宅地が広がる。マウラミャインも似たような造りの町である。


    この時期、市場で外見はビワのような小型のマンゴーが売られている。上の画像の左側の小さなものがそのタイプである。姿形に似つかわしくなく、味はそのままマンゴーなのだが、水分が多くて酸味も強いジューシーな味わい。果実の量に比して種子の部分が大きいため、あまり食べられる部分は多くはないのだが。ひとくちにマンゴーといっても、実にいろんな種類があるものだ。


    河沿いのマーケットには米のマーケットもある。実にいろいろな種類のコメがあるもので、インディカ系のコメにもいろいろ粒が小さかったり、大きかったり、赤みを帯びていたり、もち米であったりといろいろある。もち米はやはりシャンのものであるという。輸入米もインドからの長粒種、タイ産のものもある。世界的な米の大産地であるこの国でも、外国から輸入もしているとは知らなかった。個々の嗜好によりいろいろな米を食べているのだろう。

    それはさておき、日中の気温は40℃くらいまで上がるので、夕方のビールが実に旨い!

    〈続く〉

  • スィットウェへ1

    スィットウェへ1

    ミャンマーのヤカイン州都スィットウェは、かつてアキャブと呼ばれた港町。南アジアから東南アジアへの玄関口でもあり、イギリスによるミャンマー攻略と支配もここに始まった。

    州都だけのことはあり、大学が存在する。

    1784年、当時のアラカン王国を征服して属国化させて以降、西方へと更なる拡張を模索していたビルマのコンバウン朝が1822年に英領のベンガルへ軍を進めたことがきっかけとなり、1824年に今度はイギリスがビルマへ軍を展開したことにより、第一次英緬戦争が勃発することとなった。その2年後にアラカンとテナセリウムがイギリスに対して割譲されることとなる。

    このアラカンを足掛かりとして、1852年に第二次英緬戦争が起き、今度は下ビルマを自国領に組み入れ、さらには1885年の第三次英緬戦争で、マンダレーを王都とするコンバウン朝を滅亡させて、上ビルマをも手に入れることにより、イギリスによるビルマ征服が達成されることとなった。

    アラカンの支配的民族であったアラカン族は、現在はバングラデシュとなっているチッタゴン地域にも影響を及ぼしていた時期がある。それがゆえにこの地域も本来はミャンマーの領土であると唱える向きもあるほど、東南アジアと南アジアの境目であり、そのふたつの世界の行き来が盛んな地域でもあった。

    だが、現在はヤカイン州と呼ばれているアラカン地方は辺境の地となり、経済的にも政治的にも重要な拠点であったアキャブは、今は州都スィットウェとして知られているものの、パッとしない田舎町に成り果てている。

    カラーダーン河口部に位置するこの町の水際に公的機関、市場、それより内側に商業地、その背後には住宅地という、植民地期の水運時代に建設された貿易港らしい造りである。

    目下、インドの援助により、スィットウェのひなびた港は深海港に生まれ変わる工事が進行中であり、完成した暁にはスィットウェは物流の重要なハブとしての役割を担うこととなる。長期的には、東南アジア地域から南アジア各国を始めとする、ミャンマーから見て西側に位置する地域との物流ということになるのだろうが、インドにとってはこれとは異なる思惑がある。

    インド本土からバングラデシュ国境と中国国境の間で、通称「チキンネック」と呼ばれる、陸路の細い「スィリーグリー回廊」を経て同国の東北部にかろうじて繋がっている物流ルートを補完する役割だ。

    更には、インド北東部とミャンマーを繋ぐ陸路については、もっと北回りでの鉄路と道路での構想があるのだが、これについては以下のリンクをご参照願いたい。

    北東インド振興は鉄道敷設から(indo.to)

    インドにとって、物流のハブとしてのミャンマー西部の発展への期待は、そのまま自国北東部の振興に直結するものであることから、このあたりへの援助ならびに投資は当然のごとく相当な力のこもったものになるわけだ。とりわけスィットウェの港湾設備に対するコミットメントがいかに大きなものであるかについては、インドがこの町に領事館を設置することになっているということから、その期待値の大きさがうかがい知れるというものだ。

    ちなみにミャンマーにおけるインドの在外公館は、現在までのところヤンゴンの大使館とマンダレーの領事館であり、スィットウェの領事館がオープンすれば、ミャンマーに三つめの在外公館を出す初めての国ということになる。それほどミャンマーはインドにとって大切な国になりつつある。

    のどかな水際の眺めも近い将来すっかり変わってしまうかもしれない。

    地味な港町スィットウェだが、今後10年ほどのスパンで眺めれば、これまた地味なインド北東部との繋がりが深まることにより、ともにちょっとした地味ながらも着実な成長と変化を呼び込む結果を生むのではないかと思う。どちらも現状では「この世の行き止まり」であるかのような具合になっているがゆえに、海路・鉄路・陸路の接続が与えるインパクトには測り知れない影響力が秘められているものであると思われる。

    港近くの空き地や路上では干し魚作りが行われていた。

    〈続く〉

  • バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー

    バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー

    ヤンゴンを訪れる際には必ず訪問することにしており、このindo.toでも取り上げたことがあるムガル最後の皇帝のダルガー。

    最後のムガル皇帝、ここに眠る(indo.to)

    再訪 バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー(indo.to)

    シュエダゴォン・パヤーの近くあるのだが、徒歩ですぐというわけではなく、やや離れているため、タクシーの運転手にこの場所の名前を伝えても、あるいは写真を見せたとしても、なかなか判ってもらえないことが多いこので、ここに出向くためにはダウンタウンあたりで年配のインド系ムスリム男性にこの場所について簡単な説明をビルマ語で書いてもらうのが良いようだ。

    昨今の「ミャンマー・ブーム」により、ダルガーも資金の回りが良くなってきたのか知らないが、今回訪れてみると上階の三つの墓(バハードゥル・シャー・ザファル、妻のズィーナト・メヘル、孫娘のラウナク・ザマーニー・ベーガムの墓石。これらはオリジナルではなく、3人を追悼する意図で再建されたもの)が並ぶ場所はきれいに改装されていたし、地下のザファルの本物の墓石がある場所にはガラスの扉が付けられていた。

    今後、観光やビジネス等でヤンゴンを訪れる人々がますます増えるにつれて、ムガル最後の皇帝が埋葬されている地であるということに加えて、ダウンタウンやシュエダゴォン・パヤーに近いという至便なロケーションからも、ここが本格的な観光スポットとして注目されるようになることは間違いないように思われる。今は周囲に何もなく、ダルガーの敷地内に簡素な茶屋が入っているだけなのだが、そうした様子も数年のうちにすいぶん変わることとなるかもしれない。

  • シュエダゴォン・パヤー

    シュエダゴォン・パヤー

    夕立ちの激しい雨が上がったので、お寺参りに行くことにした。これまで幾度か訪れたことがあるものの、優美や姿といい、壮大な規模といい、非常に手入れが行き届いている有様といい、シュエダゴォン・パヤーのを訪れると、やはり気が引き締まる思いがする。

    周辺は素晴らしい住宅地だ。広大な敷地に植民地時代からの大きな屋敷が多い。それらの中にはミャンマー様式を取り入れた家屋もあるが、庶民の家屋とはまったく異なる次元の規模。軍や政府の高官が住んでいるのかどうかは知らないが、とてもうらやましい環境である。

    シュエダゴォンの入場料は9ドルになっていた。以前は5ドルであったと記憶しているのだが、最近改定されたのだろうか。私自身はこういう場所での外国人料金もやむを得ないと思っている。ミャンマー人の多くは寺院訪問の際に多少のお金は置くはずだが、外国人の場合はその限りでない。こういう形での徴収も仕方ないのではなかろうか。こうした収入があるがゆえに、このお寺については、ケチのつけようがないほど、完璧に整備されているということもあるだろう。だが9ドルというのはちょっと取りすぎであると思う。

    夕方到着して、しばらくは空が青かったが、次第に夕焼けとなり、やがて日が沈んで暗くなった。とりわけ暗くなってからの寺院内の眺めが素晴らしい。黄金色に輝く寺院はメタリックでSF的な空間にも見えてくる。

    荘厳な雰囲気の中で境内を歩くが、さきほどの雨のため非常に滑りやすくなっている。白い大理石の部分はいいのだが、模様を与えるために敷かれている色付きの石?タイル?の部分が非常に滑りやすいのである。濡れているときに裸足で歩くのはかなり危険である。

    裸足といえば、かつて植民地時代には、英国人はここを土足で出入りしていたのだという。イギリス人にとっては、かしこまった場所で靴を脱ぐということ自体が、自分たちの価値観に合わず、非礼な行為であるという論理である。

    これについてはビルマ人の独立の活動家であり、弁護士でもあった人物が法廷で争い、イギリス人も裸足にならなければならないという決着を勝ち取っている。しかしながらいつもお寺に入る際に裸足となるのはインドその他でも同じことなのだが、こういう雨のときにはちょっと困ったりする。滑りやすいため危険ということもあるし、いちいち面倒ということもある。またミャンマーの場合はタイと違ってソックスも必ず脱ぐこと、お寺のお堂のみならず、敷地内に入ったときから裸足にならなければならなかったりもするのである。

    この人たちとしばらく話をしながら境内を周回した。境内では各国からの観光客が見物しているが、とりわけ人数が多いと感じたのはタイ人観光客だ。隣国という地の利もあるし、それだけ周辺国に旅行する人たちが増えているということである。昔は考えられなかったことだが、インドでもずいぶん多くのタイ人観光客が来ていて、その中には若い人たちも大勢おり、タイという国が豊かになったことをそんなことからも感じたりする。

  • ヤンゴンのコロニアル建築

    ヤンゴンのコロニアル建築

    ヤンゴンを訪れるたびに、ダウンタウン地区では大きくまとまった土地が更地になっていたり、そうしたところで忙しい工事が進行中であったりする。もちろんダウンタウンに限ったことではないのだが、やはり商業活動が盛んな地域であるがゆえに、そうした再開発の波をまともに受けることになるし、この地域に多く存在してきた植民地期の伝統ある建物がその数を減らしていくのはなんとも惜しい気がする。

    思えば、タイを除いて欧州列強の植民地であった過去を持つ東南アジア諸国において、独立、近代化と経済成長は、そうした過去の残滓と決別する過程という側面もあった。しかしながら、彼らにとって外来の支配者であった帝国主義勢力による統治の時代も、やはりそれぞれの国々の歴史の一部であることは否定できるものではなく、そうした歴史的な価値、文化的な価値が大きなものであるという認識とともに、それらに対する保護に取り掛かるのが手遅れになる前に手立てをしようと動き出すのは当然の帰結であった。ゆえに、時代が下るとともに、そうした建物や街並みの保護や修復等がなされるようになったのである。もちろん観光資源としての価値が認識されたという背景もある。

    そうした国々に大きく遅れて、植民地時代の遺産が危機を迎えることになったミャンマーだが、それでもヤンゴンには今でも英領自体の貴重な建物が沢山残されており、その規模たるや「東南アジア最大」とも形容されるのは、ヤンゴン、当時のラングーンが、少なくとも東南アジア地域における植民地時代末期における経済・文化の最先進地といえる立場にあったからに他ならない。

    現在もヤンゴン市内に残る数々のコロニアル建築については、以下に挙げるいくつかのサイトをご参照願いたい。

    Colonial Buildings of Yangon (myanmars.net)

    The Yangon Heritage Walking Tour : See old Rangoon, before too much is lost (Myanmar Insider)

    The way the old capital crumbles (The Economist)

    さて、そうしたコロニアルな建物が取り壊されて、オフィスビル、その他の商業ビル、コンドミニアム等に建て変わっている現状は、とりわけ「ミャンマー・ブーム」到来以降、地価がうなぎ上りとなっているヤンゴンにおいて、土地の有効活用をしない手はないわけであるので、今度その勢いが加速することはあっても、スローダウンすることはなさそうだ。

    そもそもコロニアルな建物を長年愛おしく思って大切に保護してきたわけではなく、それ以前からあるから利用してきたがゆえのことであり、建て替えるお金もなかったから今まで使われてきただけのことでもある。

    しかしながら、こうした建物の保全を訴える声もそれなりにあるわけで、30 Heritage Buildings of Yangon (Association of Myanmar Architects)のような、ヤンゴン市内のヘリテージな建物を取り上げた書籍はいくつも出ているし、WHERE CHINA MEETS INDIA (邦題:ビルマハイウェイ)の著者であるビルマ系アメリカ人の歴史家、タン・ミン・ウーが設立して会長を務めるYANGON HERITAGE TRUSTのように、歴史的建造物の保護を訴える他団体とも協力して、すでにいくつものプロジェクトを進めている組織もある。

    こうした活動について、AL JAZEERAが興味深い記事と動画を提供している。

    Restoring Rangoon (AL JAZEERA)

    私自身も、手遅れになる前にこうした歴史的な景観の保存に対する動きと社会の認識が本格化することを願いたいが、上記のリンク先のAL JAZEERAの動画でタン・ミン・ウーが述べているように、ミャンマー政府にはこれからやらなくてはならないことが山ほどあり、こうした歴史遺産に対する手間をかける余裕がない。また彼ら民間による保護活動にも資金的に大きな壁があることなどから、なかなか難しいようだ。

    そうした中でも、建物そのものの存続を可能とするためのホテルとしての転用であったり、その他の商業的な活用であったりというアイデアもいろいろ出てきているようだ。たとえ出資者の目的が純粋に伝統的なもの、歴史的な遺産の保護ではないにしても、その建物自体が後世に残ること、存在そのものが持続的に維持できるものであるとするならば、大いに歓迎すべきことであろう。