ただいまメンテナンス中です…

カテゴリー: greater india

  • ボダナート

    ボダナート

    カトマンズの渋滞はなかなか大変

    渋滞の中をノロノロと進んでボダナートに着いた。昔、ここを初めて訪れたときには、仏塔がそびえているのが遠くからでもわかったように思う。今は運転手さんに「着いたよ」と指差されても、それが見えないので、どこに来たのか、どこにあるのはわからない。それくらい建て込んでいるのだ。

    ボダナートは世界遺産に指定されたこともあり、境内に入る際に250Rs徴収される。中はかなりの賑わいで、チベット系の人々が仏塔のふもとの部分に座り込んで法要に参加していた。

    ボダナートの仏塔の前では護摩が焚かれており、この煙を自分に晒すような動作が日本の仏教のそれと同じだ。

    仏塔も2015年の地震による被害を受けたはずなのだが、きれいに修復されているのは、やはりここが信仰の対象として非常にメジャーな場所であること、世界遺産に指定されていることなどから、強力な集金力があるという背景があるのだろう。

    周りには様々なレストランやみやげもの屋、仏具店などでいっぱいだ。歩いていると気が付くが入場料を支払わずに入ることが可能な抜け道がいくつもあるようだ。ネパールでは、こういうあたりのガードがかなり甘い。

    近くにいくつもゴンパがあるが、コンクリート造なのであまり惹かれるものはない。腹が減ったので付近で昼食。洒落たカフェなのだが、チベット料理アイテムも出しているのがうれしい。

    カフェでひと休み
    カフェのチベット風意匠をあしらった天井
  • かわいいシアワセ配達人

    かわいいシアワセ配達人

    カトマンズのタメルのカフェにて。
    膝の上に温かいのが乗ってきたと思ったらネコだったので、しばし遊ぶ。
    芸をするわけではなく、犬ほど賢く従順でもないのに、人の心をホンワカさせてくれるのは、よく懐いていて楽しいネコだ。

  • ダルバールスクエア(カトマンズ)

    ダルバールスクエア(カトマンズ)

    街の名前のカトマンズの語源(・・・だったと思う)のカスタマンダプが失くなっていたことは、一昨年の地震関連のニュースで聞いてはいたが、本当に跡形も無くなっている有様を目にすると、やはりとても残念な思いがする。
    消失している建物は他にもあり、旧王宮のダメージもかなりのものがあるようで、修復工事が進行中だ。
    市内でも地震の被害があまり無かったという地域も多いし、その反面、こうした大きな被害が出たエリアも少なくない。地盤の関係、建物の構造や規模等々、様々な要素が影響したのだろう。
    だが、こうした文化財の復興には、この国のもっとも大きな財源である観光業の振興は必須である。

    街の名前の起源となったと言われるKasthamandap跡
    王宮建物のニューロード側
    Gaddhi Baithak
    Kumari Bahal
    ここに限ったことではないが、震災後、つっかい棒で補助している建物はかなりある。
  • コイル式電熱ヒーター

    コイル式電熱ヒーター

    昔、バックパッカーだったころ、これで毎日お湯(ペットボトルの水を買うお金なかった)沸かしてから水筒に入れたり、朝食用にゆで卵やインスタントラーメンを作ったりするなど、旅行中の必需品だった。タイ製のものはしっかりした作りで長持ちしたのだが、インド製はすぐにコードが断線してダメになった。壊れても、すぐに代わりのヒーターが街中で手軽な値段で入手出来るのは便利で良かった。ときどき感電して痛い目に遭うこともないではなかったが。
    あれからずいぶん長い歳月が過ぎたが、この商品はまったく進化することなく、昔のまんまであることが可笑しいような、嬉しいような・・・。

  • Meggi Restaurant

    Meggi Restaurant

    フリークストリートのMeggi Restaurantは、ずいぶん昔とから営業している。もしかすると、このエリアに70年代初頭、伝説のEden Hashish Centreがあった頃から営業していたのかもしれない。
    私はヒッピーの時代は知らないし、当時の雰囲気はフリークストリートのどこにも残っていないであろうことから、往時の様子は想像も出来ないが、ここで自由を謳歌していた当時の西洋の若者だった人が、青春時代を懐かしんで訪れたりすることもあるのかもしれない。

  • タメル界隈

    タメル界隈

    建物が大きくなったり、エリアが広がったりしていることなどを除けば、ツーリストゾーンの佇まいはあまり変わらないようだ。
    昔はなかったが、今は大変目につくのは、大陸からやってきた中国人たちが大勢おり、中文の看板が多いこと、中国人がやっている料理屋が沢山あることだろうか。








  • 中国のフシギ

    中国のフシギ

    カトマンズのタメルで、写真正面の中国人宿が道路に投影した広告。
    頭上含めてあちこち見渡してみたが、どこに光源があるのか、結局わからなかった。
    なかなか面白い技を利かせてくれる。

  • カトマンズのタメルに溢れる中文看板など

    カトマンズのタメルに溢れる中文看板など

    トリブワン空港では中国人客が多く、空港の携帯SIMを売る店では流暢な中国語を操るネパール人スタッフもいた。
    旅行者ゾーンのタメルでは当然、中文の看板も多く、山東賓館、江蘇飯店といった前の宿泊施設も多い。また「清真料理(イスラーム料理)」を謳う食堂もいくつかある。
    土産物を売る店では、客寄せのために中文での案内を掲げているところが少なくないが、本当に中国人が経営している店には、レストラン、宿泊施設、配送業者等が多い。旅行代理店には、クルマやツアーをアレンジする案内が出ていて、ポカラ、チトワン等々、ネパールの地名にはそういう漢字を当てるのか、と思ったりする。
    華人経営の宿に宿泊して、話を聞いてみても面白いかもしれない。
















  • レインボー柄のセーター

    レインボー柄のセーター

    カトマンズのみやげ物屋でよく見かけるので、結構売れているのだろう。
    旅行者相手のセーター類にも流行り廃りはあるが、こうしたレインボー柄ものは、四半世紀前以上前もよく見かけた。
    私自身、これとソックリなものをカトマンズで買って、長く着ていたのでよく覚えている。

    今も昔も定番柄のセーター
  • カトマンズのUTSEで食事。

    カトマンズのUTSEで食事。

    ここで初めて食事をしたのは1987年のことだ。その後もカトマンズ訪問時には幾度も足を向けて、『あ〜、おいしいなぁ』と感激していた。安食堂のダルバートよりもかなり高かったので、当時の私は、そうしょっちゅう出入りするべきではなかったのだが、旨いものの誘惑の前には為すすべもないのであった。ここの食事は本当に素晴らしかった。

    最後に訪れたのは四半世紀前。当時の小さな食堂は、客席の多い立派なレストラン(かつての場所からは少し移動したようだ)となり、上階はホテルになっている。
    それだけの時間の経過があるので、当然ながらオーナー氏も年を取られたが、お元気そうでなにより。

    UTSEのオーナー氏

    今回、私が注文したのはチベット定食。バフの煮物、豆腐と青野菜の炒め物、モモ、揚げ物、スープとご飯が付いている。四半世紀前、これは出してなかったはずだが、相変わらずどれもとてもおいしい。

    チベット定食

    アイデアや機知も大切だが、まずは『凡事徹底』することが大切であることが重要だ。お客の大半というよりも、ほとんどが外国人旅行者のエリアにあっても、いつも温かい微笑みとともに、心を込めた美味しい料理を提供し続けて、ちょっとアップマーケットかつ素敵なお店になった。

    創業は1971年なので46年の歴史。大したものだ。UTSEがオープンしたころ、タメルにはカトマンズゲストハウスしかなかったという。

  • タメルの夜は明るい

    タメルの夜は明るい

    夜はこんな具合

    近年のタメルの夜は明るくなっている。遅くまで開いている飲食店が多いことはもとより、照明やネオンが多くなったので、場所によっては、カメラに収めると「バンコク?」と思うような具合に撮れることもある。
    同じ場所で昼間に眺めると、やはりそこはカトマンズなのだが。

    同じスポットで、昼間はこんな具合
  • グルカ兵

    グルカ兵

    カトマンズのタメルにあるククリ屋さんの看板

    インドが英領時代からインドを含めた英国植民地で、それらが宗主国から独立して久しい現在まで、傭兵として重用されているグルカ兵だが、小柄ながらも勇猛果敢さと規律の高さで知られる。

    日本軍によるインパール作戦時、英領インドは、深いジャングルの丘陵地帯に守られて手薄だった東部の守備が切り崩されるのを防ぐため、現地アッサム連隊に加えて、インド全土から応援を呼び寄せるのみならず、遠く英国本国、アフリカの英国領地からも兵員を導入している。

    コヒマ市街地等では、両軍による白兵戦が展開するなど、日本軍が撤退を決意するまでは、熾烈なバトルが繰り返されたが、そうした場面で決定的な役割を演じた部隊のひとつが、このグルカ兵から成る傭兵部隊であったとも聞く。

    ジェントルでマイルドな雰囲気のネパールの人々だが、インパール作戦に従軍した日本兵たちにとっては、ネパール兵との邂逅は、即座に死を意味するものであったようだ。