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カテゴリー: food & drink

  • ダージリンティーの茶園訪問2

    ダージリンティーの茶園訪問2

    ハッピーバレー茶園の製茶工場

    昨日カルスィヨンのマカイバリ茶園訪問で失敗したので、本日はダージリン市街地のすぐ外にあるハッピーバレー茶園に前もって電話してから訪問する。たがあいにく「ウチでは冬の茶摘みはしませんので、工場のラインは止まっていますが、それでもよろしければ・・・」という回答。この茶園では収穫期は春・夏・秋の3シーズンのみなのだという。

    茶園に到着すると、ちょうどそこにやってきたポーランド人の夫妻があり、茶園の職員に率いられて、一緒に工場内を見学する。この茶園は150年くらいの歴史があり、インドで茶の栽培が始まった初期のあたりからあることになる。茶の木の寿命を尋ねると、かなり長いらしい。茶園が始まったころからある木がまだ沢山あるとのこと。

    茶摘みの仕事をするのはすべて女性で、年代ごとにチームを編成し、若い人たちほど遠くのエリアで収穫作業をして、年上になるほど工場に近いエリアで茶摘みをするとのことだ。工場で働くのはほとんどが男性で、女性は数えるほどしかいないとのこと。茶摘み労働者たちの日収は90ルピーと少ないが、その代わりに住居、子供の教育のための学校、診療所は無料となっているそうで、家族のうち数人が茶園で働いていれば、なんとか食べていくことはできるだろう。ちょうどスリランカなど他国の茶園もそんな感じだ。

    加工ライン
    加工ライン
    加工作業に用いられる送風機
    これも加工ラインの一部
    ここで加工の最終段階を経て最後の選別場に作業は移る。
    ここで手作業にて茶葉を等級ごとに選別

    収穫期ではないので、空っぽになっている作業場を見学。コンベアの上の茶葉に、最初に常温の風を大きなファンで送り、続いて熱い風を送る。これにより、茶葉が握ってもちぎれることなく、ソフトになるとのこと。その後階下で発酵・熟成の過程があり、最後に茶葉をグレード別に選別するというラインになっている。摘みのシーズンにより、加工の時間は適宜変えるとのこと。通常、茶葉はサイズが大きいほどグレードが上になる。ひとつだけ「ALOOBARI」という別の茶園の名前が記されている加工ラインがあった。同じオーナーが所有する茶園だが、工場が併設されていないため、ここに持ち込んで加工しているとのこと。

    ハッピーバレー茶園工場のオフィス

    茶園のオーナーは外資系が多いらしい。インド人所有のものではマールワーリーのビジネスマンが経営するものが多いとのことで、このハッピーバレー茶園もまたマールワーリーの所有だ。地元民族であるブーティヤー、レプチャー、グルン等の民族が運営する茶園は存在しないそうだ。

    一緒に工場と茶畑を見学したポーランド人夫妻は仏教徒であるとのこと。日本国外でも盛んに布教活動を展開する創価学会かと思いきや、なんとカギュー派とのことで、チベット仏教徒である。ポーランドに僧院があり、そこで入信する人が少なくないとのこと。チベット仏教寺院がそんなところにあるとは驚きだ。これからスィッキムに行き、あるリンポチェに教えを乞うところなのであるそうだ。つまりこれは英語で行われるわけで、先述のポーランドにある寺院とともに、チベット仏教にはなかなか国際的な側面もあるかもしれない。

    三人でしばらく茶園を散歩する。茶園の中の集落で、ここで働いている女性に声をかけてみた。茶摘みのオフシーズンには何をしているかと尋ねてみると、それなりに仕事はあると言う。主に茶園の整備や木の手入れであり、この時期にはしばしば茶畑の専門家が来て、茶の木の健康状態をチェックしたり、病気等の駆除の手当等を行なったりするのだそうだ。

    茶畑

    茶畑の中に点在する集落の家屋は、どれもここで働く労働者のためのものであるようだが、どれもかなり清潔感があり、ある程度の居住スペースはきちんと確保されているらしいのは幸いである。

    茶畑従業員の住宅

    <完>

  • ダージリンティーの茶園訪問1

    ダージリンティーの茶園訪問1

    トイトレインのカルスィヨン駅
    トイトレインでカルスィヨン駅に着いてから、そのままシェアジープでダージリンに戻るのはもったいないので、しばしマカイバリ茶園を訪問することにしたのだが、製茶工場に着いてみると、あいにくこの日は休日とのことであった。せっかくインドのSIMが入った携帯電話を持っているのだから、事前に一本電話確認しておくべきであった。
    マカイバリー茶園の工場
    そんな訳で工場を後にして、坂道を下っていくと、普段は茶摘みの仕事をしているという地元の女性たちが、スマートフォンを大きなスピーカーに付けて音楽をかけて踊っていた。こうしたところで作業に従事する人たちの間でも、スマートフォンを持つことが決して珍しくない時代になっている。
    踊って休日を楽しむ茶園労働者の女性たち
    ところで「ダージリン」と一口で言っても、かならずしもここダージリンやそのすぐ近くで収穫されたものばかりであるわけではない。スィリグリーやブータン国境のジャイガオン等も含めて、北ベンガルの丘陵地やヒマラヤ斜面等に茶園が広く分布しており、その数83もある。茶葉の収穫時期は、春、夏、秋、そして現在の冬とあり、その時期によって味わいが違うということになっている。
    短く刈られた茶の木
    斜面に広がる茶畑に入ってみると、どの木も短く刈られているが、ちょうど12月から1月にかけての収穫期なので、本日のような休日以外には、茶摘み労働者たちが働く姿を目にすることができる。
    茶園のオフィス
    茶園のオフィスに日本語の看板もかかっており、「紅茶・緑茶・ウーロン茶」などと書かれているので、ここの製茶工場からは日本にも輸出されているのだろう。本日、話を聞いたり見学したりすることかできなかったのは残念だ。
    汽車が来ない時間帯はパーキングと化す
    カルスィヨンの町で遅い昼食を摂った後にダージリンへはクルマで戻ったが、汽車が通らない時間帯はレール上がパーキングのようになっている。日の上り・下りそれぞれ4本ずつしかないとはいえ、この緊張感の無さは何だろう。商店の軒先をレールが走っていたりもするが、幼児のいる家では大変な注意が必要だろう。ダージリンに至る前の名所「ループ」では、汽車の通行しない時間帯には店開きしている商売人たちの姿が多数ある。
    軒先を走る鉄路
    「ループ」で店開きする人たち
    そのループでは、インド国旗がこんな具合に翻っていた。思わず敬礼したくなる。
    敬礼!
    <続く>
  • 欧州飯店 in Kolkata

    欧州飯店 in Kolkata

    欧州飯店

    「欧州」という名前が付いているが、ヨーロッパ料理を出す店ではなく、中華料理屋である。コールカーターでは、東郊外テーングラーのチャイナ・タウンのように、大小様々な華人レストランが軒を連ねるところもあれば、ラール・バーザール付近の旧チャイナ・タウンのように、毎日朝市が開かれる場所もある。

    長年続いてきた印中の緊張関係のもとで、衰退してしまったとはいえ、亜大陸随一の華人人口を誇るとともに、これまたインドでもトップクラスのリベラルな街コールカーターだけに、インド人経営によるインド化された中華料理ではない、オーソドックスな中華料理屋が生き延びる余地は大いにあると言える。

    近年のインドの都市部では、中国大陸からやってきたばかりの商売人が中華料理屋を開くという例は珍しくなくなっているが、それとは逆に「昔々、中国からインドに渡ってきた華人たちが開いた食堂で現存しているもの」となると、非常にレアなものとなる。

    その中のひとつであり、「コールカーターに現存する最古の中華料理屋」であるとされるのが、この欧州飯店だ。この街で現存する最古ということは、すなわちインドで現存する最古のものであると読み替えて間違いないはず。1920年代初頭に開業して以来、同じ客家人家族が代を継いで経営しており、厨房を仕切るのもまたその家族の一員である。ゆえに、郊外のテーングラーや中心部の旧チャイナタウン等で繁盛している店のように、ムスリムの料理人等を雇うことはないためか、この街では珍しく、ちゃんと「豚肉メニューが豊富な中華料理」である。

    お店に出ている人たちは全く愛想もないが、料理はどれを注文しても極めて美味。旨い料理に理屈はないだろう。そこらの「インド中華」とは雲泥の差の芳醇な味わい。しかしながら、さすがに移民四世代目が厨房を仕切る現在において、中国大陸と同じ料理を出しているのかといえば、やはり汁っぽいアイテムが主流(一般的にインド人は汁気のないおかずでご飯を食べない)であることからも、かなりインド化の度合いも少なくないと言える。

    本来、歴史とは必然であり、そこに「もし××だったら・・・」なんていう仮定が入り込む余地はないが、敢えて「印中紛争が発生せず、両国の対立がなかったら・・・?」と想像してみると、中華系移民がそのままインドに残り、後続して渡ってくる人々もあれば、こういう味覚がインドで「Chinese Food」として定着することにより、この国における中華料理の定義そのものが異なるものになっていたのではないかとも思う。

    営業時間はこちらを参照

    そんなわけで、コールカーターを訪れる機会があれば、このお店をぜひお試しいただきたい。

    所在地:12, Ganesh Chandra Avenue, Kolkata, 700013

    電話番号:033-22378260

    エスプラネード界隈からは、チッタランジャン・アヴェニューを北上、ガネーシュ・チャンドラー・アヴェニューに入り、右手に見えるガソリンスタンドの背後の建物のファースト・フロアー(日本式に言えば2階)に入っている。ちょっと判りにくいので、初めて訪れる際は、近くまで来てからお店に「どこですか?」と電話することになるかと思う。

    ガネーシュ・チャーンドラ・アヴェニューのガソリンスタンド背後の建物の上階

    参考記事 A mouthful of history (Deccan Herald)

  • 肉食は危ない ? !

    「肉を食べると嘘つきになり、約束を守らない不正直者となり、窃盗や性犯罪を犯すことになる」などと言われたらビックリするだろう。

    Meat makes you immoral, says textbook (THE HINDU)

    India textbook says meat-eaters lie and commit sex crimes (BBC NEWS INDIA)

    インドの小学校の保健の授業で使用されるテキストにそんな記述があるということで話題になっている。

    どの教科書を採用するかについては、各学校の裁量によるものであるとのことなので、この内容の教科書がすべての小学校で使用されているわけではないようだが、この図書を発行しているS. CHAND社は国内最大級の教科書会社なので、その影響は決して小さくないだろう。

    また「肉食=不道徳で犯罪につながる」という記述は、インド社会に馴染みのない国々では奇異なものに聞こえることから、こんな風に扱われたりすることは想像に難くない。

    Textbook: Meat Eaters Steal, Fight, Commit Sex Crimes (TYT NETWORK)

    確かに今でも保守的なヒンドゥーの年配者には、「酒を飲むようになると、タバコも吸うようになるし、肉を食べてみるようになる。すると女や賭博にも手を出すようになってしまう・・・」などという物言いをする人は少なくないので、厳格なヒンドゥーのモラル上においては、確かにその教科書に書かれているとされる内容は誤りではないということになるだろう。たとえそれが科学的には何の裏付けもないものであるとしても。

    経済や社会のグローバル化とともに、伝統的なモラルや価値観が失われつつある今の時代に警鐘を鳴らしていると好意的に捉えることも可能かもしれないし、中央政界で与党への返り咲きを目論むサフラン勢力の差し金ということもあるかもしれない。

    ただし、こうした記述で問題なのは、科学的な根拠の有無という点よりも、菜食を美徳と尊ぶ文化以外のコミュニティへの配慮がまったく無いことだろう。祝祭時に家畜を屠り、盛大に祝うムスリムその他の肉食文化の全面的な否定であり、多文化・多民族が共生するインドにおいて、コミュニティ間の不協和を増長するだけである。マジョリティの文化の唯我独尊的な美化と子供たちへの刷り込みは、どうもいただけない。

  • 紅茶スパイ

    紅茶スパイ

    中国からインドに茶の木と栽培法を伝えた功績で知られる植物学者ロバート・フォーチュンの試行錯誤を軸に描かれた、紅茶をめぐるノンフィクション作品。

    イギリス東インド会社の依頼により3度中国に渡った彼だが、その中で2度目の中国行き(1948年~1951年)での任務は、当時の中国において門外不出であった茶の秘密を得ること。茶の木と栽培技術を密かにインドに移すことであった。

    折しも、ウォードの箱の発明により、植物の長期間に及ぶ輸送が可能となっていたという背景がある。観賞用としてシダやラン、工業用の作物としてのゴムの木等々の苗の大陸間での移送が可能となり、当時海外植民地を持っていた列強国にとって、新たな富の創造を可能とするものであった。

    インドに持ち込まれた茶の木は、当初U.P.のサハラーンプルの植物園で栽培されていたが、当時スィッキム王国から割譲されたばかりであったダージリンが、茶の生育には天恵といえる好適地であったことにより、質・両ともに本場中国を凌ぐ茶の生産の一大拠点として発展していくことになる。

    1957年に発生したインド大反乱により、イギリス東インド会社がインドで得ていた特権は剥奪され、本国の君主が英領インド帝国の皇帝となることにより、それまで250年間もの間に亜大陸の貿易港の商館での取り引きから、この地域のほぼ全土を掌握するに至っていたこの「会社」による支配は終焉することになったが、その「会社」がこの地に残した最後の大きな遺産のひとつが茶の生産であった。

    インドでの茶の栽培の進展は、それまでの茶葉の貿易事情に大きな変革をもたらし、茶をたしなむ習慣の大衆化を推し進めることにもなった。イギリスにおける磁器産業の発展も、まさにこうした茶器需要あってのことでもある。

    フォーチュンは、日本との縁も少なからずあり、東インド会社とは無関係な仕事で1860年から1862年まで中国と日本に滞在している。植物学者として、またプラント・ハンターとしても当時第一級の知識と腕前を持つ人物であったが、同時にビジネスマンとしての才覚も人並み外れたものがあったようで、この時期の極東滞在で大きな財産を築いたとされる。

    この本のページをめくりながら、休日の午後のひとときを過ごしてみると、手にしたカップの紅茶の味わいがことさら愛おしいものとなることだろう。

    書名 : 紅茶スパイ

    著者 : サラ・ローズ

    訳者 : 築地誠子

    出版社 : 原書房

    ISBN-10 : 4562047577

    ISBN-13 : 978-4562047574

  • パーキスターンの名門マリー・ビール復活へ

    気温も湿度も高いこの時期、幸せ気分にさせてくれるのは夕方のビール。休日であれば仲間や家族と昼間の一杯も心地よい。

    インドではいくつかの禁酒州(グジャラート州と北東部の一部の州)があり、その他のところでも聖地となっているような場所ではおおっぴらに酒が手に入らない場所もあるものの概ねどこに行っても幸福な黄金色の一杯が手に入るのはありがたい。

    さて、隣国パーキスターン。かねてより訪れてみたいと思っているのが、名門マリー・ブルワリーの醸造所。1860年創立で、ビール醸造所としてはアジアで最も歴史があるもののひとつで、「マリー・ビール」のブランドは昔から大変有名だ。同社ウェブサイトでは、創業から現在までに至る歴史を簡潔に紹介されている。

    この醸造所の様子については、ウェブ上でもいくつかの動画を見つけることができる。Hope in the hops (The Economist)

    The World: Inside Pakistan’s Murree Brewery (Youtube)

    5年ほど前にカサウリー ビールとIMFL(Indian Made Foreign Liquor)の故郷と題して取り上げてみたインドのヒマーチャル・プラデーシュのヒルステーションのひとつ、カサウリーにある醸造所も起源は同じ。パンジャーブ地方(当時はヒマーチャルもパンジャーブの一部)で手広く商売をしていたイギリス出身のダイヤー一族が始めたものである。1919年にアムリトサルのジャリアンワーラー・バーグで起きた悪名高き虐殺事件の指揮を執ったレジナルド・ダイヤー准将も彼らの身内である。

    カサウリーではアジア最古のビール「ゴールデン・イーグル」が生産され、現在パーキスターンとなっているマリー地区のゴーラー・ガリーでは「マリー・ビール」が生まれた。現在はどちらも創業当時と経営母体は異なっているが、血を分けた兄弟の関係にあるといえる。

    現在、マリー・ビールの醸造所はパーキスターンの首都イスラマーバード近郊のラーワルピンディーにあり、ビール以外にもウイスキー、ジンなどの蒸留酒に加えて、ペットボトルのジュースなども生産している。

    1977年に、ズルフィカール・アリー・ブットー首相の政権が国内での酒類の流通を原則禁止しており、現在でもごく限られた場所で非ムスリムだけが入手できるという状況だ。同国の人口1億8千万人の中でムスリム以外の人々が占める割合は、わずか3%強(これらに加えて軍の将校からの需要)しかないことを思えば、あまりに小さなマーケットである。長らく日の目を見ることのなかったマリー・ブルワリーだが、最近、パーキスターン政府が自国からの酒類の外国への輸出を認める方向へと舵を切ったことは名門復活の好機到来といえるだろう。

    同社ホームページによれば、チェコの酒造会社との提携を締結したとのことで、やがてイギリスその他の欧州にも販路を広げることになるらしい。ダイヤー一族がイギリスから導入した醸造法で生産を開始したマリー・ビールが250年以上の時を経て「里帰り」することになる。

    さらに大きな話もある。隣国インドがパーキスターンからの直接投資を認める方向に動いていることから、マリー・ビールがインド企業との合弁で、インドでの生産を始めることになるというニュースが流れたのは今年5月のことだった。

    Pakistan and India start new era of trade co-operation with a beer (The Guardian)

    歴史的なブランドを引っ提げた古豪復活への期待はもちろんのこと、インドの飲兵衛たちにも高く評価されることになれば、なおのこと嬉しい。

  • ストクの村のホームステイ

    ストクの村のホームステイ

    伝統的古民家 にゃむしゃんの館
    レーからバスないしはタクシーで40分ほどのところにあるストクの村で、ホームステイを受け入れているお宅がある。ラダック人のご主人スタンジン・ワンボさん、奥さんの池田悦子さん、可愛い娘さんのかりんちゃんが、ここで暮らしている。庭には季節の野菜が青々と茂り、その一角には自家製の日干し煉瓦が積まれていた。
    この家屋は、かなり傷んだ状態にあったものだそうだが、ご夫妻が丁寧に修復して、昨年11月からホームステイを受け入れておられるとのこと。そこに至るまでの経緯は、ご夫妻のブログ NEO-LADAKH / ネォ・ラダックにて、ラダックでの近況とともに綴られている。
    近ごろは新しい建物が増えて、街並みも広がったレーとは異なり、ストクの村にはまだまだ伝統的な家屋が沢山残っている。川から引いた水路が村の中を流れ、サワサワと涼しげな音を立てながら、生活用水を各世帯や畑に供給している。村のあちこちで、洗濯や水汲みをしている女性たちの姿も目にする。
    村の中で家々の間を縫うように流れる水路
    豊かに咲き乱れるアブラナの花
    水に潤されている土地の鮮やかな緑と、そうでない場所の月面のような荒涼とした景色が実に対照的だ。そこに水があり、これを利する人々がいるがゆえに、日々の生活が営まれ、地域の文化が育まれていくということを実感する。冬季には川は凍結して水路も止まってしまい、ハンドポンプ式の井戸まで水を汲みに行くことになるというから、夏とはまったく異なる景色となるのだろう。厳しい冬の時期に備えて、夏のうちから干し野菜を作って準備しておくとのことだ。
    村の中の豊かな緑は、水を巧みに利用する人々の勤労の証。お見事です。
    ご夫妻のお宅の裏手にある大きなチョルテンは、13世紀くらいのものではないかとされる由緒あるものだそうで、中に入ってみると色彩鮮やかな壁画が描かれているのを目にすることができる。この村に人々が住み着いたのも相当古い時代まで遡ることができるに違いない。
    チョルテン内部の壁画
    ご夫妻のお宅からしばらく下ったところにある王宮
    日中、旧王宮を見物してみたり、川の上流のほうに歩いてみたりしたが、見どころや風景もさることながら、村の中にめぐらされた水路には非常に関心した。川から引いた水の流れを直角に曲げたり、盛り土をした上を流したり、石垣の上を流したりと、自由自在な創意工夫に富んでいる。まさに「水道」である。
    川は村の豊かな緑の源泉
    石垣の上を流れる水路
    直角に曲げてある水路
    夕方近くなってから夫妻のお宅に戻る。家屋の1階は家畜用スペース、2階が住居で3階が客室となっている。2階にあるキッチンの周辺は、ご夫妻と娘さんのくつろぎの空間であり、接客スペースともなっている。ここで奥さんの手作りの美味しい地元料理をいただき、ラダックやストックの村のことなどについて、様々な話を聞くことができて大変興味深い。
    歴史を感じさせる立派なかまど
    家の中では、子犬の「ユキト」と「ヤマト」が2匹飼われていて、かりんちゃんが子犬たちと時にはケンカしながらも、仲良く遊んでいる様子が微笑ましい。ときおりご主人の実家の方や近所の方も顔を出されるので、そこでまた会話をすることができるのもアットホームな感じで嬉しい。私は時間がなくて一泊しかできなかったのは残念に思う。
    夜遅くなってきた。午後11時で電気が止まってしまうので客室がある3階に上る。ユキトとヤマトもトコトコ付いてきて、「遊んで!」という表情でこちらを見つめている。しばらくテラスで2匹の相手をしながら夜空を見上げると、思わずハッと息を呑む。こぼれ落ちてくるのではないかと思うほど沢山の、色彩豊かな星々が天空いっぱいにきらめいているのだ。
    高度のためか、あるいは乾燥のためなのか、早朝や夕方に大空が紅に染まることなく、東の空から淡々と日が昇り、これまた西の彼方に淡々と日が沈んでいくのだが、それとは裏腹に、星空の眺めは低地の都会からは想像もつかないほど豪華絢爛なものであった。
    翌朝目覚めて部屋の外に出ると、子犬のユキトが待ち構えていてくれた。
    レーからストクまでは、朝8時に直行のバスが出ている。あるいは途中にあるチョグラムサルの町を通過するバスは頻繁に出ているのでこれを利用し、そこからはタクシーで向かってもいいだろう。ただし、ストックの村までと言うと、村の中の大きな集落になっている部分か古い王宮の前で降ろされてしまい、30分くらい上り坂を歩くことになるため、「トレッキングポイントまで行く」と伝えたほうがいい。
    トレッキングポイントとは、ストク・カングリー方面に向かうルートの出発地点であり、そのあたりにはいくつかの商店、レストラン、宿などがある。すぐ目の前を川が流れており、橋を渡ってしばらく坂を上ると、お二人が運営する「伝統的古民家 にゃむしゃんの館 (Nyamshan Old House)」に着く。宿泊の際には、前もって電話で予約をすること。
    ご夫妻は、NEO-LADAKH travel & livingという旅行会社も営んでおられる。次回、ラダックを訪れる際には、ぜひともトレッキングやジープでのツアーのアレンジなどもお願いしたいと思っている。
    部屋の扉を開けると、朝日が差し込んできて気持ちがいい。早起きは三文の得なり。
  • チャウンター・ビーチ1

    チャウンター・ビーチ1

    マウラミャインを出た夜行バスは、午前3時少し前にヤンゴンのアウン・ミンガラー・バススタンドに到着。当然、まだ真っ暗ではあるものの、この時間帯に到着するバスは少なくないので、待ち構えていたタクシー運転手たちが集まってきて、続々降車するお客たちに声をかけている。

    ヤンゴンからそのままデルタ地帯の西側にあるチャウンター・ビーチに行くので、市内の西側を流れる河を渡った先にある、もうひとつのバスの発着場、ラインターヤー・バススタンドに向かう。途中、街灯も少なく真っ暗な無人の路上を女性が一人で歩いていたり、女性二人が自転車に乗っていたりする姿をたびたび見かける。これから朝早い仕事に向かうのか、夜遅くまで出かけていたのだろうか。ヤンゴンは、東南アジアの中では治安の良い街ということになっているが、確かにそうなのだろう。

    チャウンター・ビーチに行くバスが出発するバススタンドに着いたが、まだ午前4時前なので真っ暗である。40分ほど待っていると、私が乗るバス会社の事務所兼待合室は、中からシャッターが開けられた。従業員は中に住み込んでいるようだ。2階が住居のようになっているのだろう。事務所の床に寝ている者もある。労働環境としては劣悪だ。

    バスは午前6時発。マウラミャインからヤンゴンまで乗ってきたバスのような快適なエアコン付きの車両を期待して「寝ていく」ことを想定していたが、車内外に散見されるハングル文字からして、おそらく四半世紀くらい前に韓国で走っていたらしいノンエアコンの古いバス。座席を思いきり詰めて設置してあるため、非常に窮屈である。夜行明けにこれはちょっとしんどい。

    ビーチまでおよそ7時間。どこまでも平坦な風景を眺めつつ、涼しい風が窓から入ってくる。それはそれで気持ちが良かったのだが、陽が高くなると次第に暑くなってくる。途中でパスポートチェックが2回あり、そのたびに車掌が車内の外国人、日本人の私、四人のフランス人、イングランド人カップル一組、の旅券をあずかって、車外に降りて行く。

    街道の物売りたち

    広大な田園風景が広がるデルタ地帯をひた走る。集落には高床式住居が多い。2008年のサイクロンではひどくやられたはずであるが、さすがに4年も過ぎているので、少なくとも沿道からはその痕跡は感じられなかった。

    デルタ地帯を抜ける直前の休憩地点で、ここから他のビーチに行くというイングランド人カップルが、バイクタクシーにまたがって出て行った。彼らはやけに荷物が少なく、二人合わせてデイパックひとつ分よりも容量は少ないようだった。あれほど身軽な西洋人はこれまでほとんど見たことがない。

    休憩場所を出ると突如、道路がダートになり、そこから先は丘陵地で、簡易舗装主体のジグザグの悪路となる。斜面を上り、そして下る、そして上るといった具合の繰り返しで、ポンコツのバスが痛めつけられて悲鳴を上げているようなキシミ音がする。

    途中、橋がいくつかあった。最後のふたつは大型車両の車輪の幅に古タイヤのゴムを貼り付けて、舗装風にしてある。一方通行の橋であるため、向こうからのクルマが渡り終えるのを待ってから橋を越える。

    <続く>

  • ストランド・ホテルでハイティー

    ストランド・ホテルでハイティー

    シンガポールのラッフルズ・ホテルで供されるようなハイティー(軽食と甘味類のバイキング)を期待して、ヤンゴンのストランド・ホテルへ。

    ホテルのカフェに着いてから尋ねてみると、そういうスタイルではなく、セットになったものをウェイトレスがテーブルに運んでくるとのこと。欧州式とミャンマー式とがあると言われて、欧州式を注文。

    運ばれてきたダージリン・ティーは極上品。続いて出てきた軽食類は、三段になったステンレスの棚状のものに10品程度。どれもひと口サイズのアペリティフ類やケーキ等。まさに「午後の紅茶」といった具合、しめて17ドル。内容や味は悪くはないが、お買い得感はなし。

    1901年開業という、東南アジアを代表するヘリテージ・ホテルのひとつとはいえ、経営母体は、アルメニア人実業家、日本軍による接収、帝国ホテル、国営化、インドネシア人実業家へと変遷している。国営時代に、宿泊はしていないものの、レストランでコーヒーを飲んだ記憶がある。当時は、あまり手入れもされていないようで、非常に古ぼけた印象を受けたが、宿泊費は当時の私でも払えなくはない金額であったように思う。

    現在の経営陣になってからは、大改修が実施されたこともあり、「白人専用」であった開業時の如く、高級ホテルとして再生している。一泊550ドル以上もする。しかし、かなりモダンに仕上げてあるため、重厚な伝統を感じさせるといった具合ではないようだ。器そのものは、由緒あるものであっても、中身は普通の高級ホテルとなっている。

    それにしても、このクラスでありながら、WiFiが利用できるのはグラウンド・フロアーのロビーのみ、というのは如何なものか?他に競合するこのタイプのホテルが市内に不在(ここ以外のアップマーケットな宿泊施設は、今風のモダンなホテル)とはいえ、伝統にアグラをかいているという気がする。それでも、アグラをかくことのできる伝統があるというのが、このホテルの魅力と強みではあろう。

  • ヤンゴンのサティヤナーラーヤン寺にて

    ヤンゴンのサティヤナーラーヤン寺にて

    話は前後するが、バハードゥル・シャー・ザファルのダルガーに行く前に、ヤンゴンのダウンタウンを訪れた。宿泊先から目と鼻の先だが、ダルガーの名前とおおよその場所をビルマ語で書いてもらうためである。ザファルのダルガーと言っても、通常タクシーの運転手は理解してくれないからだ。

    ベンガル系の人々が集うモスクから出てきた紳士然とした壮年男性に書いてもらった。「これで運転手はわかると思うけど、今行くのならば私が話をするが、後で行くならばこの人に運転手に説明してもらってくれ」と、付近の露店のインド系男性に頼んでくれた。親切な人だ。

    ついでにと、インド人街を散策する。インド人街でも、托鉢している坊さんや尼さんたちの姿は多い。明らかにヒンドゥーと見られる人たちも施しのために路上に出ている人たちが少なくない。朝早い時間帯から路上では茶屋が店開きしている。これまで国外のメディアで伝えられてきた暗いイメージとは裏腹に、とても社交的なムードがある。

    ヤンゴンのダウンタウンのインド人が多い地区で托鉢する坊さんたち

    植民地時代のコロニアル建築の建物に入っているシュリー・サティヤナーラーヤン寺の入口脇に、子供たちのためのヒンディーのレッスンについての貼り紙を見つけた。確かに、この地域では父祖の母国の言葉を使うことができる中高年は多いものの、若年層は理解しない人が少なくない。

    ヒンディーのクラスについての貼紙

    寺の入口にて、ヒンディーで会話している男性たち二人に声をかけてみた。ひとりは近所に住む人でも、もうひとりはこの寺の管理人であった。後者は、おそらく50歳くらいだろうか。先祖はUP出身で、彼自身はインド系移民五世であるとのこと。1962年のクーデター以降、この国の各地から大勢のインド系の人たちが本国やその他の国々に移住したということはよく知られているが、やはりこの街のダウンタウン界隈でも同様であったようだ。

    サティヤナーラーヤン寺

    「昔、このエリアはインド系の人たちばかりで、ビルマ人を見かけることさえ、ほとんどないくらいだったんだ。今とは全然違ったよ、あの頃は」

    ・・・というものの彼自身は、おそらくそのあたりの時代に生まれたと思われるため、実体験として「インド人の街」であったころの界隈を知っているわけではなく、おそらく両親からそうした話を聞かされて育ったのではないかと思われる。だが1962年のクーデターを境にして、インドの言葉(ならびに中国語)による出版が禁じられるなど、言語環境の面でも社会的な変化があったようだ。

    「インド系移民に関心があるならば、ゼーヤーワーディーに行くと面白いと思うよ。あそこではインドから来た人々が今も大勢暮らしている。住民の大半がそうだと言っていいくらいだ。まるで、ビハールやUPにでも来たような気がするはずだよ。先祖がそのあたりから来たっていう人たちがほとんどだし。まあ、主に畑仕事やっているところで、とりたてて見るものはないんだけどなぁ。」

    今回はそこを訪れる時間はないが、いつか機会を得て出かけてみたいと思った。

    南インド系の人たちも混住している。ドーサの露店が店開きしていた。
  • さくらフェスティバル 2012

    今年も東京都千代田区九段にあるインド大使館にて、さくらフェスティバルが開催される。

    さくらフェスティバル2012 (インド大使館)

    会期は3月31日(土)から4月8日(日)までと長いが、日によって開催時間が異なる。詳細については、上記リンク先のPDF文書をご参照願いたい。

    なお、先日『春の足音』と題して取り上げてみたとおり、今週末の3月24日(土)と25日(日)には、東京都渋谷区の代々木公園にて、『パキスタン・バザール2012』『ソンクランフェスティバル2012』が場所を分け合っての開催となる。

    今年もいよいよ屋外イベントの季節が始まろうとしている。

  • チェラプンジー2

    チェラプンジー2

    翌朝は朝6時に起床。雨と深い霧に包まれていた前日とは打って変わっての好天であった。雨上がりのため空気も澄んでいる。これが昨日であれば良かったのにと思ったが、多雨のチェラプンジーらしい体験が出来たと前向きに取るようにしよう。

    この宿で食事の注文と配膳、停電の際の蝋燭等々、宿泊客の世話をするチェートリーという老人はネパール系の男性。実直そうな感じの人だ。ネパールから来たわけではなく、ダージリンから来ているという。彼と宿の主人との会話はヒンディーだ。ナガランドでもそうであったが、こうした使用人等との言葉の関係もあるので、地元の人たちにとってヒンディーを理解することが必要となる面もあるようだ。仕事のため北東州に来ている他地域の人々で、土地の言葉をしっかり身に付ける者はあまりいないため、両者を結ぶ共通語としてのヒンディーの果たす役割は高いらしい。

    朝食を終えて、昨日予約しておいたタクシーでシローンに出発。チェラプンジーの村を通る斜面で、ひとつコーナーを曲がったらそこから先はまるで別世界のようであった。まるで昨日のように霧が深い。霧が出ているときは、場所によって視界の深さがまったく違い、霧に濃淡があるものだが、それにしてもこれほど極端なことも山の中ではしばしばある。

    霧が深いエリアを抜けると急に視界が広ける。眼下に果てしなく続く雲海の景色を楽しみながらクルマはひた走る。しばらくの間、狭い車内で運転手と二人きりになるため、相手の人柄でその行程の印象がかなり変わったりもする。見た目が地元の人ではないため、何気なく「あなたどこの人?」と尋ねたら、親の代にベンガルから移民してきた家族史を滔々と話す生真面目な感じの青年であった。彼の話を聞いているうち、あっという間にシローンに到着していた。

    シローンでは、ちょうど乗り合いのスモウ(大型四駆)が出発するところであった。車内で、叔父に連れられた4歳前後の女の子が、祖父と祖母の家があるシローンに戻りたいとワンワン泣いている。叔父は「グワーハーティーに行くのはやめて、シローンに帰ろう」となだめつつ、「おーい、運転手さん!シローンに戻ってくれ。」などと声をかけている。

    40歳前後の運転手は「よし、わかった。シローンに戻るぞ。」などと調子を合わせてやっている。運転は乱暴で、人相はあまり良くないし、声もダミ声だが人は悪くないようだ。

    だが女の子はそれでもきかないので、困った叔父はシローンに戻ることにしたようだ。シローン郊外にある人造湖のほとりで二人は降りていった。子供がグズると大変なのはどこの国も同じだ。ウチの下の子もちょうど同じ年頃なので、なんだか身につまされる思いがする。

    スモウの運転手、人は悪くないようだが、かなりクセのある人間であるようだ。前方を走るクルマがあると無理に加速して乱暴な追い越しを繰り返し、かなり危ない気がするのだが、それでも前方に走るクルマがなくなると急に安全運転になり、スピードもやけに緩慢になる。

    シローンとグワーハーティーの間にはバスも走っているものの、本数がとても少ないようで、多くはシェアタクシーかシェアスモウということになるようだ。バスに比べてかなり割高なので、庶民の中でとりわけ頻繁にこのルートを行き来しなくてはならない人の場合、かなり大きな負担になるかもしれない。

    ところでグワーハーティーは、土地の人の言い方では「ゴーハーティー」と聞こえる。ローマ字の綴りでもGuwahatiではなくGauhatiやGawhatiといったものも目にする。

    中間点でチャーイと食事のための休憩。並びにいくつもある小さな店でアチャールを売っているが、北東インドならではのものを見つけた。竹の子のアチャールである。このあたりでは工芸品、家屋の建築その他で竹をよく使うが、食事でも竹の子をよく利用するため、こうしたものがある。

    店先に果物等とともに並ぶアチャールのビン
    食べていないが味は良さそう。

    途中、工事その他の理由で渋滞しているところがいくつかあったため、グワーハーティーまで4時間くらいかかった。グワーハーティーの鉄道駅南側にあるスモウス兼タクシースタンドに到着した。

    <完>