ANAでWifi

成田・デリー間のフライトにて。

これまで知らなかったのだが、全日空の機内でWifiが利用できるようになっている。料金は利用する時間により、以下のような具合。

30分プラン $4.95 *15MB上限
1時間プラン $8.95 *30MB上限
フルフライトプラン $19.95 *100MB上限
※料金は米ドル建て

ANA Wi-Fiサービスのご案内 [国際線] (全日空)

15分間までは無料なので、メールのチェックくらいは充分できる。実はこの部分での利用者が最も多いのではないかと思う。なかなか良いサービスだ。

80年代イランの切手

初めてイランを訪れたのは、ホメイニー師が亡くなってからすぐあたりであった。別に切手を集める趣味があるわけではなく、旅先で記念切手?を購入するということは、後にも先にもなかったのだが、この類の切手だけは有名であったので手にしてみたかった。

1979年に発生したアメリカ大使館占拠記念

1988年に起きた米軍によるイラン民間航空機撃墜事故に対する糾弾
交戦状態にあったイラクによる学校への爆撃により子供たちが多数亡くなったことに対する非難

当時のイランでは、大きな役所等の壁に「アメリカを打ち倒せ!」みたいなスローガンと勇ましいプロパガンダ画などが描いてあるのを目にした。

最初の切手はアメリカ大使館占拠記念、次は米軍によるイラン民間航空機撃墜事故に対する糾弾、三番目は交戦状態にあったイラクによる学校への爆撃により子供たちが多数亡くなったことに対する非難。
・・・といっても、イラン政府による「官製反米姿勢」とは裏腹に、イランの一般の人々の間で、こうした反米感情が渦巻いているわけではなく、極めて穏健かつゆったりとした人たち。

急進的な近代化を推し進めたパフラヴィー朝に対する宗教勢力を中心とする保守勢力に、これとは異なる側面、つまり王朝による強権的な支配、利権構造、腐敗などを苦々しく思っていた市民たちが、変革を期待して肩入れした結果、革命が成就することとなった。

しかしながら、王朝が倒れてからは、大多数の市民が期待したような方向に向かうわけではなく、今度は宗教勢力が大衆を強権支配するようになった。きちんと教育も受けていないならず者みたいな者たちが、政府の治安機構で用いられ、新しい政権が示したコードに従わない者をどんどん処罰していく。

さらには「革命の輸出」を警戒する中東近隣国との関係も悪化し、「ペルシャ湾岸の衛兵」的な立場にあった王朝が倒れることにより、欧米からも強く懸念される存在となり、大産油国でありながらも経済は悪化していったのがこの時代。

そのため、市民の多くは「王朝時代は悪かったが、今もまたひどいものだ」と呻吟する社会が当時のイランであったわけで、それなりの資産とツテのある人たちはアメリカその他に移住していくこととなった。

東に隣接する南アジア社会に較べると格段に高い生活水準と立派な街並みなどから、当時の私なぞは、あたかも東ヨーロッパに来たかのような気分にさえなったものだ。イランの人々の風貌はもちろんのこと、当時の地味な装い、イスラーム革命により、1979年に王朝が倒されてからは、経済面では社会主義的政策を取っていたこともあり、そんな雰囲気があったともいえるかもしれない。

当時は、観光目的で三カ月以内の滞在については、査証の相互免除協定があったので、日本人である私たちがイラン入国に際してヴィザは不要で、イランの人たちが日本に来る際にもそうであった。    
      
つまりイラクとの戦争が終結したあたりから、イランから日本に出稼ぎに来る男性たちが急増したのは、ちょうどこのあたり。東京都内では、ヤクザみたいな恰好?したイラン男性たちをしばしば見かけて、イラン旅行中にはいつでもどこでもお世話になった紳士的かつ親切な人々の姿とのギャップにちょっとビックリしたりもした。でも、当時日本に出稼ぎに来ていた人たちの大半は若者だったので、故郷の地域社会の縛りが解放されて、ちょっとツッパッてみたい年ごろだったんだろうな、と思う。

当時のイランではNHK連続ドラマの「おしん」が吹き替えで放送されていたようで、各地でよくそのストーリーについて質問された。だが私はその「おしん」とやらをまったく見ておらずよく知らないので、逆にイランの人たちに尋ねる始末であった。(笑)人気ドラマにしても芸能人ネタにしても、自分の興味のない部分についてはまったく知識を吸収できないので、ときに困ることがある。この部分については、今になってもまったく治っていない。

そんなイランがこれから大きな変化を迎えようとしている。これまで長く長く続いた冬みたいな時代であったのかもしれないが、ホカホカと暖かく素敵な春を迎えるようになることを願いたい。

GoAir ムンバイー・レー便、バンガロール・ポートブレア便就航 3月27日から

このところ好調なGoAirがさらに新たな路線を追加する。今年の3月27日からムンバイーからレー(レーからムンバイーへのフライトはスリナガル経由)への便、そしてバンガロールからポートブレアへのフライトが就航する。いずれも毎日一往復となる。

双方ともに観光需要に特化した便であるといえる。商用でのニーズが占める割合が高い都市間のフライトに較べて、休暇時期や季節によって需要が大きく変動するので、チケット価格の上げ下げの幅も相当広くなるはずだ。
今後の運行スケジュールについては、座席の埋まり具合を見極めたうえで、ダイヤ改正の時期にシーズンによる増便・減便といった調整がなされていくことだろう。

どちらにしても、これらの目的地への直行便がなかった都市からの就航となるため、新たな需要を掘り起こすことになる。それぞれの出発地である都市、その周辺地域に住んでいる人たちの場合、乗り換えなしで行くことができるという気楽さから、「行ってみようか!」という気になることは往々にしてあるだろう。

費用面でも従前のようにムンバイーからデリーに飛び、デリーからレー行きのフライトに乗るとか、バンガロールからチャンナイ、コールカーターあるいはムンバイーまでの飛行機を利用して、さらにそこからポートブレアに向かうよりも安くなるであろうことから、こうした気分を後押しすることになりそうだ。「愉しみのための旅行」においては、「簡単で価格も安い」という要件が作用する部分は大きい。

また、厳冬期のレーについては、デリーの濃霧によりダイヤの乱れが頻発したり、ときにはデリーの空港自体が閉鎖されてしまうこともある。とりわけレー行きの便のスケジュールは、たいてい早朝出発となっているので、テリー首都圏やその近くに住んでいる場合を除けば、デリーからよりも距離があり当然運賃も割高になるとはいえ、この時期の天候が安定しているムンバイーから出発したいと思うことだろう。

冬季は陸路による外界への交通手段がなくなってしまうので、デリーの気象条件によりフライトがキャンセルとなってしまった場合の次善の策として、ムンバイーに出ることが可能となることはありがたい。とりあえずムンバイーに出てしまえば、インドのどの方面にも乗り換えてアクセスすることができる。

もっともレーを中心とするラダック地方を訪れる観光客は夏季に極端に集中し、インドの他の地域とはケタ違いに寒さが厳しい冬季にわざわざ訪れる人はとても少ない。前述のとおり外界への陸路が閉ざされてしまうだけではなく、ラダック地域内でも道が閉ざされてアクセスできなくなるところが多いためでもある。そんな具合なので、ムンバイー便が就航しても冬季の観光客が増えることにはならないかもしれない。そもそもムンバイー・レー便は冬季も運行されるかどうかについては、今のところよくわからない。

ラダック地方やアンダマン・ニコバール地域の人々にとっても、フライトで直接結ばれる都市が増えることにより、これらの土地における最大の産業である観光業のマーケットが拡大するという点からも好ましく、同時に自身が外界に出る際の選択肢が増えることにもなる。

ただし、どちらにおいても、外からやってくる人々が増えるということが地元に与えるインパクトは大きい。土地の人々が先祖伝来の文化や美しい自然の保護に働きかけるとともに、そうした場所を訪れるよそ者である私たちも、こうした部分を尊重し、共存共栄していくことができるよう努めたいものだ。

建設後使われていない空港 74億円のムダ

438.4 Crore Rs (約74億円)もかけて建設した15の地方空港が、完成から10年経過しても民間航空機の定期便が就航していないという事態になっているという。

10 years and Rs 438.4 crore later, 15 airports yet to be on flight map (Aviation India)

その15の空港には、ジャイサルメール、シムラーなども含まれているとのこと。ジャイサルメールに空港建設というニュースをだいぶ前に耳にしたときには、「飛行機で行けるようになるのか」と思ったのだが、その後まだ就航していない。そのジャイサルメール空港の現在の様子は以下の記事に写真入りで取り上げられている。

No passengers or flights: India splurged $50 million on eight ghost airports (firstpost.com)

こうした中でも、特にひどいのがマハーラーシュトラ州のゴーンディヤー空港だろう。国民会議派を中心とする連立政権、UPA (United Progressive Alliance)時代に航空大臣を務めたプラフル・パテール氏の肝いりで建設されたものだが、ゴーンディヤーはまさに氏の地元であり、我田引水そのもののプランであった。前述の438.4 Crore Rs (約74億円)の半分近い、207.6 Crore Rs (約35億円)もの巨費が投じられている。

建設後、使用されていない空港について、現在の航空大臣は「就航先を決めるのは航空会社であり、各社それぞれの都合によるものであり、政府が決定するものではない。それは国営エアインディアについても同様。」と答えているが、計画そのものがいかにずさんであったかということだ。

これでは納税者はたまらない。

デリーからガヤーへ

デリーからビハール州のガヤー行きのフライトを利用した。
搭乗してからしばらくしても滑走路に移動せず、席でじっと待っていると、次のようなアナウンス。
「当機はセキュリティー上の理由により出発が遅れています。ただ今、保安要員が機内に入り、全員の手荷物の確認をいたします」

制服を着た係員が2名乗り込んできて、席上の荷物入れを開けては「この荷物の持ち主誰やねん?」「これ誰のカバンや~?誰か返事せんかァ、こらァ!」などとやっている。
保安要員が怪しげな荷物を開くと、赤、白、黄色の配線が絡み合っている時限爆弾装置でもあって、「切るのは赤か、白か?」なんていうスリリングなシーンが展開するのではないかという、映画さながらの緊張場面が待ち受けているかとドギマギしたが、結局は全部の手荷物の持ち主の確認をしただけで、そのまま降りていってしまった。チェックインしたはずの人数と、実際に機内にいる人の数が整合しなかったか何かなのだろう。

保安要員が外に出ていくと、「乗務員、配置に着いて。当機は出発いたします!」という機長のアナウンスとともに、飛行機は滑走路に進んで離陸。
インドでは、テロに対する警戒から、規則によりセキュリティー関係のチェックには厳しいが、それらの検査をする保安要員の身辺調査と、彼らが空港施設に入る際のチェックはしっかりしているのかな?ということを、ふと思ったりする。あまり良い待遇をされているとは思えず、容易に買収されてしまいそうな人たちに思えるのだが。セキュリティーホールがあるとすれば、おそらくこのあたりではないかとも思う。

エアインディア国内線のこの便は、最初にガヤーに行き、それからバナーラスに行くフライト。バナーラスからはおそらくデリーに戻る便となるのではないかと思うが、あまり重要な路線ではないためか、ずいぶん古い機材を使っている。客室乗務員もなんだかパッとしない感じの人もいて、最近の民間航空会社とは違う、「国営」というムードは相変わらずである。垢抜けない制服もいまひとつだ。

隣に座ったのはヒゲを蓄えたムスリムの恰幅の良い男性。英語をまったく話せないので、どういうことをしている人かと思えば、サウジにダンマーンに働きに出ていたとのこと。そこから戻って国内線に乗り換えて、バナーラス近郊にある自宅に戻るところなのだそうだ。
娘が4人いるとのことだが、前の席に母親と一緒に座っている3歳くらいの可愛い女の子と遊んでやっている。その女の子はずいぶん人懐っこい子で、楽しそうだった。母子ともにムスリムで、この男性にとっては自宅で待ってくれている娘たちの姿とダブるところがあるのかもしれない。

デリーからガヤー到着までは1時間15分ほど。ガヤー空港は、この規模ものとしては珍しく、PBB (Passenger Board Bridge)により、機内と空港ビルが直接結ばれる。ガヤーの空港は小規模ながらも一応国際空港であるためだろうか。冬の時期にはバンコク、コロンボ、ヤンゴン、ティンプ―などから直行便がある。当然、ちゃんとイミグレーションもあり、E-Visa専用のカウンターまであるのだから大したものだ。私が利用したのは国内線なので、カウンターは無人であったが。