80年代イランの切手

初めてイランを訪れたのは、ホメイニー師が亡くなってからすぐあたりであった。別に切手を集める趣味があるわけではなく、旅先で記念切手?を購入するということは、後にも先にもなかったのだが、この類の切手だけは有名であったので手にしてみたかった。

1979年に発生したアメリカ大使館占拠記念

1988年に起きた米軍によるイラン民間航空機撃墜事故に対する糾弾
交戦状態にあったイラクによる学校への爆撃により子供たちが多数亡くなったことに対する非難

当時のイランでは、大きな役所等の壁に「アメリカを打ち倒せ!」みたいなスローガンと勇ましいプロパガンダ画などが描いてあるのを目にした。

最初の切手はアメリカ大使館占拠記念、次は米軍によるイラン民間航空機撃墜事故に対する糾弾、三番目は交戦状態にあったイラクによる学校への爆撃により子供たちが多数亡くなったことに対する非難。
・・・といっても、イラン政府による「官製反米姿勢」とは裏腹に、イランの一般の人々の間で、こうした反米感情が渦巻いているわけではなく、極めて穏健かつゆったりとした人たち。

急進的な近代化を推し進めたパフラヴィー朝に対する宗教勢力を中心とする保守勢力に、これとは異なる側面、つまり王朝による強権的な支配、利権構造、腐敗などを苦々しく思っていた市民たちが、変革を期待して肩入れした結果、革命が成就することとなった。

しかしながら、王朝が倒れてからは、大多数の市民が期待したような方向に向かうわけではなく、今度は宗教勢力が大衆を強権支配するようになった。きちんと教育も受けていないならず者みたいな者たちが、政府の治安機構で用いられ、新しい政権が示したコードに従わない者をどんどん処罰していく。

さらには「革命の輸出」を警戒する中東近隣国との関係も悪化し、「ペルシャ湾岸の衛兵」的な立場にあった王朝が倒れることにより、欧米からも強く懸念される存在となり、大産油国でありながらも経済は悪化していったのがこの時代。

そのため、市民の多くは「王朝時代は悪かったが、今もまたひどいものだ」と呻吟する社会が当時のイランであったわけで、それなりの資産とツテのある人たちはアメリカその他に移住していくこととなった。

東に隣接する南アジア社会に較べると格段に高い生活水準と立派な街並みなどから、当時の私なぞは、あたかも東ヨーロッパに来たかのような気分にさえなったものだ。イランの人々の風貌はもちろんのこと、当時の地味な装い、イスラーム革命により、1979年に王朝が倒されてからは、経済面では社会主義的政策を取っていたこともあり、そんな雰囲気があったともいえるかもしれない。

当時は、観光目的で三カ月以内の滞在については、査証の相互免除協定があったので、日本人である私たちがイラン入国に際してヴィザは不要で、イランの人たちが日本に来る際にもそうであった。    
      
つまりイラクとの戦争が終結したあたりから、イランから日本に出稼ぎに来る男性たちが急増したのは、ちょうどこのあたり。東京都内では、ヤクザみたいな恰好?したイラン男性たちをしばしば見かけて、イラン旅行中にはいつでもどこでもお世話になった紳士的かつ親切な人々の姿とのギャップにちょっとビックリしたりもした。でも、当時日本に出稼ぎに来ていた人たちの大半は若者だったので、故郷の地域社会の縛りが解放されて、ちょっとツッパッてみたい年ごろだったんだろうな、と思う。

当時のイランではNHK連続ドラマの「おしん」が吹き替えで放送されていたようで、各地でよくそのストーリーについて質問された。だが私はその「おしん」とやらをまったく見ておらずよく知らないので、逆にイランの人たちに尋ねる始末であった。(笑)人気ドラマにしても芸能人ネタにしても、自分の興味のない部分についてはまったく知識を吸収できないので、ときに困ることがある。この部分については、今になってもまったく治っていない。

そんなイランがこれから大きな変化を迎えようとしている。これまで長く長く続いた冬みたいな時代であったのかもしれないが、ホカホカと暖かく素敵な春を迎えるようになることを願いたい。

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