ここは1857年の大反乱の有名な舞台のひとつであるサッティー・チャウラー・ガート(通称「虐殺ガート」)。
1857年6月27日、ここで女性や子供たちを含む300人もの英国人たちが凶暴な反乱軍兵士やそれに乗じて暴れたゴロツキたちに殺害されている。
現在はほとりに寺院が建ち、静かな沐浴場所となっている。


ここは1857年の大反乱の有名な舞台のひとつであるサッティー・チャウラー・ガート(通称「虐殺ガート」)。
1857年6月27日、ここで女性や子供たちを含む300人もの英国人たちが凶暴な反乱軍兵士やそれに乗じて暴れたゴロツキたちに殺害されている。
現在はほとりに寺院が建ち、静かな沐浴場所となっている。



暑い中を歩いていると、汚い酒場みたいなところで、デーシー・シャラーブではなく、ビールを出しているという店があった。渇きについつい引き込まれそうになるが、ここで飲んだらもう1日が終わってしまいそうなので我慢する。

さらに進んでいくと、どう見ても本当のインド華人が経営していそうな中華屋があったので入ってみる。出てきた年配男性に尋ねてみると、数年前までは華人が切り盛りしていたが外国移住のためインド人に売却したのだという。その男性を含むスタッフたちは華人時代から働いており、今年でなんと43年目なのだとか。



移住先はインド華人定番のカナダとのこと。彼らの大半がカナダ行きであり、そのマジョリティーはケベック州、その中でもモントリオールとその周辺が多い。先行した移住者たちのツテや縁があるからのようだ。
カーンプルのこの中華レストラン「中華」でチャプスィを注文。ひとりでは持て余す分量ながらも優しい繊細な味付けと野菜にコシがのこしてあるのは、さすがインド華人直伝。長崎皿うどんさながらの味わいだ。


カーンプルでの宿泊先の隣はパールスィー寺院であった。今はもう4、5家族くらいしか当地には残っていないという。
カーンプルは軍の駐屯地で英国人人口も多かったため、植民地時代に買弁として活躍したパールスィーたちの中には軍に納める武器弾薬その他の軍需品調達業者が多かったため、彼らにとっては稼ぎやすい街だったのだろう。
宿近くにパールスィー寺院があったが、そのまた近くにパールスィーの会社がある。あぁ、本当にここにいるのだね、と実感。







プラヤーグラージを出てから2時間ほどでカーンプルに着いた。ここに滞在してから出発の日は朝の大変早い時間帯に出るため、駅舎の目の前の宿を予約していた。
しかし宿のフロントでは、「予約は入っていない。そもそもオンライン予約は受け付けていないと言われる。大手宿泊予約サイトで予約を入れているし、ホテル名と住所は間違いないのだが。
このホテルはWBという安宿を展開するグループのもので、ちょうどOYOのようなものらしい。つまりグループが所有しているのではなく、既存のホテルが加入するような具合。料金は現地支払いとしておいたのだが、不泊として予約サイトから課金されてはかなわないので、アプリで苦情申し立てるとともにWBにも電話をするが、営業時間外で出ない。
あたりはホテルがたくさんあるのだが、どこも外国人ということで断られた。「うちはC-Formの扱いをしないので」とか「C-Formの紙を持ってないので」とか。いずれも「空室はたくさんある」とのことなのだが。
宿泊には、インドの運転免許とかアーダールカード等の身分証明書が必要なため、遺跡に入るときのように「オレはインド人だ」は通用しない。
最後に入ってみたホテルで、「外国人が泊まれるホテルを知っている」とのことで、教えられた名前をググって電話すると、あっさり「外国人OKです」とのこと。しかもこのホテルの人がバイクでそこまで送ってくれた。どうもありがとう。
グワーハーテイーの駅前通りもそうなのだが、インドではときどき「外国人が泊まりにくい街」がある。手当たり次第当たっても見事に「外国人は宿泊不可」と断られるのだ。
さて、そのC-Formだが、ここの宿ではスタッフが私の旅券の写しを見ながらウェブでカタカタ入力していた。そう、今の時代、オンラインで申請できるのだから駅前のホテルもチャチャっとやってくれればいいのに。
以前、ラージャスターンのシェカワティーで自分でウェブ版C-Formを入力したことがある。宿の人が「今日はウチの若いモンがいないからやり方わからん。悪いが他の宿に行ってくれ!」と投げ出してしまったので、やむなく私がやることになった。ちょうどインドビザのウェブ申請をとても簡略化したような内容だった。
そんなわけで本日はカーンプルのモール・ロードにあるホテル・ガガーン・パレスに投宿。

国として承認されていない地域の代表たちが参加する大会。チベット代表選手たちには大いに頑張ってもらいたい。
チベット代表に限ったことではないかと思うけれども、みんな仕事を持っているため選手を招集しても来られるとは限らず、チームのマネジメント側も大変らしい。
そして他国から合流する選手もいるし。もとより資金集めからして容易ではなく・・・という具合であることダラムサラにあるをTNSA(チベットナショナルスポーツ協会=事実上のチベットサッカー協会)事務局でお話を伺ったことがある。
それでもサッカーこそがチベット亡命社会では心の支えになるのだとも。
インドにおける亡命チベット人社会で「ナショナルスポーツ」とはクリケットではなくサッカーであるとのこと。クリケット大国インドでチベット人が同じことをやってもなんぼのもの、ということに加えて独自性とより多くの国々との交流の可能性となると、やはりサッカーであるらしい。
年に一度、ダラムサラではインド各地のチベット人コミュニティ代表が参加する全国大会「GCM Golden Cup」が開催される。
個人的に興味があり、開催時期に滞在して選手たちから話を聞いてみたいと考えている。