香港飯店の昼下がり

以前、香港飯店で取り上げてみたコールカーター華僑の鐘さん兄弟が経営する食堂の話である。昼下がりのヒマそうな時間帯に、『やぁ、どうも!』と店内に入ってみると、なにやら彼ら兄弟が一人の男性と話し込んでいる。
『古い友人がオーストリアから帰ってきたんだ』とのことである。彼もまた中華系で鐘さんたち同様、この街で生まれ育った客家人とのこと。 一見、ダージリンあたりからやってきた人か?と思ったと思わせるような印中混血の風貌と肌色ではあるが。
彼の実家はコールカーター市内中心部のチッタランジャン通り界隈にあり、父親は大工をしているそうだ。鐘さんの香港食堂の内装はその人の手によるものだという。
男性は20歳になる前からオーストリアに出て、いくつかの職場を転々としながら16年間、中華料理のコックとして働いてきたそうだ。『みんな私はもう二度とコールカーターに戻らないと思っていたようだし、自分自身もそう考えていた』と言う。
インドに戻ってきたのは一時帰国というわけではなく、思うところあり、オーストリアでの生活をたたんでインドに再定着するつもりで帰ってきたとのこと。ちょうど近くを通りかかったので、旧知のこの店に顔を出してみたというわけらしい。
年の中印紛争後、コールカーター在住の華人人口は急減し、多くは海外に出たとされるが、それ以降もより良い機会を求めての移住はなかなか盛んなようだ。沢山兄弟がいるようだが、アメリカに住んでいる者、台湾に住んでいる者、オーストラリアに住んでいる者といろいろいるらしい。今の時代、世界各地で中華系の人々の移動はますます盛んである。
もちろんその背景には、インドでの環境の問題があり、ベターな暮らしを得ることを目的に海外に出て行く動機となっているのだが、さしあたって必要となる資金を調達できることや移住先での仕事等のツテといった、移住や出稼ぎにあたって必要な手立てを自らのネットワークを通じてちゃんと持ち合わせているのはたいしたものだ。
男性の兄弟でオーストラリアや移住した人、台湾に住んでいる人がいるということだし、この店の経営者である鐘さんの姉だか妹だかもカナダに住んでいる。その子供たちが、たまにコールカーターを訪問することがあるそうだ。
『でもインドでの様子には馴染めないみたいだよ。あの子たちの故郷はこの街なのにね』と鐘さん。
普段は兄弟家族同士では客家語で会話している鐘さんだが、今日はこのオーストリア帰りの男性を交えてヒンディーで話している。彼自身は中華学校で教育を受けたわけではないし、中華コミュニティにどっぷり浸かって育ったわけではないとのことで、華語よりむしろヒンディー語のほうが話しやすいそうだ。
『まぁ、中国語も一応できるんだけど・・・』
それにしても、本来土地の言葉であるベンガル語ではなく、ヒンディー語であるというのは、コスモポリタンのカルカッタ商業地育ちらしいところかもしれない。
彼は、しばらく両親ところに世話になり、これからインドで何をして生計を立てていくか考えてみるとのこと。
『焦る気はないけど、まあ何か始めてみる。いつか結婚だってしたいし』
この香港レストランは、サダルストリートに近いことから、外国人旅行者の姿も少なくないのだが、近隣や周辺地域在住らしき華人たちの姿、インドに仕事でやってきた中国人たちの姿をよく目にする。ときにそうした彼らの話をいろいろ聞く機会を持てるのは楽しい。

新加坡的印度空間 4

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今日は日曜日ということもあり、観光客相手以外のものでは閉めている店が少なくない反面、裏通りやそこに面したちょっとしたスペースでは、出稼ぎとおぼしき人々がわんさかたむろしている。
道路に面したテラスを持つ飲食店でコーヒーやチャーイをすする人もあるが、多くは道端に座り込んでおしゃべりしたりトランプに興じていたり、数人で酒を酌み交わしていたりする。中にはすっかり酔っ払って路上に仰向けになって寝ている男もある。路地裏では安価な酒やツマミ類を販売している者の姿もあり、こうした人々を相手にそれなりに繁盛しているようだ。
同じインド系の人々でも、ここに定住している人たち、あるいは少なからず他国から観光で訪れる人たちと大きく違うことといえば、身なりや雰囲気が違うことに加えて、女性や子供の姿がほとんど存在しないことだろうか。20代から60歳手前くらいまでの人々、とりわけ30代から40代あたりの男性が、そうした群集のマジョリティを占めている。
出稼ぎの人々は、週末に休日にこうして同郷の人々と会ったり、情報交換したりするため、あるいは単にヒマつぶしのためにリトル・インディアに出てきているのだそうだが、とりわけ夕方の日没時刻あたりになると、その混雑ぶりは頂点を極める。リトル・インディアが持つインド系の人々に対する磁力は注目に値する。
男性だけで大混雑
インド系の出稼ぎの人々は、市内各地に彼らが集まって暮らす地域があるようで、何もこの狭いエリアに集住しているわけではないとはいえ、やはりこういう場所だけに彼らが大人数で仮住まい生活を送るスポットはリトル・インディア界隈にいくつもあるようだ。
普段は閉まったままのガレージのシャッターがたまたま開いているのをふと見ると、コンクリートの床の上に多数のマットレスが乱雑に置いてあったり、傍らに着替えやペットボトルがいくつも放置してあったりと、生活臭が漂っている。
早朝、散歩していると肉体労働者たちを現場に送る手配師のトラックが行き交う。荷台に簡単な席がしつらえてあったり、プラスチックの椅子を置いてあったりという具合だ。モダンかつ先進的な都市国家シンガポールらしくない風景ではあるが。
シンガポール市内各地にヒンドゥー寺院は散在しているし、インド系の人々の姿も多い。だがこのリトル・インディアのようにインド系の人々の密度が高い場所はないとともに、この『インド人街』が今の時代にあっても、内外から様々な目的でやってくる南アジアの人々の流れのひとつの重要な核となっていることに興味を覚えるのである。

ネパール首都の宮殿博物館 本日オープン

カトマンドゥのナラヤンヒティ宮殿が、本日2月27日(金)から宮殿博物館として一般公開される。
宮殿が博物館として転用される第一段階において、地元紙カーンティプルおよびカトマンドゥ・ポストのウェブ版であるeKantipurの記事によれば、宮殿内の52ある部屋(メディアによっては90室あるのだとも・・・)のうち、19室のみが展示室として開放され、15人ずつ25分間のみ参観可能というから、ちょっと敷居の高い博物館ということになろうか。おそらく政治的に微妙な部分があることから、厳重な警備がなされるのだろう。
この博物館は『シャハ王朝の真の歴史を知る』ための場所として位置づけられているようで、昨年6月に廃止された同王室の栄華をしのぶなどといったものではないようだ。宮中で繰り広げられた陰謀、政治の腐敗、人々に対する圧政などといった負の側面を人々の前に明らかにしたり、2001年にこの宮殿内で発生した殺戮事件の真相にも光を当てることが期待されているようだ。
ただし宮殿建物の転用について、『博物館にするのは簡単かもしれないが、その後の施設の維持はどうやっていくのか?』と、おそらく財政的な部分から行く末を危ぶむ声もあるようだ。
現在、同国政府を率いるマオイスト勢力の意向に沿う形での『王室犯罪史博物館』ないしは『革命運動博物館』といった色合いのものになるのかどうかよくわからないが、近いうちここを訪れる方があれば、ぜひそのご感想をうかがいたいものだ。
Narayanhiti museum (eKantipur.com)
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※『新加坡的印度空間4』は後日掲載します。

新加坡的印度空間 3

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シンガポールという都市自体がそうであるように、その中にあるリトル・インディアもまたグルメな街である。昔からここに住み着いている人たちはタミル系が多いとはいえ、南インド料理以外にも、ムグライ、ベンガーリー、スリランカ等々、亜大陸のさまざまな地域の味を楽しむことができる。
そうした中には高級店もあるが、ここで働いていたり暮らしていたりする人相手の庶民的なものもまた多い。後者の場合、まるでインドの安食堂をそのまま持ってきたようなものもあれば、小ぶりなホーカーズ・センターのようになっているものもある。後者の場合、往々にして中華式メニューも同時に楽しむことができたりする。
昼食を済ませて、リトル・インディア地区内をぐるぐる巡ってみると、今や地下鉄駅がふたつもできていることに気がついた。このエリアの最寄り駅は、North East LineのLittle IndiaもしくはFarrer Parkである。
その名も『ヒンドゥー・ロード』
ところでこのあたりの地名にもなかなか面白いものがある。このエリアにはその名もヒンドゥー・ロードというのがあるし、ダルハウジー・レーンクライヴ・ストリートというのもある。この地域以外でも、シンガポールの通りの名前でマウントバッテン・ロードがあるなど、インド植民地行政の立役者の名前が散見されるのは興味深い。
南インド系のスリ・ヴィーラマカリアマン寺院
北インド系のシュリー・ラクシュミーナラヤン寺院
アーリア・サマージとD.A.V.Hindi School
シンガポールでは、ここに住むさまざまな民族の宗教施設が見られるが、リトル・インディアにおいても、ヒンドゥー教関連施設も南インド由来のものや北インドからのものなどいろいろある。アーリア・サマージのお寺の上階には、D.A.V. Hindi Schoolのシンガポール本部が入っている。イスラーム教のモスクにおいても、グジャラートのスンニー派のAngullia Masjidをはじめとして、さまざまなコミュニティのものがあるようだ。
数世代に渡って定住している人々、加えて出稼ぎ人たち、はてまた観光客を含む一時滞在者等々、亜大陸の東西南北各地に起源を持つさまざまなインド系の人々が、マレー風ショップハウス形式の建物が並ぶ景色の中でごっちゃになっているという図はなかなか興味深い。

新加坡的印度空間 2

State Bank of India
美味しいバクッテーの店から徒歩でリトル・インディアに戻る。途中、異国にあってちょっと懐かしい感じを覚える店舗を見つけた。今日は日曜日なので閉まっているが、『ステイト・バンク・オブ・インディア』のリトル・インディア支店とある。
手持ちのシンガポール・ドルがあまりないので、両替を兼ねて宿近くのムスタファ・センターに行ってみる。インド系ムスリムのオーナーが経営するショッピングセンターで、1200人を越えるスタッフを擁するとても大きなものだ。
ムスタファ・センター
ウェブサイトを見てもわかるとおり、アクセサリー、化粧品、時計、電化製品などから医薬品、衣料品、両替なども行っている。また食料品や雑貨類を取り揃えたスーパーマーケットも入っているなど、いろいろ手広く展開しているようだ。従業員のほとんどがインド系だが、お客の半分以上もまたインドを含む南アジア系の人々だろうか。地元の人たちよりも、明らかに国外から来たと思われる人のほうが多いようだ。店外に掲げられた国際通話の広告も幾つかのインド系言語で書かれている。
ベンガル語(上)とタミル語(下)の看板
ひたすら商品を眺めるだけの人たちもあれば、何でこんなに?と思うほど買いまくる人もある。そうした人たちは店外に出てから待ち受けている仲間にその品々を渡し、巨大なスーツケースの中にそうした品々を詰めさせている。そして再び店内に戻っていくのだ。一体何をしているのだろうか。
店内は朝方からずいぶん混雑しているのに驚かされる。以前ここで中東への輸出仕様らしきシチズン製の金色の腕時計を見たことがある。文字盤にはアラビアで使われている数字があしらわれており、さらにダイヤ風にカットされたガラスが無数に埋め込まれているというスゴイものを見つけたことがある。
今でもそうしたものが売られているのかどうか知らないが、日常使うようなもので何か面白い掘り出しものがあればと思ったのだが、休日であるためか非常に込み合っており、身動きが取れずどうにもならず、早々に退散する。
Made in China
表通りのセラングーン・ロード(黄亜細肉骨茶餐室があるラングーン・ロードとは別の道路)を歩いていると、『2個で5S$』『3個で10S$』などといった表示が目に入る。店内ところ狭しと並んでいるのは、ヒンドゥーの神像。持ち上げて底を見ると『Made in China』とある。道理で台座の部分にデタラメな『インド風』文字が刻まれていたりするものもあるわけだ。ガネーシュが描かれていながらも、横に掛けられた穴開き銭とともに、柄やデザインがどうにも中華風に見える壁掛けなども見られる。売り手は華人であった。
なんだか中華風
リトル・インディアに暮らすインド系の人々による、ちゃんとインドから輸入した神像その他を売る店は以前からいくつもあるのだが、こうした店は私の記憶にはなかった。近ごろは中国大陸の旺盛な工業力は、インドの宗教の分野にも進出しつつあるということなのだろうか。ともあれ値段の割にはけっこうしっかり造ってあるため、おみやげとして購入する人は少なくないようだ。
インドの衣料品店
インドの衣類を販売する店、花輪を売る露店、ミールス屋に映画DVD屋その他いろいろインドな店舗が続く。ミターイー屋に入り、いくつか菓子を買ってその場で食す。店の奥ではインド系店主がデンと構えているものの、店先でお客の注文聞きにチョコマカ忙しそうに動くのは中華系の店員。ちょっと不思議な空間だが味は上々。
ちょっとくたびれたら甘いお菓子を!
観光客の姿も多く、込み合ってはいるもののけっこう整然としている表通りに比べると、裏通りはここに暮らしてきた人々の生活空間といった感じで、簡素や食堂や細々とした日用品を扱う店が軒を連ねるとともに、友人や知人たちが一杯のチャーイを片手に語らう場もある。
このエリアを出入りするベンガル系の人々の数は相当なもののようで、ムスタファ・センター近くの一角には、ベンガル文字のみが溢れ、ベンガル語が飛び交う雑貨屋、映画・音楽ソフト屋、食堂などもあり、ミニ・ベンガルといった様相を呈している。
密度の濃い商業地なので、細い道路一本越えると様相がガラリと変わる。こちら側では米穀、野菜などといった食材を商う店ばかりでも、そのすぐ裏手にはダンスバーがあったりする。そうした通りのまた路地裏では、性風俗関係の店が隠密に営業しているが、そうした地域ではヒジュラの姿もチラホラ見かける。彼ら(彼女ら?)はどういう経緯で、シンガポールくんだりまでやっくることになったのだろうか。