新加坡的印度空間 1

Little India
シンガポール空港に着いた。着陸したのは午前4時半。ターミナルビルに入ってから入国管理、税関、そしてゲートを出てから両替してからタクシーに乗る。まだ5時を少し回ったところだ。なんと効率の良い空港だろうと思う。
タクシー運転手は中華系の男性。こちらは眠くて仕方ないのだが、陽気でおしゃべりな人だ。シンガポールはポイ捨てだのトイレを流さなかっただのといった細かいことにまで、やたらと罰金の規則が多い国だが、空港の手際の良さもまたそうしたペナルティによるものが大きいのだという自説をまくしたてる。
『空港内には放置された荷物カートなんかひとつもないでしょう。生活かかってるからねぇ。係員の不手際が見咎められたら、50S$も取られるんだから。たまんないねぇ』
彼に言わせると、入国管理のカウンターで理由もないのに大混雑にでもなれば、係官が処分されるだろうとのこと。
しばしば『シンガポールは人工的で面白くない』と言う人は少なくないが、新興住宅地育ちの私にとっては、育った環境と近似する部分が多いので親しみやすいのと同時に、こうした環境下で多民族が共生している様子はなかなか興味深いものがある。
経済成長著しい新興国(・・・というコトバは私自身好きではないが)ならば、10年近くの歳月を空けて空港から市内に向かうだけでも『ずいぶん変わったなあ』と感じるところだろうが、さすがは成熟した都市国家シンガポール。少なくとも車窓から見たところこれといって大きく変身したという感じではないようだ。『このハイウェイを抜けて、あのビルが見えてくると、ここのランプで降りて・・・』という頭に描いたシナリオ通りの風景が目の前に展開していく。
よく淡路島程度・・・と表現される非常にコンパクトな国土の小さな国家であるのとは裏腹に、道路は広く建物も大ぶりなものが多くて立派な感じがする。
タクシーはハイウェイを降りてから、ブギスを経由してセラングーン通りを北上する。24時間営業のインド系大型量販店、ムスタファ・センター脇の小路に入る。午前5時半過ぎだが、こんな時間でもけっこうお客が入っている。
あらかじめメールで予約してある宿泊先は、インド人街だが華人宿で、オーナーが家族で経営している。部屋に入ってしばし仮眠してから再び階下に下りてフロントで尋ねる。『このあたりで美味しいバクッテー(漢字で『肉骨茶』と書く)の店はどこにありますか?』
バクッテーとは、マレー半島の華人料理のひとつで、通常朝食のために供される豚のスペアリブのハーブ入りスープだ。多くは専門店となっており、朝早くから開店して忙しい店内で次々にお客をさばき、完売した時点で閉店というところが多い。まだ人通りが少なく閑散としている通りで、バクッテーの人気店だけは人だかりがしているという光景をよく目にするものだ。
経営者の奥さんはしばし首をかしげて答えた。
『確かあそこが人気あるみたいだけど、店の名前は何だったかしら。場所をどう説明したらいいかしらねぇ?』
この人自身はあまり外食しないそうだ。
彼女は宿の外に停まっているタクシーに何か声をかけている。
『彼がよく知っているから乗っていけば?』
日々街中を縦横に巡っている運転手は旨いものに詳しいのは、どこの国でも同じだ。
クルマに乗り込むやいなや、彼は私に質問した。
『白と黒とどっちがいい?』
白か黒かというのはスープの色のことで、ベースはあっさりしておりクリアーだが、胡椒がピリッと効いた『白』は地元シンガポールの味、醤油味でハーブを多用した濃厚な『黒』はマレー半島の味覚なのだという。私はどちらも好きだが、とにかく腹が減っているのでおいしいところならば白でも黒でも構わない。

ラングーン・ロードにある黄亜細肉骨茶餐室という店の前でタクシーを降りる。日曜の朝だというのに、ここで食事する多くの人々で込んでいる。私もその中に混じって注文すると、まもなく香り高いバクッテーが運ばれてきた。赤身と脂肪がたっぷりついたスペアリブがゴタゴタと入った汁と合わせて食べるのはご飯もしくは中華式のお粥に添えられるのと同じ類の揚げパン。
美味なる朝食
朝食というよりも、むしろランチか夕食に似合いそうな濃厚な一品だが、これを食すと華人のエネルギーを分け与えてもらったような気になる。夜通しのフライトだったので少々眠いが、フレッシュな一日のスタートである。
このお店、私は初めてで全く知らなかったがかなりの有名店らしい。屋号でグーグル検索するとたくさんひっかかってくる。朝から幸せ気分にしてくれた運転手さんに感謝である。

お隣の国へ 6

今日も白く靄のかかった朝だ。昨夜はかなり冷え込んでいたためもあり、今日はややカゼ気味である。
ホテル内のレストランで簡単な朝食を取り、8時過ぎにリクシャーで駅に行く。国境の町ベーナーポールに行く列車が8時50分に出る。プラットフォームはずいぶん混雑しており、なんとか身をよじらせながら車内に入ることができたが、イワシの缶詰みたいな状態でかなりキツイ。
途中に大学があるので、ここまで行く学生たちが多いようだった。そのあたりはちょっとした町になっているため、仕事のために出かける人々もかなりある。彼らが大挙して降りていくと、さきほどまでの大混雑がまるで嘘のように車両の中はガラガラになる。
車内が急にくつろいだ雰囲気になる。身体的に苦痛だったさきほどまでと違い、ゆったりと座れるようになったため、人々も気持ちにゆとりが出てきたらしく、そこここでおしゃべりが始まる。こちらも右から左からいろいろ声がかかり、自然と周りの人々と話をすることになる。
ジェソールを出てから1時間ほどで国境に着いた。途中通過したのは農村や小さな町。駅から国境チェックポストまで、サイクルリクシャーで10ターカー。バーングラーデーシュから出る際に『出国税』なるものがある。イミグレーション脇のショナーリーバンクのカウンターで支払い、発行されたレシートを手にしないと出国手続きができない仕組みになっている。
インド側に出ると、風景は変わらないのに、私が理解できる言葉が突然普通に通じるようになる。ほんの数十メートル向こうではほとんどダメなのだが。
まるでテレビのチャンネルを××語番組から○○語番組に切り替えたような感じだ。
こちらに来るとベンガル語に加えてデーヴァナーガリー文字が散見されるのがなんだかうれしい。
バーングラーデーシュに来るときに利用したような国際バスが通りかかれば、宿泊先のフリースクールストリートまで直行できていいな、と思ったが、それらはもっと早い時間帯にここを通過してしまうとのことでダメだった。
シアルダー駅行きの列車は毎時間あるらしい。乗り合いオートリクシャー最寄りのバンガーオンの駅までで向かう。バーングラーデーシュ滞在中は、エアテルの圏外のため死んだのも同然だった携帯電話が息を吹き返している。
プラットフォームで待っていると、まもなく電車が入線してきた。シアルダーから来たものであり、終着駅バンガーオンで折り返すのである。ハウラーからバンデルやフーグリーなどに出ている郊外電車と同じタイプのものである。
田園風景は国境の向こうと変わらないが、それでもインド側のほうが水田などもよく整備されているような感じがする。田舎駅でもインドのほうが駅としての体裁がしっかりして規模が大きいこと、建物も立派であることなどいろいろある。駅の造りや職員たちの仕事ぶりもよりオーガナイズされているように見える。もちろんこちらのほうが相対的に豊かなのだから当たり前のことではあるが。
しかしながら、今こうしてシアルダーに向かう電車の中で揺られていても、ついさっき違う国から再びインドに戻ってきたという気がしない。州内のどこか田舎に出かけて戻ってきたような感じがするのだ。
生活してみるといろいろ違うのだろうが、少なくとも旅行する分には、そのツボというか、要領というのかが同じであるためそう思うのだろう。つまりそれほど近似した環境ということはできるだろう。もともと同じ国土であったところが分割されたのだから当然のことではある。
ともあれバーングラーデーシュもまたいろいろと興味深い国であったので、またぜひ訪れてみたいと思う。隣国なのでコールカーター・ダーカー間の飛行機が頻繁に飛んでいるということもあるが、陸路でも直通バスがあり、鉄道による接続も悪くない。けっこう広いベンガルの大地を、西ベンガル州だけ見ておしまいにするのはちょっともったいない。
事前にヴィザを取得しなくてはならないという面倒はあるものの、コールカーターまで足を伸ばしたならば、すぐ近くの『お隣の国』にもぜひ立ち寄られることをお勧めしたい。またインド北東州のアッサム、メガーラヤ、トリプラーなどに陸路で向かう場合、バーングラーデーシュを横切るとずいぶん近道になるという点もあり、亜大陸東部を見て歩く場合、決して外すことのできない地域であるとも思われる。

お隣の国へ 5

朝6時過ぎに出る列車に乗る。今日は駅前のホテルなのでとても楽だ。列車はすでにプラットフォームに入っていた。
先日はクルナー始発でラージシャーヒーが終着駅のコポタッカ急行を利用したが、本日は同じ列車の逆方向行きを利用する。クルナーに戻るわけではなく、それよりも手前のジェソールで下車する。本当はバーングラーデーシュにもっと滞在したかったが、コールカーターで用事があるため、明日にはインドに戻らなくてはならない。
自分の車両がどのあたりかわからなかったので、誰かに尋ねようとすると、このあいだクルナーから来たときに車両の座席まで案内してくれた車掌がいた。向こうも覚えていてくれて、今日もコンパートメントまで案内してくれる。奇しくも昨日と同じコンパートメントであり、窓の外の塗装の剥がれ具合からしてまったく同じ場所であった。
駅入口から入って一番左手の5番線から出たが、隣の4番線には真新しいモダンな灰色の列車が停まっている。これはダッカ行きとのことである。窓が開かない造りになっており、エアコン付きである。こちらもインド製なのだろうか?
今日、同じコンパートメントに乗り合わせたのは、夫婦と4歳の男の子一人の家族連れである。ジェソールのひとつ手前の駅で降りるのだそうだ。鉄道沿線はどこも田園風景が広がっている。途中途中に集落や村、あるいは町が散在している。なかなか牧歌的でのどかな風景。冬でも緑と水と太陽に恵まれて、明るい景色が広がっている。池もあちこちにある。
特に美しいのはところどころに散在しているサルソーンの畑。まるで蛍光色のような黄色の花が咲いており、見ているとまばゆくて眠くなりそうだ。この時期インド亜大陸各地でこうした光景が広がっている。私にとって最も印象的であったのは、インドとパーキスターン国境に広がるそれである。両国の対立がまるで嘘のように、美しい光景が国境両側にシームレスにつながっていて、心奪われる眺めであった。
冬は旅行しやすいバーングラーデーシュだが、雨季には池や河の水位も上がり、今とは違った景色になっているはず。それはそれで瑞々しくて美しいのだろうが、洪水により交通があちこち遮断されたり、予期しないことがいろいろあったりするのだろう。
インドの西ベンガルからこの国に入ると、まだ同じ州内にいるかのような気がしてならないのだが、同時に国境を越えたインド側とは視覚的に明らかに違う部分を感じるのもまた事実である。それはデーヴァナーガリー文字の不在であり、ヒンドゥーよりもムスリムが圧倒的に多く、インドにあるような『サフラン勢力』の人々がいないことでもある。
また地域的な広がりがないため、ベンガル地方(およびチッタゴン丘陵地帯の人々)以外の人々を見かけない。パンジャービーらしき人たち、とりわけスィク教徒の姿を目にしていない(ダーカーにはグルドワラーはあるそうだが)し、南インド系の人たちを見かけることもない。そんなことから、何となく国の地理的な規模の小ささを感じたりするのである。
ジェソールに着いたのは昼過ぎ。宿泊先は800ターカー程度(570インドルピーくらい)のホテルだが、それとはあまりに不釣合いすぎる立派なバンケットホールがあり、結婚式が盛大に行われていた。複数のカメラマンに加えて、大型のビデオを回している者もいる。ちょっと話をしてみたが、ビデオ撮影を専業でやっている『プロ』なのだそうだ。
ジェソールの街角

旅行向きのモバイルPCは?

従来型のモバイルパソコンといえば、出先での作業はもちろん、顧客に対するプレゼンテーション、職場に戻ってからの業務等々、様々なビジネスシーンでの用途が前提なので、当然機能性重視。一部の例外を除き、A4サイズが基本形であった。
もっと小型で、まともに文字入力操作ができるピッチのキーボードを搭載しているモデルといえば、10.1インチ画面、B5サイズのモデルとなり、選択の幅がとても狭くなる。価格も20万円前後と高価で、デルやゲートウェイなどといった通販系の会社で、デスクトップあるいは主に据え置きで利用するタイプのノート型パソコンを購入するならば、かなり高性能な機種が購入できる価格。まさに『高級機』といえるものである。
ご存知のとおり、そうした携帯パソコンの分野で異変が起きている。近ごろネットブックと呼ばれるタイプの5万円前後で購入できる安価なモバイルパソコンが次々に発売されるようになった。その名の示すとおり主にインターネットのブラウジングのために用いるものである。高速なCPUは必要ないし、HDD容量だってそんな大きくなくて構わないだろう。日常的に外に持ち出して使うことを前提に作られているため、非常に軽量かつコンパクトだ。
そうしたモデルのほとんどが横長の8.9インチ画面。タテはギュッと縮めてあるものの、横幅は10.1インチのものと同等で、キーボードはまともに入力できる幅を確保してある。視覚的にも横幅がこの程度あれば違和感なく操作できる。利用目的がインターネットの閲覧中心といった場合、自宅でのメインマシンとしての用途を兼ねて購入する人も多いと聞く。
以前はずっと高かったモバイル機器が安く、しかもこんなにコンパクトになってくると、旅行の際に持参したという考える人も少なくないだろう。旅先でそのパソコンからインターネットにアクセスせずとも、日記など記録用に使いたいという人は多いだろうし、ガイドブックには出ていないような各地の情報を参照できるよう保存したり、交通機関の時刻表をダウンロードしたりといった用途も考えられる。またハードディスクに好きな音楽を入れておき、滞在先の部屋で好きなときに聴きたい、出かけた先で購入したDVDやVCDなどを再生したいということもあるかもしれない。
特に写真が好きな人にとっては、撮影データのバックアップ用としても重宝するだろう。従前から、パソコンを持参せずとも画像保存のためのハードディスクタイプのツールを持参している人は多い。パソコンのハードディスクではなくCDかDVDに撮影データをバックアップしたい(こうした小型パソコンの場合、再生ドライブはたいてい外付けとなる)という場合には、いわゆるネットブックというジャンルから少し逸脱するが、工人舎のSXシリーズなどがいいのかもしれないが。
デルASUSエプソンなど良さそうなものがいろいろ目に付く中で、ややアップマーケットな商品だが、ソニーからtype Pが販売されている。実勢価格9万円前後と、通常のネットブックの倍近くの価格帯ではあるが、キーボードピッチはしっかりと確保してあるのに、やたらとコンパクトでビックリする。わずか19.8ミリという薄さと588グラムというから驚きだ。かなり華奢なのではないかと想像していたが、実機に触れてみるとこれがどうして、なかなかしっかり感があっていい感じ。
ただし小型のモバイル機器として、従前から定評のあるパナソニックのレッツノートの中の最もコンパクトなRモデルのようにタフであることを売りにしているわけではないため、圧迫や衝撃といった外部からのショックの際の耐性はあまり期待できないのだろう。価格の差ということもあるかもしれないが、元々のコンセプトが違うので仕方ない。
ところで、ネットブックが5万円前後で購入できる時代に、2万円強という価格はどうなのかという疑問はあるが、折りたたむと文庫本サイズで、テキスト入力専用のワープロもある。KING JIMから昨年11月に発売されたポメラというのがそれだ。単4電池(世界中どこでも手に入りやすい単3電池でないことがネックだが)2本で20時間駆動、つまりACアダプタ不要で長時間使うことができる。しかも起動してからわずか2秒で入力可能という手軽さがウリである。
もっとも日本国内ならともかく、インドでいつでもどこでも好きなときに取り出してカタカタ打ち込む・・・という図はあまり考えられないので、結局宿の部屋で使うことを考えれば、メリットはどのネットブックよりもコンパクトなことと、価格が最も安いこと以外に見当たらないが、人それぞれこうしたモノを持つ理由や動機が違うので、いろいろ選択の余地が増えてくることはいいことに違いない。
ともあれいろいろと持ち物が増えると故障や盗難など、いろいろ気を使わなくてはならないこともまた増える。お互い気をつけることにしましょう。

お隣の国へ 4

駅前の宿に部屋を取って荷物を置き、すぐそばにあるバススタンドでプティアー行きのバスに乗る。バーングラーデーシュの人々は、とてもフレンドリーだ。
言葉は通じないとはいえ、ベンガル語とヒンディー語で共通する語彙、似通った語彙は少なくないためか、たとえこちらがベンガル語をまったく知らなくても、カタコト程度ならば意思疎通できる場合もあることがわかった。それにヒンディーをけっこう上手にしゃべる人もときどきいることも。
ラージシャーヒーの駅に着いたとき、ここを発つ際の列車の予約について窓口で問い合わせをしたとき、職員の男性はほとんど英語ができなかったが、ヒンディーはかなり流暢に話す人であった。なんでもインドで何年か生活していたことがあるとのこと。この国に滞在中、そういう人たちに幾人か出会った。
自分たちの母語と比較的近い関係の言葉であるという点以外にも、たとえそれが自国内で用いられるものではないとはいえ、これを外国語としておぼえてみようといった場合、なかなか良い環境にあることは間違いない。
それはインドと隣接しているという立地条件に加えて、隣国から来た人と話をする機会に恵まれなくても、ケーブルテレビに加入していればベンガル語の番組以外にもインドのさまざまなチャンネル、ドゥールダルシャンから数々の民間放送まで、ニュース番組にエンターテインメント、映画その他、日々いくらでもリアルタイムに触れることができるのだ。
そのためこの国では学校で学ぶことはなくとも、最も身近な『外国語』ということはできるかと思う。
プティアーは大きな池のほとりに広がる静かな町
40分少々でプティアーの町に着いた。そこからサイクルリクシャーで街道南側の小道を進むと、池を中心に四角く広がる古くて美しい町並みがある。かつてこの地域を治めていたヒンドゥー領主の豪壮な館やいくつもの大きな寺院があり、往時の繁栄をしのばせる。
領主の館 荒れ果ててはいるものの、華やかなりし往時をしのばせる
領主の館の別棟 これまたひどいコンディションだ
しかしながら今では一部きれいに修復されている寺を除いてはかなり残念な状態にあるとはいえ、かなり凝った造りのものが多いのは、かつてのこの地域の文化程度の高さを示すのだろうか。
町のごくなんでもない建物でも、よくよく見れば洒落た意匠が施されていることに気づく
今でもこのあたりに住む人々の大半がヒンドゥーなのかといえば決してそんなことはないらしい。分離の際にヒンドゥーの富裕層やインテリたちが土地を離れてしまったことがこの地の衰退を招いたのだろうか。
『ドルモンチョ』なるお寺
アニク寺
分離は単に国が分かれただけではなく、多くの人々の移動を伴うものであったため、それにより社会の中でのコミュニティ間の力関係にも大きく作用するとともに、経済的にも文化的にも大きなインパクトがあったのではないかと想像できる。この土地について何かよく知っているわけではないので何とも言えないのだが、プティアーの成り立ちや変遷について調べてみると、単なる田舎町の民俗誌的なものよりもはるかにダイナミックでスケールの大きな物語が背景にありそうな気がする。
かなり有名な観光地でもあるため、ラージシャーヒーから遊びに来ている人たちの姿もあったが、ダッカから大きな自家用車で訪れている家族連れもいた。シヴァ寺院の扉を開けてもらい、巨大なシヴァリンガムを見物していたので私もそこに加わる。この家族はムスリムで、一家の主はザキール・フセインという、クラシック音楽の巨頭のような名前の人であった。
ラージシャーヒーの街に戻って夕食を済ませる。インドに比べてミドルクラスを構成する層が薄いことを反映してか、『ちょっと奮発して美味しいものを!』と思っても、こぎれいなレストランはなかなか見当たらず、結局簡素なダーバーで簡単に済ませることになるが、味は意外に悪くない。
そうした安食堂でもよくよく見ると、付近に住む家族連れらしき人々が多く食事をしているところがあり、そういう場所ではたいてい旨いものにありつくことができる。社会全体が次第に豊かになっていくにつれて、そうした食堂もまた格を上げて小洒落た店やちょっと高級な店へと成長していき、よりリッチな顧客層を獲得していくのかもしれない。
店を出ると、すぐ脇にラージシャーヒー・ミスティー・バーリーというベンガル菓子の専門店があった。市内各地に支店を持つ人気のチェーンらしい。店内に入っていくつか注文してみる。店内左側には席がしつらえてあり、そこでパクついていると同じように菓子を味わっている二組の若い夫婦連れが話しかけてきた。
『彼らは私の叔父夫婦です』というのだが、見た目はどちらの夫婦が若いのか判然としない。家族が多いと長兄の息子と末弟の年齢があまり変わらないというともよくあるし、場合によっては逆転することもしばしばあるのだろう。
インドもそうだが、ここもまたずいぶんおしゃべりでフレンドリーな人たちが多く、ベンガル語ができたらさぞ楽しかろうと思う。