日本でクリケットが静かなブームに

世界的にはサッカーに次ぐ膨大な競技人口を擁しながらも、なぜか日本ではとりわけマイナーなスポーツという地位に甘んじているクリケット。

日本国内での競技人口はわずか1,500人と言われるが、それでも最近ではゆっくりではありながらも、着実にその人気は広がりを見せているらしい。

首都圏や関西圏では、わずかながら少年のクラブチームがあるようだが、日本でクリケットを愛好する人々の大部分は大学に入ってから始めているといった現状らしい。おそらく現在までのところ、日本国内の中学、高校の部活動で「クリケット部」が存在しているのは、大阪の上宮学園だけということになるようだ。それがゆえに、U19、U15の日本代表として海外遠征を経験する生徒もいるとのこと。

こうした具合であるがゆえに、このスポーツで日本の第一人者として活躍したい人にとっては好都合であるとも言えるだろう。日本クリケット協会のウェブサイトには、同協会に加盟している大学のクリケット部を含めた全国のクラブチームの名前が記されているが、その数55とかなり少ない。そのうち30のクラブが関東に集中している。

これらの中には大学のクリケット部や大学のOBによるクラブ以外に、主に外国人メンバーで構成されるチーム、外国人学校のクラブもあったりと、なかなかバラエティに富んでいる。

だが外国人プレーヤーもかなり含まれているということも差し引くと、やはり大学のクリケット部に籍を置くということ自体で、日本代表に選出されることは決して夢物語ではないということは容易に想像できるわけで、先述の大阪の上宮学園中学・高校のクリケット部と同様に、頑張れば日の丸を背負って国際試合を闘う日本代表メンバーとなることを意識しながらプレーできるということはずいぶん張り合いがあるはずだ。

「世界的なスポーツでありながらも、何故か日本での競技人口は少ない」ということを大きなアドバンテージと捉えて、世界の舞台を目指してみるのもいいだろう。この競技を愛好する若者たちが大志を抱くことができる環境がそこにある。

ご当地仕様のホテル

夕方のそぞろ歩き
Tシャツに描く絵描きさん。なかなか丁寧な仕事をしていらっしゃる。
「死んだ家畜があったらお電話を」とある。そういう仕事もあるようだ。
久しぶりにプシュカルを訪れてみた。ラージャスターン州の他地域同様、ここでもやはり古いハヴェーリー(屋敷)を改築したホテルが人気のようである。多くはカジュアルな宿泊施設で、手頃な料金でこの土地ならではの雰囲気を楽しむことができて楽しい。
宮殿から転用されたホテルは昔からあるが、ラージャスターン州でハヴェーリーを改装した宿泊施設が一般的になったのは、2000年代に入ってからである。それまでは、ほとんど顧みられることもなく荒れ放題であったり、テナントに部屋ごとに細分化して賃貸していたりといった具合で、往時の面影はほとんど残されていないことが多かった。
中世から近世にかけて、商売で成功した人たちが豪奢なハヴェーリーをラージャスターン各地に建築した時代があった。当時とは産業構造が異なり、多くは都市部に居を構えるようになっていたり、一族が肩を寄せ合って暮らすジョイント・ファミリーのような生活形態も過去のものとなっていたりするなど、ライフスタイルも変化している。大家族が暮らしていたハヴェーリーは、往々にして「賃貸物件」として部屋ごとに貸し出され、そこからの収入は大きな街に住むオーナーが受け取り、現地では縁もゆかりもない間借り人たちが住む「アパート」と化している。そこに暮らしているわけではないオーナーも、間借りしているに過ぎない借家人たちも、建物に対する愛着などないので、このコンディションに頓着するはずもない。ゆえにボロボロになってしまうのはやむを得ない。
こんな建物をよく見かけるが、往時はさぞ立派であったことだろう。
上の画像は、プシュカルの隣町アジメールのバーザールで撮影したものだが、ラージャスターン各地の商業地域でこのようなハヴェーリーは数多い。もしこれが宿泊施設に転用されたならば、かなり良い収入を見込めるだろう。
だが観光地やその周辺にあるハヴェーリーについては、その資産的価値が見直されているようだ。建物の規模からホテルに充分転用できる可能性があること、一族とはいえ複数の世帯が暮らすように造られていたこともプラスに作用する。商家のハヴェーリーは賑やかで交通の便も良い商業地域にあることが多く、ロケーションの面からも観光客にとって都合が良い。
ラージャスターンらしい意匠や装飾などが外国人客はもとより、インドの他地域から訪れる人々にとってもエキゾチックでアピールするものがある。これらについては、昨年の今ごろ「旧くて新しいホテル1234」でも取り上げてみた。
好立地にある物件ほど、従前より賃借人に部屋ごとに貸し出しているケースが多く、建物の規模が大きいほど、既存のテナントに立ち退いてもらってホテルに転用することが容易ではなかったりするものの、こうした宿泊施設は今後も増加していくものと思われる。
夕暮れ時の湖
ガートへの入口
さて、話はブラフマーの聖地とされるプシュカルに戻る。小さな湖周辺に町並みが広がり、幾つものガートが並ぶ。ガートにも幾つものスピーカーがあり、様々なことがアナウンスされている。「そこの人、サンダルを脱ぎなさい。外国人はちゃんと靴を脱いでいるのに、インド人のあなたは恥ずかしくないのか?」「汚い衣類をガートで洗濯するのはやめなさい」といった具合だ。ガートの様子を逐一監視できるように、監視カメラが設置されているようだ。
ガートに多数出ている看板で、外国人用に英語で書かれているものには、「写真撮影禁止」「禁煙」といった事柄が書かれているのに対して、ヒンディーでインド人用に書いてあるものには、「ここで洗濯するな」とか、「トラストへの寄付は所得税の控除の対象になります。領収書を受領してください」などと書かれている。これら二種類のものは、並んでいるだけに、書いてある内容の相違がさらに際立つ。
こうしたエリアに隣接するラクシュミー・マーケットの裏手に、Inn Seventh
Heaven
という宿がある。かなり建て増しがなされているようではあるものの、入り口の狭いドアをくぐった先にある広々とした中庭を中心に広がる洒落た光景には思わず息を呑む。料金帯の割にはプロフェッショナルなサービスが提供されており、マネジメントもしっかりしていることが窺える。今後長く繁盛するだろう。
Inn Seventh Heaven
最上階のレストランから階下を眺める
ロビー周辺
客室ごとに異なるテーマで装飾等がなされており、それぞれの部屋の前にもソファ、長椅子、ブランコ等々がしつらえてあるのだが、さりとて雑然とした感じにはならずに、上手に統一感を持たせたコーディネートがなされているあたりのセンスの良さからして、経営の主導は在外(インドの都会に暮らす人か、はてまた外国在住者か?)の人の手中にあるのかもしれない。
あまりの人気のため、オフシーズンでも予約は一杯になりがちなので、宿泊の予定が決まれば数日前には電話等で予約しておくべきだ。西洋人の家族連れの利用も多く、子供たちと一緒に快適そうに過ごしている姿が見られる。最上階にしつらえてあるレストランもなかなかいいムードで、気の利いたメニューを提供している。グラウンド・フロアーにあるキッチンから上階に料理を運ぶために、凝った造りの木製の小さなリフトが使用されているのも、見る人の目を楽しませてくれる。
実はすぐ隣にも似たような感じでハヴェーリーを改装してオープンしたホテルがあり、設備等悪くないのだが、同じような料金帯のInn Seventh Heavenかなり見劣りする。やはり内装のセンスの差であり、ランニング姿のオヤジが「いらっしゃい」と出てくるあたりやスタッフというよりも普通の「使用人」然とした従業員など、非プロフェッショナル的で典型的な家族経営のごく普通の宿であるだけに仕方がない。真横にあるホテルが満室でもこちらはガラガラに空いている。
空いているお隣の宿。正直なところ、ここもなかなかいいのだが、どうしてもInn Seventh Heavenと比較してしまう。
それでもプシュカルにはちょっといいホテルが増えた。かつては安旅行者向けの小さなゲストハウスばかりが点在していて、ややアップマーケットな宿泊施設といえば、ラージャスターン州政府観光公社RTDCのHotel Sarovarくらいしかなかったのだが、いまやLonely Planetのガイドブックにも掲載されなくなっているほど「無視された」存在となっている。
RTDCのホテル
ここに限ったことではないが、90年代以降、各地で様々なレベルの宿泊施設に民間資本が参入している。とりわけ宿泊施設については、地域の観光産業振興を牽引する役割は終えているといっていいだろう。事実、インド全土を見渡せば、かつては公営であったホテルが民間に売却された例は少なくない。とりわけ州都規模の街などは、民間大手ホテルグループにとって買収の手を挙げやすいようだ。
さて、今後どのような面白い宿泊施設が出てくることになるのか予想もつかないが、東西南北それぞれの地域で歴史的な資産には事欠かないインドだけに、今後もご当地色豊かなホテルが出現してくるのを待つことにしたい。
このあたりではホシガメか生息している。

バーングラーデーシュでドラえもん

バーングラーデーシュでも往々にして隣国インドのテレビ番組を観ることができる。同じベンガル語のエンターテインメント番組はなかなか人気のようだし、お隣りの国で何か大きな出来事があったときなど、ニュース番組を点けてみる人も少なくないだろう。そうした意味では、国境を接するインドの西ベンガル州と同じコトバを話しているということにより、愉しみや情報を共有できるということ自体は、決して悪いことではないだろう。

世の常として、経済的により高い位置にあるところから、それよりも低いところへは容易に受け入れられる。だが相対的に自分たちが上であると感じている側が、自分たちよりも低いところにあると考えている側のものを積極的に取り入れることはあまりないため、バーングラーデーシュ出身でもない限り、インドの西ベンガル州の住民が嬉々として国境の向こう側の番組を観るということはあまり多くないのではないかと思う。もちろんそれでも人気のドラマなどはあったりするのかもしれないが。

ケーブルテレビに加入していれば、ベンガル語に限らず、ヒンディー語や英語の番組などもいろいろ観ることができるのだが、子供たちにはヒンディーのアニメ番組が人気で、とりわけ日本のドラえもんのヒンディー語吹き替え版が好評なのだとか。 その背景には、自国で子供たちが好むプログラムがあまり充実していないという現状があるそうだ。やはりそこは経済面でも人口面でも圧倒的に大きなインドのほうが優位にあるのは無理もない。

ベンガル語自体が、ヒンディー語とあまりに大きくかけ離れた言語という訳ではないためか、テレビ番組を観ながら自然と隣国の最大言語を覚えてしまう子供たちは少ないないらしい。それはそれで結構なことではないかとも思うのだが、これについていろいろと懸念する向きは少ないないらしい。もちろん労せず身に付くのが英語であればそんなことを言う人はいないのだろうが。

そもそも『インドではない国』として、東パーキスターンとしてインドから分離独立した国だ。しかし皮肉なことにパーキスターンと袂を分かってバーングラーデーシュとして再スタートするにあたり、同国の独立闘争に介入する形で発生した第三次印パ戦争でインドが勝利することにより出来上がった。つまりバーングラーデーシュの生みの親は、パーキスターンからの独立を求めて闘った人民であるとともに、それを工作と武力で支えたインドでもある。

だが国体としては、バーングラーデーシュはインドの一部ではなく、あくまでもオリジナルなひとつの国でなくてはならず、ときに為政者がインドに接近することはあっても、ときにインドに激しく反発することもあり、相応の距離を置いて付き合ってきた。

稠密な人口のはけ口もなく、インドとの分離前には生産地と市場とを分け合う補完的な関係にあった周辺地域(つまり現在のインドの西ベンガルやアッサム等)との関係やブラフマプトラ河の水運の便はもとより、水利の調整もふたつの国が別々になっていることによる不都合は多い。

歴史に「もし・・・」という仮定はあり得ないが、かつてこの地域が東パーキスターンとして分離することがなければ、今の世の中でヒンディー語のアニメに懸念を抱く親たちはいなかったことだろう。もちろん社会や経済のありかたそのものが現在のそれとは大きく異なり、文字どおり「ベンガル人の国」としてのバーングラーデーシュではなくなっていたことであろう。『巨大な隣国インド』がなく、それが『自国』であったとすれば、国防費用が浮くだけではなく、そこで育まれる国家観や民族意識といったものもまた大きく違ったものとなる。

視点を旧西パーキスターン、つまり現在のパーキスターンに移してみると、かつて自国の東側をインドによって失わされた経験は、インドに対する不信感を抱くひとつの大きな要因でもあるだろう。それがゆえに隣の大国インドに対して常に危機感を持つのは無理もない、ということにもなるのだ。

‘डोरेमॉन’ से डरे बांग्लादेशी मां-बाप (BBC Hindi)

 

LEH 1990 & 2012

手元に1990年の2月に撮影したレーの町並みの写真が2枚ある。そしてもう2枚は2012年の夏に撮ったもの。季節はもちろんのこと、レンズの画角やアングルは少し違うのだが、どちらもレーの町を見降ろす王宮脇からの眺めである。王宮は、1990年当時は廃墟といった状態で、内部はあちこち崩落していたため公開されていなかった。撮影したネガは紛失しており、すっかり退色してしまったポジをスキャンしたものだ。
レーの町 1990年
レーの町 2012年
レーの町の東端 1990年
レーの町の東端 2012年
レーの王宮入口 1990年
レーの王宮入口 2012年

レーの町の中心を成すメイン・バーザール界隈の大きな建物や政府機関等を除けば、大半の家屋は伝統的なラダック式の日干しレンガを積み上げた構造のものが大半であった。宿もそのような家屋に手を入れたようなものが多かったように記憶している。

レーのメイン・バーザール 1990年
レーのメイン・バーザール 2012年

レーの市内も主だった通りを除けば、大半は未舗装であったため、やたらと埃っぽかった記憶がある。他にもいろいろ撮っておけば良かったと思うのだが、フィルム時代であったため、低予算のバックパッカーにとっては、コスト面から一枚一枚がなかなか貴重であったため、今のように枚数を気にせずに撮りまくるようなことはできなかった。加えて、愛用していたニコンの機械式のカメラが故障したため、撮影数が少なかったということもある。

当時のティクセの寺院の画像もある。かなり荒廃した感じに写っているが、その頃は実際そういう具合であった。僧侶たちの多くが携帯電話を所持していたり、その中の若い人たちの中にはスマートフォンを手にしていたりするような時代が来るとは想像もできなかった。

ティクセ 1990年
ティクセ 2012年

今回のラダック訪問で、20年もの歳月が過ぎているので当然のことではあるが、レーや周辺の町並みの整備が進んだこと、主だった寺院その他の建築物が非常にいい状態にあることが印象的であった。やはりインドという国の経済が継続的に右肩上がりで推移していること、観光業もまた順調に振興していること等々の効果もあるのだろう。加えて、1990年当時には、外国人にとって完全に地域が、ILPを取得することにより訪問可能になっていることについて驚かされるとともに、大変嬉しく思った。電気を使えるのは午後7時から午後11時までというのは相変わらずであるし、夏季以外は陸路が閉ざされるという状況は変えようもないのだが。

電気はともかく、まさに夏季以外の厳しい気候やアクセスの面での不都合があるがゆえに、外部からの人口流入も限られていることも、ラダックらしさが保たれているひとつの要因に違いない。とりわけ北東インドのアッサム州やトリプラー州のように、隣接するベンガル州はもとより、ヒンディー・ベルト地帯からの移住者が多い地域と比較すると、その差は歴然としている。経済的な理由により、ラダック地域内での人口の移動は相当あるのかもしれないが。

地理・気候的に厳しい条件があるがゆえに、今後もラダックらしさが失われることはないのではないかと思われる。それとは表裏一体ということにもなるが、ラダックの今後については、「インドの中のJ&K州のラダック地域」としての位置付けではなく、ラダック独自の特別な扱いが必要ではないかと思うのである。それは、以前から要求のある州に格上げという行政区分上の事柄で片付くものではないように思う。

外部から訪れる人々があってこそ成り立つ観光業を除き、いまだにこれといった産業があるわけではない。しかしながら戦略的な要衝にあるため軍施設は多いので、これに関連した雇用やビジネスのチャンスは少なくない。だが電力は圧倒的に不足しているため、これを必要とする産業の育成は難しく、人口密度も少ないためマーケットとしての魅力も薄い。それでいながらも、限られた条件の中で日々やりくりしながら過ごしていく余裕はあるというところが興味深い。他者に従属しない気高さが感じられる。

蛇足ながら、個人的にはラダックでのヒンディーの通用度の高さには大変驚かされた。ヒンディー・ベルトとは、これほど地理的に離れた地域であり、民族的にも文化的にも大きな乖離があるにもかかわらず、農村のご婦人たちもごく当たり前に喋ることができる。J&K州の公用語がウルドゥーであるということもあるにしても、言語的にも文化的にも全く異質なコトバをこれほど広範囲に受容しているということは、ラダックの人々の柔軟さによるものであるとともに、中国を目の前にするインド最果ての地という地理条件によるものであろう。

インドにあって、インドではないとも言えるラダックについては、あまり多くを知らないのだが、極めて独自性の高いこの地域で、将来に渡って持続可能な発展とは、どのような形のものなのだろうか。

パーキスターンの名門マリー・ビール復活へ

気温も湿度も高いこの時期、幸せ気分にさせてくれるのは夕方のビール。休日であれば仲間や家族と昼間の一杯も心地よい。

インドではいくつかの禁酒州(グジャラート州と北東部の一部の州)があり、その他のところでも聖地となっているような場所ではおおっぴらに酒が手に入らない場所もあるものの概ねどこに行っても幸福な黄金色の一杯が手に入るのはありがたい。

さて、隣国パーキスターン。かねてより訪れてみたいと思っているのが、名門マリー・ブルワリーの醸造所。1860年創立で、ビール醸造所としてはアジアで最も歴史があるもののひとつで、「マリー・ビール」のブランドは昔から大変有名だ。同社ウェブサイトでは、創業から現在までに至る歴史を簡潔に紹介されている。

この醸造所の様子については、ウェブ上でもいくつかの動画を見つけることができる。Hope in the hops (The Economist)

The World: Inside Pakistan’s Murree Brewery (Youtube)

5年ほど前にカサウリー ビールとIMFL(Indian Made Foreign Liquor)の故郷と題して取り上げてみたインドのヒマーチャル・プラデーシュのヒルステーションのひとつ、カサウリーにある醸造所も起源は同じ。パンジャーブ地方(当時はヒマーチャルもパンジャーブの一部)で手広く商売をしていたイギリス出身のダイヤー一族が始めたものである。1919年にアムリトサルのジャリアンワーラー・バーグで起きた悪名高き虐殺事件の指揮を執ったレジナルド・ダイヤー准将も彼らの身内である。

カサウリーではアジア最古のビール「ゴールデン・イーグル」が生産され、現在パーキスターンとなっているマリー地区のゴーラー・ガリーでは「マリー・ビール」が生まれた。現在はどちらも創業当時と経営母体は異なっているが、血を分けた兄弟の関係にあるといえる。

現在、マリー・ビールの醸造所はパーキスターンの首都イスラマーバード近郊のラーワルピンディーにあり、ビール以外にもウイスキー、ジンなどの蒸留酒に加えて、ペットボトルのジュースなども生産している。

1977年に、ズルフィカール・アリー・ブットー首相の政権が国内での酒類の流通を原則禁止しており、現在でもごく限られた場所で非ムスリムだけが入手できるという状況だ。同国の人口1億8千万人の中でムスリム以外の人々が占める割合は、わずか3%強(これらに加えて軍の将校からの需要)しかないことを思えば、あまりに小さなマーケットである。長らく日の目を見ることのなかったマリー・ブルワリーだが、最近、パーキスターン政府が自国からの酒類の外国への輸出を認める方向へと舵を切ったことは名門復活の好機到来といえるだろう。

同社ホームページによれば、チェコの酒造会社との提携を締結したとのことで、やがてイギリスその他の欧州にも販路を広げることになるらしい。ダイヤー一族がイギリスから導入した醸造法で生産を開始したマリー・ビールが250年以上の時を経て「里帰り」することになる。

さらに大きな話もある。隣国インドがパーキスターンからの直接投資を認める方向に動いていることから、マリー・ビールがインド企業との合弁で、インドでの生産を始めることになるというニュースが流れたのは今年5月のことだった。

Pakistan and India start new era of trade co-operation with a beer (The Guardian)

歴史的なブランドを引っ提げた古豪復活への期待はもちろんのこと、インドの飲兵衛たちにも高く評価されることになれば、なおのこと嬉しい。