グレート・イースタン・ホテル

19世紀後半のグレート・イースタン・ホテル
 BBDバーグのすぐ南にグレート・イースタン・ホテルがある。くたびれた宿泊施設ではあるが、植民地時代から続く由緒あるものだ。都心部にあるため植民地時代に撮影されたモノクロ写真で目にされた方も多いはず。長い歴史に加えて巨大なコロニアル建築に囲まれた好立地、本来ならば旧帝都のヘリテージ・ホテルとして名を馳せていてもおかしくない大きなポテンシャルを秘めている。
 このホテルは菓子製造業で財を成したディヴィッド・ウィルソンという人物が1835年に開業させたものだ。当時は『オークランド・ホテル』という看板がかかり、巷ではオーナーの名前から取ってウィルソンズ・ホテルと呼ばれていたという。場所柄イギリス人をはじめとする欧州人たちを顧客とするホテルであったが、創業当時は植民地政府のトップクラスの人々もよく出入りしていたらしい。
 これが『グレート・イースタン・ホテル』と改称されたのは1865年のことだという。グラウンド・フロアーにはピシッとしたスーツ仕立屋、鞄屋、宝石屋、菓子屋、レストランやバーなどが入っていた。時代はさらに下り、1882年に発行された案内書には『一泊10〜20ルピー』という記述があるらしい。現在の貨幣価値に換算するといくらくらいに当たるのだろうか?

続きを読む グレート・イースタン・ホテル

10 SUDDER STREET

 ごちゃごちゃとした安宿街、世界各地からバックパッカーたちがやってくるコルカタのサダルストリートだが、インド博物館やエスプラネードにも近く、界隈にはなかなか由緒ありそうな教会もチラホラ。中を細かく仕切って数多くのテナントに貸し出している建物の中には昔々はそれなりに立派なお屋敷であったのでは?と思われるものも少なくないから、かつては品のよいコロニーであったことだろう。
 近代インドを代表する詩聖ラビンドラナート・タゴールもかつてこの地域に起居していたことがあることは耳にしていたものの、それが具体的にどのあたりであったのかは知らなかった。彼の家はコルカタその他各地に屋敷等を所有しており、その中のひとつであったここサダルストリートの家で一時期を過ごしたのである。
 このたびコルカタのこの通りに到着した時間帯が遅く、少しはマシそうなホテルはどこも一杯で、やむなく空室のあったHotel Diplomatという名前だけは立派な宿に一泊することになった。元々はひとつであったらしいフロアーを左右のみならず上下にも仕切ってあり、日本人としてはごく標準的な背丈の私でさえも頭をかがめないとぶつかってしまうような低い天井、隣の部屋でタバコを吸い込む音さえもが筒抜けの薄い壁、ひと月くらい交換していないようなベッドシーツと典型的な安宿である。
 翌朝起きてもっと快適に過ごせるホテルを確保してからリュックを取りにこの宿に引き返したとき、建物の斜め前にあるヘタウマな漫画みたいな胸像を目にしてふと思った。以前からこの場所で見かけてはいたのだが・・・。
『これって、ひょっとしてタゴール??』
 基壇に刻まれた文字を目をやると、それはまさにその大詩人の像に間違いなかった。
『RABINDRANATH TAGORE COMPOSED HIS POEM “THE AWAKENING OF THE FOUNTAIN” WHILE LIVING IN 10 SUDDER STREET』とある。

続きを読む 10 SUDDER STREET

ユニバーサルな禅寺

 兵庫県新温泉町という山間の町に外国人たちにAntaijiとして知られる人気の曹洞宗の禅寺があるそうだ。この安泰寺を導いているのはドイツ出身のネルケ無方住職。今から四年ほど前に八代目の無外信雄住職から引き継いだという。
 このお寺のウェブサイトにアクセスしてみると、8ヵ国語でのコンテンツが用意されており、ずいぶん開かれたお寺という印象を受ける。そもそも仏教、そして禅というものが日本の『民族宗教』であるわけではない。地元の人であろうが外国からやってきた人であろうが、教えに関心を寄せる人々をオープンに受け入れてくれるのはありがたいことだと思う。
 ちなみにこのお寺では、欧米を中心とする各国からやってきた人たちが地元日本人たちと滞在しているようだが、この国際性がゆえに『共通語』は英語だという。
 私自身、このあたりに行くことはまずないのだが、いつかチャンスがあればぜひ訪れてみたい。

たかが名前されど名前 ポンディチェリー改名

 1954年にインドに返還(1963年から連邦直轄地)された旧仏領ポンディシェリー(Pondichéry)は英語ではポンディチェリー(Pondicherry)と言い、タミル語ではパーンディッチェーリ(பாண்டிச்சேரி)と呼ばれる。『新しい町(村)』という意味だそうだ。
 ここにきて再びその名前が変わることになる。8月半ば成立した法案が発効を迎えたことから新しい名称はプドゥッチェーリ(புதுச்சோரி)となり、仏領以前の地名に戻ることになる。
 外国統治下はともかくとして、インド返還後半世紀近くも経ってからその名を変えることにどれほどの意味があるのかとも思う。近年改名された地名は少なくないのでこれに限ったことではないのだが、名称変更後ただちに・・・とはいかなくても、段階的に役所その他の公共施設での表示や公文書における表記を改めていくことになる。そうした手間が行政コストに跳ね返ってくるムダ、また地図、住所表示その他民間にも余計な出費や面倒をかけることになるが、区画整理や自治体の合併などで地名の変更を余儀なくされる場合はともかく、長いこと呼び習わされてきた土地の名前について、こうした代償を支払っても充分ペイする効果があるのかどうかははなはだ疑問だ。
 改称については政治屋さんの思惑や気まぐれに振り回されて『ああ迷惑な・・・』と感じる人も少なくないことと思う。そもそもPondichéry、Pondicherryあるいはபுதுச்சோரிで一体誰が不便や不都合を感じていたというのだろう。あえて大昔の『プドゥッチェーリ』という名称を復古させることにどれほどの合理性があるのだろうか。
Destination Puducherry (The Hindu)

世界最古の『会社』

 歴史と文物の宝庫インドでは、東西南北どこに行っても由緒ある建物や街並みに出会うことできる。文化の多様性と重層性をヒシヒシと感じさせてくれるこの国は、いつどこを訪れても非常に興味をそそられるものだ。
 ところで我らがニッポンの『カイシャ社会』の中には、仰天するほど長寿な企業が存在していることに気がついた。それは起源を江戸時代にまでさかのぼる反物屋や百貨店といった程度の話ではない。なんと紀元578年創業なのだというからびっくり。
 イスラーム教の預言者ムハンマドが誕生したのが570年あたりとされるし、インドではアジャンターの石窟がまだ現役の僧院群として機能していた時代だ。玄奘三蔵がインドを訪問したのはさらに50年ほど経ってからだ。
 その『歴史的企業』金剛組は総合建設会社だが、特に寺社建築の設計・施工・文化財建造物の復元、修理等を得意としている。会社の沿革をひもとくと実に興味深いものがある。
 紀元578年に聖徳太子の命を受けて百済の国から三人の工匠が招かれ、この中のひとり金剛重光なる人物が興した宮大工集団が現在の金剛組のはじまりだという。そして『三人の工匠は仏への帰依の心をこめ、そのもてる技(わざ)のすべてをもって、四天王像をまつる寺院創建のために尽くしました』と同社のウェブサイトにある。四天王寺に続き法隆寺を建設したのだそうだ。
 以来日本の寺社建築とともに千四百年という気の遠くなるような長い時間を歩んできたのだから世界遺産みたいなものである。ウィキペディアによれば金剛組は現存する世界最古の企業(ただし株式会社化は1955(昭和30)年)だ。
 ただし今年1月に現代の当主である金剛重光氏により、中堅ゼネコン高松建設の子会社としての新たな『金剛組』に営業譲渡して社員の多くを移籍させ、もともとの母体である旧来の金剛組についてはケージー建設と改称したが、7月下旬に自己破産を申請している。
 これらの一連の動きにより、今年からは金剛組とそれを千四百年以上もの長きにわたって率いてきた金剛一族との縁は解消されたといえるが、歴史という視点から眺めると日本の会社社会もなかなか捨てたものではないようだ。
ケージー建設:大阪地裁が破産手続き 日本最古の建築会社
(毎日新聞)