下ラダックへ 7

朝5時過ぎに起きて、部屋で少し日記を書いて身支度してから宿のテラスで朝食。

ラダックの朝日は心地よい。東の空が赤く焼けることなく、淡々と明けていく。夕方は夕方で、西の空が真っ赤に染まることなく、粛々と日が暮れていく。高度の関係もあるのかもしれないが、おそらく空気に含まれる水分が少ないからなのだろう。

朝方の眺めが最もクリアなことはもちろんだが、それでも昼間のどの時間帯でも抜けるように遠くまで見渡すことができる。これもまた湿度が低いため、気温が上がってきても霞がかからないからだ。そのため、やたらと視力が良くなったかのように思ったりするのだが、これは錯覚であることは間違いない。

夜は夜で、周囲に灯さえなければ、満天の星を満喫することができる。たとえ宿泊施設やその周囲で電灯が煌々と光っていたとしても、ラダックの大半がそうである「午後11時給電停止」の地域であれば、宿の窓からでも信じられないほど派手な星空を楽しむことができる。

平地であれば、これが大気汚染に侵されておらず、空気が澄んだ地域であったとしても、文字通り流れるような天の川を眺めることは無理だ。やはりラダックの高度とともに、湿度の低さが天空の絶景の秘訣。

これから向かうのは、レーへと繋がる幹線道路から少しそれたところにあるリキルゴンパ。ここはシャームトレックと呼ばれる一泊二日のミニトレッキングの起点にもなっている。レーからは遠くはないが、公共交通は日に1往復しかないためクルマをチャーターして訪問する人たちが多い。

山間で、人口密度は希薄、そして外部から大規模な投資を呼び込むような産業もない地域なので、公共交通機関の頻度もまた同様に希薄なものとなる。やはりクルマをチャーターして回らないとラダックは旅行しづらいものがある。

往来の希薄さが地域ごとの個性、独自性といったものを維持する大きな要因となっていることは言うまでもない。まずは外部からの遮断性。国境を挟んで向こうの中国側との間を行き来する公式なルートは皆無であり、インド国内にありながらも陸路でスリナガル方面ならびにマナーリー方面と往来できるのは夏の時期に限られている。観光客もインドの他の地域からの出稼ぎ人たちも、大半はこの時期にやってくる。「そこに仕事がある限り、UP州、ビハール州そしてネパールの労働者たちはやってくる。」というのがインドの常だ。

しかしながらラダックのシーズンである夏季以外のアクセスの悪さや気候条件により、シーズン以外には訪問客が極端に少なくなる。そのため観光産業関係では、未シーズンオフは休業となる。観光以外に外地からの労働者を多く受け入れている農業もまた長い農閑期ということになるため、出稼ぎにやってくる外地の人たちの雇用機会がないという季節的な環境もまた、地域の独自性を守る働きをしてきたといえる。

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本日、アルチーからレーに戻る途中に訪問するのはリキル・ゴンパ。勇壮な感じで造りも立派だ。やはり他のメジャーなゴンパ同様に、観光客からの収入、とりわけレーから近いこともあり、クルマをシェアして訪れる旅行者が多いこと、そしてトレッキングの起点にもなっているので、ついでに訪問する人も少なくないということがあるに違いない。

そうした関係で、ひょっとすると従前とは違った秩序が形成されているのかもしれない。同じ宗派に属して、それまでは格上のはずであった寺院が経済面において、相対的に地位が低下したり、その逆があったりということもありえるのではないかと思う。

ゴンパからの眺めも素晴らしい。いくつかのゴンパを見学すると、いつしかどれも同じ?といった感じになってしまうものの、周囲の風景の豪快さは格別である。

幹線道路を走っていると、次々にバイカーたちの姿をみかける。西洋人も多いが、同様にインド人も多い。荒野にはやはりロイヤルエンフィールドが似合う。半世紀以上前に設計されたバイクであるが、今でも新車で購入できるというのがいいし、そもそもデザインもエンジンの音もかっこいい。

運転手と3日間一緒に過ごすので、どんな人か最初は少々気になっていたが、話好きで人柄も良くて楽しい旅行となった。もう10数年運転手をしているそうだが、訪れる場所についていろいろ好奇心は尽きないようで、クルマから降りてどこに行くにも同行してくれた。オフシーズンにはザンスカールに戻るのだそうだ。

レーに戻り、これでナワンさんとはお別れ。またいつか再会することがあれば、ぜひまたもや運転をお願いしたいと思う。

〈完〉

下ラダックへ 6

アルチー・ゴンパ
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アルチーに到着した。アルチーのメインアトラクションであるゴンパへの参道には、ゲストハウス、レストランやみやげもの屋などが集まっており、かなり観光化されている感じはするものの、その一角を外れるとまだまだ素朴な村といった風情だ。
アルチー・ゴンパのある一角から少し離れたところにある集落の裏手には、昔の領主の古い館が見えるので、しばらく散策してみる。館は正面から見ると端正なたたずまいを残しているものの、背後は崩落している部分も多いため、今にも倒壊しそうな危険建築となってしまっている。
遠目には立派に見える館だが・・・。
壁はいつ倒壊してもおかしくない状態であった。
館の手前にある集落は、どれも伝統的な建物ばかりで趣がある。近くでは麦の収穫作業中で、女性たちの姿が目立つ。そうした中にも平地から来たインド人出稼ぎ男性たちがかなりいるようだ。町中や観光地での外地からの訪問客相手の商売にかかわる仕事に比べて実入りは決して良くないものと思われるが、それでもこうして働いている出稼ぎの人たちは、月にどのくらいの収入があるのだろうか。またそうした仕事を求める人々の流れはどのようにして形作られているのだろうか。おそらくそうした人材ネットワークで稼ぐ商売人たちがいるのだろう。
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宿の近くのベーカリー兼レストランで夕食していると、バイクで旅行している若いインド人男性がやってきた。店主に対してチベット仏教のこと、そうした関係のことを書いてある本について、その他この地域の様々な事柄について質問している。デリーから来たとのことだが、出身はハリドワールであるとのこと、
店主がテーブルを離れてから、しばらく彼と話をしたが、マーケティングの仕事をしていたが退社して、フリーランスのライターとしてやっていくことを画策しており、これまででひと月半、これから残りひと月半をバイクでの旅行に費やす予定ということだ。
ラダックではこれまでザンスカールを回ってきたところで、様々なゴンパを手当たり次第に訪問してきたものの、ただ訪れただけでは、仏像や仏画の意味がわからないので、それらを知るための資料を探しているという。彼の名前はアビジート。
こうした自由なライフスタイルを謳歌する人たちがインドで増えてきている。彼の年齢は30前後くらいか。昔のインドにはあまりいなかったタイプだろうが、このような人たちが確実に増えているのが今のインドであるといえる。
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〈続く〉

下ラダックへ 5

地層のダイナミックな褶曲
こちらの褶曲ぶりは非常に複雑。まるでパイのよう・・・?

ラマユルを後にして、リゾン・ゴンパに向かう。アルチーに向かう幹線道路から外れて、川沿いの細い道を上っていく。ラダックの山肌を眺めていると、ここでもそうだが、地層の褶曲の凄まじさに目を奪われることがしばしばある。

荒涼とした景色の中、清いせせらぎの眺めが目に優しい

もちろんそうした激しい褶曲はラダックに限ったことではないはずであることは言うまでもない。山肌に木々が生えていると見えなくなるため、ヒマラヤ全域においてこのような具合であるはずなのだ。

小規模な落石の除去作業が進行中

まさに木々が極端に少ないがゆえのことだが、地滑りはかなり多いようだ。とりわけこの地域では多くない雨が降ったりすると、保水力を欠くがゆえに崖崩れは頻繁に起きてしまう。

いずれにしても、このように乾燥した高地にはあまり馴染みがないがゆえに、どこに行っても景色がとても物珍しく感じられる。

垂直によじれた地層がさらに浸食されたものと思われる。

リゾン・ゴンパに到着

リゾン・ゴンパに到着。乾燥した山々に囲まれたこの場所の周囲には、集落らしい集落も見当たらず、まさに人里離れた修行の場という感じがする。こうした寺院で起居している僧侶たちはもちろんのこと、ラダックでは村の人々の間でも、高齢者でなければ普通にヒンディーが通じることを期待できる。言葉に対する柔軟性が高い民族であるということもあるのだろうが、J&K州の公用語のひとつが話し言葉はヒンディーと近い関係にあるウルドゥーであり、誰もが学校で学んでいるということが大きいだろう。

ゴンパの屋上からの風景

リゾン・ゴンパを後にして、しばらくジープ道を下っていくと、運転手のナワンは道端の人影に何やら呼びかけて停車。「なぜかウチの村の人たちがいた!」とのこと。彼らはザンスカールのナワンと同じ村の出身だが、今はカールギルで暮らしているという。

彼らは家族連れで、木陰に敷物を敷いてコンロで煮炊きをしていた。ちょうど昼ご飯を食べていたため、私たちもご相伴に預かることになった。

運転手ナワン(右から二人目)と彼の同郷の人たち

〈続く〉

下ラダックへ 4

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国道1号線をカールギル方面に進み、途中からジープ道に入ってしばらく進んだところにあるアティスィー・ゴンパに向かう。

荒涼とした景色の中の山の高みにあるその寺は、規模こそ大きくはないものの、そして僧侶は常駐していないとのことだが、なかなか趣きがある。ラマユルのゴンパの別院という位置づけだそうだ。

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お堂に飾られている高僧の写真の中には西洋人らしき僧侶の姿もあった。運転手のナワンさんの話によるとドイツ人であるそうだ。リンポチェがドイツに転生するとは興味深い。昔は、チベット仏教の世界はチベット仏教圏であったので、その圏内に転生することで良かったのだろうが、最近は遠く西洋に転生することもあるのだろうか。

ところで転生といっても変なところに転生すると、一般人として生活することになる。たとえば仏教圏でも日本に転生したら、日本社会でリンポチェ=活仏としては扱われないだろうから、「発見される」こともないことになる。すると仏教圏からはるか彼方のドイツに転生したとして、いったいどうやって見つけられるのか?と不思議に思う。

ラマユル遠景

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その後、ラマユルに戻り、ラマユル・ゴンパを見学する。境内はよく整備されているし、僧坊も同様のようだ。20年以上前に訪れた際には、ラダックのどこの寺院もひどい状態であった。やはり現在はお金の回りがよくなったのだろう。インド人観光客が増えている。文化財の補修や保守のため、どこかから補助が出ているのかもしれないし、インド経済そのものが向上しているため、このあたりにもお金が回って来るようになったのかもしれない。

同様に、外国人観光客から入場料を徴収するようになったこともこれに寄与しているのではないかと思う。多くの外国人観光客は寄付を置かないため、このような形で徴収すると、寺院の財政に寄与するものが少なくないことは間違いない。ちなみに現在、この寺院が外国人から徴収している入場料は50ルピーである。

寺院で日々を送る僧侶たちの生活にかかるコストがあるわけだし、法要や祝祭その他でかかる費用もある。また寺院の修復やメンテナンスにも相当な金額がかかるわけなので、こうした形で定収入を確保することは運営上必須だ。

こうしたチベット仏教の世界について門外漢なのでよく知らないのだが、寺院運営にかかわる事務方の人たちもかなりいるのではないかと思う。寺院の予算や収入・支出の管理、同宗派の他の僧院との連絡調整、地元社会との緊密な連絡等々いろいろあるはずだ。大学が教授・講師陣だけで成るものではなく、数多くの事務方の人たちがいるのと同様に、僧院が僧侶の修行だけで成り立つとは思えない。寺院の規模が大きくなるほど、そうした俗世間じみた仕事は多くなるはずだ。

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在家の人たちがこれに携わっているのかもしれないし、僧衣をまとっていてもそうした事務仕事を主に扱う役割の人がいるのではないかと思う。それはたとえば入場料のチケットを販売している人などだ。一般人もいれば、僧衣を着ている人の場合もある。寺院がどのような形で収入を上げているのかはよく知らないのだが、いくら名刹であっても、そこに僧侶という多数の人々の生活を支え、宗教団体としての活動を維持していくためには、きちんと営利を上げていくことと、きちんとした予算や収支の管理が必要であることは言うまでもない。お寺を訪問しても壁画や仏像の意味さえよくわからない私だが、そうした現実的な部分に関心がいってしまう。

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灌漑がなされているところには豊かな緑
ラマユルから少し下ったところにある通称「ムーンランド」

〈続く〉

下ラダックへ 3

ダーまで来ると、海抜はかなり下がるためか、少々暑苦しく感じる。それでも優に標高3,000mはあるはずなので、高地であることは間違いないのだが。

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さて、今晩はどこに滞在しようかと思い、アーリア人の村、ダーも魅力的なのだが、ここに来る途中で眺めの美しさに心打たれたスクルブチャンに向かうことにした。村では夕方遅くなってからも収穫作業中で、人々は忙しく働いていた。ゲストハウスの類はないので、どこかホームステイできるところはないかと尋ねまわってみたが、受け入れているところは見つからず、そのままラマユルに向かうことにする。

スクルブチャンの村は収穫の時期

カルツェ方面にしばらく走り、インダス川の対岸に渡り、カールギル方面への道を進む。ラダックはどこもそうだが、水があり、人々が耕作している地域以外は乾燥しきった大地が続き、木々の姿もない山肌が続いている。

地層が垂直になっている巨大な岩盤

地面がむき出しであるがゆえに、地層の激しい褶曲を目の当たりにすることができるため、太古の時代には海の底であった現在のヒマラヤ地域は、インド亜大陸とユーラシア大陸が衝突して持ち上がった結果、形成させてきたものであることがよくわかるとともに、現在もさらに成長しているということも納得できるのである。同時に、山肌や大地の色合いからして、場所により地質が大きく異なることも観察できるようになっている。

おそらくラダックだけではなく、インドのヒマラヤ地域全域に共通することなのだろうが、他の地域では豊かな緑に覆われているため、そうとは気付かないものだ。

ラマユル近くの通称「ムーンランド」。ここの地質も特徴的だ。

ラマユルに到着すると、すっかり陽は暮れていた。ここはメジャーな観光地なので、ラマユル・ゴンパの周辺にはいくつもの宿が軒を連ねている。

宿泊したところの中庭には、バイクでツーリングしているグループが食事をしていた。デリーからヒマーチャル・プラデーシュのマナーリーを経てラダックまで走行してきたメンバーはスペイン人とフランス人で、そのリーダーはツアーの主催者であるスペイン人のパブロさん。恰幅の良い中年男性だ。

彼は、90年代にはデリーでラージャスターンの建築史を学ぶ学生であったという。その後、スペインで仕事に就いていたが、2年前から再びデリーにやってきて、旅行代理店を経営しているそうだ。彼の店はバイクによるツーリング専門で、お客がスペイン人、フランス人の場合は自分がツアーを率いて、それ以外の場合は雇っているインド人スタッフに任せていると言う。

10月にはブータン行きのツアーを予定しているそうだ。そのツアーは12日間で、デリーからバグドグラに飛び、そこからスタートしてジャイガオンからブータン入りするものだという。1日あたり2,500ドルもするそうだ。宿泊代は込みというがやはり飛び抜けて高い。かなり富裕な層の人たちが参加するのだろう。

自室に戻ってから、しばらく日記を書いていようかと思ったが、10時15分くらいで電気が消えてしまう。その後点灯することなく11時を回った。ノートPCのバーテリー駆動で日記を書いていたが、真っ暗な中ではとても目が疲れるのでやめて寝ることにした。

〈続く〉