Markha Valley Trek The Day 3



ルート上にある茶屋

朝7時半にスキウの村を出発。マールカー村を目指して川沿いに歩いて行く。その日によって楽しむ景色が異なるのがいい。初日は斜面と耕作地、2日目は高い峠と長い下り坂、3日目の本日は、川の流れ沿いに進んでいく。
浅瀬を選んで渡渉するが、連日の雨で川が増水しているのが少々厄介

マールカー川に注ぐ支流とマールカー川で、本日は何回かの渡渉があった。マールカー川の水は濁った深い茶色。氷河や雪解け水が水源であるため、まるで氷水のように冷たい。少し浸っているだけでしびれてしまうほどだ。








途中、競争しているわけではないのだが、他のトレッカーたちに追い付いたり、追い越したり、追い越されたりもする。こうしたことを繰り返しつつ進んでいくにつれて、いつしか顔見知りとなり、次の休憩地や宿泊地で話をしたりするようになってくる。

テントやら自炊用具やらすべてを背負ってキャンプしながら回っている頑強なイングランド人男性(有り余るパワーがうらやましいほど)とその彼女、NGOのスタディーツァーで来ているフランスの大学生グループ、同じくフランスから来たシニア夫婦、キューバ人男性とイタリア人女性のカップル等々、人気のルートなのでいろんな人たちと知り合うことができるのもまた楽しい。

村ではペットボトルのコーラその他の清涼飲料水は高値で売られているが、ミネラルウォーターのボトルを見かけない。これは販売が禁止されているからとのこと。その代わりに村々でホームステイを受け入れている家には、UV殺菌機能付きの水のフィルター浄化装置が配布されているとのことである。だが、そのフィルターがどの程度信頼できるものなのかわからないし、山歩きのときに下痢にでもなったらたまらないので、やはり宿泊先で沸騰させたお湯を頼むほうが安心なのではないかと思う。


マールカー村に到着

瑞々しい畑の眺めが美しい

幾度か、マールカー川のこちらから向こうへ、あちらからこちらへと渡渉しつつ歩いて来たら、やがてマールカーの村にやってきた。マールカーの村は川の北岸にある。宿泊したのは村の東の外れに近い部分。少し先には川があり、そこから先にも数軒の家がある。
マールカーのゴンパ

ゴンパの裏手

宿泊先はマールカー・ゴンパの隣の家。ゴンパは改装中で、村人たちがボランティアで材木を切ったり、壁にペンキを塗ったりといった大工仕事をしていた。このゴンパは、マールカー川沿いではなかなか由緒あるものらしい。

風が強くなると、続いて雲が押し寄せてきて間もなく雨となる。まさに「風雲急を告げる」といった感じだ。山の天気は変わりやすい。

この晩の食事はスキウという料理。日本のすいとんのようで好きだが、ラダックの料理は総じて非常に薄味だ。

午後7時くらいに食事を出していただき、8時半には就寝した。

〈続く〉

Markha Valley Trek The Day 2




屋上に設置されている太陽電池。これが日没後の居間の照明を灯す電源となる。

ユルツェのホームステイ先で、朝の6時くらいに目が覚めた。昨夜寝たのはずいぶん早かったので、ゆうに9時間半は寝たことになる。実にすっきりとした爽快な気分だ。午前7時に宿泊者たち全員が居間に集合して朝食、そして7時半過ぎに出発。
ホームステイ先を出発

ガンダ・ラ・ベースキャンプまで1時間くらい、そしてガンダ・ラという峠までそこから1時間半程度の道のり。雪を被った峰を仰ぎながら、少々急な斜面で息を弾ませながら登っていく。
キャンプサイト

この地域の運搬手段は馬とロバ

川沿いに進んでいく

しばらく登ると、川の流れはこんなに細くなってきた。

ここから先の登りは少々きつい

こちらは水をがぶ飲みしながら肩で息をしているのだが、ガイドのタシ君は呼吸が荒くなることもないようで、涼しげな表情で歩いている。彼の出身のアリアン・バレーの地域はラダックの中でも標高は高くなく、彼自身はずいぶん長いことジャンムーの学校に通っているのだが、ラダック生まれだけあって呼吸器の造りが違うのだろうか?と思ってしまう。

地表から湧き出る清水

冷たい清水をふんだんに吸って育つ高山植物

あと少しでガンダ・ラに着く


ところどころで地表から澄んだ清水が湧き出ており、こうした細い流れの筋がユルツェの村の前を流れる川に注いでいる。
ガンダ・ラ

来た道を振り返ってみる。

ガンダ・ラという峠に来た。標高は4,980mとのことだが、周囲に残雪もなく殺風景なので、そんな高地にいる気はしない。
ガンダ・ラから下るときに出会った馬とロバのキャラバン

羊の放牧

ガンダ・ラからは長く緩い下りとなる。峠が分水嶺となるため、これまで来た道筋とは反対の方向に水が流れている。息を切らせて登っているときにはあまり気が付かなかったマーモットの姿を楽しむ気持ちの余裕が出てきた。ここから先、シンゴの村までは緩い下り坂が続いている。いくつものマーモットの巣があり、ガイドのタシが口笛を吹くと背を伸ばしてこちらを見ている。ところどころ集合しており、まるでみんなで会話をしているかのようで可愛い。
巣穴から出てきたマーモットたち



シンゴの村まであとわずか

シンゴから先は傾斜が急になる。いくつかの川を越える。越えるといってもここでは流れの中で石伝いに渡るだけである。あるいは川岸にふんだんにある大きな石を川の中に投げて踏み台にしたりする。ところどころで清水が湧いており、いかにも「川のはじまり」といった感じがする。
2010年にラダックを襲った洪水の際には、このあたりでトレッカーたちが流されたとのこと。

しばらく進むと谷が細く深くなっている。このあたりでは、ラダックを襲った2010年の洪水の際には土石流の被害があったとのことで、キャンプしていた人たちが流されたりもしたそうだ。確かに今でもその土石流の後らしきものが確認できる。そうした荒天の際には、逃げ場がないだけに危険である。
岩に含まれるミネラル分の違いからか、ずいぶん色合いの異なる山肌

美しい花が咲いている。


狭小な渓谷を過ぎると景色が急に開けた。スキウの村まであと少し。

深く狭い谷を通過して、少し開けた谷に出た。ここからの斜面は緩く、ダラダラと下っていくとスキウに到着する。午前7時40分に出発して、午後3時半に到着したので、8時間ほどかかったことになる。宿泊先はスキウの村の東の端。明日の行程が少し短くなるから、とのことである。
スキウの村に到着

翌日からはマールカー渓谷沿いを歩く

この日のホームステイ先の家の切り盛りするのはジグメットさんという男性。父母と兄弟合わせて5人、そして9歳と3歳半の子供とのこと。9歳の子はレーの学校に通っており、寮生活をしているとのことだ。夏休みは15日、冬休みは2か月半から3か月くらいとのことだが天候によるらしい。ラダックの冬は寒い、そして厳しい。こうした休みの時期にだけ学齢期の子供たちが帰宅するのだそうだ。
クルマが行き来できるチリンからここスキウの村までは近いため、まだいいかもしれないが、それでも小学校に入ったばかりの子供がひとりでレーに出たり、帰ってきたりというのはかなり大変だろう。村の子供たちと一緒に移動するにしても、さらに遠い村では途中で宿泊する必要があるし、大変厳しいものがある。もしかしたら携帯電話も持たせているのかもしれないが、山の中では通じないだろう。そんな環境のもとで、自立心が養われることは間違いないにしても、これまた厳しいものがある。

〈続く〉

ハナムコンダーとワランガル

MGバスステーション

ハイデラーバードのMGバスステーションは巨大ながらも実によく整備されていて、ATMやきれいな食事場所、夜遅く到着した乗客のための宿泊施設などもあり、利用者に親切な造りになっている。ここからハナムコンダー行きのバスに乗車。3時間強の道のりだ。

ハナムコンダーはワランガルの隣町。バススタンドからオートでハナムコンダーの1000 Pillard Temple, Bhadrakali Temple, そしてワランガルのFortに行く。

最初に訪れた1000 pillared templeでちょっと考えさせられたことがある。ASI(インド考古学局)管理下にある遺跡を訪れる際にしばしば感じる違和感だ。歴史的・学術的な価値がゆえに国の責任のもとで管理や調査研究が行われているわけだが、それにもかかわらず、奇妙なものがしつらえてあることが決して珍しくない。



何が奇妙なのかと言えば、往事のものとは異なる今風のご神像が本殿にしつらえてあったり、そこにプージャーリーが常駐していたりすることだ。大変古いものであっても、個人なり宗教団体の所有ならともかく、歴史的な価値がゆえに、国有化されている場所がこうなるのはおかしい。

また、ここでの話ではないが、やはりASI管理下のイスラーム関係の遺跡内のモスク跡で、メッカの方角を示すミフラーブのところがサフラン色に塗られていたり、ヒンドゥー教の神像が鎮座していて、やはり正体のよくわからないプージャーリーがデンと構えていたりするというようなことはしばしばある。

これは遺跡に傷をつけたり、名前を彫ったりしてしまうような子供の悪戯と同じというか、それが堂々とまかり通ってしまっている分、もっと余計に悪質だと私は思う。常駐する職員や警備の人たちもいるのだが。これを許容する現場の側にもそれなりの理由(ひょっとしたら何か実利的な?)があるはずだ。プージャーリーたちは、何もボランティアとか世のため人のためにそうやっているわけではなく、そこで賽銭なり喜捨を受けることにより、食い扶持を稼いでもある。

Bhadrakali Temple

次に訪れたBhadrakali Temple。この寺の来歴についてはよく知らないのだが、古い構造物の上に新しい構造物がかぶる形になっている。寺自体はかなり古いものなのだろう。

このあたりまではハナムコンダーで、いよいよオートはワランガルの市街地に入る。想像していたよりも大きくて賑やかな町だ。地域の主要駅もここにある。この町のシンボルとなっているのはワランガルのFortの遺跡で見られる、鳥居のような印象の門。駅前やカレッジの入り口などにレプリカが建っている。

街のシンボル的な存在







さて、このFortだが、丘の上にある城塞を想像されるかもしれないが、カカティア王国時代の神殿・宮殿跡である。ほとんどの構造物が壊れて大地に散らばっている状態だが、一部は少し修復してあったり、石のフロアーが残されていたりする部分もあり、想像力たくましくすれば、往時の様子思い浮かべることはできるだろう。
Khush Mahal


Fortの横にはイスラーム王朝時代になってから16世紀に造られたKhush Mahalがあるのだが、中に陳列されているのはこれと時代が異なるヒンドゥー王朝時代の神像ばかりであるのが奇妙だ。
城壁と門


帰路は運転手が違うルートで走ってくれた。これにより、さきほどのKhush Mahalの時代に造られたと思われる城壁と門を見ることができた。ワランガルの繁華街とは違い、このあたりは落ち着いたひなびた町並み。地元の人たちばかりのようで、ワランガルにしてもコスモポリタンなハイデラーバードとは異なるローカルなムードが漂っている。

CHAWMOHALLA PALACE

ハイデラーバードのチョウマハッラー・パレスを見物。現在の当主であり、世俗の権力を有しないながらも、「ニザーム」のタイトルを継承するムカッラム・ジャー(Barkat Ali Khan Mukarram Jah Asaf Jah VIII)は、フランスのニースで生まれで、イギリスに留学していたことがある。

最初の后はトルコのオスマン家のエスラ王妃。だが彼女との結婚生活は15年で破綻。これまで5度の婚姻を経ているが、あまり結婚運には恵まれなかった人物らしい。ハイデラーバード藩王国は、ムガルの家臣でトルコ系の血筋。初代のアスィーフ・ジャー1世の祖父は現在のウズベキスタンのサマルカンドの出身の武人であった。

ハイデラーバードのニザーム(現在も当主の所有)の宮殿ともなると、田舎の藩王国のそれとは洗練度が違うようだ。インド各地の藩王国の多くとは、ずいぶん格が違うことは素人目にも明らか。展示品も、良いものを品良く陳列していた。おそらく管理運営はどこか専門の企業に委託しているのではないかと思われる。ゴテゴテと並べ立てた感じではないところもまた洗練度の高さを感じる。

バドシャーヒー・アシュルカーナー


ハイデラーバード旧市街で、ビリヤーニーの名店とされるホテル・シャダーブのすぐ隣には、バドシャーヒー・アシュルカーナーがある。アシュルカーナーとは、文字通り「嘆きの館」の意味だが、第3代目のイマーム、フセインの殉教を記念したものであり、シーア派の大祭モハッラムの際には大変な混雑となるそうだ。
ゴールコンダーのクトゥブシャーヒー朝5代目の王、ムハンマド・クリー・クトゥブ・シャーが建てさせた(1594年)もので、ハイデラーバードの街を象徴する歴史的建造物であるチャールミナール(1591年)とほぼ同時期に建設されている。
ムスリム人口が4割に及ぶというハイデラーバードだが、シーア派人口もかなり多いようだ。