ミャンマー初の世界遺産登録

このほどユネスコの世界遺産として、ミャンマー中部のエーヤーワディ河流域の「ピュー古代都市群」が登録されることとなった。同国の経済関係以外の文化面における国際社会への復帰を象徴するかのような出来事といえるだろう。

ビルマ族最初の王朝であるバガン王朝以前に、ミャンマーの先住民族であるピュー族が建設した古代都市遺跡で、みっつの都市の遺構に宮殿、要塞、埋葬所、産業地域、仏塔、灌漑施設等が残っている。

他にも文化的遺産が豊富な同国で、ちょっと専門的な知識がなければ見物してもよく判らないような遺跡がなぜ一番最初に登録されることになったのか不思議に思う向きもあるかもしれないが、敢えてビルマ族による文化遺産ではなく、先住民族が創り上げた都市国家遺跡を登録することによlり、従前はビルマ族の民族主義をゴリ押ししつつ、国内に暮らすその他の民族のナシュナリズムの高揚を圧殺してきた同国政府が、国内外に自国における多民族・多文化の共存をアピールする政治的な意味があるのではないだろうか。しかもピュー族自体はすでに消滅してしまっているがゆえに、現在ミャンマーに暮らしている少数民族たちのナショナリズムを刺激することもないため、政府にとって「安心」でもある。

世界三大仏教遺跡に数えられるバガンの遺跡群については1996年に当時の軍事政権が申請を提出したものの、保全計画の不備を理由(ならびに軍事政権に対する圧力?)により、却下されてしまった経緯がある。今後はバガンの世界遺産登録に向けての最申請の準備が進められているようである。観光業振興にも大いに役立つ看板にもなるため、他にもこの国から世界遺産登録申請はいくつか続くことと思われる。

Myanmar’s first site inscribed to World Heritage List (UNESCO)

サイクルリクシャーあれこれ

Rickshawの発祥の地といえば横浜(東京の日本橋という説もある)で、日本発祥の乗り物はアジア各地に伝播して、それぞれの土地で発展していき現在に至っている。

リクシャー、つまり力車こと人力車を文字通り人がテクテク走って引いていたころのものは、日本から輸出した車両とそれを模倣したものが幅を利かせていたため、どこの国も白黒写真に残るそれらの姿は、これらの復刻版が行楽客向けに走る横浜、浅草、鎌倉などの観光地で見られるものとほとんど同じ形をしている。現在、唯一カルカッタの残るこうしたオリジナルの様式のリクシャーは、江戸東京博物館に展示されている人力車にほぼ忠実なコピーと言って差し支えないだろう。

この人力車の発展形がサイクルリクシャーであり、日本でもリンタクとして一時期走っていた。江戸東京博物館のウェブサイトによれば、信じられないことにこれが1988年まで東京で走っていたということだ。今はイベント等で営業している業者がいるのだが。また、Velo Taxiはサイクルリクシャーの最新型ということになる。

しかしながら、このサイクルリクシャーについては、動力の効率や操作性の観点からは、南アジアの引き手の後部に座席が備わっているものが一番良いのではないかと思うのだが、ベトナムやカンボジアのように乗客の座席が前に付いているもの、ミャンマーのようにサイドカーとなっているものなど、いろいろなバリエーションを生んだ。

インド
ベトナム
ミャンマー

座席が前だと眺めは良いし、乗り心地も優れているのだが、自動車やバイクその他の乗り物が忙しく行き来する現代においては、混雑している交差点などではちょっとスリリングである。右折しようとしているところで、腰かけている乗客のところに他の車両が突っ込むという事故を目にした際には「やはり」という気がした。サイドカーのタイプだと、運転手との会話が容易であるところが好ましくも思える。後部が座席となっているものの場合、往々にして乗客が座る部分はかなり高い位置となるので、見晴しは良かったりするし、多少の雨ならば蛇腹式の傘部分である程度防ぐことができる。もちろん運転手はずぶ濡れになるしかないのだが。

サイクルリクシャーの駆動部分の自動化を進めたものがオートリクシャーであり、このエンジンの環境負荷を取り除く目的で開発されたのが、サファー・テンポーであり、e-rickshawでもある。

これまでサイクルリクシャーが活躍してきた地域でも、都市の過密化と住民たちの自前の交通手段の普及による交通渋滞、市街地の拡大による生活権の拡大等により、利用者の減少、乗り入れ地域の制限などにより、先細りの稼業であることは間違いない。先進国におけるVelo Taxiにしてみても、これが実用的な交通手段として機能するかといえば、そうであるとは全く言えないだろう。いずれは各地で消えゆく運命にあるとはいえ、中進国や途上国においては小規模な町での需要はまだまだ高い。

先進国においても環境意識の高まりや都市部以外での若年層人口の流出などによる高齢者の日常の足としての可能性も否定できるものではなく、サイクルリクシャー営業を試みたら、一定の評価を得るのではないかと思ったりもする。

ミャウー 3

ミャンマーで洋式の朝食はインドと同様だ。インドのものとサイズのトースト、バターとジャム、そして目玉焼きかオムレツ、紅茶である。これは旧英領の国、またその他の国でも往々にして同様なのだが、ベンガルみたいな周囲の景観と合わせて、ちょっとインドに来ているかのような気分になる。

歴史的遺産の保存としてはいかがなものかと思うが、新旧ごちゃまぜの空間はそれはそれで興味深い。

まずは外に出て、昨日の店でレンタサイクルを借りて、これでお寺巡りとなる。歴史的な寺院遺跡群なのだが、現代も信仰されている寺となっているところも多いため、寺の中に古い部分とそれと隣接したり上に新たな建造物が加えられていたりして、原状の保存という具合にはなっていないところも多々あるのはミャンマーらしいところかもしれない。遺跡の修復具合はあまり良好とはいえない。バガンでも国外からいろいろ批判もあるようだが、ミャウーのそれも安易でチープな修復に留まっているように思われる。

朝の時間帯は曇っているように見えていたが、日が高くなるにつれてどんどん明るくなってくる。おそらく雲の厚みは同じなのだろうが、日差しが強くなるためそうなるのだろう。ちょうど雨季に移行しようという時期であるため、薄曇りの天気となるようだ。それでも日中の最も暑い時間帯には40℃を少し超えるくらいとなる。

町の北東にあるコー・タウン・パヤーを手始めに、行ける範囲にあるお寺をいくつか訪れてから、船着場のほうまで足を延ばしてみる。自転車で自由にのんびりと行き来できるのはよい。バガンでもそうであった。もっともあちらはここの暑さの比ではなかったが。

行き交う人々で賑わうマーケット
旬な果物ライチー
料理に使われるフィッシュペースト。日本で言えば味噌のようなもの。
様々な干し魚類
ゼンマイの類
自炊したくなってくる。
ビンロウジュの実。インドほどではないがこの国にもこれを愛好する人たちは多い。
強い日差しのもと、こうした帽子は必需品

昨日は訪れた時間帯が遅すぎてほぼ誰もいなくなっていた市場だが、昼間の早い時間帯に行くとにぎわっていた。今が旬のライチー購入。食べてみるとあまり甘くなくて酸っぱい。だが海や川の産物が豊富で、干し魚には様々な種類がある。また黒くて味噌のようなものがあったが、これは魚の発酵させたもののペースト。料理に使うダシというか、まさに味噌のようなものでもある。

本日の午後、暑い中を自転車で町中を走っていると、マーケットから少し進んだ静かな住宅地で民家の前の道路にテントを張りだして、数人の人たちが席に座っているのを見た。何か結婚式でもあるのか、それにしてはテントが小さいと思いきや、お通夜であった。小さなベッドの上に洋式のズボンとシャツを着た壮年男性の遺体があり、口には黒いマスクがかけられている。ベッドには蚊帳が張ってあり、小さな電飾が光っている。この気候の中でどのくらいの間そうしていられるのかわからないが。

気温が高いため、夕方になるとさすがにヘトヘトになってくる。宿近くの食堂では生ビールを出していたので二杯ほど引っかけるとちょうどいい具合になってきた。

〈完〉

ミャウー 2

レセプションが入っている建物
室内はこんな感じ

ここでの宿泊は、Shwe Thazing Hotelである。スィットウェにも同じ名前のホテルがあったが、同じオーナーによる所有だという。開業から4年経ったというが、きれいに手入れしてあり、スマートな感じのコテージ形式。一泊55ドルとかなり高めではあるが、短い期間の旅行であり、エアコンは常時使いたいし、日記等を書くためにも停電に対するバックアップ電源を持つところというと、選択肢はかなり限られてくる。

宿の隣のレンタルサイクルを借りて市内散策に出発。風景はベンガルとよく似ている。もともと地続きであるし、ベンガルのチッタゴンはもともとヤカインに所属すべきであるという主張が一部にあるように、隣接している地域なので気候風土は似通っているのだろう。ヤカイン州のアラカン山脈はヒマラヤの東端にあたる。そして今私がいる部分は、アラカン山脈が終わったその先なので、ヒマラヤから続く山地が終わったその部分にいるということになる。人々の顔立ちにしてもバーングラーデーシュにいてもおかしくないような風貌も少なくない。ただし、ミャウーがベンガルと違うのは、ヒンドゥーたちのお寺がないこと、モスクからアザーンの呼びかけが聞こえてくることはなく、モスクもないことだろうか。やはりここは仏国土なのだ。

もし英領下の1937年におけるインドからビルマの分離がなく、1947年のインドのイギリスからの独立に伴う印パ分離がなく、よって地域もインドの一部であったとしたら、もとより人口圧力の高いベンガル地域から大量のベンガル人流入があり、またUPやビハールからも同様に沢山の人々が移住して、すっかりインドの一部になってしまっていたことだろう。政治というものは、そして国境というものは人々の間に垣根を作るが、同時にそこに暮らす人々を外からの影響から守る働きもある。

大量生産の衣類、プラスチック製品があることなどを除けば100年以上前とほとんど同じかもしれない。
こんな感じの家屋が続く
村のこどもたちのおやつの時間
村はずれにヘリパッドがあるのは不思議といえは不思議

自転車で町はずれ・・・といっても少し走るとすぐに町の外に出てしまうのだが、そこからは村が広がっている。未舗装のダートの両側には竹で作られた家屋が並び、やや豊かと思われる家には柱組を木で作った家だったりする。こういう家屋では雨季を過ごすのは大変困難なことだろう。豪雨に見舞われることもたびたびある。ましてやサイクロンが襲来した場合、このような家屋が持ちこたえることができるとは到底思えない。2007年のナルギスの後、2010年にもヤカインにはサイクロンがやってきてかなりの被害が出たというが、このあたりはどうだったのだろうか?

町から出ると電線が見当たらない。村には電気は来ていないものと思われるし、水道もないようだ。井戸で水汲みをしてアルミの壺に入れて運んでいる女性たちやそれを手伝う子供たちの姿がある。井戸がない集落では、どこまで汲みに行くのかは知らないが、かなり遠くまで足を延ばしているように見える。流れる川に飛び込んで遊ぶ子供たちの姿もあり、なかなかたくましい。かなり厳しい生活環境のように見えるものの、村の中は和やかな雰囲気である。

町のマーケットで売られているアルミの水がめ。これで村の女性たちは水汲みに出かける。

そうした景色を目にしながら自転車のペダルを踏む。昼間の気温はかなり高く、摂氏40度前後くらいだろうか。それでもこの時期のバガンほどの酷暑ではないのは助かる。また少しばかりの気持ちの余裕を持って走りまわることができる。

ラカイン族の最後の王朝の都(1430~1784)であり、欧州や中東との海運で栄えたとのことだが、コンバウン朝に征服された後に英領となり、ビルマ独立以降は同国の一部を構成することとなった。現在は小さな町となっており、今も数多く残る仏教建築を除けば、栄華の過去を偲ばせるものはほとんど残っていない。王都として繁栄した当時には、欧州系やアラビア系の人たちも少なからず都に暮らしていたというが、今もそうした血筋を引く人たち、あるいは先祖にそういう人がいたという言い伝えのある人たちは残っているのだろうか。

日本人との縁もないわけではなかったらしい。江戸時代にキリシタンとして迫害された日本人も王宮の警備に雇われていたという。東洋のベニスとも称されたりもした水運の町であったとのこと。今はそういう面影は感じられないのだが、いくつか残っている運河では小さな船や竹を組んだ筏が行き来しているのを目にすることができる。

筏の往来

旧王宮には、石垣と建物がかつて存在していた部分の基部の石しか目にすることはできず、王宮は木造であったとのことだが、往時を想像するには大変なイマジネーションの豊かさが必要となる。

王宮跡

王宮で写真を撮っていると、突然砂嵐のような具合になってきた。突風とともに砂塵が巻き上がり、とても目を開けてはいられない。強い雨が来る前触れだろうと、そそくさと王宮跡を出る。どこもすごい突風で、店先の日除けは落ちるし、何か風で吹っ飛んだりしていたりで、ちょっと注意が必要だ。

しばらく走っても収まらないので、英語で看板を出しているゲストハウスの隣の食堂に入り、ヌードルスープとコーヒーを注文する。しばらくの間は風と砂塵がひどく、店の中にいても目が痛くなりそうなくらいだ。食事を終えるあたりで強風がようやく静まると、外では雷が鳴り始めた。少し雨もパラついてきた。幸い、ひどい降りにはならなかったので、店を出て再び走り回ることにした。

夕方4時から王宮跡のすぐ東側にあるグラウンドでサッカーの公式戦(?)が行われていた。地元のチームの試合のようだが、いくつものバナーが掲げられており、ずいぶんたくさんの観客が集まっている。娯楽らしい娯楽がなさそうなので、こうした機会を楽しみにしているのだろう。

サッカーの公式戦
見物する人たちの姿が沢山!
出場者たちは裸足かソックス履きのみであった。

不思議なのはラインが引かれていないことだ。どこまでがピッチなのか、どこまでがペナルティエリアなのか、ハーフウェイラインはどこまでか、とにかくこれらすべてが審判の目分量ということになる・・・と思ったら、よく見るとラインは地面を掘ってあった。躓きそうな感じなのであまり良くないと思うが。

ラインの代わりに溝が掘られていた・・・。

また、誰もがシューズを履かずにプレーしているのにも驚いた。ソックスを履いているものはソックスのままで、ソックスを持たないものは短パンの下には何も身に着けていない。これでも公式戦らしく、ちゃんと大会本部席があるし、スコアも記録しているようだ。当然、それらしい恰好をした主審やラインズマンたちが判定している。それでも競技をしたいという気持ちを大いに買いたい。

内容については云々するようなものは特にないし、やがてこういうところからも優れた選手が出てくる日が来るのかどうかは知らないが、だんだんとレベルが上がって来る日も来るだろう。やはりこれも現状が低すぎるだけに、将来の伸びしろは大きいということになるのではないだろうか。

ただ残念なのはコトバが通じないため、どういう大会なのか、どういうチームなのか、なぜ裸足なのかその他いろいろ質問したいことはあるのだが、尋ねることができる相手がいないことだ。英語が通じそうな人は見当たらないし、適当に尋ねてもやはり通じない。

民家の庭先のジャックフルーツの木。これが一本あるとありがたい。
とにかく暑いので、夕方のビールで生き返る感じ。

〈続く〉

 

ミャウー 1

ミャンマーのMPTのレンタルSIMを入れたスマホは、ヤンゴンを出てからまったくネット接続が出来ておらず通話専用となっていたのだが、朝早く起きて操作してみると、かなり不安定ながらも3Gで繋がることが判った。おそらくユーザー数に対する回線の容量が常時不足する状態にあり、利用者が少ない時間帯のみ通じるという具合になるのだろう。

ミャウー行きの船からの眺め
船内はこんな具合

 

これからスィットウェからミャウー(Mrauk-U)に行く船に乗る。政府系の公社を含めて複数の船会社が運航しており、どれも毎日出ているわけではない。それぞれ往路・復路(往路の翌日が復路)の曜日が決まっているのだが、概ね毎日どこかしらの会社が船を出しているようだ。

午前6時前に船着き場に到着、カラーダーン河に繋がる運河に係留してある船に乗船したあたりで朝日が昇ってきた。もっと小さな船を想像していたが、荷物とともに大量の貨物も運搬することができる大きな船である。

出発!
カラーダーン河に繋がる水路を進む
ようやく河に出る。

 

午前7時の定刻に船は出発。少し進んだ先でカラーダーン河に出る。ちょうどここは河口部に位置しているため、河というよりも海の眺めといったほうがいい。停泊しているいくつかの大型船の姿があり、中小の船影が目の前を行き来している。

向こうの船は巡視艇のようである。
竹を組んだ筏
魚を獲るための仕掛け?

 

筏に編まれた大量の竹材が河下に向かう様子、魚を採るための仕掛け、岸部で孝之式住居が並ぶ村落やお寺の眺めなどを楽しみながら船上のゆったりとした時間を楽しむことができる。水量豊富な平地を流れる河だけに、海原のような景色を眺めているのも束の間、遡上していくにつれて、次から次へと他の河川との合流点があり、これらを通過するたびに河幅は見る見るうちに細くなっていく。水面と陸地の高さにほとんど差がないため、雨季の眺めは今とはずいぶん違うことだろう。

水面と大地に高低差がほとんどない。

 

昼寝中の乗客

モンスーン期には河幅はもっと広くなっているであろうし、もともとあった土地が削られたり、他の土地が新しく形成されたりという具合に、岸部の形状も継続して変化していくはずだ。河の流れも少しずつコースを変えていることと思う。そして氾濫しては流れを変えているのだろう。ときにサイクロンが来たりすると、流域は劇的に変化するはず。

集落
大きな建物も見える。
途中の村から乗船する人々
川面の風景

しばらくうとうとして目を覚ますと、もはや同じサイズの船が行き違いできるような幅ではなくなっている。このあたりまで来ると、同じ大きさの船が擦れ違うことはできない。蛇行しながら流れる川筋の先はブラインドコーナーになっていて、船は汽笛をけたたましく鳴らしながら航行を続けていく。向こうから船が来たら衝突してしまうからだ。

観光客が増えるにつれて船は増便していくのだろうが、すぐに限界が来ることは目に見えている。やがては陸路でのバスも外国人に許可する日が来るのではなかろうか。スィットウェとミャウーの間はバスも走っているものの、外国人は乗車することが許されていない。しかしながら、こういう場所に来て、水際の様子を水面から眺めることなしでいるのはもったいないので、陸路での移動が可能となっても、やはりここは船旅を選びたいものだ。

船内の売店で買った袋菓子はバーングラーデーシュ製

ミャウーの近くまで来ると川幅はとても狭くなる。

すっかり川幅は狭くなり、こんな大きな船が航行して座礁しないのか?と思うほどになってきたあたりで集落が見えてきた。そこがミャウーの船着場であった。ちょうど正午であったので、スィットウェから5時間ほどの船旅であった。

ミャウーの船着場

〈続く〉