ミャウー 2

レセプションが入っている建物
室内はこんな感じ

ここでの宿泊は、Shwe Thazing Hotelである。スィットウェにも同じ名前のホテルがあったが、同じオーナーによる所有だという。開業から4年経ったというが、きれいに手入れしてあり、スマートな感じのコテージ形式。一泊55ドルとかなり高めではあるが、短い期間の旅行であり、エアコンは常時使いたいし、日記等を書くためにも停電に対するバックアップ電源を持つところというと、選択肢はかなり限られてくる。

宿の隣のレンタルサイクルを借りて市内散策に出発。風景はベンガルとよく似ている。もともと地続きであるし、ベンガルのチッタゴンはもともとヤカインに所属すべきであるという主張が一部にあるように、隣接している地域なので気候風土は似通っているのだろう。ヤカイン州のアラカン山脈はヒマラヤの東端にあたる。そして今私がいる部分は、アラカン山脈が終わったその先なので、ヒマラヤから続く山地が終わったその部分にいるということになる。人々の顔立ちにしてもバーングラーデーシュにいてもおかしくないような風貌も少なくない。ただし、ミャウーがベンガルと違うのは、ヒンドゥーたちのお寺がないこと、モスクからアザーンの呼びかけが聞こえてくることはなく、モスクもないことだろうか。やはりここは仏国土なのだ。

もし英領下の1937年におけるインドからビルマの分離がなく、1947年のインドのイギリスからの独立に伴う印パ分離がなく、よって地域もインドの一部であったとしたら、もとより人口圧力の高いベンガル地域から大量のベンガル人流入があり、またUPやビハールからも同様に沢山の人々が移住して、すっかりインドの一部になってしまっていたことだろう。政治というものは、そして国境というものは人々の間に垣根を作るが、同時にそこに暮らす人々を外からの影響から守る働きもある。

大量生産の衣類、プラスチック製品があることなどを除けば100年以上前とほとんど同じかもしれない。
こんな感じの家屋が続く
村のこどもたちのおやつの時間
村はずれにヘリパッドがあるのは不思議といえは不思議

自転車で町はずれ・・・といっても少し走るとすぐに町の外に出てしまうのだが、そこからは村が広がっている。未舗装のダートの両側には竹で作られた家屋が並び、やや豊かと思われる家には柱組を木で作った家だったりする。こういう家屋では雨季を過ごすのは大変困難なことだろう。豪雨に見舞われることもたびたびある。ましてやサイクロンが襲来した場合、このような家屋が持ちこたえることができるとは到底思えない。2007年のナルギスの後、2010年にもヤカインにはサイクロンがやってきてかなりの被害が出たというが、このあたりはどうだったのだろうか?

町から出ると電線が見当たらない。村には電気は来ていないものと思われるし、水道もないようだ。井戸で水汲みをしてアルミの壺に入れて運んでいる女性たちやそれを手伝う子供たちの姿がある。井戸がない集落では、どこまで汲みに行くのかは知らないが、かなり遠くまで足を延ばしているように見える。流れる川に飛び込んで遊ぶ子供たちの姿もあり、なかなかたくましい。かなり厳しい生活環境のように見えるものの、村の中は和やかな雰囲気である。

町のマーケットで売られているアルミの水がめ。これで村の女性たちは水汲みに出かける。

そうした景色を目にしながら自転車のペダルを踏む。昼間の気温はかなり高く、摂氏40度前後くらいだろうか。それでもこの時期のバガンほどの酷暑ではないのは助かる。また少しばかりの気持ちの余裕を持って走りまわることができる。

ラカイン族の最後の王朝の都(1430~1784)であり、欧州や中東との海運で栄えたとのことだが、コンバウン朝に征服された後に英領となり、ビルマ独立以降は同国の一部を構成することとなった。現在は小さな町となっており、今も数多く残る仏教建築を除けば、栄華の過去を偲ばせるものはほとんど残っていない。王都として繁栄した当時には、欧州系やアラビア系の人たちも少なからず都に暮らしていたというが、今もそうした血筋を引く人たち、あるいは先祖にそういう人がいたという言い伝えのある人たちは残っているのだろうか。

日本人との縁もないわけではなかったらしい。江戸時代にキリシタンとして迫害された日本人も王宮の警備に雇われていたという。東洋のベニスとも称されたりもした水運の町であったとのこと。今はそういう面影は感じられないのだが、いくつか残っている運河では小さな船や竹を組んだ筏が行き来しているのを目にすることができる。

筏の往来

旧王宮には、石垣と建物がかつて存在していた部分の基部の石しか目にすることはできず、王宮は木造であったとのことだが、往時を想像するには大変なイマジネーションの豊かさが必要となる。

王宮跡

王宮で写真を撮っていると、突然砂嵐のような具合になってきた。突風とともに砂塵が巻き上がり、とても目を開けてはいられない。強い雨が来る前触れだろうと、そそくさと王宮跡を出る。どこもすごい突風で、店先の日除けは落ちるし、何か風で吹っ飛んだりしていたりで、ちょっと注意が必要だ。

しばらく走っても収まらないので、英語で看板を出しているゲストハウスの隣の食堂に入り、ヌードルスープとコーヒーを注文する。しばらくの間は風と砂塵がひどく、店の中にいても目が痛くなりそうなくらいだ。食事を終えるあたりで強風がようやく静まると、外では雷が鳴り始めた。少し雨もパラついてきた。幸い、ひどい降りにはならなかったので、店を出て再び走り回ることにした。

夕方4時から王宮跡のすぐ東側にあるグラウンドでサッカーの公式戦(?)が行われていた。地元のチームの試合のようだが、いくつものバナーが掲げられており、ずいぶんたくさんの観客が集まっている。娯楽らしい娯楽がなさそうなので、こうした機会を楽しみにしているのだろう。

サッカーの公式戦
見物する人たちの姿が沢山!
出場者たちは裸足かソックス履きのみであった。

不思議なのはラインが引かれていないことだ。どこまでがピッチなのか、どこまでがペナルティエリアなのか、ハーフウェイラインはどこまでか、とにかくこれらすべてが審判の目分量ということになる・・・と思ったら、よく見るとラインは地面を掘ってあった。躓きそうな感じなのであまり良くないと思うが。

ラインの代わりに溝が掘られていた・・・。

また、誰もがシューズを履かずにプレーしているのにも驚いた。ソックスを履いているものはソックスのままで、ソックスを持たないものは短パンの下には何も身に着けていない。これでも公式戦らしく、ちゃんと大会本部席があるし、スコアも記録しているようだ。当然、それらしい恰好をした主審やラインズマンたちが判定している。それでも競技をしたいという気持ちを大いに買いたい。

内容については云々するようなものは特にないし、やがてこういうところからも優れた選手が出てくる日が来るのかどうかは知らないが、だんだんとレベルが上がって来る日も来るだろう。やはりこれも現状が低すぎるだけに、将来の伸びしろは大きいということになるのではないだろうか。

ただ残念なのはコトバが通じないため、どういう大会なのか、どういうチームなのか、なぜ裸足なのかその他いろいろ質問したいことはあるのだが、尋ねることができる相手がいないことだ。英語が通じそうな人は見当たらないし、適当に尋ねてもやはり通じない。

民家の庭先のジャックフルーツの木。これが一本あるとありがたい。
とにかく暑いので、夕方のビールで生き返る感じ。

〈続く〉

 

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