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カテゴリー: greater india

  • パンゴン・ツォへ

    パンゴン・ツォへ

    先日に引き続き、再びシェア・ジープにて、レーから東に向かったところにあるパンゴン・ツォという湖を見に行くことにした。2009年に公開されたボリウッド映画「3 Idiots」のラストシーンのロケで利用された景色であるがゆえに、作品がヒットしてから訪れるインド人客が急増したということだ。本当は一泊してみたかったのだが、あいにくそういうグループに空きがなかったため日帰りとなる。

    クルマを予約した旅行代理店の前に、指定された午前6時に出向く。しばらくすると乗客6人が乗ることのできる大型の四輪駆動の乗用車がやってきて停車した。運転手に確認すると、これが私の乗るクルマであった。

    レーから、チョグラムサル、ティクセー、シェイなどを経て、東に進む。チョグラムサルにはダライ・ラマが訪問される際の滞在先があるのだが、案外簡素な平屋建ての建物であった。インダス川沿いのこの道路脇には水路があり、背の高いポプラの並木が続き、中央アジアを思わせるような景観だ。

    すでに乗っている人たちが本日の私の同行者たちということになる。今回は外国人ではなく、カルナータカのマイソールからやってきたインド人の家族連れであった。ご主人は家具販売会社経営、奥さんは地場の銀行勤務、娘さんは大学生だ。

    最初のうち、家族同士はカンナダ語、私に話しかけるときだけ英語となっていたが、奥さんは金融機関勤務という割には英語が苦手なようで、こちらがヒンディーを理解することがわかると、車内でのほぼすべての会話がヒンディーとなった。このあたりの柔軟さはインド人らしいところだ。

    夫妻は同じ大学の同級生で、互いに仕事を始めてから結婚したとのことだ。ご主人はムスリムで奥さんはヒンドゥーであるため、両家の家族に打ち明けた際にはもちろんいい顔をされなかったものの、幸いふたりの実家は互いに旧知の仲で、元々双方足繁く行き来する関係であったこともあり、無事ゴールインできたとのことだ。

    峠へと高度を上げていく。眼下の集落の景色が遠ざかる。

    シェイを過ぎて少し行ったあたりで、山間の道に入っていく。ここから高度がどんどん上がり、シェイから1時間程度で海抜5,320mのチャン・ラという峠に達する。見た感じはカルドゥン・ラよりも広々とした印象を受ける。クルマを降りて道路向こうのトイレに行くだけで、かなり息が切れることから空気の薄さを実感する。

    不毛な景色が続く
    チャン・ラという峠に到着

    峠を越えたすぐ先には残雪

    ここからは下るいっぽうだ。過日のヌブラ行きに比べると、景色は比較的なだらかである。夫妻の娘、チャンドニーは写真が趣味とのことで、最近両親に買ってもらったというキヤノンのデジタル一眼で沢山写真を撮っている。最近はこういうカメラを持つインド人旅行者がとても多くなった。旅行先でいい写真を沢山撮って、いい思い出とともに帰宅してほしいものだ。

    ヤクの放牧
    ヤクのミルクを絞る女性

    荒涼とした山間を走っていくと、途中でヤクを飼育している人たちがいた。ミルクを絞ってもいる。販売するためではなく自家用だというが、彼らが切り盛りする簡素なカフェもあった。見渡す限りの荒野だが、川が流れているところにだけわずかに緑が見られる。

    雪解け水が流れる川沿いにのみ緑がある
    湖が見えてきた!

    レーを出てから5時間あまりで、目的地のパンゴン・ツォに到着。トルコ石のような鮮やかな青色の水を湛える湖だ。塩湖らしいが、魚は棲んでいるらしく、水鳥たちの姿がわずかながらある。靴を脱いで水に入ってみたが、とても冷たくてずっと足を浸けていられるものではなかった。

    海抜4,000mの高地なのに水鳥の姿がある

    幸い今日も好天だが、ときおり雲がかかると深みのある青色の湖水はただの灰色に変わってしまう。再び眩しい陽光が差してきたと思えば、また雲がかかる。そして陽射しが照りつけてくるといった具合の空模様によって、湖の色合いが次々に変わっていく。

    ちょっと雲がかかると灰色の退屈な色に変わる湖水
    湖畔で記念撮影 左から2番目は運転手

    ここまでやってくるのにかかる時間と空模様の風景は言うまでもなく、一般的にどこの風景であっても早朝と夕方が最も印象的であることが多いことを考え合わせれば、時間さえ許せば、ここで一泊したほうが良いだろう。正午前後の景色でさえもこんなに美しいのだから、朝夕の景観はどんなに素晴らしいことだろうか。満月の夜の湖の様子もさぞ見ごたえがあることだろう。この細長い湖の南東部は、中国の実効支配下にあるアクサイチン地区だ。

    湖畔の簡素な食堂で昼食を摂り、しばらく景色を楽しんだ後に一路レーへと引き返す。朝早かったためだろう、マイソールから来た家族連れは、走り出してからしばらくするとすっかり眠り込んでいた。この晩、深夜過ぎの夜行バスでマナーリーに向かうというから大変だ。ここからレーに戻ってもまだ午後6時あたりなので、ずいぶん時間がある。

    パンゴン・ツォに向かう際も通過したチャン・ラでは、転落したとみられるクルマが崖の途中に引っかかったままになっているのに気が付いた。「えぇ、たまに落ちるんですよねぇ」と運転手は涼しい顔だが。ここはぜひとも安全運転を心がけてもらいたい。

    帰途も雄大な景色を堪能

     

  • ヌブラ渓谷へ3

    ヌブラ渓谷へ3

    朝5時過ぎに目覚めると、雨がパラついていた。高い山々に囲まれているため、フンダルの空は狭いのだが、西のほうを見上げると、少し晴れ間が見えていた。

    フンダルの村の中では、ちょうどレー近くのストクの村がそうであるように、張り巡らされている水路が、家々や畑に豊かな水を供給している。総体としては、荒涼とした大地に見えるラダック地方だが、水を供給できれば瑞々しい緑豊富な緑地・農耕地とすることが可能であることから、決して痩せた土地というわけではないようだ。

    菜園の手前に家畜除けの柵

    村の中をしばらく散歩してみたが、まともに稼動できるのはほぼ6月から9月に限られるはずなのに、やたらと宿屋が多い。ほとんど季節限定ではあるものの、貴重な現金収入の機会なのだろう。先日も書いたとおり、このシーズンのために、ネパールのその他から出稼ぎに来る人々が多いことも特徴だ。仕事を求める側からすれば、ヌブラ渓谷のようにILPを取得して訪れる場所となると、レーその他のもっと開けた場所と比べて訪問者もかなり少なくなるため、総体的にみると稼ぎの面ではどうなのかな?という疑問も沸くのだが、どうなっているのだろう?

    朝の勤行が終わったお寺

    宿のすぐ近くにお寺があり、僧侶がひとり読経している。手招きするので、すぐそばに座らせてもらう。朝6時くらいであったが、すでに朝のお勤めは終わっているようだ。寺院の朝は早い。静寂の中でしばし瞑想をしてみる。ひんやりとした空気と静謐な雰囲気が心地よい。

    家畜を連れた女性がマニ車を回していた

    お寺から出てしばらく歩いた先では、UKから始まるナンバーのクルマが停まっていた。運転手がいたので、尋ねてみるとウッタラーカンド州のデヘラドゥーンから来たのこと。フンダルには1年ほど滞在しているそうで、取り引きのお得意先である軍の基地に出入りしている業者さんであった。

    宿に戻り、庭でのんびりくつろいでいると、同じ宿に滞在しているムンバイーから来たインド人グループが部屋から出てくるところだった。その中のひとりは、フリーランスでやっている商業写真家とのことで、主に人物のポートレート製作を中心に活動しているとのこと。ラダックには仕事ではなく、余暇で来ているとのこと。だがそれでもかなり精力的に写真を撮影していることは、昨日の砂丘でも、今日の宿の庭に咲いている花などを撮影していることからもわかる。

    しばらくすると天気が回復してくると、空からジェット機の音が聞こえてくるようになった。民間機がこのあたりを飛ぶはずはないため、インド空軍機が巡回しているのだろう。

    軍といえば、もちろんこのあたりでは軍と地元の関係は良好なものであるようだ。軍は国境向こうの中国、そして西側のパーキスターンを警戒しているわけであり、地元の人たちを抑圧するためにいるわけではない。そこがインドの北東州とは大きく違う。またJ&K州内でも、カシミール側は、パーキスターンへの警戒とともに、地元の反政府勢力や過激派の鎮圧の任務もあるわけで、そういう点では北東州と大いに共通するものがある。

    午前8時に、ガビー、フランカ、パットと私の4人で2階のテーブルに集まって食べた。私以外はみんな女性で、とにかく皆さんおしゃべりなので朝から賑やかで楽しい。

    朝食のオムレツは全インド共通の味

    食事を終えてから、クルマでデスキットに出発。ここでは川沿いの斜面にそびえるデスキット寺院と道路を挟んで反対側にあるカラフルで巨大な弥勒菩薩像を見学。2010年出来たものだというから、まだ2年しか経っていないのだが、ここからの眺めもまた壮大でいい感じだ。

    デスキット寺院
    デスキット寺院遠景
    ロケーションを考えると、この菩薩像の建立は偉業・・・と思う。
    景色が開けているだけに、気象の変化がよく見えるのも興味深い。中央の菩薩の向こうは強い雨。
    かたや荒れ模様の地域と異なる方向にカメラを向けるとこんな具合。

    今回、見学するのはここが最後。あとは昨日来た道をひたすら走り、一路レーに戻るだけだ。往路と同じ道路を戻ることになるのは、他のルートがないようなので仕方ない。それでも景色は非常にダイナミックであるため、飽きることはない。

    カルサルを通過した直後に目にする牧歌的な風景

    昨日昼食を取ったカルサルを通過すると、次第に高度を上げていく。外の気温もどんどん下がっていく。カルドゥン・ラの手前の池、池の中にブッダの像があるところで、しばし休憩。天候はまずまずなのだが、雪がパラついてきた。それほど気温が低いのだ。陽射しは強いので、あまり寒さは感じないが。それでも池の向こう岸には残雪がある。ここの少し手前には先日触れた「世界で最も高いところにある集落のひとつ(?)」があり、アブラナの畑で黄色い花がまばゆく輝いている。

    「世界最高所の村?」付近で道路の補修工事が進行中。仕事は粗いものの場所が場所だけに仕方ない。

     

    カルドゥン・ラが近づいてくると道路両側に残雪が見られる。

    カルドゥン・ラが近づいてくると、道沿いに壁状になった残雪がところどころにある。外気はとても寒くなってきた。峠には道の両側にかなりの量の残雪がある。インド側での公称海抜5,600mの峠では、少し歩くだけ息が切れる。

    カルドゥン・ラにて最後の記念写真 ガビー、フランカ、パットの3人

    峠を越えてまもなく、レーの町が遠くに見えてきた。次第に気温も上がってきて快適になってくる。さすがにもうこのあたりまでくると酸素が薄いとはあまり感じなくなる。
    とても楽しい一泊二日の旅行を共にした彼女たちと別れるのが名残惜しい。

    <完>

  • ヌブラ渓谷へ2

    ヌブラ渓谷へ2

    カルドゥン・ラを越えた先でも・・・もちろん中国国境により近くなるわけなので当たり前ではあるが、ところどころで軍の駐屯地や施設を見かける。いつ何時攻撃を受けても反撃できるようにしてあるということだろう。だが中国側では装備等々、インドよりもかなり良いであろうということは想像に難くない。

    インド北西部にあるラダックとは反対側、北東側にあるアルナーチャル・プラデーシュ州やスィッキム州では、インドの他の山あいの土地と同様、片側一車線分のスペースがあるかないかといった具合の道路が地域を繋いでいるのに対して、国境向こう側の中国では、片側複数斜線の見事な道路が整備されており、有事の際には即座に大量輸送の体制を取ることができるようになっている、という記事をインドのニュース雑誌で読んだことがあるのを思い出す。

    それはともかく、ここから決して遠くない中国側でも同じように乾燥した荒々しい風景が広がっているのだろう。だがそちら側に点在するのは中国軍の基地であり、駐屯地であり、漢字の標識や看板ということになる。

    スムルの村にあるサムタンリン・ゴンパ
    ゴンパの扉で見かけたカギはクラシックな感じで立派であった。

    カルドゥン・ラからは下るいっぽうだ。カルサルの集落で昼食を摂った後、この地を流れるシャヨク川東岸にあるスムルの村にあるゴンパを見物。そして来た道を戻り、ふたたび西岸へと橋を渡る。この走行した中では、この川にかかる橋はここしか見ていない。年間を通してこれほどの水量があるのかどうかはわからないが、少なくとも今のように豊かな水を湛えている状態では、川のこちら側と向こう側とでは別世界のようなものだろう。すぐそこに見えても、非常に遠回りして反対側の岸に着くことになるからだ。

    数年前までトラック運転手をしていたというドライバーにとっては自分の庭のようなもののようで知己が多い。今だに大きなクルマを駆っていたときの気分が抜けないようで、運転が荒いのはタマにキズ。

    今日の宿泊地であるフンダルが近づいてくると、こちら側の河岸に美しく連なる砂丘が見えてきた。こんな高地に風紋の刻まれた砂漠みたいな景観があるとは不思議なものだ。予想に反して、フンダルの村にはかなり沢山のゲストハウスがあり、その中のひとつ投宿することになった。庭にはアプリコットがたわわに実っている。

    フンダルの村での投宿先
    宿の庭

    経営者の家族はとても感じがいい。このあたりの人たちは、ラダッキーでも少しアーリア系の血が入っているように見える。ここからさらに進んでパーキスターンにまたがるバルティスターンの一部を成すトゥルトゥクまで行くと、人々はアーリア系のチベット仏教徒という、チベット文化圏の中では総体的に珍しい地域となるようだ。

    宿で食事関係からベッドメーキングまですべてをこなしている若い男性二人組みはネパールからの出稼ぎ人たち。こんなところまで仕事を求めて来なくてはならないとは大変だ。ラダックの観光地はどこでもネパール人や北インドのビハール州、U.P.州などから仕事を求めて来ている人たちが多いが、「シーズン・オフにはどうしているの?」と尋ねてみると、往々にして「ゴアで働く」という返事が返ってくる。

    ラダックは、6月から9月終わりまでのシーズン以外は、長いオフシーズンとなることを考えると、確かにモンスーン期はオフになるゴアとちょうどいい具合に相互補完する関係にあるのだろう。ラダックとゴアというどちらも観光業への依存度が高いながらも、一見何の繋がりも無さそうに見えるふたつの地域を渡り鳥のように往復する労働人口の移動について、彼らがこの地域を行き来する誘因、リクルートの形態等について調べてみると興味深いものが見えてくるかもしれない。

    同行のガビー、フランカ、パットと夕陽を背にして伸びる影で記念撮影

    すでに夕方近くになっているので、取り急ぎ荷物を部屋に放り込んでから、再びみんなでクルマに乗り込んで砂丘に出かける。ここには観光客用にフタコブラクダたちがいる。お客たちを乗せてしばらく歩き回るのである。ラクダ自体はこの地にもともと住んでいるわけではなく、運転手が言うにはモンゴルから連れてきたものだというのだが、実のところはよくわからない。中央アジアあたりから運んできたのかもしれない。

    フタコブラクダたち

    砂丘から望む川床はかなり広く、両側を壁のような乾ききった山々に囲まれており、息を呑むような絶景だ。音を立てて滔々と流れる手が切れるように冷たい水のせせらぎの音が心地よい。

    周囲が荒涼としている割には、フンダルは非常に水に恵まれている。

    <続く>

  • ヌブラ渓谷へ 1

    ヌブラ渓谷へ 1

    ラダック最大の町レー市内に旅行代理店は多いが、旅行者が多いこの時期には店頭にて行先ごとにシェアジープ参加者を募る貼紙がいくつも掲示されている。ジープといっても、アメリカのJeep車の車両というわけではなく、最大6名までのお客を乗せる大型の四輪駆動車だ。かなり組織化されているらしく、複数の代理店が共同で集めている。コースごとにほぼ決まっている料金を参加者数で割るため、同乗する人数によって1人あたりが支払う料金は変わってくる。
  • ブータン ウォンディ・ゾンの大火

    非常に残念なニュースである。

    ブータン中部に位置する374年の歴史を持ち、同国の重要な寺院のひとつに数えられるウォンディ・ゾンが、6月24日午後4時ごろ発生した火事により全焼してしまった。現在までのところ出火の原因は不明であるとのこと。

    この火事に関する記事と動画は、BBS (Bhutan Broadcasting Service)がウェブサイトにて閲覧することができる。

    Wangduephodrang Dzong completely gutted (BBS)

     

  • チャウンター・ビーチ3

    チャウンター・ビーチ3

    やがて陽が傾いて夕暮れ時になった。時間の経過とともに刻々と様子を変えていく空。一瞬として天空のすべての色合いが同じ時間帯はない。そうした中、水とたわむれる女性たちのシルエット、家族連れの姿、浜辺をそぞろ歩く人たちの様子がとても絵になる。みんなこのひとときを心ゆくまで楽しんでいる。自転車から降りて、そうした人々を眺めながらビールを傾ける私にとっても至福のひとときだ。

    ああ、時間よ、止まれ!

     

    <完>

     

  • チャウンター・ビーチ2

    チャウンター・ビーチ2

    ビーチ到着は午後1時。疲れて横になりたかったが、とりあえず昼食を取る。よく冷えたビールを飲み干して、ホッと一息。

    ボリューム感たっぷり!
    ビールをグイッと飲み干すと生き返った気分
    さきほどまで足元にジャレついていたネコが、気が付くと寝ていた。癒されます。

    ビーチに出てみると、どこまでも広がるベンガル湾の大海原に解放感!貸自転車屋があったので、ビーチの端から端まで走ってみることにした。想像していたよりも海岸で商う人々の数は多く、砂浜の裏には宿やレストランが散在しているが、まだまだのどかな雰囲気だ。訪れている人々の多くはミャンマーの人たち。ヤンゴンからハネムーンでやってきたという幸せそうな新婚カップルにも出会った。

    ベンガル湾を望む
    ミャンマーを代表するビーチのひとつとはいえ、まだ混雑している感じはない。

    砂浜の南端には、泳いでも渡れそうなほど近いところに島がある。うっそうと茂る深い森になっているが、ここもやがてはリゾートとして開発されてしまうのではないかと思う。このあたりは漁村だが、島に渡るボートを貸していたり、ここからモーターボートで観光客を案内したりする者もいる。

    漁村
    几帳面に並べてある

    彼らは漁民なのか、それとも外から来た人たちなのか傍目にはよくわからないが、漁村から浜に出入りしていること、海によく慣れているらしい様子からも、漁村の住民であると考えるのが妥当だろう。浜では魚を干しているが、ここうした風景もやがては過去のものとなってしまうかもしれない。当分の間、半分は漁業、半分は観光で収入を得るという具合になるのかもしれない。

    目下、経済面でブームになっているミャンマーだけに、このビーチも今後はメジャーな観光地として、ますますいろんなものが出来てくることだろう。それについて余所者である私がとやかく言う筋合いではないし、地元の人々にとっても収入を得る機会が増えることは悪いことではないし、観光をテコに地域社会の振興を図るのは当然のことだ。

    だが都市部から大資本がここにやってきて観光開発するとなるとどうだろうか。漁村がそのまま存続すると思えない。ある人はお客の案内や世話を請け負ったり、スタッフとして雇用されたり、またある者は他所に働きに出るといった具合になるのかもしれない。全国各地から投資機会や就労先を求めて、様々な人々がやってきて、それまでここに暮らしていた住民たちとすっかり入れ替わってしまうという現象は、他国でもよくあることだ。

    地域社会と隔絶したコスモポリタンかつ無秩序な空間が出来上がることとなり、観光公害と呼ばれる様々な社会問題が出現してくることにもつながる。あと5年、10年してから再訪してみる機会があれば、まったく別のところになってしまっているのかもしれない。

    午後の陽射しが眩しい

    <続く>

     

  • チャウンター・ビーチ1

    チャウンター・ビーチ1

    マウラミャインを出た夜行バスは、午前3時少し前にヤンゴンのアウン・ミンガラー・バススタンドに到着。当然、まだ真っ暗ではあるものの、この時間帯に到着するバスは少なくないので、待ち構えていたタクシー運転手たちが集まってきて、続々降車するお客たちに声をかけている。

    ヤンゴンからそのままデルタ地帯の西側にあるチャウンター・ビーチに行くので、市内の西側を流れる河を渡った先にある、もうひとつのバスの発着場、ラインターヤー・バススタンドに向かう。途中、街灯も少なく真っ暗な無人の路上を女性が一人で歩いていたり、女性二人が自転車に乗っていたりする姿をたびたび見かける。これから朝早い仕事に向かうのか、夜遅くまで出かけていたのだろうか。ヤンゴンは、東南アジアの中では治安の良い街ということになっているが、確かにそうなのだろう。

    チャウンター・ビーチに行くバスが出発するバススタンドに着いたが、まだ午前4時前なので真っ暗である。40分ほど待っていると、私が乗るバス会社の事務所兼待合室は、中からシャッターが開けられた。従業員は中に住み込んでいるようだ。2階が住居のようになっているのだろう。事務所の床に寝ている者もある。労働環境としては劣悪だ。

    バスは午前6時発。マウラミャインからヤンゴンまで乗ってきたバスのような快適なエアコン付きの車両を期待して「寝ていく」ことを想定していたが、車内外に散見されるハングル文字からして、おそらく四半世紀くらい前に韓国で走っていたらしいノンエアコンの古いバス。座席を思いきり詰めて設置してあるため、非常に窮屈である。夜行明けにこれはちょっとしんどい。

    ビーチまでおよそ7時間。どこまでも平坦な風景を眺めつつ、涼しい風が窓から入ってくる。それはそれで気持ちが良かったのだが、陽が高くなると次第に暑くなってくる。途中でパスポートチェックが2回あり、そのたびに車掌が車内の外国人、日本人の私、四人のフランス人、イングランド人カップル一組、の旅券をあずかって、車外に降りて行く。

    街道の物売りたち

    広大な田園風景が広がるデルタ地帯をひた走る。集落には高床式住居が多い。2008年のサイクロンではひどくやられたはずであるが、さすがに4年も過ぎているので、少なくとも沿道からはその痕跡は感じられなかった。

    デルタ地帯を抜ける直前の休憩地点で、ここから他のビーチに行くというイングランド人カップルが、バイクタクシーにまたがって出て行った。彼らはやけに荷物が少なく、二人合わせてデイパックひとつ分よりも容量は少ないようだった。あれほど身軽な西洋人はこれまでほとんど見たことがない。

    休憩場所を出ると突如、道路がダートになり、そこから先は丘陵地で、簡易舗装主体のジグザグの悪路となる。斜面を上り、そして下る、そして上るといった具合の繰り返しで、ポンコツのバスが痛めつけられて悲鳴を上げているようなキシミ音がする。

    途中、橋がいくつかあった。最後のふたつは大型車両の車輪の幅に古タイヤのゴムを貼り付けて、舗装風にしてある。一方通行の橋であるため、向こうからのクルマが渡り終えるのを待ってから橋を越える。

    <続く>

  • マウラミャイン

    マウラミャイン

    先日、泰緬鉄道のミャンマー側の終着地点であったタンビュザヤのことについて書いたが、ここへはモウラミャインから日帰りした。

    モウラミャインへは、ヤンゴンから夜行バスで到着。ヤンゴンを出発したのは午後9時。「バス岐阜」と書かれた、日本の中古バスだったが、まだ新しくて快適であった。クーラーの効きも良く、運転席上部に設置されているテレビからは、午後11時くらいまでミャンマーのポップスのビデオが大音響で流れていた。

    ミャンマーで第二の人生を歩む日本の中古バス
    深夜過ぎのドライブイン。乗客のみなさんもお疲れの様子・・・。

    深夜過ぎにドライブインで休憩。空腹感ではあったものの、疲れ切っていて食事する気にはならなかった。30分ほどしてからバスは出発。しばらく寝ていたが、ハッと気が付くとどこかに停車している。クルマがガタゴトと揺れていると、心地よく眠ることができるものの、停まってしまうと目が覚めてしまうのは鉄道と同じ。適度な揺れに身を任せていると心地よいものだからだろうか。腕時計に目をやると、午前3時過ぎを指していた。

    外に出てみると、前方には同じく停まっている車両が数珠繋ぎだ。河を越えてマウラミャインに渡る橋は、夜遅くから午前4時まで閉鎖されているとのこと。現在、モッタマーという町の郊外にいるらしい。まとまった雨が降ったらしく、足元はかなり濡れている。

    午後4時過ぎに、ようやく車列が動き始めた。かなり年期の入った鋼鉄製の橋を渡ると、まもなくマウラミャインのバススタンドに着いた。まだ真っ暗だが、この時間帯に発着するバスはいくつもあるようで、いくつかの店はすでに営業している。バスで一緒だったイギリス人青年のS君と、乗り合いオートをシェアして河沿いにあるホテルを目指す。

    こんな時間帯なので、朝までの間に一泊分取られないかと思ったが、そんなことはなく良心的な宿のようである。とても空腹であったので、部屋に荷物を置いてから近所でこんな早い時間帯から開店していた華人経営の茶屋に食事に行く。コーヒーを啜りながら肉まんを二つ食べて、ようやく人心地ついた。

    ずいぶん朝早くから茶屋に集う人々

    まだ夜明けまでかなりあるのだが、店内はかなり客の入りは良かった。若い人たちはこれから仕事に出かけるのだろう。その他は近所に住む、早起きのご老人たちのようだ。古ぼけた店のたたずまいといい、お客の面々といい、ずいぶん昔の時代にタイムスリップしたかのような気分になる。ホテルの部屋に戻り、エアコンのスイッチを入れる。室内の蒸し暑い空気が次第にサラリとした心地よい冷気に変わっていくのを感じながら、しばし眠りに落ちていく。

    目が覚めると、すでに陽は上っていた。階下に降りると、フロント業務に従事する者、宿代に含まれている朝食の準備にいそしむスタッフ、清掃をしている人たちなど、インド系の顔立ちの人々が多く働いていたが、オーナーは華人であった。英語はあまり上手とはいえないが、話好きでフレンドリーな好々爺だ。

    この場所には、もともとは映画館があったのだという。「映画が好きでね、若い頃には初期の007なんかよく観にきたもんだよ。洋画ばっかり観てたなぁ」とのこと。このホテルの隣も映画館だったとのことだが、そちらは建物がそのまま残っていて、地上階部分が中華料理店になっている。スクリーンと客席があった上階は倉庫として使われているらしい。

    乗り合いのピックアップ。市内のミニバス的に走行するものもあれば、中距離バスのような役割のものもある。

    マウラミャインは、イギリスが上ビルマを平定して統合するまで、ビルマ支配の中心地としていた街だ。河沿いのストランド・ロードには、鉄道敷設前に建設された植民地都市の常として、水際に主要な役所、公共施設、教会、当時の植民地で操業していた大手企業等の立派な建物が連なっている様子を想像していたが、少々期待外れであった。

    確かに水際にいろいろ集中していたことを思わせる片鱗はあるものの、その水際が寂れている。木材が豊富な土地であるため、木造建造物が多かったため、後世にまで残りにくかったということもあるのかもしれない。また、東南アジアから南アジアにまたがるこの地域の中では、比較的後発の植民地であったがゆえに、歴史の重みや格の違いという部分もあるのだろう。

    ストランド・ロード沿いのちょっと素敵な感じの建物。現在は宿になっている。

    だが、河から見てストランド・ロードよりも一本内側にあるサウス・ボーヂョー・ロード(旧名ロワー・メイン・ロード)には、いくつかの立派なモスクがあり、イギリスによる支配とともに、西隣のインド亜大陸から移住してきた人々が栄えた様子がうかがえる。

    KALADAN MASJID

    礼拝の時間になると、どこからともなく立派なヒゲを蓄えた紳士やオニイサンたちが集まってくる。その中のひとつ、カラーダーン・マスジッドは、グジャラート系のムスリムが寄進したと伝えられるもので、ここに集う人たちの中にもグジャラートをルーツに持つ人が少なくない。訪れたときに案内してくれたモールヴィーも、やはりグジャラート移民の子孫であるとのことであった。

    SURTEE SUNNI JAMA MASJID

    植民地期に、英領あるいはその強い影響下に置かれた地域が広がるということは、自国インドと共通性の高いシステムの社会が広がるということなることから、当然の如くインド系の人々が、様々な形で海外に雄飛していくこととなった。インド西部から距離的に近い中東の湾岸地域や東アフリカ、そして東寄りの地域からは東南アジア方面に進出する人たちが多かった。

    西側のグジャラートから見て、亜大陸の反対側に面しているマウラミャインへ渡ってきたのには、それなりに合理性のある理由があったことだろう。あるいは、すでにコールカーターに進出していたクジャラート人たちの中で、更に東進した者もあったかもしれない。

    もっとも、その後1937年のインドからの分離、1948年の独立、そして1962年の軍によるクーデターと続く、当時のビルマの国粋化の動きの中で、次第に不利な立場に追い詰められていくようになった外来の人々は、大挙して父祖の国や第三国に移住していくこととなった。

    そうした人々の移民史やそれぞれの土地での生活史は、インド系の人々のエスニシティや文化を尊重しない現在のミャンマーでは、取り上げられることはないだろう。またそうした歴史はコミュニティの中で次世代へ、細々と口伝されていく程度のことであろう。

    それでも、街にある複数の大きなマスジッドは、この地で繁栄したインド系の人々の栄華を、今の人々の目に見える形で伝えている。

    MOGHUL SHIAH MASJID

     

  • 泰緬鉄道終点

    泰緬鉄道終点

    ヤンゴンから夜行バスでモウラミャインに着き、宿に荷物を置いて少々仮眠してからタンビュザヤ行きのバスに乗り込む。

    混雑していても、そこは人々のマナーの良いミャンマーなので、ガサついた感じはないのだが、窓から差し込む強い陽射しを避けようと、車内窓際の座席で日傘を広げる女性が少なくないのには閉口する。邪魔なだけではなく、危険ではないか!

    このバスは、沿道の人々の貴重な移動手段となっているため、あちこちで客を降ろしては、少し先で乗せてということをチョコチョコと繰り返しながら進むため、行きは3時間もかかってしまった。帰りは乗り合いのピックアップを利用したのだが、その半分の1時間半ほどでモウラミャインに戻ることができたのだが。

    それはともかく、モウラミャインの町に着いた。かつて泰緬鉄道で使われていたという蒸気機関車、ミャンマー側の終着駅であった場所、連合軍墓地などを見物したかったので、とりあえずバイクタクシーにそれらの場所に向かってもらうことにした。

    タイでもミャンマーでも、揃いのベストを着用した運転手たちによるバイクタクシーは各地にある(走行するバイクを見かけないヤンゴンを除く)が、ふと思ったのは、インドにおいては、ゴアのような一部の地域を除けばこうした開業が手軽で、利用者にとっても手頃な交通手段がないのかということ。とりわけ、山間部にあるヒルステーションのように、街全体が斜面にあり、道路は狭くて勾配も急であったりして、バスやオートリクシャーなどが往来できないような土地では、ずいぶん重宝される可能性がある。

    だが、よくよく考えてみるまでもなく、インドにおいては、運転手との距離が近すぎて、身体的な接触があることについては、とても抵抗感があるはずだ。もちろん公共交通機関に関する法的な規制等の関係もあることだろう。私自身、運転手とのこの距離感はどうも馴染めないし、それにタイの若いバイクタクシーの運転手のようにカッ飛ばす者に乗せてもらいたくないので、やはりミャンマーでも落ち着いた感じの中年運転手に頼むことにしている。

    町中から少し出たところに、かつて泰緬鉄道で使われていたという日本製の蒸気機関車がひっそりと置かれていた。C56型のこのタイプの機関車は泰緬鉄道に導入され、第二次大戦が終わってからも、タイ・ミャンマーそれぞれの国鉄で用いられていたという。この車両が置かれているところから、古びた単線のレールが南方向に延びているが、少し先からは茂みの中に消えていく。

    C56蒸気機関車
    おそらく泰緬鉄道のレール

    タイで走っていた機関車のうちの二両は、その後タイから日本に「帰国」し、一両は靖国神社の遊就館に展示されており、もう一両は大井川鐵道にて現役で走行している。

    タイのバンコクから北西方向、カンチャナブリーを経て、タンビュザヤに至った泰緬鉄道は、第二次世界大戦時に日本軍がその建設を決行するより以前から、当時のビルマ(現ミャンマー)を統治していたイギリス当局により、このルートの鉄道敷設の構想はあったものの、地理条件により断念されていたとされる。

    建設にあたり、日本の担当者は5年程度の歳月が必要であると見積もっていたが、日本軍はこれをわずか1年とひと月で強行した。これにより、連合軍捕虜1万6千名ならびにアジア各地から徴用された8万人を超える労働者たちが死亡することとなった。

    この鉄道建設については、デヴィッド・リーン監督による1957年公開のThe Bridge on the River Kwai(邦題:戦場にかける橋)にも描かれており、旧日本軍による苛烈な捕虜虐待と戦争犯罪の一例として、世間でよく知られているところである。

    タンビュザヤ駅

    市街地に戻り、そこから少し西に進んだところには駅舎があった。新しい枕木が置かれていたり、レール上部が光っていることからもわかるとおり、とうの昔に泰緬鉄道は廃線となっているものの、この駅自体は遺蹟化しているわけではない。モウルメインからイェー経由でダウェイに向かうルート上にあり、今でも毎日数本程度の客車や貨物車が往復しているようだ。

    ダウェイへと続く鉄路

    さらに西­方向に行くと連合軍墓地がある。広大な敷地の奥に慰霊塔では、オーストラリアの国旗が掲げられるとともに大きな花輪が捧げられていた。何かの記念日に当たるのか、セレモニーが開かれているようであった。参列している人たちの多く、といっても十数名程度だが、白人の人たちであった。おそらくオーストラリアの人たちなのだろう。リーダー格と見られる人は中年男性、その他は小さな子供を含めた家族連れであった。

    広大な連合軍墓地
    慰霊塔に掲げられたオーストラリア国旗と花輪

    ちょっと話をしてみようかと思ったが、集っている人たちも私も戦争を知らない世代ではあるものの、ここに埋葬されている人々にとって、彼らを散々苦しめた加害国の人間であるがゆえに、非常にためらわれた。結局、声をかけることなくその場を後にした。こうした場でのセレモニーであるだけに、日本人であることを非常に重荷に感じてしまう。

    数多くある墓標の中には、やはり名前がわからず記されていないものも多い。身元がわかっている人物の場合、記されている享年は多くが20代あるいは30代。またある墓標には花が供えてあった。ちょうど開かれていたセレモニーに合わせて、誰か身内の人が訪れたのかもしれない。

    花が供えられていた

    タンビュザヤから乗り合いのピックアップでモウラミャインに戻る。着いたのは午後4時。見物に夢中になったり、適当な食事処が見当たらなかったりで、昼食を抜いたり、ずいぶん遅くなってから食事したりということは多い。

    この日も、ほとんど夕食に近い時間になってしまったが、河沿いにある食堂に入ると、ヤンゴンからの夜行バスで一緒だったイギリス人青年がちょうどビールを飲んでいたので相席する。よく冷えたビールが喉に心地よい。彼と軽食をつまみながら二杯ほど飲んでから、午後8時くらいに付近にある他の場所で待ち合わせて一緒に夕食をすることになった。

    1943年の泰緬鉄道を建設に関わった旧日本軍の人々も連合軍側の人々も、やがてこういう平和な時代が訪れるとは夢にも思わなかったことだろう。すべての人々にとって不幸な戦争、国家の名のもとに敵味方に分かれて命を奪い合うような時代を繰り返すようなことは、今後決してあってはならない。そのためにも戦争の記憶を風化させてはならない、歴史を曲解させることがあってはならない、と私は常々思っている。

  • インパールからマンダレー行きのバス

    5月27日から本日29日まで、ミャンマーを訪問したインドのマンモーハン・スィン首相は、首都ネーピードーにて同国のテイン・セイン大統領との間で、二国間関係の強化、とりわけ貿易や投資といった分野に加えて資源開発等に関する話し合いを持った。この場において、インドにからミャンマーに対する5億ドルの借款供与も決定している。首相の訪緬に合わせて、インドの産業界の代表団も同国を訪問するなど、今やブームとなったミャンマー進出について、まさに「乗り遅れるな!」というムードなのだろう。

    両国間を結ぶフライトの増便その他交通の整備も予定されているのだが、とりわけ注目すべきはインドのマニプル州都インパールと、ミャンマーのマンダレーを繋ぐバス路線の開設。当然のことながら、旅客の行き来だけではなく、様々な物資の往来のための陸路交通網の整備も下敷きにあると見るべきであるからだ。インドにしてみれば、自国の経済圏のミャンマーへの拡大はもとより、その他のアセアン諸国へと繋がる物流ルートの足掛かりともなる壮大な構想が可能となる。

    同時に、現在までのところあまり注目されていないが、ミャンマーとのリンクにより、これまでインドがなかなか活路を見出すことができなかった自国の北東州の経済振興にも大きな役割を果たすであろうことは誰の目にも明らかだろう。長らく内乱状態を抱えてきた地域だが、近年ようやく沈静化しつつあるが、特に期待できる産業もなく、中央政府にとっては何かと負担の大きな地域であったが、ここにきてようやく自力で離陸させることができるようになるかもしれない。

    インドとアセアンという、ふたつの巨大な成長の核となっている地域の狭間にあるミャンマーは、これまで置かれてきた状態があまりに低かっただけに、今後の伸びシロは非常に大きなものであることが期待できる。

    先進国による経済制裁が長く続いてきたミャンマーに対する諸外国の直接投資の中で、中国によるものがおよそ半分を占めていたが、隣接するもうひとつの大国インドが急接近することによって、ミャンマーは漁夫の利を得ることになるのだろうか。

    ヒマラヤを挟んで、印・中両国がせめぎ合うネパールと異なり、自らが所属するアセアンという存在があることも、ミャンマーにとっては心強い限りだろう。今後、経済制裁の大幅な緩和、いずれは解除へと向かうであろう欧米諸国のことも考え合わせれば、地理的な面でもミャンマーは大変恵まれている。

    本日、5月29日には、ヤンゴンにて野党NLDを率いるアウンサン・スーチー氏とも会談している。スーチー氏は、学生時代に母親がインド大使を務めていたため、デリーに在住していたことがあり、デリー大学の卒業生でもある。当時、インドの首相であったネルー家とも親交があった。彼女自身の政治思想に対してインドが与えた影響は少なくないとされる。

    印・緬両国の接近は、双方にとって得るものが大きく、周辺地域に対するこれまた良好なインパクトも同様であろう。今後末永く良い関係を築き上げていくことを期待したい。インパールからマンダレーへ、マンダレーからインパールへ、バスは人々の大きな夢と明るい未来を乗せて出発しようとしている。

  • ストランド・ホテルでハイティー

    ストランド・ホテルでハイティー

    シンガポールのラッフルズ・ホテルで供されるようなハイティー(軽食と甘味類のバイキング)を期待して、ヤンゴンのストランド・ホテルへ。

    ホテルのカフェに着いてから尋ねてみると、そういうスタイルではなく、セットになったものをウェイトレスがテーブルに運んでくるとのこと。欧州式とミャンマー式とがあると言われて、欧州式を注文。

    運ばれてきたダージリン・ティーは極上品。続いて出てきた軽食類は、三段になったステンレスの棚状のものに10品程度。どれもひと口サイズのアペリティフ類やケーキ等。まさに「午後の紅茶」といった具合、しめて17ドル。内容や味は悪くはないが、お買い得感はなし。

    1901年開業という、東南アジアを代表するヘリテージ・ホテルのひとつとはいえ、経営母体は、アルメニア人実業家、日本軍による接収、帝国ホテル、国営化、インドネシア人実業家へと変遷している。国営時代に、宿泊はしていないものの、レストランでコーヒーを飲んだ記憶がある。当時は、あまり手入れもされていないようで、非常に古ぼけた印象を受けたが、宿泊費は当時の私でも払えなくはない金額であったように思う。

    現在の経営陣になってからは、大改修が実施されたこともあり、「白人専用」であった開業時の如く、高級ホテルとして再生している。一泊550ドル以上もする。しかし、かなりモダンに仕上げてあるため、重厚な伝統を感じさせるといった具合ではないようだ。器そのものは、由緒あるものであっても、中身は普通の高級ホテルとなっている。

    それにしても、このクラスでありながら、WiFiが利用できるのはグラウンド・フロアーのロビーのみ、というのは如何なものか?他に競合するこのタイプのホテルが市内に不在(ここ以外のアップマーケットな宿泊施設は、今風のモダンなホテル)とはいえ、伝統にアグラをかいているという気がする。それでも、アグラをかくことのできる伝統があるというのが、このホテルの魅力と強みではあろう。