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カテゴリー: greater india

  • タチレク 2

    タチレク 2

    ミャンマー料理の食堂

    タイ側のメーサイではタイ各地からそれなりに人々が集まってきて商売をしているように、ミャンマー側のタチレクでも同様にミャンマー各地から人々が集まって町を構成しているため、橋ひとつ渡ってきただけでも、ずいぶん町中の様相は異なる。

    目にする文字が異なるだけではなく、通り沿いにある看板や商店に貼られた広告の類もそれぞれの国の企業のものになるし、食堂を覗いてみてもタチレクでは当然のことながらミャンマー料理の店がほとんどとなり、メーサイにはいくつもあるセブンイレブンのようなコンビニエンスストアはタチレクにはまだないようで、昔ながらのよろず屋が細々と商売している。

    せっかくなので町中を観光してみようと思い、何台ものトゥクトゥクが客待ちしていた国境の橋のたもとに戻ると、さきほどのインド系巨漢のサリームがまだ居たので声をかけてみた。彼自身がトゥクトゥクを運転するようで、町中のお寺をいくつか回ってもらうことにした。

    タチレクのトゥクトゥクはこんな感じのものが多い。乗り合いとして使用できるようになっている。

    特にこれといった名刹があるわけでもなく、元々小さなマーケットしかなかったところで、近年人口が急増するに従って出来たような新しいお寺ばかりのようではあるが、それなりにミャンマーに来た気分にさせてくれるのは、これらがビルマ様式であるからだ。もっとも中には、祭壇にビルマ式の仏像とタイ風の像が同居しているケースもあり、それはそれで国境の町らしくて面白かったりする。

    ご本尊の両脇に控えるのはタイ式の像となっているお寺があった。
    丘の上からタチレクの町とその背後のタイ側の町メーサイを見下ろす。

    見物を終えて、国境の橋のたもとにあるマーケットを散策する。案外、洒落た店や大きな商店もあったりする。規模が大きな商店を経営しているのは、漢字が書かれたお札や祭壇など、店の佇まいからして、やはり華人が多いようだ。置かれている商品もセンスもタイには遠く及ばない感じだ。川を挟んだ国境の時差は、30分ではなく、30年くらいあるような気がする。もっとも30年前のタイ側のメーサイには、今のミャンマー側のタチレクのマーケットにふんだんに出回るケータイやスマホは無かったわけだが。

    しばらく見物してからタイ側のメーサイに戻る際、サイレンを鳴らして進むミャンマーのナンバープレートを付けた救急車がタイ側に越境していくのを見た。やむにやまれぬ事態が生じた場合、タイ側の病院に移送して処置するという措置がなされているのだろうか。二国間関係は決して悪くないミャンマーとタイなので、さもありなんという気はする。

    ミャンマーの入国管理事務所で、さきほど受け取った預かり証を渡してパスポートを返却してもらう。すぐ右手には小ぎれいなレストランと商店が入ったビルがあるが、洋酒類などを販売する「免税店」も入居していた。

  • タチレク 1

    タチレク 1

    ミャンマー入国

    ミャンマー側で10ドル(または500バーツ)の「入国料」を支払いパスポートと引き換えに預かり証を受け取ると入国手続きは完了。事前にヴィザを取得していれば、ここからミャンマー各地に足を伸ばすことも可能だ。許可を取ればチャイントーンまでは行けるようだが、そこからさらに先に行くにはヴィザが必要である。

    タチレクの入国管理事務所には「E-Visa」のカウンターもあった。空港からの入国のように、自国等で申請しておいて、ここで入国する時にヴィザを発行してもらうことも可能らしい。

    橋を下りたところからタチレクの町だ。何人もの客引きがいるが、どれもトゥクトゥクによる市内観光や移動を斡旋しているようだ。そうした中にひとり、サリームという長身の男性がいた。インド系ムスリムでウルドゥー語が通じる。

    しばらく徒歩でタチレクの町を散策してみた。やはり南アジア系の人たちの姿をチラホラ見かける。店で商売を営んでいるヒンドゥーの人たちはネパール系の人たちであることが多く、たいていは普通にヒンディーが通じるようだ。

    しばらく歩いた先にティーハウスがあり、幾人かインド系ムスリムたちがいたので、店に入ってしばらく話をしてみることにした。ここは彼らの溜まり場になっているとのことで、たいていは地元在住の人たちではなく、タウンヂーその他のミャンマー各地から商売の都合で来ているとのこと。タイとの国境であることから、いろいろ商機があるそうだ。

    私はビルマ語もタイ語もできないが、彼らはけっこう普通にウルドゥー語を操るので、ここにあってはなかなかありがたい存在だ。また、彼らにとっても彼らの父祖の言葉が通じる日本人は珍しいらしく、大変フレンドリーである。

    茶店でくつろぐインド系ムスリムの人たち

    この中にいたアブドゥルさんは、移民四世とのことだが、それほど世代を経ても、ちゃんとウルドゥー語を話すというのは、ヤンゴン、マンダレー、スィットウェなど他の街でも珍しいことではなく、南アジア系ムスリムのコミュニティが今でも機能していることの証でもあるだろう。

    また、ウルドゥー語自体がミャンマーに暮らす南アジア系ムスリムが身につけておきべき教養のひとつであり、彼らのアイデンティティでもあることから、彼ら自身の先祖がこれを母語としなかったベンガル系ムスリムもこれを話す人が多い。加えてヤンゴンのダウンタウンでは珍しくないイラン系ムスリムたちもこの範疇に含まれることは特徴的だ。

    そうした背景もあることから、ウルドゥー語を話す外国人がいると「彼も当然ムスリムだろう」ということにもなってしまうため、ミャンマーにおけるウルドゥー語とは、民族的な出自を示すシンボルというだけではなく、宗教上の帰属をも含めた象徴的な意味合いがある。

    ティーハウスの向かいにはマスジッドがあったので見学してみる。回族の中国人が建てたものであるとのことで、道路に面した門や本堂の入口などに、漢字でいろいろ書かれている。とてもキレイにメンテナンスされているので、相応の回族人口があるのではないかと思われる。

    回族が建てたマスジッド

    ちょうど金曜日でもあり、さきほどのティーハウスにいたインド系の人たちに、どこに礼拝に行くのか質問しておけばよかったことに気が付いた。

  • メーサイ2 サイババ寺院

    メーサイ2 サイババ寺院

    タイ側の出入国管理事務所

    メーサイは、国境での人の行き来と交易で栄える町なので、「町の中心」は、当然のことながらミャンマーへの入口のエリアとなる。画像中央に写っているタイ側の出入国管理事務所の手前には各種雑多な商店や事務所などが連なっているが、ここから離れるに従い、商店等が林立する密度は低くなってくる。ミャンマー側のタチレクでも事情は同じであることから、行政区分どころか所属する国さえも違うのだが、国境にまたがるひとつの町といえる面もある。

    タイ側とミャンマー側を繋ぐ橋にかかる国旗は、真ん中でタイのものからミャンマーのものに変わっている。

    町を歩いていると、「Aum Sai Ram」と書かれた看板がある路地に思わず吸い込まれてしまう。

    Aum Sai Ram
    SATYA SAI FOUNDATIONとある。

    コンクリートのビル裏手に回っても、特に何も見当たらず、踵を返そうとすると、ビルの窓から声をかけてくる人があり、振り向いてみると、若いインド系の女性の姿があった。
    「何かお探しですか?」
    彼女の家族が、メーサイにあるサイババ寺院の世話人であった。ビルの並びにある鉄扉に閉ざされた敷地に大きな建物があり、そこにお寺が入っていた。
    彼女はカギを開けて室内の電気を点けてくれた。
    「ごゆっくりどうぞ。」
    遠慮なく参拝させてもらうことにした。

    サイババ寺院入口
    本堂

    帰りに再び彼女に声をかけてからお寺を後にしたが、その際に彼女の母親とも少し話をすることができた。風貌も名前も典型的なパンジャービーであった。時折、この地域に暮らすインド人たちが集まってバジャンを奉納したりしているとのこと。都合が合えば、ぜひ参加したいところだ。

  • Sri Mariamman Temple

    Sri Mariamman Temple

    バンコクのシーロムにある有名な南インド系寺院。またの名をワット・ケーク(インド寺)。1860年代にタミル系の人たちによって建てられたもの。

    ヒンドゥー教の裾野と仏教のそれは重なる部分があり、テラワダ仏教のタイだが、信仰の周縁部には、ヒンドゥーの神々の存在感もあることから、タイ人の参拝者でごった返している。
    この界隈には神具屋が多い。

    その中のひとつに入ってみると、インド人のお爺さんがおり、9年前からここで働いているという。立派な風采なので、てっきり店主かと思ったが、タイ人オーナーが経営する店で、彼は雇われているだけのようだ。名前からしてブラフマンなので、いかにも神具屋にはピッタリという感じだ。

    UP州のゴーラクプルから来ているとのことで、バンコクでは近くにある北インド系寺院に起居しているそうだ。何代も続くインド系社会というインフラがあるので、こうした新規の移民が定着する隙間というか、懐の深さがあるのだろう。

    どういうヴィザで来ていて、月にいくら位稼いでいるのか、ちょっと関心のあるところだが、まさか初対面の人にそんなことを尋ねるのは気が引ける。

    インド人は、けっこうそんなことを外国人にズケズケと質問してくるのだが・・・。

  • インド系商業ビルの外で

    インド系商業ビルの外で

    バンコクのインド人街、パフラット地区にあるグルドワラ・スリ・グルー・スィン・サバーのインディア・エンポリアムという商業雑居ビルのすぐ外に、こんな立て札があった。
    マナーの悪い新参者のインド人が多いのだろうか。
    『ツバ、タン吐き禁止だぞ。捕まったら罰金500バーツ、いいかぁ?』というような、簡単な注意書きで間違いがあるくらいなので、これを書いたのはバンコク生まれのインド系の人かもしれない。
    界隈には、複数世代に渡り長くタイに在住してきたインド系タイ人、近年インド本土からやってきた人、ネパール人、隣国ミャンマー在住のネパール系の人などが多く出入りしており、インド料理の店、ミターイーの店、神具屋にインド衣類の店なども集中している。このあたりのインド系の人たちの人口は、そこそこの規模がありそうだ。
    ふだんは乗換えで立ち寄る程度のバンコクだが、いろいろ調べてみると興味深そうに思える。

  • ダージリンのバンド開始からひと月

    地元政党GJMが呼びかけたバンド(ゼネスト)が始まってからひと月になるダージリン。すべての商店、ATM、学校、その他諸々が閉まってしまい、救急車、消防車などの緊急車両だけが往来するという事態のようだ。「バンドを呼びかけた」といっても、協力を求められた住民たちには、これを断るという選択肢はない。

    拒否して商店を開けていたり、タクシーやバスを走らせたりすると、GJMの活動家がやってきて、扉や窓を壊したり、放火したり、商店の人たちをぶん殴ったりして、「協力するように説得」するわけである。

    こうした組織的怠業を実行する力があるのは、多くの場合、地域の有力政党で、末端で暴力を働くチンピラたちを養っていたり、あるいはそういうヤクザ者を動員できる人脈を持っている。当然、警察にも顔が利くというか、警察自身も厄介なことに関わりたくないので、まったくのやられ損になってしまう。ゆえに人々は財産の保持と身の安全の確保のため、これに従うことになる。地域の経済活動をすべて止めて、ゴルカランド分離要求のバンドが実施されているからといって、必ずしも地元の総意でこうした活動に参加しているわけではない。

    こうした「非服従運動」は、ガーンディーの時代にも、当時の国民会議派が社会に広く呼びかけて、英国植民地当局に対する抵抗として実施されていた。現場ではこれと同じような感じだったはずで、すべての人々が英国を嫌っていたわけではないが、バンドの呼びかけに従わないと、末端活動家やチンピラたちに店が壊される、商品が略奪される、大ケガさせられたり、悪くすると殺されたりもするので、不承不承従う人もずいぶんたくさんいたはずだ。

    国民会議派の主導により、インドが独立を勝ち得ると、そこは「勝てば官軍」で、街中でまかり通っていた乱暴狼藉や不条理はなかったこととなり、美しいストーリーばかりが紡がれることとなった。

    もしダージリンが西ベンガル州から分離して、独自のゴルカランド州となった暁には、GJMの指導層は、圧政をはねつけて、人々を正しく導いた闘士として、持ち上げられることになるのだろう。

    しかし、反体制派が大手を振って、果敢に体制側にチャレンジできる環境というのは、アジアのもうひとつの大国、中国ではありえないことなので、やはりインドという国は偉大なり・・・という思いはするものの、野党の政治活動があまりに自由というのもちょっと考えものだと思うのは私だけではないだろう。

    Darjeeling: Residents struggle for basic requirements of urban life (THE TIMES OF INDIA)

    ※「ゴアンな料理2」は後日掲載します。

  • ダージリン騒乱 観光客増を見込む近隣国

    もうひと月以上も続いているダージリンでのバンド(ゼネスト)と政情不安の結果、当分の間はダージリンは行楽先から外れることとなる。それに従い、観光客たちがネパール、ブータンへ流れることが見込まれている。
    高額なパッケージツアーに参加しないとブータンに入国できない私たちと違い、ビザ無しで個人で自由に旅行できるインド国民にとっては、近くて安い訪問先である。
    インド人にとって、デリーやムンバイー発のグループツアーを利用しても、タイのバンコク、パタヤー、プーケットなどを訪問する月並みなツアーと、ブータンのティンプー、パロー、プナカーなどを訪れるパッケージがほぼ同じくらいの金額で出ているポピュラーな行楽地だ。
    しかもブータン通貨のニュルタムはインドルピーと等価であり、ルピー現金がそのまま通用することもあり、英語もヒンディー語も広く通用するため、インド国内旅行の延長として捉えられている。
    ことブータン訪問に限っては、インド旅券が欲しくてたまらない。

    Bhutan and Nepal cash in on Darjeeling crisis, woo tourists (THE TIMES OF INDIA)

    ※「ゴアンな料理2」は後日掲載します。

  • ラトナーギリー 1 ビルマ最後の王の流刑先

    ラトナーギリー 1 ビルマ最後の王の流刑先

    ラトナーギリーの街は密度が低い割にはダラダラと長く市街地が続いている印象を受ける。静かで落ち着いた感じの住宅地が多いようだ。

    ラトナーギリーの宿泊先

    私がここを訪れた最大の目的は、ティーボーの邸宅の見学。ビルマ最後の王朝、マンダレーのコンバウン朝の王、ティーボーとその配偶者で、美しくも知略、肝略で知られたスパヤラート后が、第三次英緬戦争で王都マンダレー陥落後、マドラスに移送され、再度身柄を移されて生涯を終えたのがここ。

    近年まで、かなり荒れ果てていたと聞いているが、現在は大掛かりな修復の手が入り、工事が進行中。

    ティーボー夫妻とは反対に、インドからビルマのラングーンに送られたムガル朝最後の皇帝、ババードゥルシャー・ザファルは、英国官憲の屋敷で幽閉されたまま生涯を終えたのに対して、こちらは専用の宮殿のような屋敷を与えられたうえに、ラトナーギリーで仏教寺院を建立しており、多少なりとも地域社会との接点はあったらしい。

    ビルマから遠く離れたラトナーギリーで、彼が地元に与える影響はなかったこととは異なり、ザファルについては流刑先が当時の英国が、インド人たちを大量に投入して建設し、インド人がマジョリティを占めていた街、ラングーンであったという環境の違いがあったがゆえのことではある。

    ティーボーパレスは一部博物となっているが、彼とは無関係の古いヒンドゥーの神像が展示されており、生前のティーボー夫妻の暮らしぶりを偲ばせる家具や遺品などは、ほとんど残されていないようだ。

  • ウズベクレストラン TASHKIN

    ウズベクレストラン TASHKIN

    パハールガンジにあるウズベク&ロシアレストラン「TASHKIN」で食事。ここの料理はとても素晴らしい。
    マトンのサモーサーは生地がパイ状になっており、中には肉と肉汁が沢山詰まっている。チキンのシークケバーブのようなものは、インドのそれからスパイスをほとんどを除去して、香菜を加えたような上品な味わい。
    これらのアイテムがインドに伝わる前は、こういう感じであったのか、と想像力がふくらむ。
    水餃子風のものは、シルクロード伝いに広まったものではないかと思うが、スープにヨーグルトも使われており、中央アジアらしいムードがある。

    TASHKIN (Uzbek & Russian Restaurant)
    Laxmi Narayan Street, Krishna Cottage Hotel, Aram Bagh, Paharganj, Pharganj, Delhi 110055

  • 破れた紙幣

    破れた紙幣

    パーキスターンやバーングラーデーシュで、お札が多少破れていたり、切れ目があったりすると使えないということはないのに、なぜインドではダメなんだろう?と、今ごろになって思う。
    おそらく植民地期から引き続いてそうということではなく、独立後からの習慣なのだろう。
    もっとも一部例外はあり、グジャラート州の主に西側では、流通量の少ない少額紙幣に限って、破れたものが散逸しないように、平たいビニールの小袋に入れて使用されているのを見かけることはある。
    だが、それ以外はインド中どこにいってもNGだ。額の小さな紙幣ならば、複数枚使って支払うときに気付かれないように混ぜてしまったりするが、大きな額面のお札で、うっかり切れているものを受け取ってしまっていることを後になって気が付くと、なかなか処分できなくて困ったりもする。

  • ゴールカー

    ゴールカー

    バンディープルからドゥムレーに出て、ゴールカー行きのバスに乗り換える。所用時間は前者が30分、後者が1時間半程度。ゴールカーまでの最後のバスで乗り会わせた若い男性は、ヒンディーを話す人で、なかなかおしゃべりであった。決して上手ではないし、言い回しの間違い等も私さえ判るくらいだが、インドに暮らしたことがないというのに、これだけ話せるとはたいしたものだ。

    さすがに山のほうに入ってくると、とりわけ女性であまり裕福ではなさそうな層では、ヒンディーを理解する人は多くないようだ。しかしながらインド国内のタミルナードゥやケーララに比べると驚くほど広く通用するといえる。

    こちらが言うことはある程度理解しているようで、返事がネパール語で返ってくることはよくある。すると、こちらは知っている言葉を拾って、推測で理解したような、そうでもないような気分になる。

    部屋に荷物を置いてから、昼食は宿の階下の食堂にて済ませる。ここの主人の娘たちはふたりとも美人だ。

    宿階下の食堂では、一日中、ヒンディーのエンターテインメント番組かニュース番組を流しているようだが、それでヒンディーが普通に通じるかといえば、そうでもない。とはいえ、やはりある程度は理解しているから観ているのであり、返ってくるのがネパール語まじりだったりするが、一応のコミュニケーションはとれる。

    ゴールカー・ダルバールはけっこう離れているとは聞いていたが、長い石段を30分ほど登った先にある。途中の斜面からはゴールカーの町の眺めが素晴らしい。

    ゴールカー・ダルバールへと続く石段

    ゴールカー・ダルバール入口

    ゴールカー・ダルバールは、少しかしいでいたり、壁が湾曲していたりする部分もある。2015年の地震による被害だ。現在は修復作業が進行していて、建物内部を見学することは出来なくなっている。

    ゴールカー・ダルバール

    ひどく崩壊している部分もあった。

    先の大地震の震源地はここからすぐ近いところであったのだが、その割には町の様子からは被害の影響はほとんど見当たらない。

    町中では、小さな寺をいくつか見物。そうこうしているうちに、午後4時を回ると、たいていの商店が扉を閉じる。どうやらこのあたりの「定時」は午後4時らしい。下のほうにあるバスの発着場では、もう少し遅くまで開いているのだろうか。最後のバスで乗り会わせた若い男性が言うには、午後3時までは、カトマンズに直行するバスが出ているとのことだ。

    午後4時を回るとほとんどの商店が閉まってしまう。

    本日、夕食をしているとスペイン人男女ふたりずつのグループが食堂に入ってきて、少し話をしたのだが、スペインからの旅行者たちは感じの良い人たちが多い。彼らはバルセロナから来たとのこと。

    昔は、旅行中のスペイン人といえば、英語がほとんどわからないひとが多かったように思うのだが、現在はそうでもないように感じる。とりわけ若い人たちは流暢な英語を話す人が少なくない。英語、英会話は、かつてよりも更に広く普及していると言えるのかもしれない。

  • バンディープル

    バンディープル

    山の斜面にある小さな町。古い家並みがよく残っており、中世の雰囲気を今に伝えている。陸上交易時代の宿場町で、バクタプルから移住したネワーリーの人々の末裔が暮らしているという。古い町並みは、時代が下ってから建設された国道のルートから外れたがゆえに残ったとのこと。郊外にはノートルダム修道会の学校があり、長年、日本人シスターが教えているそうだ。

    中国の河北省鄭州から来ている馬興という女性としばらく話をした。彼女は、ごく最近までカトマンズで活動している中国系のNGOで仕事をしていたとのことで、来月、中国に戻るとのこと。昨日サファリであった中国人女性もそうであったが、最近の若い世代で個人旅行をしている人は快活で、とても感じの良い人が多い。

    マーケットで夜の眺めを撮影してしたら、ドゥムレーからのバスで一緒だったスペインのマドリードから来た夫妻、アルベルトとマリアを見つけたので一緒に夕食。旅行先では、このようにいろんな国から来た人たちと食事したりするのが楽しい。

    バンディープルでの宿泊先は、伝統的な家屋がそのまま宿になっており、オーナー家族の歴史が感じられるようなたたずまい。煉瓦作りの古い家屋で、外側はちょっとコロニアル風〈これを撮影するのを失念してしまった・・・〉、中は典型的なネワール式。ここに限ったことではないのだが、ある一定の時期に建設されたと思われる建物で、洋館風のファサードを持つもの見かけることが多いが、そういうスタイルが流行した時期があったのだろう。

    レンガ剥き出しの壁で、正直なところ快適ではない。

    町中はきれいに掃き清められており、ゴミひとつない。調和のとれた古い建物の町並みとあいまって、まるでスイスにでも来ているかのような感じだ。