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カテゴリー: greater india

  • 寛容な国の不寛容

    2012年の最高裁判決で「2022年までに廃止」が命じられていたムスリムの「ハッジ巡礼補助制度」がずいぶん前倒しで「2018年から廃止」となった。
    植民地時代にルーツを持つものだが、国民会議派時代に最大マイノリティのムスリムの支持を取り付けるために利用されてきた。本来世俗主義のインドで個人の信仰のためにこういう補助がなされるのはおかしい。政教分離とはいいながらも、私たちの感覚からすると「いかがなものか?」と思われることは少なくない。

    ともあれ、こうしたことがまかり通ってきた背景には、国民会議派の遺産ということもあるし、マジョリティであるヒンドゥーがマイノリティのムスリムへの寛容さというか、度量の大きさがあったからとも言える。
    そこにくると、「あと4年の猶予」がありながらも、ずいぶん前倒しで今年から制度を取りやめるのは、やはりそのあたりの懐の狭さというか、不寛容さというかを感じさせるものである。

    それでもまだ、1992年のバーブリー・マスジッド破壊事件とそれに続いた各地でのコミュナルな流血を主導していた彼らの行ないよりはよほどマシかもしれない。
    当時、マスジッド破壊へと導いた「ラームジャナムブーミーでの寺院再建計画」を指揮したVHP幹部アーショーク・スィンガル、アーチャーリャー・ギリラージ・キショール(両者ともに今は故人)とともに現在中央政府与党のBJPで現在首相のモーディーが台頭する前の大幹部L.K.アドヴァニー、ムルリー・マノーハル・ジョーシー、当時過激な言動で勢力を急進させたウマー・バーラティー女史が文化財破壊(バーブリー・マスジッド)のかどで起訴されていた。

    これに続いた一連のコミュナルな衝突で亡くなった何千もの人命に責任がある彼らだったが、アドヴァニーはヴァジパイー政権下で首相に次ぐナンバー2である内務大臣職に就く。2014年の総選挙を迎えるに先立ち、首相職に大いに意欲を見せていたアドヴァニーは当時86歳という高齢ながらも健康で頭脳の回転も相変わらずシャープ。グジャラート州で活躍していたモーディーがデリーの党中央で台頭することにより、隅に追いやられることとなった。このときの党内での政争に敗れることがなければ、現在インドの首相になっていたはず。マノーハル・ジョーシーは人材開発省、科学技術省などの大臣職を歴任、ウマー・バーラティーは、MP州首相、のちに中央政府でもやはり大臣職を歴任している。

    台頭したモーディーにしてみても、彼が州首相になって間もない2002年にグジャラートのゴードラーで発生した列車焼き討ち事件をきっかけに州全土に広がった反ムスリム暴動の黒幕であったという疑義等から、中央政府首相になる直前まで、米国が入国禁止していた「危険人物」だ。
    こうした人物たちが監獄に送られることなく、陽のあたる場所を歩んでいった背後には、やはり国民会議派の勢力の著しい退潮と有権者の意識の変化がある。

    やはり1990年代初頭のインドでは、まさに「そのとき歴史は動いた」のである。

    Centre ends Haj subsidy as part of policy to ‘empower minorities without appeasement’ (THE TIMES OF INDIA)

  • 名古屋名物パキスタン料理

    名古屋名物パキスタン料理

    せっかく名古屋に来たので、味噌カツ、山本屋本店とやらの味噌煮込みうどん、ナントカのきしめんとやらをいろいろ食べてみた。どれもおいしい。さりとて、知る人ぞ知る名店で食べることなく東京に帰るのはもったいないので出かけてみた。

    名古屋駅からあおなみ線で南下して荒子川公園駅下車して徒歩15分。港湾地区に近い工業地帯にひょっこり出現するAsia Halal Restaurant。場所柄、お客さんの大半がこのあたりに多いパキスタンの人たち(とりわけ中古車取引関係者が多い)なのではなかろうか。妥協のないパキスタンらしい味わいを期待したい。

    パンジャーブのヒルステーション、ビール醸造所で有名なマリー出身で、大柄でガタイの良い店主のアッバースィーさんに「評判を聞いて東京から食べに来ました」と言うと、大変歓迎してくれた。ちょうど食事時ということもあり、私たちが着いたときには誰もいなかった店内がすぐに満員となる。見たところ、他のお客はみんなパキスタンかバングラデシュの人たちであった。

    ニハーリーとナーン、そしてチキンビリヤーニーで昼食。盛りが大きく、味付けもパキスタン人客向けという感じだ。店内のお客たちの姿と併せて、名古屋にいることをすっかり忘れて、まるでパキスタンに来ているような気分になる。

    隣にあるAbbasi Halal Foodもアッバースィーさんの経営で、パキスタンの食材、清涼飲料や袋菓子などを扱っている。

    所在地: 愛知県名古屋市港区善進本町536
    電話: 052-398-6128

  • 津島市にあるアハマディーヤのモスク

    津島市にあるアハマディーヤのモスク

    名古屋市や近郊では、あまり観光客には知られていない名所も多い。名鉄津島線で足を伸ばした先は、津島市にあるアハマディーヤのマスジッド。

    英領時代のインドの東パンジャーブ(現在はインドとなっている地域)で、イスラーム教スンニー派の流れを汲み、19世紀に始まった革新的な組織だが、印パ分離独立時に本拠地がパキスタンに移動。その後更にイギリスに移転している。

    その背景には、アハマディーヤの教義等をめぐって、現在のパキスタンではイスラーム教とは認められておらず、不利な立場に置かれているという不幸な現実がある。

    これと重なる時期に、インドではやはりスンニー派の流れのひとつとして活動が始まったデーオバンド学派(ワッハーブ派の影響を強く受けた超保守派)の活動も始まっているが、穏健かつ寛容なアハマディーヤは、これとまったく別の方向性を持つもので、インド世界におけるイスラーム文化の豊かな多様性と奥行きの深さ、イスラーム教学や神学研究の盛んさを象徴しているとも言えるだろう。

    日本全国的にどうなのかはよく知らないが、東京首都圏でインド系ムスリムの人々が集う礼拝施設の中で、デーオバンド学派系のダブリーギージャマアト関係のものがかなり多い。そんな中で、都内にもこれらとはまったく異なるアハマディーヤの活動拠点があるとのことで、興味深いものがある。

    さて、最寄り駅の青塚駅を降りて、住宅や田畑の眺めが続く中を歩いていくと、屋上にドームを持つ大きなコンクリートの建物が見えてくる。日本国内で最大級のモスクで、建物の完成は2015年だが、アハマディーヤの日本での活動は1930年代から(第二次大戦時により一時中断)と古く、当初は神戸に拠点があったとのこと。

    さて、このマスジッドにどなたか常駐されているのかどうか、年始早々(1月2日に訪問した)に開いているかどうかよくわからなかったので、名古屋を出発するときに「本日見学可能ですか?」と電話で確認してから向かった。

    到着して、はじめて判ったのだが、教団の方が通いでモスクに駐在されているのではなく、この建物は宣教師の方とご家族の住居も兼ねており、はからずもお正月の団欒のときに突然訪問するという形になってしまった。大変恐縮であるが、いろいろお話を伺うことができた。

    津島市という立地がやや不思議な気がしたのだが、愛知県では名古屋港を中心とするエリアで自動車関係の取引をする同胞の方々が多いとのことで、南アジア出身のイスラーム教徒の人たちが多く出入りするモスクが鉄道駅近くにあることが多い首都圏とは、かなり事情が違うようだ。話題は反抗期の青少年、スマホとSNSの功罪についてなどのユニバーサルなトピックにも及び、示唆に富む貴重なご意見をいただくことができた。またいつか機会を得て、イスラームについて、アハマディーヤについてお話を伺いたい。

    このたび、津島市にアハマディーヤの大きなモスクがあることを知ったのは、ほんの数日前で、ある方にFBで教えていただいたことがきっかけだった。これがなければモスクを訪れることはなかったし、博学な宣教師の方と知り合うこともできなかった。これについては、まさにSNSの功の部分の恩恵である。

  • 名古屋市内のチベット仏教寺院 強巴林

    名古屋市内のチベット仏教寺院 強巴林

    名古屋市内にチベット仏教のお寺があることは、だいぶ前から聞いてはいたものの、訪れる機会がなく、そのままになっていた。

    正月にたまたま名古屋を訪れる機会があったので、初詣はこの強巴林(チャンバリン)寺に出かけることにした。

    敷地入口にマニ車がある。
    チベット仏教寺院 強巴林

    このお寺は本山修験宗の倶利伽羅不動寺敷地内にあり、同寺の森下住職がチベットでの修行時に名刹ジョカン寺の高僧から依頼を受けて建立したものである。なお、この女性住職はジョカン寺管長であったボミ・チャンバ・ロドロ師から受戒したチベット仏法僧でもあるとのこと。

    他にも日本で、チベット仏教僧侶が駐在していたり、チベット仏教界と交流を持ったりするお寺はあるが、たいてい在インドのチベット亡命社会の仏教界繫がりであるのに対して、ここはチベット本土と直接の繫がりでやっていることが大きな特徴だ。

    チベット本土からやってきた僧侶が常駐していると、何かで聞いていたのだが、2011年以降、チベット人僧侶は不在となっているそうだ。同様にお寺の世話をされている方の話では、倶利伽羅寺住職が、このチベット仏教寺について著した書籍もあったとのことで、ぜひ買い求めたかったのだが、中国当局の依頼により発行を取り止めているとのこと。

    チベット本土の仏教界は、中国共産党の指導下にあり、寺院などにも共産党の支部が常駐する形にとなっているのが現状なので、とりわけ外国との交流ともなれば、いろいろな障害があったり、突然中国共産党当局から干渉されたりすることもあろうことは想像に難くない。

    お堂の入口から先は撮影禁止となっているが、本尊はジョカン寺のそれを忠実に復元したものであるとかで、堂内の形状や装飾なども実に見事なものであった。同寺のホームページ内の「ライトアップ体験ツアー」で建物内外の様子を楽しむことができるようになっているのでご参照願いたい。

    チベット仏教寺院 強巴林HP

    堂内を拝観していると、まるでインド各地にあるチベット人コミュニティの仏教寺院を訪問しているかのようで、名古屋に来ていることをしばし忘れてしまいそうになる。

    境内にはチベットカフェ「パルコル」もあり、訪れたときは営業時間前で、次の予定もあり食事をすることは出来なかったが、ちょっと興味を引かれた。

    チベットカフェ「パルコル」

    毎月7日の13時からに強巴林(チャンバリン)祭として、チベット仏教式の法要が営まれているとのこと。そういうタイミングで訪問してみると、なおのこと良いかもしれない。

  • 外国人歌手によるヒンディーソング

    外国人歌手によるヒンディーソング

    様々な外国人歌手たちによるAe Dil Hai Mushkilのカバー。

    Ae Dil Hai Mushkil by Foreigners (Compilation)

    上記リンク先の動画に出てくる中のひとり、パレスチナ人歌手Lina SleibiによるTum Hi Hoもなかなか良い。

    Tum Hi Ho (Lina Sleibi)

    イラク人歌手Razan RazmiによるTum Hi Hoの動画はこちら。この曲は、よほどアラブ人の琴線に響のだろうか。

    Tum Hi Ho (Razan Razmi)

  • ジンナーの娘 死去

    不覚にも、今ごろになって知ったのだが、パキスタン建国の父、ムハンマド・アリー・ジンナーの娘、ディーナー・ワーディヤーが11月に亡くなっていたそうだ。享年98歳。

    ジンナーとゾロアスター教徒富豪出身の奥さんとの間の子、ディーナーは長じてゾロアスター教徒出身のクリスチャン実業家と結婚。私生活では母方の人脈との繋がりが濃密だったのかもしれない。

    父は建国したばかりのパキスタンの初代総督となったが、娘のディーナーはインド人としてムンバイーに残った。

    為政者が勝手に描いた国境線のため、親族がこちらとあちらに引き裂かれるケースは多いが、為政者ジンナーは自身の家族が印パ両側に分裂した。

    いかに有能な政治家であっても、家庭のこととなると、また別の話となるようだ。インドを独立に導いたガーンディーもまた、ほとんど聖人に近いイメージで伝えられる姿の裏にあった「父親としてはいかがなものか?」と思われる有様は、映画の題材にさえなっている。

    印・パ分離時にインドに残ることを選択したディーナーは、後に米国に移住しているが、近年の風貌は父ジンナーの晩年にそっくりだ。それはともかく、ムンバイーでディーナーがインド政府相手に係争中だったジンナーの屋敷についてはどうなるのだろうか。

    Dina Wadia | Passing away of Jinnah’s only child (The Daily Star)

  • アングロインディアンの家族史

    アングロインディアンの家族史

    Sunday's Child

    1942年にアーンドラ・プラデーシュ州の港町ヴィザーグ(ヴィシャカパトナム)で生まれ育った女性の自叙伝。

    英領末期のインドで、アングロインディアンの家庭で育った著者。父親はカルカッタに本社を置いていたベンガル・ナーグプル鉄道の従業員(機関車運転手)だった。インド独立とともに、こうした各地の鉄道会社は統合されて、現在のインド国鉄となっている。

    職員住宅で暮らしていた頃もあったが、後に一軒家を購入している。英国系の人たちが多いエリアであったらしい。

    著者が結婚した相手は、同じアングロインディアンで税関職員。植民地インドの政府系の職場には、英国系市民への留保制度があったこともあり、そうした方面での勤め人の占める割合は高かったようだ。

    クリスマスが近くなると、アングロインディアンを中心とする鉄道ファミリーの中から若者たちがカルカッタまで汽車に乗って、祝祭のために買い出しに出かけたり、コネを頼りに洋酒を買い付けたりといったエピソードが出てくる。また、同じ『肉食系』のよしみで、ヴィザーグ界隈のムスリムの人たちから解体した食肉を調達といった話も興味深いが、彼らの料理自体もアングロインディアンたちには馴染みの味覚であったらしい。

    英国系といっても彼女の家族はカトリック。地域に依る部分が高いとはいえ、アングロインディアンの世帯でカトリックが占める割合は意外と高い。

    この本の内容から逸れる。私自身、ヴィザーグの事情はよく知らないのだが、現在のマハーラーシュトラ州において、アングロインディアンたちの中に占めるカトリック人口の割合は高い。その背景には、ポルトガル領であったボンベイが、カタリナ王女の英国王室への輿入れにより、英国に割譲されたため、ポルトガル系をはじめとする在地のカトリック女性(及びインド人のカトリック女性)が英国から渡ってきた男性と結婚するケースは多かったようだ。

    『専業主婦』という言葉さえなく、経済的には稼ぎ手である夫に依存していた時代だが、家庭内での仕切りや子の養育の面では専制君主的な存在であったカトリック妻たちは、子供たちをカトリック化して育てたため、夫以降の次世代からは『カトリック世帯化』したらしい。

    これについては英国本国も危惧を抱いたものの、さすがに家庭内の事柄だけに、どうにもならなかったようだ。母は強し!である。

    本題に戻る。著者のファミリーは1961年に英国に移住。アングロインディアンの最初の国外脱出の大波からしばらく経ってのことであるが、独立インドの混乱がほぼ解消してからも、やはりイギリス系の市民には風向きが悪過ぎると判断の上で出国だ。

    インドでは「英国系市民」としての扱いやアイデンティティを持っていたアングロインディアンたちだが、到着した先祖の母国では『インド系移民』として捉えられるわけだが、当時の英国の『揺りかごから墓場まで』と言われた手厚い保護もあってか、比較的スムースな定着に貢献したのかもしれない。

    当時着々と増えてきていたインド人をはじめとする南アジア移民たちへの『同胞』としての愛着が表現されるのも興味深い。

    英領末期から1970年代に至るまでが舞台となっているが、この書籍が出版されたのは2016年と新しい。amazonのKindleフォーマットでの出版(紙媒体の書籍では発行されていない)というのも今の時代らしく、amazon.co.jpからでも容易に購入できるのはありがたい。著者も現在まだ75歳で元気なようだ。今後もアングロインディアンの生活誌的な作品を発表してくれることを期待したい。

    書籍名:Sunday’s Child: An Anglo-Indian Story
    著者:Hazel LaPorte Haliburn
    ASIN: B01MTT6SGS

  • 「アーリア人の谷」からのFBリクエスト

    2年前、ラダックのマールカーへのトレッキングでガイドをしてもらったT君と、今ごろになってFBで繋がった。
    「知らないカシミール人からリクエストが来ている・・・」と思って、よくよく見ると彼だった。ラダック人だが、風貌はまるでカシミール人みたいだ。

    チベット仏教の地ラダックの西側に、「アーリア人の谷」と呼ばれる地域があり、彼はそこの出身。この地域のアーリア系の人たちが仏教徒化したのはだいぶ時代が下ってからのことのようだが、「先祖伝来のアーリア系仏教徒」というのは、なかなかレアな存在である。

    一度だけ、ちょこっと「アーリア人の谷」を訪れたことはあったのだが、何がしかの縁がないと、あまり楽しめないような感じだった。もともと田舎の人たちなので、外国人が突然「やぁ、はじめまして!」と出かけて行っても、まあそんなもんだろう。

    彼のFB繋がりの人たちを見てみると、おそらく同郷なのだろう、欧州系みたいな顔立ちなのに名前がチベット仏教徒みたいな人たちが多い。

    この地域は、印パに分かれてしまっていて、今では互いに往来できなくなっているというようだ。パキスタン側ではムスリムとなっている同族の人たちが多いらしい。それでもFBを通じて、若い人たちは連絡取ったりするケースも増えているというT君の話はトレッキング中に聞いた。

    インド側のT君の村をいつか訪れてみたいが、同様にパキスタン側も行ってみたいものだ。その国境を越えられないので、ずいぶんグルリ、グルリと遠回りすることになるのだが。

  • タチレク 2

    タチレク 2

    ミャンマー料理の食堂

    タイ側のメーサイではタイ各地からそれなりに人々が集まってきて商売をしているように、ミャンマー側のタチレクでも同様にミャンマー各地から人々が集まって町を構成しているため、橋ひとつ渡ってきただけでも、ずいぶん町中の様相は異なる。

    目にする文字が異なるだけではなく、通り沿いにある看板や商店に貼られた広告の類もそれぞれの国の企業のものになるし、食堂を覗いてみてもタチレクでは当然のことながらミャンマー料理の店がほとんどとなり、メーサイにはいくつもあるセブンイレブンのようなコンビニエンスストアはタチレクにはまだないようで、昔ながらのよろず屋が細々と商売している。

    せっかくなので町中を観光してみようと思い、何台ものトゥクトゥクが客待ちしていた国境の橋のたもとに戻ると、さきほどのインド系巨漢のサリームがまだ居たので声をかけてみた。彼自身がトゥクトゥクを運転するようで、町中のお寺をいくつか回ってもらうことにした。

    タチレクのトゥクトゥクはこんな感じのものが多い。乗り合いとして使用できるようになっている。

    特にこれといった名刹があるわけでもなく、元々小さなマーケットしかなかったところで、近年人口が急増するに従って出来たような新しいお寺ばかりのようではあるが、それなりにミャンマーに来た気分にさせてくれるのは、これらがビルマ様式であるからだ。もっとも中には、祭壇にビルマ式の仏像とタイ風の像が同居しているケースもあり、それはそれで国境の町らしくて面白かったりする。

    ご本尊の両脇に控えるのはタイ式の像となっているお寺があった。
    丘の上からタチレクの町とその背後のタイ側の町メーサイを見下ろす。

    見物を終えて、国境の橋のたもとにあるマーケットを散策する。案外、洒落た店や大きな商店もあったりする。規模が大きな商店を経営しているのは、漢字が書かれたお札や祭壇など、店の佇まいからして、やはり華人が多いようだ。置かれている商品もセンスもタイには遠く及ばない感じだ。川を挟んだ国境の時差は、30分ではなく、30年くらいあるような気がする。もっとも30年前のタイ側のメーサイには、今のミャンマー側のタチレクのマーケットにふんだんに出回るケータイやスマホは無かったわけだが。

    しばらく見物してからタイ側のメーサイに戻る際、サイレンを鳴らして進むミャンマーのナンバープレートを付けた救急車がタイ側に越境していくのを見た。やむにやまれぬ事態が生じた場合、タイ側の病院に移送して処置するという措置がなされているのだろうか。二国間関係は決して悪くないミャンマーとタイなので、さもありなんという気はする。

    ミャンマーの入国管理事務所で、さきほど受け取った預かり証を渡してパスポートを返却してもらう。すぐ右手には小ぎれいなレストランと商店が入ったビルがあるが、洋酒類などを販売する「免税店」も入居していた。

  • タチレク 1

    タチレク 1

    ミャンマー入国

    ミャンマー側で10ドル(または500バーツ)の「入国料」を支払いパスポートと引き換えに預かり証を受け取ると入国手続きは完了。事前にヴィザを取得していれば、ここからミャンマー各地に足を伸ばすことも可能だ。許可を取ればチャイントーンまでは行けるようだが、そこからさらに先に行くにはヴィザが必要である。

    タチレクの入国管理事務所には「E-Visa」のカウンターもあった。空港からの入国のように、自国等で申請しておいて、ここで入国する時にヴィザを発行してもらうことも可能らしい。

    橋を下りたところからタチレクの町だ。何人もの客引きがいるが、どれもトゥクトゥクによる市内観光や移動を斡旋しているようだ。そうした中にひとり、サリームという長身の男性がいた。インド系ムスリムでウルドゥー語が通じる。

    しばらく徒歩でタチレクの町を散策してみた。やはり南アジア系の人たちの姿をチラホラ見かける。店で商売を営んでいるヒンドゥーの人たちはネパール系の人たちであることが多く、たいていは普通にヒンディーが通じるようだ。

    しばらく歩いた先にティーハウスがあり、幾人かインド系ムスリムたちがいたので、店に入ってしばらく話をしてみることにした。ここは彼らの溜まり場になっているとのことで、たいていは地元在住の人たちではなく、タウンヂーその他のミャンマー各地から商売の都合で来ているとのこと。タイとの国境であることから、いろいろ商機があるそうだ。

    私はビルマ語もタイ語もできないが、彼らはけっこう普通にウルドゥー語を操るので、ここにあってはなかなかありがたい存在だ。また、彼らにとっても彼らの父祖の言葉が通じる日本人は珍しいらしく、大変フレンドリーである。

    茶店でくつろぐインド系ムスリムの人たち

    この中にいたアブドゥルさんは、移民四世とのことだが、それほど世代を経ても、ちゃんとウルドゥー語を話すというのは、ヤンゴン、マンダレー、スィットウェなど他の街でも珍しいことではなく、南アジア系ムスリムのコミュニティが今でも機能していることの証でもあるだろう。

    また、ウルドゥー語自体がミャンマーに暮らす南アジア系ムスリムが身につけておきべき教養のひとつであり、彼らのアイデンティティでもあることから、彼ら自身の先祖がこれを母語としなかったベンガル系ムスリムもこれを話す人が多い。加えてヤンゴンのダウンタウンでは珍しくないイラン系ムスリムたちもこの範疇に含まれることは特徴的だ。

    そうした背景もあることから、ウルドゥー語を話す外国人がいると「彼も当然ムスリムだろう」ということにもなってしまうため、ミャンマーにおけるウルドゥー語とは、民族的な出自を示すシンボルというだけではなく、宗教上の帰属をも含めた象徴的な意味合いがある。

    ティーハウスの向かいにはマスジッドがあったので見学してみる。回族の中国人が建てたものであるとのことで、道路に面した門や本堂の入口などに、漢字でいろいろ書かれている。とてもキレイにメンテナンスされているので、相応の回族人口があるのではないかと思われる。

    回族が建てたマスジッド

    ちょうど金曜日でもあり、さきほどのティーハウスにいたインド系の人たちに、どこに礼拝に行くのか質問しておけばよかったことに気が付いた。

  • メーサイ2 サイババ寺院

    メーサイ2 サイババ寺院

    タイ側の出入国管理事務所

    メーサイは、国境での人の行き来と交易で栄える町なので、「町の中心」は、当然のことながらミャンマーへの入口のエリアとなる。画像中央に写っているタイ側の出入国管理事務所の手前には各種雑多な商店や事務所などが連なっているが、ここから離れるに従い、商店等が林立する密度は低くなってくる。ミャンマー側のタチレクでも事情は同じであることから、行政区分どころか所属する国さえも違うのだが、国境にまたがるひとつの町といえる面もある。

    タイ側とミャンマー側を繋ぐ橋にかかる国旗は、真ん中でタイのものからミャンマーのものに変わっている。

    町を歩いていると、「Aum Sai Ram」と書かれた看板がある路地に思わず吸い込まれてしまう。

    Aum Sai Ram
    SATYA SAI FOUNDATIONとある。

    コンクリートのビル裏手に回っても、特に何も見当たらず、踵を返そうとすると、ビルの窓から声をかけてくる人があり、振り向いてみると、若いインド系の女性の姿があった。
    「何かお探しですか?」
    彼女の家族が、メーサイにあるサイババ寺院の世話人であった。ビルの並びにある鉄扉に閉ざされた敷地に大きな建物があり、そこにお寺が入っていた。
    彼女はカギを開けて室内の電気を点けてくれた。
    「ごゆっくりどうぞ。」
    遠慮なく参拝させてもらうことにした。

    サイババ寺院入口
    本堂

    帰りに再び彼女に声をかけてからお寺を後にしたが、その際に彼女の母親とも少し話をすることができた。風貌も名前も典型的なパンジャービーであった。時折、この地域に暮らすインド人たちが集まってバジャンを奉納したりしているとのこと。都合が合えば、ぜひ参加したいところだ。

  • Sri Mariamman Temple

    Sri Mariamman Temple

    バンコクのシーロムにある有名な南インド系寺院。またの名をワット・ケーク(インド寺)。1860年代にタミル系の人たちによって建てられたもの。

    ヒンドゥー教の裾野と仏教のそれは重なる部分があり、テラワダ仏教のタイだが、信仰の周縁部には、ヒンドゥーの神々の存在感もあることから、タイ人の参拝者でごった返している。
    この界隈には神具屋が多い。

    その中のひとつに入ってみると、インド人のお爺さんがおり、9年前からここで働いているという。立派な風采なので、てっきり店主かと思ったが、タイ人オーナーが経営する店で、彼は雇われているだけのようだ。名前からしてブラフマンなので、いかにも神具屋にはピッタリという感じだ。

    UP州のゴーラクプルから来ているとのことで、バンコクでは近くにある北インド系寺院に起居しているそうだ。何代も続くインド系社会というインフラがあるので、こうした新規の移民が定着する隙間というか、懐の深さがあるのだろう。

    どういうヴィザで来ていて、月にいくら位稼いでいるのか、ちょっと関心のあるところだが、まさか初対面の人にそんなことを尋ねるのは気が引ける。

    インド人は、けっこうそんなことを外国人にズケズケと質問してくるのだが・・・。