3月30日から4/1にかけて、静岡県御殿場市にてPUMA COPA TOREROS 2018のU-12の大会が開催される。海外の強豪クラブやJリーグのジュニアのチームが多数参加するが、2016年から3年連続でネパールのU12代表がエントリーしている。
3月28日に東京都内で地元サッカーチームとの練習試合を実施する予定であったが、飛行機の関係で来日が遅れ、この日の午後に到着のため中止となっている。大会前に調整できるのは開幕前日の3月29日のみとなってしまったが、ネパールから遠路はるばるやってきたサッカー少年たちの健闘を祈りたい。
カテゴリー: greater india
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PUMA COPA TOREROS 2018
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第19回カレーフェスティバル&バングラデシュ ボイシャキ メラ
2018年4月15日(日)に東京の池袋西口公園で、ジャパンバングラデシュソサエテイによる「カレーフェスティバル&バングラデシュ ボイシャキ メラ」が開催される。今年でもう19回目となるだけあり、この時期の池袋の風物詩としてすっかり定着している。
このイベントに出入りする人たちの半分くらいは在日のバングラデシュの人たちで、関東一円はもとより、東北や関西など遠くから同胞の集まりにやってくる人たちも少なくない。そんな具合なので、当日の開催時間だけ、池袋西口がさながら「リトルダッカ」といった様相になる。
回を重ねるごとに、参加しているバングラデシュの人々の中に年配者の姿も増えてきている。これはバブルの頃に来日して定着した人たちの中で、そういう年齢を迎えた人もあれば、両親等を呼び寄せたといった要因もあるのだろう。
また、日本生まれの元気な子供たちの姿も少なくないのだが、昔はあまり見かけなかった在日のベンガル系中学生、高校生くらいの少年少女たちの姿も多くなった。やがて在日三世の姿も見られるようになるのだろう。
かつては20代から30代くらいの男性が大半であった在日バングラデシュ人の人口構成が、年齢層、性別ともに幅が広がっていることを垣間見ることができる。
今でも日本人女性と結婚するバングラデシュ男性は少なくないが、近年では故郷で親族が取り決めたお嫁さんを呼び寄せるケースが少なくないようで、日本における生活に安定した基盤がある人が多いことがその背景にありそうだ。
また、インドと同様に、日本で働くバングラデシュ人の中には理系人材がかなり多いのだが、多くのインド人と異なるのは、日本の永住権、さらには国籍を取得する人たちが少なくないことだ。
「ベンガル系日本人」という新たなアイデンティティを持った子供たちも、続々とこの世に生を受けているわけで、今後が楽しみである。
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小さなトリプラ州が分割される可能性
もともと小さなトリプラ州がさらに分割されることになるかもしれない。
州外からのベンガル系移民の流入が続いた結果、「ほぼベンガル化」された同州から、ベンガル化の度合いが低い地域が分離しようという動きが中央政府レベルでも検討されることになるようだ。
北東州への浸透を図ろうとする中央政府与党BJPは、トリプラ州では現地で旧来の住民の利益を代表する分離支持側の政党と共闘関係にあるということが強く作用している。
そんなわけでトリプラのベンガル系ヒンドゥーの人たちからの不興を買うことは当然予測されてはいるようだ。
Home Minister has agreed to form panel to look into Tipraland demand: Debbarma (THE ECONOMIC TIMES)
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「OUR MOON HAS BLOOD CLOTS」という本
Hello Bastarの著者、Rahul Panditaによるカシミールを題材にした一冊。彼自身が、カシミーリー・パンディットの出自で、少年時代に家族とともにシュリーナガルからジャンムーへの脱出を余儀なくされている。
「民主主義インドによって蹂躙されたカシミール」にて、「踏みにじられたムスリム市民が蹂躙したパンディット」というパラドックスが展開していく。
「学者、識者」を意味する「パンディット」という言葉で通称される「カシミーリー・ブラーフマン」は、イスラーム勢力進出後のカシミールの長い歴史の中で、イスラーム教への改宗者が増えていく中、「マイノリティのヒンドゥー教徒」ながらも、高い知性と学識により、独立以前の歴代のカシミールの王朝時代に主に官職で重用されることにより繁栄」したコミュニティ。
時代的にも「抑圧」により流出したわけではないが、インド国民会議派を率いて、インドを独立に導き、初代首相となったジャワーハルラール・ネルーを生んだのは、まさにこの「カシミーリー・ブラーフマン」コミュニティであった。
独立インドのカシミール地方においては、とりわけ1980年代中盤以降は、イスラーム民兵、テロリスト等による襲撃が急増したことから、パンディット・コミュニティの中の大半が自国内で難民化した。
国民会議派率いるUPA政権時代の2008年から、カシミールから流出したパンディットたちの再定住化が試みられているが、あまり芳しい効果出ていないようだ。
Our Moon Has Blood Clots: The Exodus of the Kashmiri Pandits
By Rahul Pandita
ISBN-10: 8184000871
ISBN-13: 978-8184000870 -
寛容な国の不寛容
2012年の最高裁判決で「2022年までに廃止」が命じられていたムスリムの「ハッジ巡礼補助制度」がずいぶん前倒しで「2018年から廃止」となった。
植民地時代にルーツを持つものだが、国民会議派時代に最大マイノリティのムスリムの支持を取り付けるために利用されてきた。本来世俗主義のインドで個人の信仰のためにこういう補助がなされるのはおかしい。政教分離とはいいながらも、私たちの感覚からすると「いかがなものか?」と思われることは少なくない。ともあれ、こうしたことがまかり通ってきた背景には、国民会議派の遺産ということもあるし、マジョリティであるヒンドゥーがマイノリティのムスリムへの寛容さというか、度量の大きさがあったからとも言える。
そこにくると、「あと4年の猶予」がありながらも、ずいぶん前倒しで今年から制度を取りやめるのは、やはりそのあたりの懐の狭さというか、不寛容さというかを感じさせるものである。それでもまだ、1992年のバーブリー・マスジッド破壊事件とそれに続いた各地でのコミュナルな流血を主導していた彼らの行ないよりはよほどマシかもしれない。
当時、マスジッド破壊へと導いた「ラームジャナムブーミーでの寺院再建計画」を指揮したVHP幹部アーショーク・スィンガル、アーチャーリャー・ギリラージ・キショール(両者ともに今は故人)とともに現在中央政府与党のBJPで現在首相のモーディーが台頭する前の大幹部L.K.アドヴァニー、ムルリー・マノーハル・ジョーシー、当時過激な言動で勢力を急進させたウマー・バーラティー女史が文化財破壊(バーブリー・マスジッド)のかどで起訴されていた。これに続いた一連のコミュナルな衝突で亡くなった何千もの人命に責任がある彼らだったが、アドヴァニーはヴァジパイー政権下で首相に次ぐナンバー2である内務大臣職に就く。2014年の総選挙を迎えるに先立ち、首相職に大いに意欲を見せていたアドヴァニーは当時86歳という高齢ながらも健康で頭脳の回転も相変わらずシャープ。グジャラート州で活躍していたモーディーがデリーの党中央で台頭することにより、隅に追いやられることとなった。このときの党内での政争に敗れることがなければ、現在インドの首相になっていたはず。マノーハル・ジョーシーは人材開発省、科学技術省などの大臣職を歴任、ウマー・バーラティーは、MP州首相、のちに中央政府でもやはり大臣職を歴任している。
台頭したモーディーにしてみても、彼が州首相になって間もない2002年にグジャラートのゴードラーで発生した列車焼き討ち事件をきっかけに州全土に広がった反ムスリム暴動の黒幕であったという疑義等から、中央政府首相になる直前まで、米国が入国禁止していた「危険人物」だ。
こうした人物たちが監獄に送られることなく、陽のあたる場所を歩んでいった背後には、やはり国民会議派の勢力の著しい退潮と有権者の意識の変化がある。やはり1990年代初頭のインドでは、まさに「そのとき歴史は動いた」のである。
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名古屋名物パキスタン料理
せっかく名古屋に来たので、味噌カツ、山本屋本店とやらの味噌煮込みうどん、ナントカのきしめんとやらをいろいろ食べてみた。どれもおいしい。さりとて、知る人ぞ知る名店で食べることなく東京に帰るのはもったいないので出かけてみた。
名古屋駅からあおなみ線で南下して荒子川公園駅下車して徒歩15分。港湾地区に近い工業地帯にひょっこり出現するAsia Halal Restaurant。場所柄、お客さんの大半がこのあたりに多いパキスタンの人たち(とりわけ中古車取引関係者が多い)なのではなかろうか。妥協のないパキスタンらしい味わいを期待したい。
パンジャーブのヒルステーション、ビール醸造所で有名なマリー出身で、大柄でガタイの良い店主のアッバースィーさんに「評判を聞いて東京から食べに来ました」と言うと、大変歓迎してくれた。ちょうど食事時ということもあり、私たちが着いたときには誰もいなかった店内がすぐに満員となる。見たところ、他のお客はみんなパキスタンかバングラデシュの人たちであった。
ニハーリーとナーン、そしてチキンビリヤーニーで昼食。盛りが大きく、味付けもパキスタン人客向けという感じだ。店内のお客たちの姿と併せて、名古屋にいることをすっかり忘れて、まるでパキスタンに来ているような気分になる。
隣にあるAbbasi Halal Foodもアッバースィーさんの経営で、パキスタンの食材、清涼飲料や袋菓子などを扱っている。
所在地: 愛知県名古屋市港区善進本町536
電話: 052-398-6128 -

津島市にあるアハマディーヤのモスク
名古屋市や近郊では、あまり観光客には知られていない名所も多い。名鉄津島線で足を伸ばした先は、津島市にあるアハマディーヤのマスジッド。
英領時代のインドの東パンジャーブ(現在はインドとなっている地域)で、イスラーム教スンニー派の流れを汲み、19世紀に始まった革新的な組織だが、印パ分離独立時に本拠地がパキスタンに移動。その後更にイギリスに移転している。
その背景には、アハマディーヤの教義等をめぐって、現在のパキスタンではイスラーム教とは認められておらず、不利な立場に置かれているという不幸な現実がある。
これと重なる時期に、インドではやはりスンニー派の流れのひとつとして活動が始まったデーオバンド学派(ワッハーブ派の影響を強く受けた超保守派)の活動も始まっているが、穏健かつ寛容なアハマディーヤは、これとまったく別の方向性を持つもので、インド世界におけるイスラーム文化の豊かな多様性と奥行きの深さ、イスラーム教学や神学研究の盛んさを象徴しているとも言えるだろう。
日本全国的にどうなのかはよく知らないが、東京首都圏でインド系ムスリムの人々が集う礼拝施設の中で、デーオバンド学派系のダブリーギージャマアト関係のものがかなり多い。そんな中で、都内にもこれらとはまったく異なるアハマディーヤの活動拠点があるとのことで、興味深いものがある。
さて、最寄り駅の青塚駅を降りて、住宅や田畑の眺めが続く中を歩いていくと、屋上にドームを持つ大きなコンクリートの建物が見えてくる。日本国内で最大級のモスクで、建物の完成は2015年だが、アハマディーヤの日本での活動は1930年代から(第二次大戦時により一時中断)と古く、当初は神戸に拠点があったとのこと。
さて、このマスジッドにどなたか常駐されているのかどうか、年始早々(1月2日に訪問した)に開いているかどうかよくわからなかったので、名古屋を出発するときに「本日見学可能ですか?」と電話で確認してから向かった。
到着して、はじめて判ったのだが、教団の方が通いでモスクに駐在されているのではなく、この建物は宣教師の方とご家族の住居も兼ねており、はからずもお正月の団欒のときに突然訪問するという形になってしまった。大変恐縮であるが、いろいろお話を伺うことができた。
津島市という立地がやや不思議な気がしたのだが、愛知県では名古屋港を中心とするエリアで自動車関係の取引をする同胞の方々が多いとのことで、南アジア出身のイスラーム教徒の人たちが多く出入りするモスクが鉄道駅近くにあることが多い首都圏とは、かなり事情が違うようだ。話題は反抗期の青少年、スマホとSNSの功罪についてなどのユニバーサルなトピックにも及び、示唆に富む貴重なご意見をいただくことができた。またいつか機会を得て、イスラームについて、アハマディーヤについてお話を伺いたい。
このたび、津島市にアハマディーヤの大きなモスクがあることを知ったのは、ほんの数日前で、ある方にFBで教えていただいたことがきっかけだった。これがなければモスクを訪れることはなかったし、博学な宣教師の方と知り合うこともできなかった。これについては、まさにSNSの功の部分の恩恵である。
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名古屋市内のチベット仏教寺院 強巴林
名古屋市内にチベット仏教のお寺があることは、だいぶ前から聞いてはいたものの、訪れる機会がなく、そのままになっていた。
正月にたまたま名古屋を訪れる機会があったので、初詣はこの強巴林(チャンバリン)寺に出かけることにした。

敷地入口にマニ車がある。 
チベット仏教寺院 強巴林 このお寺は本山修験宗の倶利伽羅不動寺敷地内にあり、同寺の森下住職がチベットでの修行時に名刹ジョカン寺の高僧から依頼を受けて建立したものである。なお、この女性住職はジョカン寺管長であったボミ・チャンバ・ロドロ師から受戒したチベット仏法僧でもあるとのこと。
他にも日本で、チベット仏教僧侶が駐在していたり、チベット仏教界と交流を持ったりするお寺はあるが、たいてい在インドのチベット亡命社会の仏教界繫がりであるのに対して、ここはチベット本土と直接の繫がりでやっていることが大きな特徴だ。
チベット本土からやってきた僧侶が常駐していると、何かで聞いていたのだが、2011年以降、チベット人僧侶は不在となっているそうだ。同様にお寺の世話をされている方の話では、倶利伽羅寺住職が、このチベット仏教寺について著した書籍もあったとのことで、ぜひ買い求めたかったのだが、中国当局の依頼により発行を取り止めているとのこと。
チベット本土の仏教界は、中国共産党の指導下にあり、寺院などにも共産党の支部が常駐する形にとなっているのが現状なので、とりわけ外国との交流ともなれば、いろいろな障害があったり、突然中国共産党当局から干渉されたりすることもあろうことは想像に難くない。
お堂の入口から先は撮影禁止となっているが、本尊はジョカン寺のそれを忠実に復元したものであるとかで、堂内の形状や装飾なども実に見事なものであった。同寺のホームページ内の「ライトアップ体験ツアー」で建物内外の様子を楽しむことができるようになっているのでご参照願いたい。
堂内を拝観していると、まるでインド各地にあるチベット人コミュニティの仏教寺院を訪問しているかのようで、名古屋に来ていることをしばし忘れてしまいそうになる。
境内にはチベットカフェ「パルコル」もあり、訪れたときは営業時間前で、次の予定もあり食事をすることは出来なかったが、ちょっと興味を引かれた。

チベットカフェ「パルコル」 毎月7日の13時からに強巴林(チャンバリン)祭として、チベット仏教式の法要が営まれているとのこと。そういうタイミングで訪問してみると、なおのこと良いかもしれない。
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外国人歌手によるヒンディーソング
様々な外国人歌手たちによるAe Dil Hai Mushkilのカバー。
Ae Dil Hai Mushkil by Foreigners (Compilation)
上記リンク先の動画に出てくる中のひとり、パレスチナ人歌手Lina SleibiによるTum Hi Hoもなかなか良い。
イラク人歌手Razan RazmiによるTum Hi Hoの動画はこちら。この曲は、よほどアラブ人の琴線に響のだろうか。
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ジンナーの娘 死去
不覚にも、今ごろになって知ったのだが、パキスタン建国の父、ムハンマド・アリー・ジンナーの娘、ディーナー・ワーディヤーが11月に亡くなっていたそうだ。享年98歳。
ジンナーとゾロアスター教徒富豪出身の奥さんとの間の子、ディーナーは長じてゾロアスター教徒出身のクリスチャン実業家と結婚。私生活では母方の人脈との繋がりが濃密だったのかもしれない。
父は建国したばかりのパキスタンの初代総督となったが、娘のディーナーはインド人としてムンバイーに残った。
為政者が勝手に描いた国境線のため、親族がこちらとあちらに引き裂かれるケースは多いが、為政者ジンナーは自身の家族が印パ両側に分裂した。
いかに有能な政治家であっても、家庭のこととなると、また別の話となるようだ。インドを独立に導いたガーンディーもまた、ほとんど聖人に近いイメージで伝えられる姿の裏にあった「父親としてはいかがなものか?」と思われる有様は、映画の題材にさえなっている。
印・パ分離時にインドに残ることを選択したディーナーは、後に米国に移住しているが、近年の風貌は父ジンナーの晩年にそっくりだ。それはともかく、ムンバイーでディーナーがインド政府相手に係争中だったジンナーの屋敷についてはどうなるのだろうか。
Dina Wadia | Passing away of Jinnah’s only child (The Daily Star)
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アングロインディアンの家族史

Sunday's Child 1942年にアーンドラ・プラデーシュ州の港町ヴィザーグ(ヴィシャカパトナム)で生まれ育った女性の自叙伝。
英領末期のインドで、アングロインディアンの家庭で育った著者。父親はカルカッタに本社を置いていたベンガル・ナーグプル鉄道の従業員(機関車運転手)だった。インド独立とともに、こうした各地の鉄道会社は統合されて、現在のインド国鉄となっている。
職員住宅で暮らしていた頃もあったが、後に一軒家を購入している。英国系の人たちが多いエリアであったらしい。
著者が結婚した相手は、同じアングロインディアンで税関職員。植民地インドの政府系の職場には、英国系市民への留保制度があったこともあり、そうした方面での勤め人の占める割合は高かったようだ。
クリスマスが近くなると、アングロインディアンを中心とする鉄道ファミリーの中から若者たちがカルカッタまで汽車に乗って、祝祭のために買い出しに出かけたり、コネを頼りに洋酒を買い付けたりといったエピソードが出てくる。また、同じ『肉食系』のよしみで、ヴィザーグ界隈のムスリムの人たちから解体した食肉を調達といった話も興味深いが、彼らの料理自体もアングロインディアンたちには馴染みの味覚であったらしい。
英国系といっても彼女の家族はカトリック。地域に依る部分が高いとはいえ、アングロインディアンの世帯でカトリックが占める割合は意外と高い。
この本の内容から逸れる。私自身、ヴィザーグの事情はよく知らないのだが、現在のマハーラーシュトラ州において、アングロインディアンたちの中に占めるカトリック人口の割合は高い。その背景には、ポルトガル領であったボンベイが、カタリナ王女の英国王室への輿入れにより、英国に割譲されたため、ポルトガル系をはじめとする在地のカトリック女性(及びインド人のカトリック女性)が英国から渡ってきた男性と結婚するケースは多かったようだ。
『専業主婦』という言葉さえなく、経済的には稼ぎ手である夫に依存していた時代だが、家庭内での仕切りや子の養育の面では専制君主的な存在であったカトリック妻たちは、子供たちをカトリック化して育てたため、夫以降の次世代からは『カトリック世帯化』したらしい。
これについては英国本国も危惧を抱いたものの、さすがに家庭内の事柄だけに、どうにもならなかったようだ。母は強し!である。
本題に戻る。著者のファミリーは1961年に英国に移住。アングロインディアンの最初の国外脱出の大波からしばらく経ってのことであるが、独立インドの混乱がほぼ解消してからも、やはりイギリス系の市民には風向きが悪過ぎると判断の上で出国だ。
インドでは「英国系市民」としての扱いやアイデンティティを持っていたアングロインディアンたちだが、到着した先祖の母国では『インド系移民』として捉えられるわけだが、当時の英国の『揺りかごから墓場まで』と言われた手厚い保護もあってか、比較的スムースな定着に貢献したのかもしれない。
当時着々と増えてきていたインド人をはじめとする南アジア移民たちへの『同胞』としての愛着が表現されるのも興味深い。
英領末期から1970年代に至るまでが舞台となっているが、この書籍が出版されたのは2016年と新しい。amazonのKindleフォーマットでの出版(紙媒体の書籍では発行されていない)というのも今の時代らしく、amazon.co.jpからでも容易に購入できるのはありがたい。著者も現在まだ75歳で元気なようだ。今後もアングロインディアンの生活誌的な作品を発表してくれることを期待したい。
書籍名:Sunday’s Child: An Anglo-Indian Story
著者:Hazel LaPorte Haliburn
ASIN: B01MTT6SGS -
「アーリア人の谷」からのFBリクエスト
2年前、ラダックのマールカーへのトレッキングでガイドをしてもらったT君と、今ごろになってFBで繋がった。
「知らないカシミール人からリクエストが来ている・・・」と思って、よくよく見ると彼だった。ラダック人だが、風貌はまるでカシミール人みたいだ。チベット仏教の地ラダックの西側に、「アーリア人の谷」と呼ばれる地域があり、彼はそこの出身。この地域のアーリア系の人たちが仏教徒化したのはだいぶ時代が下ってからのことのようだが、「先祖伝来のアーリア系仏教徒」というのは、なかなかレアな存在である。
一度だけ、ちょこっと「アーリア人の谷」を訪れたことはあったのだが、何がしかの縁がないと、あまり楽しめないような感じだった。もともと田舎の人たちなので、外国人が突然「やぁ、はじめまして!」と出かけて行っても、まあそんなもんだろう。
彼のFB繋がりの人たちを見てみると、おそらく同郷なのだろう、欧州系みたいな顔立ちなのに名前がチベット仏教徒みたいな人たちが多い。
この地域は、印パに分かれてしまっていて、今では互いに往来できなくなっているというようだ。パキスタン側ではムスリムとなっている同族の人たちが多いらしい。それでもFBを通じて、若い人たちは連絡取ったりするケースも増えているというT君の話はトレッキング中に聞いた。
インド側のT君の村をいつか訪れてみたいが、同様にパキスタン側も行ってみたいものだ。その国境を越えられないので、ずいぶんグルリ、グルリと遠回りすることになるのだが。















