夢心地のマラーイー

店頭の大鍋で牛乳を煮詰めて作ったマラーイー。料理や菓子の材料にもなるが、そのまま食べさせるために提供する店もある。実に濃厚で超おいしい!

少しずつ口に運びながら、しばし幸福感に浸る。近隣にもいくつか同業の店があれば、ハシゴして食べ較べてみるのも楽しい。

生首ボトル

ご存知インドのラム「オールドモンク」のプレミアムバージョンとしての「The Legend」。ハーフボトルで買ったのだが、フルサイズと同じく、生首ボトルでちゃんと箱入り。なかなか高級感がある。

インドでラムは軍需要も多いためか、ちょっと勇ましげな名前のもある。「Commander in Chief」なんて、ちょっといい気分。

ケーキ屋さん大国

実は、インドは知られざるケーキ屋さん大国。かつてこの国でケーキといえば、やけに水分の少ないクリーム(往々にして砂糖のジャリジャリ感も)とパサパサの生地の味気なく、見た目も似たりよったりだったが、今やちょっと大きな街ではケーキ専門店があちこちにあり、そのケーキたるや店ごとに独自の工夫を加えて、まさに百花繚乱!

その背景には経済発展による可処分所得の増大があるのはもちろんだが、インド人の乳製品大好き、甘い物大好きという下地があるわけで、冷蔵庫が普及し、友人たちとの集いの演出の幅も広がり、家庭での需要も増えれば当然のことでもある。

旅行先で仲間が5〜6人くらいいれば、こういうケーキをホールで買ってみんなで楽しみたいところだが、ひとりではそうはいかずカットケーキを。ホールに較べて見劣りはするものの、やはり美味しいものだ。

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サッスーンドック

サッスーンドックにある大きな倉庫建物で「サッスーンドック・アート・プロジェクト」開催中。生臭い魚市場に隣接しているため、空気はどこも強烈な魚の臭いと腐敗臭に満ちていた。ここで売られる様々な魚の中で、チラッと目についたエイ。インドではこの魚はどのように調理されるのだろうか。

思わず「こんなところでアート?と」思いかけたが、アートとは本来私たちの生活からかけ離れたところで、私たちの営みとはかけはなれたテーマで作成されるものではない(中にはそういうのもあるかもしれないが)はずなので、こういう極めて世俗な場所での開催は、案外正しい姿なのかもしれない。

ちなみにそのサッスーンドックだが、いわゆる「バグダディー・ジュー」と呼ばれる植民地時代に中東方面から渡来したユダヤ人たちのうち、サッスーン家の一門が力を蓄えたボンベイ(現ムンバイ)。サッスーン家はその後、カルカッタ、ラングーン、上海、香港そして欧州でも繁栄。

サッスーンの一門が力を蓄えたボンベイ。その後、カルカッタ、ラングーン、上海、香港、そして欧州でも飛躍。

インドにおけるサッスーン一族の始祖、ディヴィッド・サッスーンがボンベイに上陸したのは1832年あたりであったとされる。まだシオニズム運動が始まる前だったので、彼らはアラブ人を自称して、生活スタイルも装いもアラブ人の格好をしていたということは興味深い。当時はまだユダヤ人というアイデンティティーはアラブ人という意識の中に包括されるものであり、そのアラブ人の大多数を占めるイスラーム教徒から見るとユダヤ教徒というマイノリティーではあったものの現在のような「異民族」という扱いではなかった。同様に、今も残るユダヤ人地区はいずれもムスリム地区の中にあり、ムスリムコミュニティーの中の「ユダヤ人組」みたいな形であった。

その後、バグダディー・ジューは植民地当局の主に軍需関係などで稼ぐようになり、「欧州人化」していく。欧風化したのはパールスィーも同様であるのだが。

シオニズム運動、イスラエル建国運動へとユダヤ人国家の実現とパレスチナ人たちからの土地その他の収奪へと向かうにつれてムスリムvsユダヤという、それまではあり得なかった対立軸が出来上がっていった。そんなわけで、イスラエル建国が実現しなければ、昔と同じ今も大きなアラブ社会の中にユダヤ人社会という少し毛色の違う社会がある、その他の地域でもムスリム社会の中に、ユダヤ教という祖を同じくするものの、少し違う信仰の人たちが同じエリアで暮らしているという関係であったことだろう。

現在に至っても、ムンバイ、カルカッタ、ラングーンなどにバグタディーが残したシナゴーグその他の施設があるが、そうしたこところで住み込みなどで世話人をしているのは、ムスリムの人たちであり、昔ながらのムスリムとユダヤ人の親密な関係は継続しているのは幸いである。

喫茶の習慣

インドにおけるチャーイ(チャーエ)といえば、人々の暮らしに欠かせないものとなっているが、その歴史はまだ100年にも届かないことはあまり知られていない。

1903年に制定されたIndian Tea Cessにより、それまで輸出作物として栽培・取引されてきた茶葉がインド国内もマーケットとする方針が定まった。そのあたりではカルカッタやボンベイなどの大都会では英国人のみならずインド人上流・中流階級も紅茶に親しむようになっていたが、あくまで英国式のものであり、しかも高級な嗜みであった。

19世紀にインド各地で茶葉の栽培が広がるとともに、20世紀に入るあたりになると、マラヤやアフリカなど、他の英領地域にも茶園経営は広まり、オランダやフランスなど欧州列強の海外領土でも同様に茶葉の生産が広がりを見せた。

20世紀に入ってしばらくすると、茶葉の取引価格の下落、在庫のだぶつきなども見られるようになり、新たなマーケットを求める必要が出てきた。当然、産地であるインド国内の膨大な人口がその標的となり、1930年代以降、インド紅茶局は国内各地で「紅茶キャンペーン」を展開していくことになる。もちろん当時は今のようなチャーイはまだ誕生しておらず、やはり英国式の飲み方が宣伝されたわけであった。

つまりガーンディーが率いた「塩の行進」(1930年、英国による塩の専売に反対してグジャラート州のダーンディの海岸を目指して歩き、そこで塩を作ってみせた)の頃には、まだそんなものは存在していなかったわけだ。

ガーンディー自身が「アンチ紅茶」の立場を取っていたことはリンク先の記事で初めて知ったが、彼が禁欲的なスタンスであったためのみではなく、紅茶による税収は英国当局の貴重な財源でもあったからなのだろう。

今どこでもあるようなチャーイが街角で普及したのはいつ頃からのことなのだろうか。1930年代から1940年代にかけて紅茶局がインド国内で茶葉普及活動を展開していたというから、やはり街なかや家庭で定着したのは独立後ということになるのかもしれない。あるいはさらに遅く、ある程度生活にゆとりが出てきた1960年代以降ということになるかもしれない。もちろんその中で都市部と田舎での時間差もあったことだろう。

ここからは私の想像だが、1950年代にUPの田舎からカルカッタで大学に進学するために出てきたら、「カレッジストリートのインディアンコーヒーハウスで初めてコーヒーとチャーイを知った」という地方出身の若者もいたかもしれないし、街なかで働く労働者たちの中では、「チャーイは昔はとても高くて手が出なかった。1960年代くらいからかな、俺もようやく飲めるようになったのは。そのあたりになると帰省したら家でもみんな飲むようになっていたよ」というのもあったのかな、そんなことはなかったのかな?などと思いを巡らせてしまう。

Mahatma Gandhi and his anti-tea campaign (BBC NEWS)