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カテゴリー: food & drink

  • デリー到着

    デリー到着

    列車の終着駅はデリーではないので、朝5時20分にセットしていた目覚ましが鳴る前に目が覚めた。 スマホで、しばらくメールのチェックをしてから現在地を調べてみると、もうデリーはすぐそこだ。ヤムナ河の東側を走行しており、じきにこれを越えるところまで来ている。

    車両のアテンダントが「デリーに着くよ」と声をかけにくると、他の人々は起き出して荷物をまとめたりしている。ほぼ定刻の午前6時にニューデリー駅到着。

    ニューデリー駅到着

    あまり早く (午前4時とか) に宿に着くと、まだ部屋がなかったり、前日分まで払えなどと言われたりするが、もうこの時間ならば大丈夫だろう。腹が減ったので食堂開いているところはないかと思って探すが、駅前に面したところに以外ではまだ開いていない。

    歩いて宿のほうに進んでいくと、宿の斜向かいのチャーイ屋は開いていたので、ここで温かいコーヒーを頼む。最近のインドでは都会でも田舎でも、「砂糖少な目で」と注文する中高年をしばしば見かける。そういう時代なのだろう。

  • ゴーラクプルからデリーへ

    ゴーラクプルからデリーへ

    ゴーラクプル始発の列車は、午後4時半に出発だが、少し早めに駅に着いてみると、すでにプラットフォームに停車していた。

    この列車でデリーへ向かう

    本日は奮発して1Aクラスの寝台を取っているが、2Aの車両に併設されている形。2Aとの間にドアがあって仕切られている。そことの間は通行が出来るようになっている。1Aクラスはドアの付いたキャビンになっており、定員は4名。1Aクラスのコンパートメントのためか、客室内にネズミ捕器が設置されている。気が利いているのだかそうではないのだか…?

    1Aクラスの車内。左シート下の灰色の箱みたいに見えるのはネズミ捕り

    出発までしばらくの間、外を眺める。ときおり他の列車が入ってきては通過していく。

    夕食を頼んだが質素な野菜ビリヤーニーだった。

    この列車のGeneral Coachについては、列車到着時から物凄く沢山の人々が乗り込んでいてびっくりした。同じ列車ではあるが、この快適な空間とは正反対のぎゅうぎゅう詰めで苦しい空間がそこにある。この車両のひとつ後ろからもまたジェネラルコーチになっているので、そこでも大変だろう。

    1Aコンパートメントは快適で、同室の人たち(結局四人の定員いっぱいになった)も午後9時くらいには寝たので、こちらも充分眠ることができた。室温もちょうど良い具合。

  • ゴーラクプル2

    ゴーラクプル2

    鉄道駅のクロークルームに荷物預けてから駅を出る。サイクルリクシャーで向かう先は、ゴーラクナート寺院である。おそらくこれがこの街の名前の由来となっているのだろう。⒒世紀のシヴァ派の聖者を祀る寺院だ。ゴーラクプルはやはりかなり貧しい街という気がする。駅前は中心でありながらも、かなり空き地が多く、隙間だらけという感じがする。また高い大きな建物が少なく、フラットな印象。昔のインドという感じだ。途中で踏切を越えるが、遮断機が下りていてもズンズンくぐって進んでいくのがインド流だ。また列車が来てもすぐ目前まで進んでいく。どうしてそんなに急ぐのか。

    ゴーラクナート寺院到着。なかなか見応えのある寺で、本殿以外に複数の参拝できる施設があり、そのひとつの大きなホールには、様々な神々の像がならぶ、いわば神々の博物館のようになっていた。

    ゴーラクナート寺院

    寺院の聖池
    寺院敷地のすぐ外で見かけた露店の食べ物。旨そうなんだか、まったくそうではないんだか・・・。

    その後向かったのは鉄道博物館。ジャンクション駅よりも少し先にあり、19世紀終わりごろに建てられて、鉄道幹部の住居として使用されていた建物の中に入っている。建物もさることながら、中には鉄道導入期の装備や備品なども展示されており、これらはたいていイングランド製。鉄道敷設のころの写真、まだ橋梁が出来る前で、河を鉄道スチーマー(Railway Steamer)という外輪船が結んでいた時期などの写真などもある。またこの時期から独立後あたりまでの写真も飾られている。

    開館は正午と遅いが、夕方7時半まで開いているのはちょっと意外

    客車を改造した食堂

    その中には詩会に出席して何か話をしているハリヴァンシュ・ラーイ・バッチャンの写真もあり、これまた興味深かった。敷地内には、子供たちのためのトイトレイン、使わなくなった客車を利用したカフェテリアなどもあり、これまたいい感じである。どこも手入れが行き届いているのも好印象。田舎の博物館では、どのような分野のものであったとしても、荒れ果てた中にゴミのように打ち捨てられているということが大変多いからだ。屋内展示部分は撮影禁止となっているため、それらについてここで画像で紹介できないのは少々残念である。

    この鉄道博物館の後にはCity Mallモールへ。近年のインドでは、この程度の規模の街にも当たり前のようにモールがある。出来た当初はかなり良かったのではないかと思うが、エスカレーターは片側しか動作しないし、まだ比較的新しいと思われるにも限らず、かなり煤けている。それでも最上階にはシネコンが入っており、グラウンドフロアー外の券売所が混雑していたところを見ると、それなりに繁盛してはいるのだろう。すくなくともシネコンについては。

    モールで昼食

    食事を終えてから、サイクルリクシャーで鉄道駅に向かう。

  • ゴーラクプル1

    ゴーラクプル1

    ベトナム寺院の宿坊で出発の準備。このお寺に起居する尼さん、坊さん、スタッフたちに挨拶をして、少し離れたところにあるメインストリートに出てバスを待つ。

    ほどなくゴーラクプル行きがやってきた。空席はなかったが、それでも押し合いへし合いするほどの混雑ではなかったのは幸いだ。クシーナガルから1時間15分ほどでゴーラクプルに到着。

    サイクルリクシャーでゴーラクプル駅へ。予約してある列車が夕方出発するまでしばらく時間がある。Eチケットに車両番号と座席番号が印字されていなくて、ただconfirmedと書かれているのみなので、念のため確認しておきたかった。駅長室隣にある事務所で尋ねてみると、午後1時くらいにチャートが作成されるまではコーチ番号も座席番号も出てこないとのこと。

    Gorakhpur Junction Station

    この人の名前からしてクリスチャンらしいというだけではなく、なかなか重厚で厳めしい英国風なので、ひょっとして?と思って尋ねてみると、やはりアングロインディアンであった。家の中では英語だけの環境で育ち、学校もイングリッシュ・ミディアムのところであったため、ちゃんとヒンディーを習ったことはないのだという。「もちろん土地の言葉なので、当然毎日しゃべっていますが、ヒンディーの読み書きは苦手です。」と言う。

    イギリスから渡ってきた曽祖父も鉄道員で、技術職であったとのことだ。軍と鉄道はいかにもアングロインディアン的な仕事だが、今でも就職の際の留保があるとのこと。同様に、国会に2議席留保されているよく知られた話だ。

    自宅で奥さんが作ったというブラウニーケーキを分けてくれたが、洋酒がしっかり効いている味は、いかにもアングロイディアン的である。通常、インド人のケーキならば洋酒は入らないのが普通だ。

    家の中では今でも「英国風」の暮らしをしていると言い、スマホに入っている写真をいろいろと見せてくれたが、家屋はインドの庶民そのものという感じで、裕福というわけではないようだ。身内には豪州その他に渡った人もいるというが、まだこのあたりにはかなり多くのアングロインディアンたちが暮らしているという。機会があれば、アングロインディアンの人たちのコミュニティの中で、彼らがどうやって生活しているのか、どういう仕事に就いているのかなどについて知りたいものだ。

    フェイスブックをやっているとのことで、その場でFB友達となった。これで何か質問があったらいつでも連絡できる。便利な時代になったものだ。

  • クシーナガル滞在2

    クシーナガル滞在2

    サモーサーを片手に散歩を開始

    クシーナガル到着の翌朝、最初にマハーパリニルヴァーナ寺院へ。仏陀入滅の地として知られるきれいに整備された遺跡だ。中央にはお堂があり、5世紀の作と言われる涅槃仏が置かれている。私が訪れた時には、タイの仏教徒集団が僧侶に率いられてタイ語で読経。同じく堂内にはミャンマーの一団もあった。こうした中で私もお堂の中に腰を下ろしてしばし瞑想してみる。

    ここでもやはり、いくつものブータン人のグループが来ていた。本日出会ったこうした団体は年配者が多く、引率しているお坊さんによると、帰る日はまだ決めていないとのこと。すでに引退している年齢のようなので、時間はたっぷりあるのだろう。こうした年配者でもけっこうヒンディーが出来るのは、いかにもブータン人らしいところだ。

    ブータンからのご一行。グループには他に十数名の方々があった。

    ここからさらに進むと道路が左側に折れている。ちょうどその折れるところにマーター・クンアル寺院という遺跡がある。ここは、ブッダが亡くなる前に最後の説法をしたところであるとされる。

    マーター・クンアル寺院

    ここから向こうにはチベット寺、インド・スリランカ寺、韓国寺などがある。大韓寺という韓国寺には質実剛健そうな僧侶がいたが、なんとひとりで頑張っているとのこと。ここに来て2年だそうだ。これらの寺については、正直なところボドガヤーにははるか及ばないし、ルンビニーと比較してもかなり見劣りがする。

    チベット寺

    韓国寺

    さらに進んでいくとタイ寺がある。敷地がとこりわけ広く、建物も立派だ。ここにも宿坊があるのだが、タイ人しか泊めないらしい。それは残念。とても快適そうであるのだが。

    タイ寺

    このタイ寺の正面にも同様にタイ様式の建物があるが、それはクリニックであった。各国の寺は社会事業にも熱心なようだが、タイ寺はこのクリニック、そして私が宿泊しているベトナムの寺はタイのクリニックの少し先で、学校を運営している。

    タイ寺が運営するクリニック

    ベトナム寺が運営する学校

    もっと先に進んでいこう。右手にインペリアルホテルという高級ホテルがあり、立ち寄ってみる。昼にはバイキングがあるとのこと。600Rsだそうだ。

    さらに行くと右手に仏塔が見えたので集落の中に入っていくと入口があったが、忙しいのかお勤めの最終なのか、閉ざされたゲートには誰も出てこなかった。チベット仏教系の寺院ではあるようだ。仏跡では往々にしていくつものチベット仏教のお寺がある。インドで根を下ろして活動している様々な宗派が競うようにして、こうした場所にお寺を開のであろう。

    最後にラーマーバール・ストゥーパを訪れた。ここは仏陀が荼毘に付されたとされるところである。今回はいくつかの仏蹟を回ったが、昔はこうしたところに興味がなかったものの、今になってから来ると、なかなか味わいがあっていいのものだ。

    仏陀が荼毘に付されたとされる場所

    サトウキビジュース屋さんは子供たちの人気者
  • クシーナガル滞在1

    クシーナガル滞在1

    ネパール国境からゴーラクプルに到着。駅近くのバスの発着場クシーナガルまでは1時間半ほど。本日の宿泊先は、Linh–Son Vietnamese Chinese Templeというベトナム寺院の宿坊。

    ベトナム寺院のお堂

    寄進者の名前のようだ。
    寺院の広報用ポスター
    ベトナム寺院の宿坊

    ここの尼さんとしばらく話したが、すでに27年間もインドとネパールで修行を続けており、普段はルンビニーの同名のお寺にいることが多いのだとか。昨日まで滞在していたルンビニーで、そのお寺の前を通りかかってはいたのだが門が閉ざされていた。尼さんは、「声かければ開けてくれたのに」と言うが、現在ルンビニーを訪れる人が少ないため、あまり開けていないことが多いのだそうだが、そこでも宿泊は可能であるとのこと。

    隣には大きなストゥーパがそびえるミャンマー寺院があり、食べ物はパッとしないクシーナガルで、なかなか美味しいものにありつけるのはその脇にあるYama Caféというベンガル人が経営するお店。クシーナガルに着いたときにはすでに夕方になっていたので、ここで大変遅い昼食を取る。

    ベトナム寺院の隣にはミャンマー寺院がある。

    ミャンマー寺院入口脇にあるYama Cafe
    Yama Cafeで午後の大変遅い時間帯に「昼食」

    そのわずか2時間後にはベトナム寺で頼んだ夕食を僧侶や尼僧と一緒にいただく。ベトナム人ではない僧侶も一名いたが、この人はヒマーチャルのキンナウル地方から来たとのこと。キンナウルには色白で目鼻立ちのはっきりしたアーリア系の人々が暮らす地域もあるが、この人は欧州人のような風貌であった。

    食事はベトナム風の野菜炒めと野菜スープ、そしてご飯、ダールとチーズ、チャパーティーという、越印折衷の菜食料理。地元のインド人の世話人が調理している。尼さんは長年のインド在住の間、これまで幾多の寺や寺関係施設の建設を手掛けたとのこと。小柄で笑みを絶やさないが、とても芯が強くて精力的な人なのだろう。

    この人が歩んできた人生については、マレーシアのメディアで取り上げられている。
    A Vietnamese nun lives out her dream to help the destitute in India (thestar.com)

    地縁もないところで大きなものを造り、それを維持発展させていく外国人僧侶たちには、無一物の行者が持ち合わせない、有能な営業マン的な感覚と政治的能力が求められる。尼さんがここに来た時には小さなお堂がひとつあるだけであったとのことで、「無の中から造り出さなければならなかった」とのことだが、それを自慢することなく、いついつにこの本堂が出来て、宿泊棟が完成したのは何年前のことで、と実に楽しそうに話してくれる。この寺院はクシーナガルで経済的に恵まれない家庭の子供たちのための学校も運営している。

    境内に漢字で書かれた中国人名の寄進者の名前があったり、寺院の英文名に「Linh–Son Vietnamese Chinese Temple」とあることから、ひょっとすると台湾に移住したベトナム華僑(ベトナム戦争中や南ベトナム陥落後に台湾に移住した華人は多い)と関連があるのかと思ったりしたのだが、そうではないとのこと。

    「香港の篤志家の方と知り合う機会を得てね、その方の寄進でお寺を建てることが出来たのよ。その後にも台湾の方とか中国系の方々とのご縁もあったから、Chineseという名前も付けているの。」

    インドで暮らしている人たちにもいろいろあり、仏教界の人々のそれはまた俗世の人たちのそれと違うようでいて、実際にはそうした社会生活、経済生活が必要であり、寺院の維持発展のためにも、俗世と仏門の間の境界は限りなく低いのかもしれない。

    上階には法要等を営むことの出来る広いスペースがあり、それと隣り合わせて尼さんの執務室があり、規模は大きくないが、きちんと整頓されていて、いかにもデキる人のオフィスという印象。

    尼さんよりもひと回り以上年下と思われる僧侶のほうは、ここに来て2年半とのことだが、その前はアメリカにいたとのこと。家族と一緒で、仕事をしていたということだが、それでなぜ今ここにいるのかについては、さすがに尋ねることはできない。

  • ターンセーンからルンビニーへ

    ターンセーンからルンビニーへ

    ターンセーンのバススタンド

    朝8時発にターンセーンを出発するバスを利用する。来るときと違って、バイラワーに直行するバスを利用するため、ブトワルで乗り換える必要がない。部屋の鍵をオーナーのシュレスタさんに渡して外に出る。朝起きたあたりから外では箒で路上を清掃する音がしていたが、町中のどこでも同様のようだ。この町は本当にゴミが少なく、とりわけ朝の時間帯にはゴミひとつないという印象。

    バンクロードに出てから、斜面の長い坂道を下ったところがバススタンド。8時出発のバスはすでに来ていた。出発時間までしばらくあるので、ヒマそうにしていた運転手にバイラワー到着のおおよその時刻を尋ねると、午前10時半くらいとのこと。到着時間を本日宿泊予定のホテルにスマホで伝える。タクシーを差し回してくれることになっている。

    こちらはブトワルまでしか行かないバス

    こちらがバイラワーまで直行するバス

    バスの表示には、国境のスナウリーまで行くように書かれているが、このバスの終点はバイラワーのバススタンドであるそうだ。出発時刻直前くらいになって、乗客がどかどかと集まり、定刻にバスは発車した。

    マハーバーラタ山脈の山あいの景色を目にしながら、バスはスィッダールタ・ハイウェイを南下して、平地に向けて走って行く。途中で朝食休憩の時間があった。沿道でダーバーがいくつか軒を連ねている場所で、いくつものバスが停車している。

    朝食休憩地
    朝食休憩
    可愛い同乗者たち

    やがて山地から平地に出ると、すぐにブトワルに出た。目抜き通りが国道であるためもあり、ずいぶん立派な街に見える。建物も大きく、新しくて見事な家屋も多いようだ。総体的に裕福なところであるようにも思える。交通の要衝である以外に、何で栄えている街なのかよく知らないが、固有の産業でもあるのだろうか。

    ブトワルの町

    ブトワルの街を出たあたりで沿道にはバイクの長い列が連なっている。ガソリンスタンドの給油待ちの行列だ。インドによる封鎖の影響だが、こんな具合だと、給油するだけで1日がかりになってしまいそうだ。

    給油待ちの非常に長い行列

    たいていの乗客はブトワルで下車。バイラワーまでは閑散とした車内であった。

    ここまで下ってくると、もうネパールにいるという気はあまりしない。入国したときに感じた、「インドでは見かけない企業の広告がある」ということを除けば、インドに戻ってきたかのようだ。

    あと異なるのは、当然ここはインドではないため、地元の人とヒンディーで話すことについて、何がしかのうしろめたさを感じることである。相手もネパール語ならともかく、見るからにインド人ではない第三国の人がヒンディーで話しかけてくる、ということついては、ちょっとした意外感があるようだ。あまり胸を張って話しかけられるという具合ではない。かといって遠慮しなくてはというほどでもないようにも感じられる。

    ネパールの人で、ヒンディーについてはふだんからごく近しい関係であり、日常的に露出が多いため、理解する人、たいへん流暢な人が多いが、そのいっぽう、理解するけれども話すとかなり妙な間違いがあるという人も少なくない。だが、そういうベースがあるので、インドにしばらく暮らすと、インド人と対等に話すことができるようになる。やはり近い関係にある言語というものは有利だ。

    ブトワルを出てから40分ほどでバイラワーに到着した。バススタンド(ここでは「バスパーク」と呼ぶ)に近づいたあたりで、宿から差し回しのタクシーの運転手から電話が入った。もうじきに着くと返事して、少しバススタンドで待ってもらうことにした。

    バスパークに到着。降車口にタクシー運転手が来てくれた。ここまで来ると、あたりの人々の顔立ちはすっかりインド人だし、景色もインドと同じだ。バイラワーの北郊外にあるバスパークから少し南に下ると市街地に入る。このあたりまでは、かなり交通量が多いのだが、右折してルンビニー方面に向かうタウリハワー・ロードに入ると、片側二車線の立派な道路であるにも関わらず、バイクと自転車しか走っていない異様な光景となる。地元政党によるバンドのためで、四輪車は緊急車両、スクールバス等を除き、通行することが許されない。公共バスの往来は、もう4カ月以上も止まっているとのことだ。

    そうしたバスも収益あってのことなので、オーナーや運転手、車掌のようにそれで収入を得ている人たちもそうだが、地元の住民たちも大変である。早くこうした状況が終わるといいのだが、これもやはり9月に制定された憲法問題の決着を見るまでは、そのまま続いてしまうのだろう。この10日間だけ、ルンビニーで開かれる仏教関係の祝祭のため、「外国人ツーリストのみ」を乗せたタクシーは、通行できるようになっているとのこと。

    交通の遮断はさておき、インドによる封鎖については、これによって燃料代が2倍、3倍にもなっていると運転手の話。

    空っぽになっているルンビニーのバススタンドのところで左に折れて、ルンビニーの集落までしばらく走る。遺跡地域はレンガ積みの壁で囲われている。道路右手が遺跡地域だが、左手には宿、食堂や店などが並んでいる。今シーズンは大変なスランプで、どこも困っていることだろう。

  • ターンセーン滞在2

    ターンセーン滞在2

    ネパールで販売されているタバコのパッケージが大変なことになっている。癌になった肺の解剖写真が表裏両面に大きく印刷されているのだ。インド、タイその他でも、パッケージにこのような写真が印刷されるようになっているが、タバコを締め出すのは世界的な流れであり、ブータンのように10年以上も前から国内でタバコの売買自体を非合法とする「禁煙国」さえある。日本のように「喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります。」と書く程度では甘すぎるといったところだろう。

    タバコの過激なパッケージ

    ポーカラーからインド国境に至る途中にあり、長いバス旅を途中でブレークするのにちょうどいいロケーションのターンセーン、地元の人は往々にしてパルパーと呼ぶが、カトマンズ等から来たネパール人観光客の姿が多い。同様に、本日からの自転車のレースに参加するというネパール人サイクリストたちの姿もある。最近はそういう若者もいるようで頼もしい。だが外国人の姿は想像していたよりもかなり少ない。

    今年5月の大地震、9月から施行となった新憲法の内容に異議を唱えるタライ地域の政治問題、インドによるブロッケード等の問題がその理由なのだろう。地震については、このあたりは影響なかったのだが。空路の出入り口はカトマンズとなるし、やはり敬遠されてしまうこと、カトマンズ盆地その他のメジャーなスポットを訪問したついでにターンセーンを訪れることはあっても、この町が単体で集客できるんけではないので、やはりこういうことになるのだろう。

    近年、日本に留学するネパールの若者が急増しているが、ここもまたそれを斡旋する業者のようだ。

    「安く酔える酒」として人気があるのかどうかは知らないが・・・。
    トラック野郎

    観光業というのは実に水物だ。日本で、今年5月以降の箱根が火山活動の活発化により閑散としていたが、こうした仕事に従事している人たちにとってはとんだ災難だろう。火山活動の鎮静化しているようなので、今ごろは客足が回復していることであろうが。

    昼食は昨夜夕食同様にNanglo Westに行った。

    チキンシズラーを注文

    町を歩いていると、近年の背の高い建築については、壁をチョンと押すと、ただちに崩壊するのではないかという気がする脆弱そうな建物をよく見かける。壁に漆喰が塗られていたり、その上からペンキで処理してあると、まるでしっかりしたコンクリの壁のように見えるが、実際はごくわずかに鉄筋入った柱で組んだフレームと、壁はすべてレンガ積み。重量はあるし、フレキシブルさもないため、地震が発生したならば非常に危険だ。

    少し揺れたら崩壊しそう・・・。

    だが、ターンセーンはいい町だ。ネワール建築が数多く残る落ち着いた町並み、斜面からの眺め、背後の山に囲まれた景色等々、ゆったりとした気分にさせてくれる。町の一角では、真鍮細工を生業にする人たちが集住している地域があり、彼らの仕事ぶりを拝見することができる。

    ターンセーンのカレッジ。立派な建物だ。
    山の斜面に位置するターンセーンは坂の町
    町から南側を見下ろすとこんな具合
    町の北側には山の景色が広がる。
    伝統的な真鍮加工を生業とする人たちのエリア
    真鍮加工の職人さんの手仕事

    ターンセーンにやってくる際、先に訪れるつもりであったルンビニーに行くことが出来なかったので、スマホからルンビニーの宿2、3件に交通について質問メールしてみた。すると直後にひとつの宿から返信があったので電話してみた。ルンビニーからクルマをアレンジするとのことだ。現在、タライ地域の政治問題により、バイラワーからルンビニーへ公共バスは運行していない。地元の人々は日々大変困るだろうが、どうしているのだろうか。

    夕食もNanglo Westに行ってしまった。

    チキンのソテーと水牛肉の炒め物
    キッチンを「魅せる場」として演出しているのもさすがだ。
    満腹になって宿に戻る。
  • ターンセーン滞在1

    ターンセーン滞在1

    こちらは、ターンセーンでの滞在先、マンモーハン・シュレスタ氏のCity View Homestay。外が明るくなってきたので、さっそく町歩きに出ることにする。

    ターンセーンでの滞在先

    昨日夕飯を食べた人気レストラン「Nanglo West」併設のベーカリーで買ったココナツたっぷりのビスケットとマフィンをかじりながら坂道を歩く。

    左手の建物がNanglo West

    Nanglo West併設のベーカリーで買ったココナツクッキー

    ネパールに長くお住まいの日本の方によると、この町の出身で繊維業で財を成した一族の御曹司がアメリカ留学を経て、カトマンズ中心部にレストランとベーカリーをオープンさせたのが、このNangloというチェーン店の始まりであったとのこと。スマートで洗練されたサービス、豊富なメニューと上手な味付け等々、とにかく素晴らしい。飲食業以外にもリゾートも展開しているようだが、このターンセーンには、「Nanglo West」以外にも、「Palpali Chhen」という、このグループが経営するホテルとカフェがある。

    Palpa Chhenのカフェ

    ここで朝食を済ませて外に出ると、上階からカッコいいマウンテンバイクを下ろして来る若者たちのグループがあった。彼らに尋ねてみると、首都カトマンズからやってきたそうだが、本日この町からスタートするレースに参加するのだとのこと。ネパールでも中産階級のこうした年代の人たちは、様々なアクティヴィティーに活発なようである。その他、ネパールの首都圏から普通に観光旅行で来ている人たちも少なくない。

    私が訪れるよりも前に開催されたものだが、こちらもマウンテンバイクによるレースだ。



    どういう料理に使うのは知らないが、ずいぶんカラフルな麺が売られている。

    こんな色合いの麺もあった。

    インド国境からそれほど遠くはないとはいえ、山地に入ってしばらく進んだところにある斜面の町ターンセーンには、中世を思わせる沢山のネワール建築が良い状態で維持されている。町中がきれいに清掃されているのも良い。インド世界の延長線上にあるタライ地域とは別世界である。16世紀にはカトマンズ盆地を窺うほどの勢いの在地勢力の中心地であったというだけに、なかなか見どころは多そうである。だが、もしここがインドの一部になっていたならば、このあたりにもUPやビハールからの人々が多数移住して、すっかりインドになっていたのだろうか、などということも思ってしまう。



    価格の割に高性能な中華スマホHuaweiはネパールでも人気が高いのだろう。

    宿近くのお寺、ビームセン・マンディルはこじんまりしているが優美な姿。いかにもネパールらしい寺院だ。境内では女性たちが鳩に餌を与えていた。

    ビームセン・マンディル


    坂道を下ったところにあるやや大きな寺院、木造で三層になっているアマルナラヤン・マンディルも見応えがある。

    アマルナラヤン・マンディル




    パールパー・ダルバールはマオイストに破壊されたものを修復したとのことだが、この中には入ることはできない。全国各地で内戦を繰り広げたマオイストとの和解と政府への取り込みについては、人類のひとつの快挙と言ってもよいのではなかろうか。もっとも、その後のネパール政局の迷走ぶりは、広く知られているところではあるのだが。

    パールパー・ダルバール敷地への入口

    パールパー・ダルバール

    パルパー・ダルバールの脇に警察署があり、門の前で歩哨に出ている女性警官が可愛らしかったので声をかけてみた。ヒンディーで話すと、にこやかな表情で、すべてネパール語で返事が返ってくる。こちらが尋ねていないことまでいろいろしゃべるので、なかなかおしゃべりらしい。ネパール語なので、ちょこっとだけわかるような、あまりわからないような・・・。

    羽根飾りが素敵な女性警官

    山あいに広がる斜面の町、暖かい陽射しを浴びながら、今日はのんびりと散歩を楽しむことにする。伝統的で落ち着いた佇まいの町並みが素晴らしい。





    「ターンセーン・ダーント・ウプチャール・ケーンドル」という歯医者さん

  • ターンセーンへ

    ターンセーンへ

    ネパールに入国してからネパールのNcellという通信会社のSIMを購入したが、国境越えてからすぐにインドのボーダフォンから、「ネパールでのローミングにようこそ」というSMSが入った。

    国際ローミング(インドの通信会社のネパールでのローミングは割安ではあるが)では、すぐに残高がなくなってしまうので、ネパールのSIM購入したわけであるが、境目のエリアにいるとインド、ネパールどちらのSIMを利用していても、勝手に国際ローミング扱いになってしまう可能性があるはずだが、この地域に住んでいる人にとって、問題はないのだろうか?

    インドからネパールに入国してから、ルンビニーに行くつもりであったが、客待ちしているタクシーに尋ねても、「行けません」との回答しか返ってこない。ツーリストバスならばその方面に行くことが出来るとのことだが、しばらく待ってもそれらしいものはやってこない。ここで言うツーリストバスとは、観光客相手に地域間を運行しているバスも含むが、ここからルンビニー方面にはツアーバスしかないようなので、要はそうしたクルマに便乗させてもらえということだ。

    国境から東方面あるいは西方面に向かうルートは、地域政党がオーガナイズするバンド(ゼネスト)によるチャッカージャーム(交通封鎖)の対象となっていることから、公共バスを含めたクルマの往来は出来なくなっている。(前述のツーリストバス、スクールバス等を除く)

    ネパール南部の政治問題により、ただでさえ外国人越境者がほとんどいないこの場所、時間がもったいないので、バスでターンセーンに行くことにした。地図などでは「ターンセーン」と書いてあるのだが、一般的には「パールパー」と呼ばれているようだ。

    こちらもかねてより訪れたかった場所である。国境から北に向かうルート(ポーカラー方面)については、燃料不足の問題はあるものの、きちんと運行しているのも幸いだ。

    ターンセーンに直行するバスは見つからなかったが、経由地のブトワルに行くバスに乗車。車内には、山岳地から来たと思われる顔立ちの人々が多く、ゴーラクプルからこちらまでのバス車内とは、かなり違った印象がある。

    山の民と思われる風貌の人たちが多い車内

    1時間強でブトワルに到着。よく整備された印象の大きな街で家もきれいなものが多いようだ。ふと思いだしたのだが、インドとネパールの間には15分の時差がある。この時点で4時20分。ブトワルから北は、「山岳の景色が広がっている」というよりも、「壁として立ちふさがっている」という印象を受ける。

    ブトワルから北側は山地

    ブトワルでバスを待っていると、ターンセーン行きのバスはほどなくやってきた。座席確保できて一安心。国境からターンセーンまでは、「ごく当たり前に」高速通信の4Gレベル。今どきは、どこの国でもそうした通信環境が標準になっている。

    ターンセーンを出て山岳地に入ると、かなり電波が切れてネットは使えないものの、微小な電波でGPSは動作するようで、現在位置は逐一確認できる。周囲の山間の景色を眺めながら、バスは進んでいく。眼下はるか下の川に目をやりながら過ごす。日は暮れなずみも車内は家路を急ぐ人々。もはや車内に会話は私が知らない言葉になっている。遠くに来たな、という感じがする。

    間もなく日が暮れる。山道をガタゴト走るバス車内にて。

    ターンセーン到着は午後7時過ぎ。国境からバスで出る際に、今晩の宿の主人、マンモーハン・シュレスターさんに電話しておいたのだが、ここで彼から電話が入った。さきほども一度かかってきたのだが、電波の具合で話すことができなかった。

    バススタンドから徒歩でバンクロードのほうに上がっていく。坂道の町である。かなり古いものが良い状態で残されている町らしく、明日の町歩きが楽しみだ。坂道ではまだ店はいくつも開いており、歩いている人々の姿もある。

    坂道を上がり、右手に折れて、ナングロ・ウエストというレストランが見えたあたりで声をかけてきたやや年配の男性が宿泊先のシュレスタさんであった。良かった。宿はここからすぐ。シュレスタさんは、自宅の一部に旅行者を宿泊させるとともに、彼自身もボランティアの観光案内書を運営されている。

    宿に来る手前で見かけたレストラン「ナングロ・ウエスト」でダルバートの夕食。
    宿の窓から眺めるすっかり静まり返った町。ネパールらしい建物がいくつも見える。
  • ネパール国境へ

    ネパール国境へ

    昨夜(というより今朝がた)寝たのは午前4時くらいであったが、もう7時半過ぎには起きてしまった。昨日は窮屈ながらも列車内で少し寝たこと、このホテルの外が騒々しいことなども理由だが、それ以上に本日の予定があるので、のんびりしていられないということが大きい。
    昨日はほぼ絶食状態であったので、宿の並びにある食堂にて、本日の朝食、トースト、オムレツ、チャーイが、ことさらおいしく感じられる。出来立ての温かい食事はいいな、と思う。

    Gorakhpur Junction駅前の食堂
    朝食

    宿に戻り、荷物を持ってチェックアウト。駅前から出発の国境行きのバスに乗る。ここからネパールとの国境、スナウリーは3時間ほど。

    隣の席の青年は、ムンバイーに働きに出て、ホテルのエレベーターボーイをしていたそうで、久々に帰郷するのだという。こういう人たちが多くこの国境を出入りしているのだろう。同様にネパールからインドへの人身売買もここを通してなされているという黒い話もよくメディアで報じられている。

    車窓左側はインドによる封鎖により留め置かれた輸送車両の長い行列

    国境までまだ10数キロはありそうなところで、道路左側に長い車列が止まっている。これらはすべてインドによる封鎖により留め置かれているものだという。昨年の夏あたりに、ネパールで制定しようとしていた新憲法の内容が、マデースィーの人たちに対して不利な内容となっていることが明らかになったことにより、彼らが暮らすタライ平原部では、地元政党による抗議活動が盛んになっていた。これが現在も続いているのだが、インドもまたこうした状況に鑑み、ネパールに対して独自に制裁を加えることとなったのは昨年9月に新憲法が制定されて以降。ずいぶん長く続いている。

    これにより、ネパールでの燃料や生活物資の不足などが伝えられているとともに、昨年4月と5月に起きた大地震からの復興に影を落としているというが、あまりに強大なインドという隣国との関係で悩まされるのは今に始まったことではなく、同じく国境を接する中国との関係を強化するのは無理もないことだろう。

    これは、南アジアへの影響力強化とインド周辺の国々の囲い込みを着々と進めている中国にとっても好都合なことであり、ネパールに対して様々な経済援助を惜しみなく与える関係となっており、大型の案件のひとつとしてルンビニーの遺跡公園の整備が進められるとともに、運輸関係でも西蔵鉄道をネパール国境まで延伸させるプランや、さらにはカトマンズまで鉄路を伸ばしてリンクさせる計画まである。

    こうした状況はインドにとって看過出来るものではない。新憲法を制定したネパール政府と、これに反対するマデースィー(北インドのビハールやUPの人たちと民族的・文化的背景が共通する人たち)の政党との間の軋轢は、インドにとって自らの影響力を行使する良い機会ということにもなる。

    ネパールへは、モーティハーリーから近いビールガンジから入ることを考えていたのだが、その地域での反政府活動がまだかなり激しいようであるため、予定を変更してこちら側の国境から入ってみることにした次第。

    話は戻る。留め置かれた無数のトラックやトレーラーの長い長い車列。荷主も受け取り手も非常に困っていることだろう。運転手たちに至っては、身動き取れず、さりとて日銭も入らないとあれば、一体どうやって過ごしているのだろうか。彼らが養う家族もいるわけなので、あまりに気の毒というしかない。

    スナウリーに到着。ごみごみした粗末な商店が軒を連ねる中にあるインドのイミグレーションへ。出国印をもらってから、ネパール側に越える。インド人とネパール人はチェックがないので、国境両側は、事実上ひとつの街である。

    だがネパール側に入ると違うのは、インドでは見かけない会社の広告があったり、デーヴァナーガリーで書かれた看板が、ヒンディーではなくネパーリーであったりすることだ。デーヴァナーガリーによる外来語の表記も異なり、例えばVに対してVではなく、BHを当てることなどがある。すると外来語について、Vの字はどう使用しているのか?ということになるが、私はネパール語のことはよく知らない。

    ネパール側でヴィザ代25ドル支払う。Guidebookでは米ドルのみと書かれているのだが、タイ人のグループを率いるインド人ガイドがパスポートをまとめてイミグレーションに持参していたのだが、その会話からインドルピーでも支払いできるらしいことが判った。もっともいつもそうなのかどうかは知らない。

    昨年の大地震とともに、現在進行中のタライ地域の政治問題等により、外国人観光客が非常に少ないため、国境両側のどちらの国のイミグレーションも待ち時間ゼロであった。

    ネパールでは、物資不足により、インドルピーの需要が高まっているという。地元通貨では購入できない燃料等がインドルピーならば買えるという話をネパール側で耳にした。インドルピーのことをネパールでは俗にIC(Indian Currencyの略)と呼ぶようだ。前述のとおり、国境を挟んだ両側は事実上ひとつの町であり、両国の人々は出入国手続き無しで自由に往来できるため、利ザヤの大きい燃料類をインド側で購入して、ネパール側で売りさばくという商売が盛況とのこと。こうした商売に従事する人たちにとっては稼ぎ時ということになるのだろう。

    取り急ぎドルからネパールルピーに両替、そしてネパールのNcellのSIMを購入。インドの場合と異なり、購入してスマホに挿入すると、即座に通話もネットも利用できるのがいい。インドの場合は、それほど迅速ではないのは、セキュリティの関係でそういう措置になっているのではないかと思う。

  • パトナーにて

    パトナーにて

    パトナーの駅前エリア界隈では、無料のWifiが飛んでいることに気が付いた。スマホにFree Wi-Fi Zone of Patnaと出る。タダであるだけに、セキュリティ上の配慮があるのかどうかは知らないが、接続時のパスワード設定がないので、誰でも繋ぐことができる。比較的最近、ハイデラーバードで比較的最近、こうしたサービスが提供されることがニュースになっていたが、まさかバトナ―でもこういうものがあるとは知らなかった。

    この地域のレストランにて昼食。中華料理としてではなく、「インド式中華料理」のチョプスィーは店によってずいぶん違うものが出てくるが、私の好物である。

    チョプスィー

    歴史は長いものの、これといって見るべきものがないパトナーの目玉のひとつ、ゴールガルに行ってみる。英領時代に飢饉対策のために造られた穀物貯蔵庫。ゴールガルは巨大な饅頭を置いたような形で、周囲に付いている階段で登ることができる。天井からはバトナ―市内の眺めがとても良い。ここは、ガーンディー・マイダーンのすぐ西にある。オートはそのマイダーン沿いに走るので、「ああ、ここが州首相が就任の宣誓をすることで知られるあの場所か」と、少々感慨深いものがある。

    ゴールガル
    ゴールガル頂上からの眺め。パトナーには高層建築がまだ多くないことからも、やや昔のインドの街という思いがする。
    ゴールガル頂上から

    そこからパトナー駅前までオートで戻る。バトナ―は、大きな街の割には道があまり広くないところが多く、一方通行であったりするので、ずいぶん迂回していくことになる。駅前に着いたと運転手に告げられても、そうとは判らないのは、あまりに建て込み過ぎて視界が非常に悪いため。巨大な駅舎が、正面の大通りからさえも見えないのである。陸橋を建築中で、さらに交通の流れが悪くなっているし、ずいぶん見通しが悪く、渋滞もひどい。

    バトナー駅前。陸橋を作る大きな工事が進行中とはいえ、この見通しの悪さはひどい。

    いつものことだが、ビハールは、かなり昔のインドという感じがする。田舎がとりわけ貧しいのはもちろんのこと、州都パトナーも人口200万人超の街としては、華やかさに欠けて、地味な印象を受ける。

    駅前に戻って徘徊しているうちに日が暮れた。屋台のミターイー(甘いもの)屋さんがあった。露店にしては、見た目があまりに美しいので試してみると、大変美味であった。少なくともグラーブ・ジャムーンとラースグッラーについては、凄腕の職人さんであることが判った。

    グラーブジャムーン
    ラースグッラー

    界隈で夕食を済ませ、宿への帰り道にあったソニーのスマホ販売店を覗いてみた。5.5インチや6.0インチといった大画面の機種が目玉となっている。それらの多くはデュアルSIM仕様なので、日本国内で販売されているモデルとは異なるのだろう。日本でも複数台持ちしている人たちがけっこういるので、本来ならばデュアルSIMの需要は少なくないことと思うが、やはりまだまだ回線契約とハンドセットが抱き合わせ販売が主流の日本のマーケットならではのことと思われる。

    外国ブランドのスマホ等々の販売店が見られる一角

    ビハールにおいても、スマホの普及は相当なもので、ローカルバスの車内でも、大画面の機種を手にしている人たちがけっこういる。昔と違って、今のインドの田舎の人々の購買力も相当なものである。バス車内等で、じーっとスマホに視線を落として、指をチャカチャカ動かしている人たちの姿は、もはやどこに国にあっても共通の眺めとなっている。

    宿に戻る前に、オートの販売店を覗いてみた。近ごろのオートリクシャーらしく、細部がモダナイズされていて、ちょっといい感じであった。

    夜になってもパトナー駅前の渋滞はひどい。
    ちょっと良さげなレストランで夕食後、シメでお茶を一杯。