バーングラーデーシュの旅行案内書

地球の歩き方 バングラデシュ

日本の出版社から出ているバーングラーデーシュのガイドブックといえば、旅行人の『ウルトラガイド バングラデシュ』くらいかと思っていたが、昨年10月に地球の歩き方から『バングラデシュ』が出ていることに今さらながら気がついた。

近年、日本からアパレル産業を中心に企業の進出が盛んになってきているとともに、同国首都ダーカーに旅行代理店H.I.S.が支店をオープンさせるなど、観光の分野でも一部で注目を集めるようになってきているようだ。

すぐ隣に偉大なインドがあるため、観光地としてクロースアップされる機会が少なく、存在すら霞んでしまう観のある同国だが、なかなかどうして見どころは豊富である。

もちろんここがインドの一部であれば訪れる人は今よりも多かったことだろう。またインドとの間のアクセスは空路・陸路ともに本数は多く、両国の人々以外の第三国の人間である私たちが越えることのできる国境も複数あるため、行き来は決して不便というわけではない。

だがインドのヴィザに近年導入された『2ケ月ルール』のため、インド東部に来たところで『ふと思い立ってバーングラーデーシュに行く』ことが難しくなってしまっている。インド入国前のヴィザ申請の時点で、隣国への出入国を決めておかなくてはならなくなったからだ。

だからといって西ベンガル、アッサムその他インド東部まで来て、この実り豊かな麗しの大地を訪れないというのはもったいない話だ。

インドでも西ベンガル州で親日家、知日家と出会う機会は少なくないが、ことバーングラーデーシュにおいては、日本のバブル時代に出稼ぎに行った経験のある人々が多いこと、日本のODAその他の積極的な援助活動のためもあってか、日本という国に対して好感を抱いてくれている人たちがとても多いようだ。

それはともかく、歴史的にも地理的にも、『インド東部』の一角を成してきた『ベンガル地方』の東部地域だ。南側に開けた海岸線を除き、西・北・東の三方を東インド各州に囲まれ、本来ならばこれらのエリアとの往来の要衝であったはずでもある。

またこの国の将来的な発展のためには、圧倒的に巨大な隣国インドとの活発な交流が欠かせない。同時にインドにとっても、人口1億5千万超という巨大な市場は魅力的だし、この国の背後にあるインド北東諸州の安定的な発展のためには、ベンガル東部を占めるこの国との良好な関係が不可欠である。もちろん今でも両国間の人やモノの行き来は盛んであるのだが、それぞれの国内事情もあり、決して相思相愛の仲というわけではない。

イスラームやヒンドゥーの様々なテラコッタ建築、仏蹟、少数民族の居住地域、マングローブ等々、数々の魅力的な観光資源を有しながらも、知名度が低く訪れる人も多くない現況は、『インド世界』にありながらも『インド国内ではない』 がゆえのことだ。

日本語のガイドブックが出たからといって、訪問者が急増するとは思えないものの、やはり何かのきっかけにはなるはず。今後、必ずや様々な方面で『バーングラーデーシュのファン』が少しずつ増えてくるように思われる。

エア・インディアのスターアライアンス加盟は?

エア・インディアがスターアライアンス加盟を目指すという話を初めて耳にしたのは4年近くも前のこと。

AIR INDIA TO JOIN STAR ALLIANCE (Air India)

本来ならば昨年中に加盟がなされるはずのところ、具体的なアナウンスメントもなく、すっかり忘れかけていた。だがここにきて再びそうした話が今も進行中であることを思い出させる記事を目にしている。

Air India’s promotional fares a hit: records upto 85 % seat factor. Also Air India all set to join Star Alliance (Air India)

Star gives Air India July 31 deadline to meet entry requirements (ATW)

今年7月一杯が期限とのことで、舞台はいよいよ大詰めを迎えようとしているものの、同社のウェブサイトで何かしらの案内がなされているわけでもない。

さて、どうなっているのだろう?

 

ヤンゴンの書店

ヤンゴンのアーロン・ロードとバホー・ロードの交差点脇NANDAWUNという店がある。主にこの国の工芸品を販売する店だが、その店舗の最上階にはミャンマーに関する図書のコーナーがある。

決して広くはないフロアーの一角がそうした書籍の販売に充てられているだけなので、つい見落としてしまいそうだが、ところがどうしてなかなか面白い本も見つかる。

20世紀初頭の英字紙ラングーン・タイムスのクリスマス特集複数年分を収めた複製本、1863年に­­­ボンベイに設立された英資本の会社で、チーク材や茶葉等の貿易を行なったボンベイ・ビルマ貿易会社の社史など、なかなかレアで興味深い(関心があれば・・・)図書があるし、その他歴史的な書籍の復刻版なども置かれている。聞けば、経営者は元国立図書館の館長さんとのことで「なるほど」と納得。

ただしごく一般的な旅行案内書や写真集といった一般書も書棚に並んでいるため、正直なところ玉石混淆という観は否めないものの、ヤンゴンでは他にこうした書店が見当たらないため、印緬関係史に多少なりとも興味があれば、興味深い書籍がいくつか見つかることだろう。最も貴重な書籍はカギのかかった書棚におさめられており、閲覧のみ可能ということになっているが。

NANDAWUNで販売している民芸品類は、ややアップマーケットな値段が付いているが、品揃え充実しているし質も高いものが多い。ミャンマーを訪問される際、ヤンゴンから飛び立つ前に立ち寄ってみるといいかもしれない。

敷地内に独立した書店も経営しているが、そちらで扱っているのは英語の雑誌とビルマ語の実用書のみ。こちらは特に見るべきものはないので、お間違いのないように。

早朝の散歩

こんな建物がまだまだ多く残されている

早朝のヤンゴンのダウンタウンを散策。英領時代の都心であったこの地域では、今も当時の建物が多く残っている。朝6時を回ったところだ。まだ多くの店は閉ざされたままだが、路上に行き交う人々は少なくない。

すでに路上には様々な食べ物屋が出ている。路上では南インド系の女性がマサーラー・ドーサーを焼いている。歩道上の茶屋の椅子には人々が集っている。インド人地区だが、その中で多数派を占めるのはインド系ムスリムだ。

マハーラーシュトラやベンガル等、それぞれの出自ごとのモスクがある。そうした中で決して数は多くないものの、イラン系の人々も混住しており、彼らは父祖の言葉ペルシャ語は失っていても、この地域のムスリムの共通語ないしは身に付けるべき当然の教養として、ウルドゥー語を理解するのは『ノルマ』のようなものらしい。

大樹のたもとの祠

ヒンドゥーの寺も複数あるが、大樹の下にこんな祠もある。霊験あらたかなのかどうか知らないが、結構参拝している人たちがあり、なかなかキレイに手入れしてあるようだ。

中国寺院入口

インド人地区を少し越えると中華街になっている。中国寺院もいくつかあるが、その中のひとつにはこんな文章が掲げられていた。日本軍のビルマ侵攻時代の当地華僑たちの受難について触れられている。

日本軍侵攻時の華僑の受難

路地では菓子類、野菜、果物、肉類に魚介類とあらゆるものが販売されている。大地の豊かな恵みに富むデルタ地帯はここから近い。

中華菓子?なのか知らないがド派手なお菓子
さまざまな魚介類
カエルたちもまた食材

周りを見渡してみると、営業を 開始している店が多くなってきている。だんだんと気温も上がってきた。宿に戻って朝食を取ることにする。

藩主の宮殿転じてブッダ博物館

ミャンマーのシャン州にあるニャウンシュエの町の北側に『ブッダ博物館』がある。この建物は英領時代の藩王国の主の宮殿。しかしながら展示物にはその藩王国を偲ばせるものは何ひとつなく、独自の歴史や文化とは関係なくニュートラルな仏教に焦点を当てた展示となっている。

ここの最後の藩主はイギリスからの独立後、最初のビルマ大統領となった人物であったとのこと。何かで読んだか耳にしたことがある・・・と記憶の糸をたどっていくと、行き着いたのはこの本である。 著者の姉が嫁いだ相手が、ビルマの初代大統領の息子ということであった。

消え去った世界

―あるシャン藩王女の個人史-

著者:ネル・アダムズ

訳者:森博行

出版社:文芸社

ISBN-10: 4835541383

シャン州には、ダーヌー、パラウン、ラフーその他さまざまな民族が居住しているが、『シャン』という州名が示すとおり、主要民族はタイ族の近縁にあたるシャン族だ。

第三次英緬戦争の際に英国側に協力したシャン族の諸侯たちの土地は、コンバウン朝が終焉を迎えてからは、英領期のインドに割拠していた藩王国と同様の扱いとなった。

イギリスが直接支配したビルマ族主体の中央地域と違い、その他の各民族がマジョリティを占める地域は、現地の諸侯たちの自治に委ねられており、イギリスは彼らを通じてそれらの土地を間接統治する形となっていた。ちょうどインド各地に割拠した藩王国のような具合である。あるいは現在のミャンマーの国土の『管区(division)』『州(state)』の区分は、当時の行政の版図を引き継いでいる。

著者のネル・アダムズ (シャン名はサオ・ノン・ウゥ)は、当時のシャン州の藩王国のひとつロークソークで生まれ育ち、ミッションスクールで欧州人の子弟たちや地元の富裕層の子供たちと一緒に教育を受けた。

当時の公用語は英語であったが、こうした全寮制の学校内では英語以外は禁止。イギリスその他の欧州人や英領であったインドからきた職員や教員たち。支配者たちに欧州的な価値観と規律を学ばせることにより、土地の支配層に自分たちと共通の価値観を持たせるとともに、支配層に親英的な空気をみなぎらせることも意図していたのだろう。

今の時代においても国によって濃淡の違いこそあれ、学校教育の場は単に必要な教科を教えるだけではなく、民族教育の場でもあり、国家意識の陶冶の場でもある。

ビルマ族の民族主義運動が高揚していった結果であるこの国の独立は、それまでイギリスに従属していても、ビルマ族に服属しているとは思っていなかった他の民族たちにとって、決して喜ばしいものではなかった。これはその後国内各地で長く続いた内戦の原因といえる。

とりわけ1962年のネ・ウィン率いる国軍によるクーデター以降、中央政府が推し進めた『ビルマ式社会主義』政策は、この国独自の社会主義体制の建設とともに、社会・文化全般の『ビルマ化』でもあり、非ビルマ族がマジョリティを占める地域においては、ビルマ族による『侵略』であったともいえる。

多民族社会における国家の統合おいて、主流派以外の人々が支払うことになる代償は大きい。とりわけその帰属が武力や権力により否応なしに押し付けられた場合には、それまで地域社会が育んできた独自の歴史や文化は軽んじられてしまいがちである。

最後の藩王にして、初代のビルマ大統領であったSAO SHWE THAIKEの宮殿が、その来歴についての説明もなく、ただ『ブッダ博物館』として運営されていることは、まさにそれを象徴しているように感じられる。