日帰りトレック1

この宿ではトレッキングのツアーをアレンジしている。カローから2泊3日でインレー湖に出るコースを勧められた。単に明日それで出発する他の人たちがいるからなのだが。しかしちょうど大きな低気圧が来ており、しばらく天候が非常に悪い。しばしば豪雨がやってきていたため日帰りにすることにした。他の人たちの行程の初日夕方で離脱する形である。

この日のトレッキングに参加するのは、カナダ人4人、フランス人2人、ロシア人が1人、加えて日本人の私である。道案内は宿の女主人の息子と、手伝いのネパール系の男性。

一行は出発する。町の西側に出てしばらく行くと竹で造った本尊のあるお寺。このあたりまではカローの町の郊外だが、そこから先は農村風景が広がる。さらに進むと、ところどころに少数民族の村が点在する山間の景色となってくる。

この時期暑いばかりがミャンマーではない。見渡す限りの山岳風景の中で、あまり高度のある山は見受けられないが、オゾンをたっぷり含んだ空気と涼しい風が心地よい。途中幾度か驟雨に見舞われるが、そう長い時間続かないのは幸いであった。

ちょっと小休止

途中パラウン族、ダーヌー族といった少数民族の村々がある。ガイドブックにヴューポイントと記されているところの少し先にはネパール系の人が経営するトレッカー相手の簡単な食堂がある。

本日のランチ

南アジア系の人々の多くは町中で商業活動を営んでいたり、労働者として働いている人が多いようだが、このあたりの山中で耕作に従事しているネパール系の人々もけっこういるそうだ。この食堂の人たちも本業は農耕である。

山間の耕作地では茶畑がいくつもあった。高原の冷涼な気候が栽培に適しているのだろう。そうした中にたまにごく少量のパイナップルが植えてあったりもするが、こちらは商業用ではなく自家消費目的なのだろう。

茶の苗木が植えられている中にパイナップルもいくつかあった。

ダーヌー族の村に行く。外国人たちの姿を見つけた子供たちが大勢駆け寄ってくる。家々では豚も買われている。立ち寄った村は地形によりふたつの部分に分かれている。

子どもたちと案内人のR氏

村の最初に訪れた部分では、茶の乾燥場があった。基壇部分の下では何か燃料、おそらく木を燃やしているはず。上の部分が熱くなっており、そこに広げている茶歯が乾燥されるようになっている。

茶葉の乾燥場

近年、村の暮らしぶりはよくなってきているとのことで、付近の川で簡単な水力発電が行なわれるようになったことから、ささやかながら電気が来るようになったとのこと。裸電球を灯すのがやっとで、他の電化製品を使用できるほどの規模のものではないそうだが。

また付近で石灰岩が豊富に採れるという事情から、最近はコンクリート・ブロックで家屋を建てるケースが多くなっているとのことだ。

一行は村長の家に向かう。伝統的な高床式の木造家屋である。どこからか年配女性たちがやってきて手工芸品を見せる。その中には嫁入り前の女性のみが着用する衣装がある。飾りのついた頭飾りがそれである。結婚してからはターバンをまとうことになっているそうだ。

アレやコレやといろんな品々を見せてくるが、特にこちらが買う気がないことがわかると、彼女たち同士でのおしゃべりに興じている。もう孫がいるであろうと思われる年齢の女性は、嫁入り前のそうした衣装を付けてジッと鏡に見入っている。この人たちにも確かにそういう時代があったのである。

花嫁姿?の元乙女たち

高床式の家の中は風通しがよくて気持ちがいい。ちょっと磨き上げたら相当居心地の良い部屋になりそうだ。少なくともさきほど見たようなコンクリート・ブロックの家屋よりも健康的だと思われる。しかしコンクリート・ブロックであるがゆえに、その上に漆喰を塗り、さらにはペンキで仕上げて近代的な部屋にすることもできる。それにより長い年月維持できるだろう。どちらが良いのかなんともいえないが、少なくともこれを選択している人たちにとっては、それなりの合理的な理由があるに違いない。

案内人パンジャービー系R氏と背後はネパール系のR氏

そこからふたたびしばらく山道を歩く。ときおり芝生状にごく低い草が茂った開けた場所がある。周囲の山並みの眺めを楽しみながら歩く。

<続く>

カローのスィク教徒の宿

カローの町

ミャンマーのシャン州内のヒルステーションとして知られるカローにやってきた。標高が1,300mくらいあるため、暑季でも充分涼しくエアコンは不要だ。年間で最も気温が上がる時期であるが、日中でも地元の人々の多くは長袖のシャツを着ている。夕方以降は気温が下がるため薄いジャケットが必要になる。

田舎町だが、インド・ネパール系の南アジアをルーツに持つ人々の姿が少なくない。金色のパゴダがところどころにあることを除けば、インドの北東州に来ているような気がしてしまう。

宿はスィク教徒家族の経営である。ロンリープラネットガイドブックの宿の紹介部分で「our pick」という推薦マークが付いているので、どんなところかと思って来たが、建物は木造で室内も壁は木材、天井は竹を編んだものであしらってある。バルコニーも広く、いかにも西洋人ウケしそうな感じのエコノミー宿である。

年齢50代くらいの女主人と妹はかなり流暢なヒンディーを話すが、この家族に限らずカローの町ではこのあたりの世代がちょうどそのボーダーラインのようだ。3人の息子たちはみんなトレッキングガイドでもあるだが、あまり理解しない。家族内での会話はビルマ語であるとのこと。

宿オーナーのパンジャービー家族

彼らの先祖、女主人の祖父がインドから来緬したのは1886年だという。上ビルマがイギリスにより併合され、当時のビルマそのものが英領インドの行政区域の一部として組み込まれた直後に、パンジャーブ州のルディヤーナー近郊のマーナー(माणा)というところから、プラタープ・スィンという男性が妻のシャンター・カウルを伴って、鉄道建設のコントラクターとして来緬したのだそうだ。すでにインドの親戚との接触は途切れているが、所在さえわかればそうした遠戚に連絡を取ってみたいと思うとのこと。

話を聞いていて気が付いたのだが、英領期に父祖が渡ってきた後、インド本土との往来がほとんどない人々にとって『パンジャーブ』とは、今私たちが認識しているものとはかなり違うようだ。それはしばしば19世紀末のインド地図の世界で、現在のヒマーチャル・プラデーシュもパーキスターン領となっている西パンジャーブも彼らにとってはひとつのパンジャーブであったりする。同様のことがヒンドゥスターン平原に先祖の起源を持つインド系ミャンマー人の言うU.P.にも言える。現在のウッタル・プラデーシュではなく、往々にして英領期のユナイテッド・プロヴィンスィズなのだ。

近くにはネパール系の家族が経営しているレストランもある。ここの家族の来緬時期はだいぶ時代が下った第二次大戦中とのこと。歩いてグルッと回ることのできる小さな町だが、タミル系のファミリーとも出会ったし、町中にあるなかなか立派なモスクに出入りするのもやはり亜大陸系のムスリムたちだ。

1947年の印パ分離の悲劇があまりに衝撃的であったがゆえに、これに関する文献、小説、映画等は沢山あるが、これに先立ち1937年に起きた『もうひとつの分離』であるビルマ(ミャンマー)のインドから分離して英連邦内のひとつの自治領となったこと、さらなるナショナリズムの高揚が1948年イギリスからの独立へと導き、さらには1962年のクーデター以降は多数派であるビルマ族主体の国粋化が進んでいく。

こうした中で、当初はインドの新たなフロンティアとして約束されていたはずの地で、立場が次第に苦しくなっていく中、いつの間にかそこはもはやインドではなく、さらに英国が去った後、彼らは抑圧者の手先であった人々として、また出自の異なるヨソ者として遇されるようになっていく。

そうした世相の変化の様子は、アミターヴ・ゴーシュの小説『THE GLASS PALACE』にも描かれているところであるが、この国における亜大陸系の人々の家族史を掘り起こしてみると、興味深いものが多いことと思われる。

チャット高

とりあえず両替と食事のためにダウンタウンのボーヂョー・アウンサン・マーケット界隈へ向かう。

以前は引く手あまたであった外貨両替だが、今回はかなり事情が違っていた。普段ならば随時ドル買いをしている貴金属や宝石等を扱う店で尋ねてみると、両替はしませんと即座に断られたり、レート調べると言ってどこかに電話してから「今日はやめておきます」などと言われたりもした。

昨年以前は1米ドルあたり1,000 ~ 1,100チャット台であったと記憶している。それ以前は1,200 ~ 1,300チャット台の時期もあった。ところが現在は820 ~ 840前後くらいで推移しているようだ。

あまりドルを歓迎するムードではないことにいささか驚きながらも、とりあえずまとまった金額のミャンマー通貨チャットを手にした。

ところで両替のヤンゴンにおける市中レートを日々更新して伝えているウェブサイトもあり参考になる。

Today’s Market Rates

このチャット高については、宿にガサッと置いてあった週刊英字紙ミャンマータイムスのひと月近く前の古新聞に興味深い記事を見つけた。今年に入ってから、ミャンマーでは空前のドル余り状態にあるのだという。

旧英領ながらも、英語で読めるきちんとした現地メディアがほとんど不在といえるミャンマー(New Light of Myanmarという英字日刊紙はあるものの、中身は政府広報紙プラス新華社通信からの配信記事とインターネット上に掲載の各種メディアからの転載)で、唯一の英文によるクオリティ・ペーパーである。

政治、経済、エンターテインメントその他各方面につき、なかなか興味深い記事と分析が掲載されている。日刊紙ではなく週刊というのは寂しいところだが。

『ドル余り』といっても、常時外貨準備高不足および加えて先進国による経済制裁という苦難を強いられてきたこの国である。是非については色々取り沙汰されている昨年11月に実施された総選挙結果により『文民政権』が発足したことを受けて、近々経済制裁が解除されるのではないかという期待から、国外からの投資が急増しているらしい。

加えて、今年1月から2月にかけて国有資産の大規模な売却があり、これについて海外から9億ドル近い大量の資金の流入があったと書かれていた。これが本当であるとすれば、外貨準備高20億ドル少々の国に、いきなりそれの半分近くの外貨が雪崩れ込んだことになる。

具体的にどの国のどういった方面の資金が流入しているのかについては触れられていなかったものの、近年のドル安という外的要因に加えて、ミャンマー国内へのドル流入の急増という内的要因が作用していることはわかった。チャット高により、輸出関連産業は打撃を受けており、とりわけ10%の輸出税が徴収される国外市場向けの製造分野への投資には急ブレーキがかかっている状態であるとのことだ。

そんなわけで外国人旅行者を宿泊させる許可を得ている宿や観光地の入場料、入域料といったものは原則ドル現金払いであるのだが、自国通貨ベースにすると著しく目減りしてしまうのを避けるためか、チャット払いを選好するところもある。従前の逼迫した外貨事情によるものであるものとはいえ、本来ミャンマー国内での支払いは、同国通貨チャットでなされるべきものなのだが。

ここしばらく毎年ヤンゴンを訪れているが、旧市街で植民地時代に造られた建物の取り壊しと新しいビルの建設が続いており、街並みは確実に変化してきている。

昔は苔むしたコロニアル建築が多い河港の街であることから、コールカーターのそれを連想させるものがあったが、今はそうした景観にシンプルなコンクリート仕上げのビルが多く混じり、中国ないしはタイ等の東南アジアの他の国々の街を思わせるものがある。

かつて英領インドの一部を成していたこともある植民地時代の残滓を、今の時代になってようやく脱ぎ捨てようとしているかのようである。また今のミャンマーに影響を与えている国はどこであるかを示しているともいえるだろう。

現在のチャット高には、各国の経済界から『東南アジア最後のフロンティア』市場としての大きな期待感があるのだろう。果たして経済制裁が解除される日が近いのかどうかについては何とも言えないものの、それでもこの国が大きな節目を迎えつつあることは間違いはずだ。

放射能検査

バンコク出発から1時間ほど経つと、ヤンゴン到着の機内アナウンスが流れる。郊外を旋回しながら高度を下げていく中、地上には燦然と黄金色に輝くいくつかの仏塔が見えてくる。まもなく飛行機はヤンゴン国際空港に着陸する。2007年に完成した国際線ターミナルビルは、バンコクのそれとは比較にならないほど規模は小さいものの、きれいでモダンな造りである。

イミグレーションの列に並ぶ。ヤンゴンに乗り入れている航空会社は近隣国のものばかりであり、機材も大きなものは使用されていない。発着便数も少ないため、そう長く待たされることもなく、実に気楽な空の玄関口だ。

出迎え等の人々がたむろする待合室からは、大きなガラス張りになっている室内がすべて見渡せる。入国審査、機内預け荷物が出てくるターンテーブル、カスタムズ等を通過して出口にやってくる人々の姿がよく見える。すぐ横に隣り合う旧態依然の国内線ターミナルとはずいぶんな違いだ。

私の順番が来て係官にパスポートを差し出すと「向こうに戻って放射能検査を受けてください」とのこと。今年3月11日に発生した東日本大震災により、福島第一原子力発電所で深刻な事故が起きたことを踏まえての措置である。

白衣を着た係員が私の身体全体をなめまわすように測定器を当てる。もちろん何の反応も出ないのだが。もし放射能の高い数値が出たら入国できないのかと尋ねると、「どうなんでしょうねぇ。ちょっと私もわかりません」と屈託のない笑顔を見せてくれる。

現場の人たちにしてみれば「わからないけど、上のほうからそういう指示が出たからやっています」というわけなのだろう。居住地ではなく国籍で検査の有無を決めているのがおかしい。たとえ米国在住で長らく自国に戻っていない日本人が「あなたは日本人だから」と検査させられたり、千葉県在住のカナダ人はチェックされなかったりという具合なのだ。

ともあれこれほどの規模の原発事故を経験した国は他には旧ソビエトのみ。世界中で大きなパニックを呼んだチェルノブイリの事故と同じレベル7という最大級のカテゴリーに区分されていることもあり、不安に思われるのは仕方ないだろう。

バンコクを出るときに買ってみた週刊の邦字新聞『バンコク週報』には、在タイの日本食レストランの客離れによる苦戦が伝えられている。また食品のみならず工業製品等も検査のため海港や空港等で長いこと留め置かれるという事例が多々あることが伝えられている。

今や日本産、日本製という『ブランド』が安心と品質のシンボルではなく、『放射能にまみれている・・かも?』と、かなりの疑念を持って見られるようになっているのははなはだ残念である。

MAI (Myanmar Airways International) 成田空港に乗り入れる日はそう遠くない?

1996年から2000年まで関空からヤンゴンまで直行していた全日空のフライトが休止となって以来、日本からミャンマーへダイレクトの便は長らく存在しなかった。

そんな中、この春先にカンボジアのスィアム・レアプ、そしと中国の広州へと新規乗り入れを果たしたMAI (Myanmar Airways International)が近い将来ヤンゴンから成田への乗り入れを計画しているそうだ。

同社は長らく国営航空会社として知られていたが、同国を代表する民間銀行のひとつKANBAWZAが昨年2月に80%の株式を取得し、残りの大半を政府が保有という形になっている。

昨年11月に実施された総選挙により『民政移管を果たした』として、先進国による経済制裁の解除を熱望するミャンマー政府だが、同国が加盟するASEAN自体も同国の国際社会復帰を期待している。そうした中で、ミャンマーは2014年にASEAN議長国となることを希望する意志を表明している。これによって政権の正統性を示すとともに積極的な外交への足掛かりとしたいのだろう。

ミャンマーの『民政移管』については、軍人が制服を脱いだだけとの批判もあるものの、ともすればいくつもの『小さな国々』に分裂しかねなかった独立後の歴史の中で、同国の統一を維持するために国軍が果たしてきた役割は大きかったことは無視できないため、そのすべてを否定することはできないと私は考えている。どこの国にも独自の事情や歴史背景があるものだ。

インドの北東諸州の延長上にある(ナガ族のようにインドとミャンマーにまたがって暮らす民族もいる)民族と文化のモザイクといえる地域だ。東南アジア、南アジアそして中国といった三つの異なる世界がせめぎ合う土地であるだけに、ASEANの他国とは比較にならない固有の不安定な要因を抱えている。

それはともかく、国際社会への飛躍を画策しているのは政府だけではない。1946年にUnion of Burma Airwaysとして設立され、1972年にBurma Airwaysに改称、そして1993年にMyanmar Airways Internationalとなって現在に至るまで、ナショナル・フラッグ・キャリアとしての長い歴史を持つ航空会社も同様だ。

同国を代表する航空会社でありながら、これまで国外の乗り入れ先といえばシンガポール、クアラルンプル、バンコクといったASEAN近隣国首都に加えて、週一便でインドのガヤー(こういうフライトがあるのは面白い)のみという寂しいものであった。

それが先述の最近就航したスィアム・レアプ便、広州便に加えて、今後は東京、ソウル、デリー、ドゥバイ、ジャカルタ、デンパサールといった街への乗り入れという積極的な攻勢をかけようと画策しているというから只事ではない。『民政移管』をテコとしてなんとか飛躍を図りたいという政府とビジネス界双方の強い意志の表れのひとつだろう。今後ミャンマーはこれまで以上に大きく変わる予感がする。

それが同国の国際舞台への復帰と多国間での盛んな経済交流を生むことになるのか、それとも先進国不在の間に積極的に進出してきている中国の草刈り場のままでいることになるのか、それは日本を含めた先進諸国の足並み次第ということになる。