津波後 これから復旧期とは言うものの・・・

 あの「暗黒の日曜日」からすでにひと月近く経った。災害による応急処置的な救援が必要な時期は過ぎ、これからは被災地の人々の生活の再建へと進む時期へと移っている。
 インドネシアのスマトラ島での救援活動にあたっていたシンガポール軍は、1月21日から撤退をはじめているという。理由はやはり「被災地は復旧期に入った」ことである。
 どこかで大災害が起きるたびに多くのメディアが現地に殺到し、映像や記事が社会のすみずみに届くようになる。被災地への同情を含めた人々の関心は集中するが、ニュースとして鮮度を失うようになると、いつしか話題にものぼらなくなってくる。今回の出来事に心を傷めた人々の胸の内には事件の記憶がしっかりと刻まれているにしても。
 だが被災した当事者たちとなると話は違ってくる。二次災害の危険がある間は避難所に身を寄せていても、配給される食糧でなんとかやりすごしてはいても、その後は当然個々の生活再建へと日々努めなくてはならない。
 肉親を失った人々にとってはどんなに辛い日々だろうか。あの日を境に最愛の家族と二度と会えないなんて想像できるだろうか。彼らの直面する現実とは実に残酷である。
住みかのなくなってしまった人たちも頭を抱えているに違いない。家も家財道具も一朝一夕にしてもそろえたわけではない。親から受け継いだり、これまで稼いできたお金でなんとか買い揃えてきたり、要は長い時間をかけて手にしたものである。それらを「復旧」するのは容易なことではない。
 災害は終わったかもしれないが、人々が歩む生活再建への道のりは長い。財力も体力も人それぞれだが、やはり社会的弱者にとってこの負担はあまりに大きい。 
 しかもインドでの被災者には海岸付近の質素な家屋に住むそうした人々が最も多かったのだ。またその中でもとりわけ両親を失った子供たち、それまで養ってくれていた息子たちを失った老人たちはどうすればいいのだろうか。
 
 こんな記事を目にした。
「生きるため離散 子供施設に海外出稼ぎ 被災地の漁村(朝日新聞)」アンダマン&ニコバールを除く本土でとりわけ被害のひどかったタミルナードゥ州のナガパッティナム地区、津波により一家の稼ぎ手が亡くなった、あるいは生活の糧を得る手段を失ったことにより、一家離散してしまうケースが増えているということである。
 はなはだ酷ではあるが、彼らの奮闘の先には生活の「復旧」が本当にあるのかどうかよくわからない。それでも人々は生き抜かなくてはならない。

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大仏は津波を見ていた

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 スマトラ沖で発生した大地震による津波の救援や復興作業にかかわる報道が新聞等のメディアに掲載されない日はない。
 1月15日夕方7時から放送されたテレビ朝日の番組「ドスペ!」では近い将来日本の関東地方を襲う可能性が高いとされる大地震の特集が組まれていたが、その中には九十数年前に鎌倉を襲った津波に関してちょっと気になる話もあった。
 私自身よく知らなかったのだが、かつて鎌倉大仏は「大仏殿」の中に納まっていたのだそうだ。しかし関東大震災のときに発生した津波によって破壊され押し流されてしまい、その災害以来、大仏は露座のままになっているのだという。
 このとき鎌倉に押し寄せた津波について調べてみると、その高さは約3m。大島で12m、房総半島で9mを観測していたのに比較すれば、取るに足らない大きさであったかのように思えるのだが、通常の波と津波とでもたとえ高さが同じであったとしても、波のメカニズムそのもの、動きや厚さも違うため、破壊力には圧倒的な違いがあるらしい。
 例えば通常30?の波で人が倒れることはなくても、これが津波ならばこれを一気に押し流してしまう力がある、というような津波のパワーを確かめる実験も番組の中で行われていた。

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TSUNAMI 

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 よく晴れた穏やかな日曜日の朝、クリスマス明けののんびりとした空気の中で、突然こんな災厄が振ってかかろうと誰が想像できただろうか。
 昨年12月26日に起きたインドネシアのスマトラ沖地震による津波は、インド洋沿岸を中心に各国に大きな被害をもたらした。このニュースに触れるまで「ツナミ」という言葉が英語の語彙に含まれていることを知らなかった。
 またヒンディー語メディアでも同様にその単語を「スナーミー」あるいは「スーナーミー」として使用していたが、まさにこの災害直後に英語経由で入ってきた新しいボキャブラリーではないかと思う。それだけに多くの人々がこの言葉は日本語であることをよく知っているようであった。
 それはともかくインドネシアやマレーシアのまるで湖かと思うような穏やかな海と各地で見られる水上家屋やマーケット、あるいはインドでも砂浜ぎりぎりにある集落などを目にするにつけて、ここの海はいつもこんなに優しいのだろうか、これが日本ならば台風が近づいて海が荒れただけで、根こそぎもっていかれてしまうだろうに・・・などと思っていたのだが。
 津波の到来でたまたま浜辺に居合わせた多くの人々が命を落としたチェンナイのマリーナビーチ。私もその2日前の同時刻にそこを散歩していたのだから、人ごととは思えない。
 津波はインドの東海岸よりもおよそ1時間遅れで西海岸にも到達したとされる。その朝私はフォートコーチンを散歩していた。名物のチャイニーズフィッシングネットを操る人々の姿をぼんやり眺めたり、朝の涼しく肌に心地よい潮風を楽しんだりしていた。
 朽ち果てたような旧い洋館が立ち並ぶ町中へと足を向けると、道路わきの水路の両側に人々が集まっている。立ち止まって私も覗き込んでみると、特に何があるわけでもなかった。
「急に水位が上がっている」
 普段流れる水量がどのくらいのものなのか見当もつかないが、もうすこしで溢れそうなくらいまできている。
「雨が降ったわけでもないのにな」
 ユダヤ教徒のシナゴーグがあるマッタンチェリー地区へ行ってみた。以前はスパイスの卸問屋ばかり立ち並んでいた通りなのだが、今では観光客相手のカフェ、骨董品やみやげ物を売るも店などがその周辺に密集している。
 その後界隈を見物して歩いていると、通りの家から出てきた初老の男に呼び止められて世間話に付き合うことになった。退職した元学校教員だという彼の口から突拍子もない話が出てきた。
「アジアのどこかで大地震があって、チェンナイでは数百人も亡くなったらしい・・・」
 私はてっきりこの男がちょっとボケているのかと思い、まともに取り合わなかった。

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国境地帯の地雷原

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 アフガニスタン、アンゴラ、カンボジアなど内戦が続いた地域では、各地に残された地雷によって多数の市民が負傷しており、そのありさまは日本でもしばしば報道されているが、インドでも同様の問題が起きていることがインディア・トゥデイ誌(12月6日号)に報じられていた。
 最近の印パ関係は比較的良好なものとなっているが、2001年末以降しばらくの間は一触即発の緊張状態が続いていた。
 きっかけとなったのは同年12月にデリーで起きた国会議事堂襲撃テロだ。国家中枢が狙われるという未曾有の大事件を受け、急遽展開した軍事警戒行動「オペレーション・パラークラム」の一環として、ジャンムー&カシミール州、パンジャーブ州、ラージャスターン州にかけての国境地帯におよそ100万個もの地雷が敷設された。
 その結果、2002年1月から2004年3月の間にこの地域に住む一般市民は、死者58名、負傷者310名という犠牲を払うことになった。現在もまだ地雷は除去されたわけではない。今後も悲劇はさらに続くことであろう。
 地雷は、軍人・一般市民の区別なく殺傷するとともに、敷設後長きにわたり人々の生活や往来を著しく阻害する危険な装置だ。一般的に地雷の製造コストは一個あたり3ドルからと言われるほど非常に安価だ。しかも敷設後に人員を配置することなく敵の行動を制限できる。そのため紛争地帯では実に手軽な兵器として使用されているのが現状だ。
 たとえ地雷が戦略上必要なものであったとしても、国際政治や両国の対立となんら関係もない庶民が、たまたま国境地帯に住んでいるがうえに負わされるリスクはあまりに大きすぎる。
 死亡者については25万ルピー、障害が残った者に対しては10万から15万ルピーの補償金が中央政府から支出されている他には、被害者へのリハビリテーションあるいは年金の支出といった対策は講じられていないというから、インドという国に対する地域住民の人心は離れていくのではないだろうか。
 今後急いでそれらを取り除く作業を進めていかなくてはならないはずだが、地雷の除去には製造コストのおよそ50倍の費用がかかるだけではなく、探知機と作業に熟練したスタッフをしても、5000個除去するごとにその中から1人の死者と2人の負傷者が出ると言われるほどのリスクがともなう大事業だ。

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ヴィーラッパンの謎

 警官隊との「エンカウンター」による大盗賊の最期というセンセーショナルなニュースが全インドを駆け巡った。彼の遺体は検死の後に公開され、左額に生々しい銃創を受けた顔写真が各メディアに掲載(インドは倫理基準が違うのでこれは仕方ない)された。時間の経過とともに今回の大捕り物の顛末が次第に明らかになってきている。
 当局はここしばらくの間、ヴィーラッパンの潜伏地に近い村(町?)に土木作業員、食堂のお兄ちゃん、行商人、バスの車掌等々に扮したスパイを放ち動向を探っていたのだという。
 ヴィーラッパンは体調を崩しており治療(喘息とも眼の疾患という説も)を必要としており、医療関係者にコンタクトをとっていた。しかし約束の場所に現れた救急車を運転するのは変装した警察官とは露知らず、たどりついたのは運命の「エンカウンター」の場所。気がつけばヴィーラッパンはすでに特捜隊に取り囲まれていた。
 警察による投降の呼びかけにもかかわらず発砲してきたため、一斉射撃を受けて蜂の巣状態になった救急車の中で一味は絶命していた・・・という具合らしい。
 ここでまず頭に浮かんだのは救急車の運転手に扮していた警官はどうなったのか?悪党ともども銃弾の犠牲になってしまったのだろうか?
 Deccan Heraldの記事によれば、なんと彼は「銃弾の飛び交う下をかいくぐって脱出した」のだという。他紙には「最初からそういう具合に打ち合わせてあった」とも書かれていたが本当だろうか?
 そのあたりはともかく、手の込んだ演出といい派手なエンディングといい、一昔前のインドの勧善懲悪アクション映画みたいだ。

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