今もどこかで

 世界各地のニュースをテレビやラジオなどで網羅するイギリスの公営メディアBBC。ウェブサイト上でも英語によるカバーはもちろんのこと、なんと43言語でのニュースを発信しており、南アジア地域で使用されているコトバだけでもヒンディー語、ウルドゥー語、ベンガル語、タミル語、ネパール語、シンハラ語、パシュトゥー語の6言語に及ぶ。
 文字で書かれた記事のみならず、音声でも聴くことができて便利だ。自国の出来事を各国語で流すのではなく、世界各地で国際ニュースを含めた「地元情報」として発信しているのだから恐れ入る。やはり「太陽が沈まない」とまで言われた大帝国を支配していただけのことはある、といったところだろうか。
 利用できる言語の数も、ニュースの充実度もアメリカのVOAと双璧を成している。
 どちらのメディアもインターネット出現や衛星放送が一般化する前から、ラジオの短波放送などを通じて世界各地の特にメディアへの規制が強い国・地域では「信頼できるソース」として定評が高い。
 世界各地の現場から報道しているだけに、不幸にも命を落とす関係者も少なくないようで、1月下旬にはソマリアで取材中のBBC女性記者が銃弾の犠牲になっている。
 真摯な姿勢で報道の現場に直接かかわる人々の意識はともかくとして、自国民の利益に直接つながらない海外でマスコミ事業をわざわざ行うことにはそれなりの意図があるわけだろう。また発信(国)側の都合によりバイアスがかかる可能性は否定できないが、それらを差し引いても自国の国境を越えグローバルな「公益性」が非常に高いことも間違いない。
 そんな中で日本語を含めた22言語によるニュースを発信しているNHKオンライン。世界各地でそれぞれの言語で流されるラジオ・ジャパンのプログラムを聴くことができる。南アジアの言語もヒンディー語ウルドゥー語ベンガル語で聴取できる。国際ニュースの量も質もはるかに見劣りするが、主に日本の国内ニュースが中心なので、外国の人たちに私たちの国で今起きていることを知ってもらうには良いかもしれない。
 NHKワールド「日本語講座」もあり、各言語による日本語の初歩の手ほどきがなされている。講座のヒンディー語バージョンはもちろんインド人を対象にしたものだが、毎週これを聴いている人たちはどのくらいいるのだろうか。
 ともあれインドで、特に都市部を離れると日本を直接あるいは間接的に知るためのソースは少ない。今もどこかで「ニッポン」にひそかに関心を寄せてくれている人たちが、静かに耳を傾けていることだろう。プログラムの今後一層の発展を期待したい。

天国に一番近い木の下

「▽◇△××!!」 誰かが突然意味不明の大声で怒鳴った。
 びっくりして立ち止まったその瞬間、空気を裂くような鈍い音に続いて軽い地響き。我に返るとすぐ脇に大きな椰子の実がゴロリと転がっているのに気づいて目が飛び出そうになり、全身からサーッと血の気が引いていく。
「大丈夫かっ?」飲み物を手にしたカナダ人カップルが、駆け寄ってきた。昨日この宿で初めて顔を合わせて夕食をともにした彼らだが、今朝はいきなり私の命の恩人である。
 パラダイスのように美しい海岸を散歩して、危うくそのまま天国に行ってしまうところだった。よく晴れた南国のビーチ、どこまでも青く抜けるような澄み切った空、小鳥のさえずりと付近で遊ぶ子供たちの声・・・。こんな平和な朝にこんな危険が待ち受けているのだから、世の中いつ何があるかわかったものではない。「ココナツ直撃で邦人死亡」は勘弁願いたい。
 一説によると、ココナツの落下による死亡事故は世界中で年間150件ほどあるそうで、遊泳中のサメによる被害のおよそ10倍にのぼるということだ。古いものになるが「Falling Coconuts Kill More People Than Shark Attacks」「Famous coconut palms often ‘neutered」といった記事を目にするとこの危険性についてあらためて考えさせられる。
 特に背の高い木になるほど、実の付いている部分が視界に入りにくいうえに、落下に加速がついて破壊力も大きく増すのだから恐ろしい。
 その日はどこを歩いても頭上が気になって仕方なかった。のどかな南国の豊かな緑は、時に何をやらかしてくれるかわからない。

津波後 これから復旧期とは言うものの・・・

 あの「暗黒の日曜日」からすでにひと月近く経った。災害による応急処置的な救援が必要な時期は過ぎ、これからは被災地の人々の生活の再建へと進む時期へと移っている。
 インドネシアのスマトラ島での救援活動にあたっていたシンガポール軍は、1月21日から撤退をはじめているという。理由はやはり「被災地は復旧期に入った」ことである。
 どこかで大災害が起きるたびに多くのメディアが現地に殺到し、映像や記事が社会のすみずみに届くようになる。被災地への同情を含めた人々の関心は集中するが、ニュースとして鮮度を失うようになると、いつしか話題にものぼらなくなってくる。今回の出来事に心を傷めた人々の胸の内には事件の記憶がしっかりと刻まれているにしても。
 だが被災した当事者たちとなると話は違ってくる。二次災害の危険がある間は避難所に身を寄せていても、配給される食糧でなんとかやりすごしてはいても、その後は当然個々の生活再建へと日々努めなくてはならない。
 肉親を失った人々にとってはどんなに辛い日々だろうか。あの日を境に最愛の家族と二度と会えないなんて想像できるだろうか。彼らの直面する現実とは実に残酷である。
住みかのなくなってしまった人たちも頭を抱えているに違いない。家も家財道具も一朝一夕にしてもそろえたわけではない。親から受け継いだり、これまで稼いできたお金でなんとか買い揃えてきたり、要は長い時間をかけて手にしたものである。それらを「復旧」するのは容易なことではない。
 災害は終わったかもしれないが、人々が歩む生活再建への道のりは長い。財力も体力も人それぞれだが、やはり社会的弱者にとってこの負担はあまりに大きい。 
 しかもインドでの被災者には海岸付近の質素な家屋に住むそうした人々が最も多かったのだ。またその中でもとりわけ両親を失った子供たち、それまで養ってくれていた息子たちを失った老人たちはどうすればいいのだろうか。
 
 こんな記事を目にした。
「生きるため離散 子供施設に海外出稼ぎ 被災地の漁村(朝日新聞)」アンダマン&ニコバールを除く本土でとりわけ被害のひどかったタミルナードゥ州のナガパッティナム地区、津波により一家の稼ぎ手が亡くなった、あるいは生活の糧を得る手段を失ったことにより、一家離散してしまうケースが増えているということである。
 はなはだ酷ではあるが、彼らの奮闘の先には生活の「復旧」が本当にあるのかどうかよくわからない。それでも人々は生き抜かなくてはならない。

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大仏は津波を見ていた

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 スマトラ沖で発生した大地震による津波の救援や復興作業にかかわる報道が新聞等のメディアに掲載されない日はない。
 1月15日夕方7時から放送されたテレビ朝日の番組「ドスペ!」では近い将来日本の関東地方を襲う可能性が高いとされる大地震の特集が組まれていたが、その中には九十数年前に鎌倉を襲った津波に関してちょっと気になる話もあった。
 私自身よく知らなかったのだが、かつて鎌倉大仏は「大仏殿」の中に納まっていたのだそうだ。しかし関東大震災のときに発生した津波によって破壊され押し流されてしまい、その災害以来、大仏は露座のままになっているのだという。
 このとき鎌倉に押し寄せた津波について調べてみると、その高さは約3m。大島で12m、房総半島で9mを観測していたのに比較すれば、取るに足らない大きさであったかのように思えるのだが、通常の波と津波とでもたとえ高さが同じであったとしても、波のメカニズムそのもの、動きや厚さも違うため、破壊力には圧倒的な違いがあるらしい。
 例えば通常30?の波で人が倒れることはなくても、これが津波ならばこれを一気に押し流してしまう力がある、というような津波のパワーを確かめる実験も番組の中で行われていた。

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TSUNAMI 

two days prior to the tsunami, marina beach.jpg
 よく晴れた穏やかな日曜日の朝、クリスマス明けののんびりとした空気の中で、突然こんな災厄が振ってかかろうと誰が想像できただろうか。
 昨年12月26日に起きたインドネシアのスマトラ沖地震による津波は、インド洋沿岸を中心に各国に大きな被害をもたらした。このニュースに触れるまで「ツナミ」という言葉が英語の語彙に含まれていることを知らなかった。
 またヒンディー語メディアでも同様にその単語を「スナーミー」あるいは「スーナーミー」として使用していたが、まさにこの災害直後に英語経由で入ってきた新しいボキャブラリーではないかと思う。それだけに多くの人々がこの言葉は日本語であることをよく知っているようであった。
 それはともかくインドネシアやマレーシアのまるで湖かと思うような穏やかな海と各地で見られる水上家屋やマーケット、あるいはインドでも砂浜ぎりぎりにある集落などを目にするにつけて、ここの海はいつもこんなに優しいのだろうか、これが日本ならば台風が近づいて海が荒れただけで、根こそぎもっていかれてしまうだろうに・・・などと思っていたのだが。
 津波の到来でたまたま浜辺に居合わせた多くの人々が命を落としたチェンナイのマリーナビーチ。私もその2日前の同時刻にそこを散歩していたのだから、人ごととは思えない。
 津波はインドの東海岸よりもおよそ1時間遅れで西海岸にも到達したとされる。その朝私はフォートコーチンを散歩していた。名物のチャイニーズフィッシングネットを操る人々の姿をぼんやり眺めたり、朝の涼しく肌に心地よい潮風を楽しんだりしていた。
 朽ち果てたような旧い洋館が立ち並ぶ町中へと足を向けると、道路わきの水路の両側に人々が集まっている。立ち止まって私も覗き込んでみると、特に何があるわけでもなかった。
「急に水位が上がっている」
 普段流れる水量がどのくらいのものなのか見当もつかないが、もうすこしで溢れそうなくらいまできている。
「雨が降ったわけでもないのにな」
 ユダヤ教徒のシナゴーグがあるマッタンチェリー地区へ行ってみた。以前はスパイスの卸問屋ばかり立ち並んでいた通りなのだが、今では観光客相手のカフェ、骨董品やみやげ物を売るも店などがその周辺に密集している。
 その後界隈を見物して歩いていると、通りの家から出てきた初老の男に呼び止められて世間話に付き合うことになった。退職した元学校教員だという彼の口から突拍子もない話が出てきた。
「アジアのどこかで大地震があって、チェンナイでは数百人も亡くなったらしい・・・」
 私はてっきりこの男がちょっとボケているのかと思い、まともに取り合わなかった。

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