備えあれば・・・

 10月8日にパキスタン北部およびインドのカシミール地方の一部に大きな被害をおよぼした大地震。当然のことながら建物のありかたについて反省する声もある。
 インドの一部マスコミでは、日本の建物の多くが耐震・免震構造になっているかのように書かれているものも見かけたが、やはりインドひいては南アジア全域に共通する家屋や商業ビルその他の建築方法についての疑問が提示されているようで、インディアトゥデイ誌10月26日号にもそうした記事が掲載されており、「家屋が崩れるメカニズム」についてイラスト入りで解説してあった。簡単にいえば地震の大きな揺れのため、壁が外側へと引っ張られて倒れこむとともに、天井が落ち込んで崩壊するということだ。


 一見頑丈そうに見える鉄筋コンクリート建築もまた危ない。つまり申し訳程度の鉄芯入りのコンクリート柱で枠組みを作り、レンガを積んで壁を作っただけのアレのことだ。屋上から鉄芯の入った柱がニョキニョキ突き出ているおなじみの風景である。広いバルコニーのはずが、いつの間にか壁と屋根を乗せて部屋となっていたり、二階建てのものがしばらくすると三階建てや四階建てになっていたりするなど、まさに変幻自在である。
 もちろん増築するにあたり、構造自体の強度に対する意識はゼロなのだろう。このような構造物は、重量はヘビー級でも自重を支える以上の強度は期待できないことは素人でもわかる。新興の商業地では、こうした「在来工法」による大型ビルが増えているため、昔よりも地震による危険は増しているのではないだろうか。
 2000年冬に、グジャラート州カッチ地方の中心地ブジの街を訪れた。それに先立つ十数年前にと比較して、ずいぶん市街地が広がるとともに立派なコンドミニアムなどの大型建築が増えているのに驚いたものだ。しかしその1年後、同地域を襲った大地震のため、これらの建物はガレキと化してしまったのはいうまでもない。
 しかし特筆すべきは今年10月の地震の際、JICAがパキスタンで建てたいくつかの学校については、壁にヒビなどの被害は生じても崩壊してしまったものはないということだ。「地震そのもので死んだ者はなく、人々は崩壊し建物に殺された」という声が地元メディア等からあがっているとおり、根本的な問題はいつかやってくる大地震ではなく建物の構造そのものにある。
 行政側としては建築基準を見直す必要があるのだが、必ずしもそれが可能とは限らない。規則を定めてもそれがキチンと行き渡るのかどうかを論じるまでもなく、「耐震建築」にかかるコストを途上国自身がまかなうことができるのかということもある。大気や河川等の汚染等を防ぐための環境基準を先進国並みに厳しいものにできるはずがないのと同じ理由だ。経済的にも技術的にも高い次元にあってこそ可能なことを一律に当てはめることはできない。
 だからといってこのまま放置しておいていいはずもない。可能な範囲で最大限の対応策を練ることが行政に求められているのだ。新しいものを生み出すのは民間の活力に他ならないが、社会のありかたや行方をコントロールするのは行政の役割だ。
 こうした造りの建物は南アジア固有のものであるわけではなく、世界に広く共通するユニバーサルなものであるのだが、大地震の発生が決して少なくない地域においては考え直す必要がある。
 もうひとつ大切なことがある。人々の意識だ。震災に見舞われた地域の方々はさておき、他の地方に暮らしていれば、自分たちが現に暮らしている家屋、そして職場、子供たちの通う学校などが地震に対してこんなにも脆いものであることが実感できるだろうか。
 人が力いっぱい叩いてもビクともしない壁、重い家具を置いても決して抜けることのない頑丈な床。地震の際に発揮される「丈夫さ」はそれらと次元の違うものであるということを頭では理解していても、現に目の前にドッシリと存在しているもの、何年もその姿を変えることなく存在しているものへの信頼感から、何かあっても「ウチは大丈夫だよねぇ」と思っていたり、何の根拠もなしに「ここは大きな地震来ないから」などとして、災害の危機に対して思考停止したりしているということはないのだろうか。
 平穏な日常生活が前触れもなく突然崩壊してしまうのがまさに「災害」なのである。地震はいつどこにやってくるかわからないが、身の回りでできる範囲で用意できることは済ませておくことは大切だ。結果としてそれが役に立とうが立つまいが、「備えあれば憂いなし」である。
 地震大国ニッポンにあって、これはまさに「対岸の火事」ではない。

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