ロヒンギャー難民

最近もまたミャンマーからのロヒンギャー難民たちに関する記事がメディアに頻繁に取り上げられるようになっている。

【ルポ ミャンマー逃れる少数民族】 漂流ロヒンギャ、苦難の道 迫害逃れ、過酷な船旅 (47 NEWS)

昨年、ロヒンギャー問題で知られるヤカイン州のスィットウェを訪れたことがあるが、かつて英領時代には、この街の中心部でおそらくマジョリティを占めて、商業や交易の中心を担ったと思われるベンガル系ムスリムの人たちのタウンシップがある。そこには同じくベンガル系のヒンドゥーの人々も居住していた。

スィットウェへ3 (indo.to)

滞在中にヒンドゥーの人たちの家で結婚式があるとのことで、「ぜひお出でください」と呼ばれていたのだが、その街区はバリケードで封鎖されていて、訪問することはできなかった。
その数日前に、たまたま警官たちのローテーションの隙間であったのか、たまたま入ることが出来て、幾つかの寺院その他を訪れるとともに、訪問先の方々からいろいろお話をうかがうことができたのだが。

実のところ、その結婚式には日程が合わず出席はできないものの、同じ方々からもう少し話を聞いてみたいという思いがあり、足を向けてみたのであるが、バリケードの手前で、「ここから先はロヒンギャー地域だぞ。誰に何の用事だ?」と警官たちに詰問されることとなった。

うっかり先方の住所や名前を口にしては、訪れることになっていた人たちに迷惑が及んではいけないと思い、「いや、向こう側に出る近道かな?と思って・・・」などと言いながら踵を返した次第。通りの反対側から進入を試みてみたが、同じ結果となった。゛

ロヒンギャーとは、一般的に先祖がベンガル地方から移住したムスリムで、現在のミャンマーでは国籍を認められず「不法移民」と定義されている人たちということになっているようだが、ベンガルを出自とするヒンドゥーもまた同様の扱いを受けているように見受けられた。

そのロヒンギャーの人たちだが、母語であるベンガル語の方言以外にも、インド系ムスリムの教養のひとつとして、ウルドゥー語を理解すること、またヒンドゥーの人たちも父祖の地である広義のヒンドゥスターンの言葉としてヒンディーを理解することはこのときの訪問で判った。もちろん個人により理解の度合いに大きな差があり、まったくそれらを理解しない人たちもいるのだが。とりわけ若い世代にその傾向が強いようだ。

アメリカをはじめとする先進主要国から経済制裁を受けていた軍政時代には、ミャンマー国内の人権事情について、各国政府から様々な批判がなされていたが、民政移管に伴い制裁が解除されてからは、そうしたものがトーンダウンするどころか、まさに「見て見ぬふり」という具合になっているように見受けられる。ここ数年間に渡り大盛況のミャンマーブームだが、同国政府の不興を買って、自国企業の投資その他の経済活動に支障が出ることに対する懸念があるがゆえのことと思われる。

Magzterで「立ち読み」

昨年の4月にmagzterで読むインドと題して取り上げてみたことがあるが、その後取り扱う雑誌類はずいぶん増えたし、書籍の扱いも行なうようになったので、ずいぶん便利になってきた。ひとつアカウントを作っておけば、タブレット、スマートフォンその他でそれらをダウンロードして専用アプリ上で閲覧できるのはもちろんのこと、パソコンからウェブサイトにアクセスして、購入した雑誌や書籍を読むことができる。

専用アプリでもウェブサイトでも、まず開いたときに出てくるのは「お勧め」らしき雑誌群であるのは毎回うんざりしたりもするが、自分が定期購読している週刊誌等のコンテンツをいつでもどこでもリアルタイムで入手することができるのはありがたい。インド国外からでもインドで販売されているものと同じ誌面を入手することができる。全国誌以外にもローカルな雑誌の扱いもあり、なかなか使い手がある。

従前は、購入していない誌面については、いくつかのサンプルページのみ見ることができたのだが、アプリを更新すると、定期購読や単号で購入していないタイトルについても全ページ閲覧できるようになっていることに気がついたのは数日前のこと。この措置については期間限定とはいえ、タブレットがネット接続している状態にある限りは、際限なく読み進むことができるわけで、店頭の立ち読み感覚に近いものがある。

時と場所を選ばず、販売エリアを大きく超えて、国外からでもそのように出来るような時代がやってきたとは、実にありがたい限りである。

「英語圏」のメリット

コールカーターで、ある若い日本人男性と出会った。

インドの隣のバーングラーデーシュに4か月滞在して、グラーミーン・バンクでインターンをしていたのだという。これを終えて、数日間コールカーターに滞在してから大学に戻るとのこと。彼は、現在MBAを取得するためにマレーシアの大学に在学中である。

マレーシアの留学生政策についてはよく知らないのだが、同級生の半分くらいが国外から留学しに来ている人たちだという。

今や留学生誘致は、世界的に大きな産業となっていることはご存知のとおりだが、誘致する側としては英語で学ぶ環境は有利に働くことは間違いなく、留学する側にしてみても英語で学べるがゆえに、ハードルが著しく低くなるという利点があることは言うまでもない。

同様のことが、ターゲットとなる層となる自国語が公用語として使われている地域が広い、フランスやスペインなどにも言える。これらに対して、国外に「日本語圏」というものを持たない日本においてはこの部分が大きく異なる。

出生率が著しく高く、世帯ごとの可処分所得も潤沢な中東の湾岸地域にある産油諸国においては、急激な人口増加に対する危機感、そして石油依存の体質から脱却すべく、自前の人材育成に乗り出している国が多く、とりわけ欧米諸国はこうした地域からの留学生誘致に力を入れている。昨年、UAEのアブダビ首長国で開かれた教育フェアにおいては、日本も官民挙げて力を注いだようだが、来場者たちは日本留学関係のエリアはほぼ素通りであったことが一部のメディアで伝えられていた。

投資環境が良好なUAEにおいては、Dubai International Academic Cityに各国の大学が進出して現地キャンパスを開いているが、それらの大学はほぼ英語圏に限られるといってよいだろう。やはりコトバの壁というものは大きいが、こういうところにもインドは堂々と進出することができるのは、やはりこの地域との歴史的な繋がりと、英語力の証といえるかもしれない。

日本政府は中曽根内閣時代以来、留学生誘致に力を入れているものの、現状以上に質と規模を拡大していくのは容易ではなく、「留学生30万人計画」などというものは、音頭を取っている文部科学省自身も実現不可能であると思っているのではないかと思う。仮に本気であるとすれば、正気を疑いたくなる。

もともと日本にやってくる留学生の大半は日本の周辺国であり、経済的な繋がりも深い国々ばかりであり、その他の「圏外」からやってくる例は非常に少ない。また、日本にやってくるにしては「珍しい国」からの留学生については、日本政府が国費学生として丸抱えで招聘している例が多いことについて留意が必要である。そうした国々からは「タダで学ぶことができる」というインセンティブがなければ、恐らく日本にまでやってくることはまずないからである。

身の丈を越えた大きな数を求めるのではなく、質を高めるほうに転換したほうが良いのではないかと思うが、ひょっとすると、少子高齢化が進む中で、外国から高学歴な移民を受け入れて、労働人口の拡充に寄与しようという目的もあるのかもしれないが、実際のところは、学齢期の人々が漸減して、冬の時代を迎えている国内の大学の生き残りのための政策なのではないだろうか。

こればかりはどうにもならないが、もし日本が「英語圏」であったならば、様々な国々からの留学生の招致は現状よりももっと容易であったに違いない。

FRONTLINE インド映画100年記念号

「前線」という名前どおり、思い切り左傾した隔週刊のニュース雑誌。いつも読み応えのある硬派な内容だが、前号(2013年10月18日号)の特集は「インド映画100年」であった。ここで取り上げるのが少々遅くなってしまって恐縮ながらも、iPadやandroidのアプリmagzterからバックナンバーとして購入できるのでご容赦願いたい。

深い洞察眼で物事を徹底的に分析する「しつこいニュース雑誌」が全誌面150数ページのほとんどを費やしての総力特集を組んだだけに、とても濃い内容の記事がズラリと並んでいる。

ノスタルジアや憧れといった感情抜きに、社会学的な見地、言語学的な見地から見た映画事情、昨今の映画検閲の実情について、映画の周辺産業、ボードー語(アッサム州のボードー族の言葉)のようなマイノリティ言語による作品等々、「映画雑誌には出来ない映画特集」で、まさにフロントライン誌でしか読むことのできないものだ。

インドの映画界に関心を持つ者にとってはマストなアイテムと言って間違いない。うっかり買いそびれることがないように!と呼びかけたいところだが、幸いなことにmagzterならばいつでも購入できる。電子媒体なので在庫切れなどということもない。

ずいぶん便利な時代になったものだと思う。

Namaste Bollywood Mook Sutra Vol.4 はじめてのボリウッド

今年の夏、かつて一緒にヒンディーを勉強したドイツ人の旧友と、デリーで久々に顔を合わせて一緒に飲みに出かけた。彼はジャーナリストとして南アジア関係のニュース等を精力的に書いてきた人だが、現在はロンドンに在住。

その彼が言うには、「ロンドンはいいところだよ。誰が暮らしても自分がマイノリティであることをあまり意識しないね。いろんな人々がゴチャまぜに暮らしているから。ドイツではこうはいかないな。それに映画館では最新のボリウッド映画が当たり前に鑑賞できるとなれば、来てみたいと思うだろ?」

彼曰く、観客の大半は南アジア系の人々だそうだが、昔々の宗主国の首都は今でもインドとの間の心理的な距離は近いのかもしれない。ボリウッドをはじめとするインドの大衆娯楽映画の普及の背景には、往々にして文化的・民族的なインフラの下地の存在の有無が大きいということは否定できない。

ところで、ハリウッドに代表されるアメリカの映画の場合は、普遍性が高く、民族性も薄いものととらえられているのではないだろうか。こうした映画が文化圏を越えて広く鑑賞されるのには、世界に浸透している同国の政治・経済・文化の影響というインフラがあるためとみて間違いないだろう。これがフランス映画、イタリア映画となると、まだグローバル性はあるものの、かなり民族色や地域色が濃くなってくるといえるかもしれない。

ここからさらに日本映画、韓国映画となるとずいぶん事情が異なってくる。あくまでも日本の映画、韓国の映画ということで、それぞれの国外の人たちにとって、自分たちの世界とは違う異文化世界の物語ということになる。

ボリウッド映画は、といえばどちらとも少し事情が異なる。隣国パーキスターンのように、あるいはネパールその他の南アジア各国、つまり広義のインド文化圏にある国々の人々にとっては遠い異国の話ではない。加えて世界中に散らばるインド系移民が多くすんでいる地域でも、こうした映画の文化背景は決して遠く離れた世界のことではないだろう。

東南アジア地域に視点を移すと、タミル系住民の多いマレーシアではタミル映画が各地のシアターで公開されており、反対にマレーシアのタミル系住民の規模とは比較にならないほど人口規模は小さいが、北インド系移民の多いタイやミャンマーで劇場公開されるインド映画はボリウッド作品という事情に鑑みても、現地にそれなりの人口規模で在住するインド系の人々の出自による影響は無視できないものがあるようだ。

今思えば、90年代の日本で突如沸き起こった「インド映画ブーム」は何だったのだろう。一般的に市井の人たちの間にインドで製作された作品に対する興味や認識があったわけではない。つまりそれを受け容れるインフラも何もないまっさらな下地であった。少々意地悪な解釈をすれば、ある意図を持った仕掛け人たちが自らの描いた路線で、わずかに存在していた愛好家やその道に通じている人たちを都合よく利用してキャンペーンを張った結果の産物であったといえる。

「自分たちがこれまで親しんできた映画とはずいぶん異なる異次元世界」といったスタンスで、「歌って踊ってハッピーエンド」という紋切り型のワンパターン作品群という前提での取り上げ方であった。そこでは、貧しい庶民が苦しい日常を忘れてつかの間の喜びを見出す場であるなどといういい加減な言質がまかり通り、幾多のメディアによるそうしたスタンスで日本の読者や視聴者たちにそうした印象を与える扱いが相次いでいた。

それまでインド発の娯楽映画がほとんど未知の世界であった日本の観衆は、そうした仕掛け人たちの意図する方向へと容易に誘導されてしまうこととなったのはご存知のとおり。その結果、ヘンな映画、笑える映画といったキワモノの扱いで、ストーリーは単純でコトバが判らなくても楽しめるなどといった、ひどく安っぽいレッテルが貼られることになってしまった。

文化的な面を尊重する姿勢は見当たらず、「上から目線」でリスペクトの感情さえ欠如した負のイメージだけが残ることになり、その「ブーム」当然の帰結として一過性のものとなってしまう。当時のブームを知る世代の間では今も「歌と踊りのハッピーエンドのアレね・・・」という認識が根強く残っているようだ。

インドの娯楽映画に対する理解や普及といった面に限れば、当時刷り込まれた負のイメージの影響が、同国からの映画の日本での普及、とりわけそのインド映画の華といえるボリウッド作品の日本市場への浸透を妨げる要因のひとつとなっていることは否定できず、個人的にはあのような形でのブームはなかったほうが良かったのではないかとさえ思っている。とりわけ現在のボリウッド映画はかつてない幅広いバリエーションの作品群を抱えているだけに非常に残念なことである。

もっとも、当時のブームでインド発の映画作品に触れる機会を持ったことにより、一部ではインドへの留学や舞踊等の伝統文化の習得を目指して渡航する人たちが増えたり、あるいはビジネスでインドと関わりを持ったりする人々が出てきたというプラス面もあったようだ。

前置きが長くなってしまったが本題に入ろう。おなじみNamaste BollywoodのMook Sutraシリーズ第4弾の「はじめてのボリウッド」では、巻頭にて「ボリウッド(梵林)の定義とは」と題して、インド映画の中におけるボリウッド映画の位置づけを示したうえで、この偉大なる娯楽映画の世界を包括的に紹介している。

「梵辞林」という記事では昨今活躍している俳優や女優たちが取り上げられている。こうした企画は他の書籍でもときどきあったが、時代とともに移ろうものなので、ときどきこうして今の時代に旬な出演者たちを確認しておくといい。同様に大切な音楽監督たちやプレイバックシンガーたちついても代表作とともに紹介されており、このあたりをよく把握しておくことで、ボリウッド映画鑑賞の楽しみの奥行きも広がること必至だ。

その他、サルマーン・カーンのブレスレットのような細かな演出、ボリウッド映画のマーケティング戦略等々、この世界にまつわる様々な事柄について言及されている。これらの知識もボリウッドを理解するために大切なファクターである。

またボリウッド映画をめぐり、日本で流布する不可思議な都市伝説についての検証もなされており、これで汚名返上となることを期待せずにはいられない。

今年で2回目となるIFFJ (Indian Film Festival Japan)の開催や時折日本国内でも時折ボリウッドの秀作がロードショー公開されるようになるなどといった、ボリウッドをはじめとするインドの映画を愛する関係者の方々の努力により、これからは上映される作品に対して正当な評価が与えられて普及していくことを願いたい。

ごく一部の例外を除き、私たちの日常にはインドの文化・民族的なインフラがほとんど存在していないという不利な点はあるものの、それとは反対にボリウッド映画をはじめとするインドの映画の裾野の広さがそれをカバーして、日本の人々が自分たちの日常を忘れて異国の夢の世界に遊ぶ愉しみを見つける手助けをしてくれるのではないかという気もしている。

豊かなボリウッド映画世界への案内書として、ぜひともこの一冊をお勧めしたいと思う。お求め先については以下をご参照願いたい。

vol.4「はじめてのボリウッド」好評発売中! (Namaste Bollywood)