インドの東3 バガン遺跡巡り

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朝方まだ涼しいうちに宿の近くのレンタサイクル屋に行き、まずはマーケットで午前中開かれている朝市に行く。ここでは野菜、果物や魚などが売られている。ドリアンを手に入れたかったのだが、残念なことに見つからなかった。
朝市
上ビルマでは一般的にドリアンはあまり好まれないため、下ビルマほどふんだんに売られていないのだということは聞いていたが、このマーケットでも、早朝にはチョコッと並ぶが、すぐになくなってしまうとのことだ。ちょっと残念である。
朝市の主役は女性たちだ。男性で何か商品を持ってきてここで売っている人は皆無ではないにしても、朝市においては見渡す限り売り手はほぼ全員女性。昨日訪れた近くの屋根付きの常設の市場のほうには男性もけっこういるのだが、朝市に限っては、売り手も買い手も圧倒的に女性が多い。
これがインドであれば、売り手はほとんど男性、買い手も多くが男性ということになるのだろうが。女性が外でよく働いているという点では、他の東南アジア各地と共通とはいえ、北東インドのモンゴロイドがマジョリティのところにも通じるものがある。
さまざまな新鮮な食材を目にすると、ちょっと料理の腕(・・・というほどのものではないのだが)を奮ってみたくなった。
井戸
余計なことかもしれないが、少々気になることがある。町のあちこちに井戸があるのはいいのだが、縁の部分がごく浅く、中には深い漆黒の闇。枯れているものも少なくないようだが、ちゃんと水をたたえているものもある。小さな子供はもちろんのこと、大人でも酔っ払いは要注意かもしれない。
尼さんたちが托鉢中
尼さんたちが托鉢している町中を抜けて、遺跡が散在するオールドバガン、ミィンカバー方面へと向かう。自転車があると身軽だ。沿道の遺跡を訪れたり、道路から外れた砂地の轍の上をなぞりながら、彼方に見える仏塔を目指したりする。
カラカラの大地に点在するサボテン。バガンの大地が『テキサスに似ている』というアメリカ人がいたが、確かに西部劇風の荒々しい風景である。そんな中に散在、ところによっては林立している、と表現してもよいくらい沢山の優美なパゴダの姿がある眺めは、その場に身を置いてみても、まるで夢を見ているかのようで、現実感が薄い気がする。
ところでサボテンといえば、このあたりに幾種類か繁殖しているが、その中で最も特徴的なのはこれだろう。
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大きくなると、幹は普通の樹木のような有様になる。育ちに育って『巨木』になっているものもある。しかし枝から先はまぎれもないサボテンだ。しかしながら幹の部分の比重があまり大きくないため、あまりに立派に成長しすぎると、自重を支えきれなくなる傾向がある。幹がボキッと折れて倒れているものをいくつも見かけた。何とも因果で気の毒なサボテンである。
昼近くなると、次第に気温が上がってきて汗だくになる。このところ日中の最高気温は40℃を越えているのだとか。これまでミネラルウォーターを三本飲み干している。木陰でお客を待ち構えている露店で、コーラを飲みながらしばしベンチの上でグデッとノビていると、熱くて乾いた空気が肌を撫でていく。
しばらく休んでいると、シャツもズボンも乾いたが、上から下まで真っ白に塩を吹いている。水分とともにそれほど大量の塩分が体から失われたのだ。疲れるはずだ。喉の渇きと疲れが癒えると、空腹感が頭をもたげてきた。
付近で簡単に昼食を済ませた後、ふたたび自転車にまたがって遺跡巡りをする。大きな寺の内部は、非常に風通しがよくなっている。石の床に座ったり、ゴロリと寝転んでみると実に快適だ。
インドやスリランカから強い影響を受けた建築が多いが、大きな構えの割に内部空間は広くないし、ここで多数の人々が集まることができるようにもなっていない。南アジアの建築において、イスラーム教の与えた影響がいかに大きいかということを、東南アジアの最西の国ミャンマーでひしひしと感じる。
建てた時期も異なるため、様々なスタイルのパゴダが存在しており興味深いが、その内部に鎮座する仏像は、往々にして現代のパゴダで見るものと同じようなマンガチックなものが多い。
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博物館に足を向けてみると、当時のいろいろな仏像の展示がある。石造ひとつとっても砂岩、大理石その他、素材はいろいろある。また木彫やそれに漆を塗ったものもあり、どれも趣のある美しい仏像だ。
もちろん現在の各遺跡において、安置されている仏像が皆安っぽいとは言わないが、玉石混交といった具合だろうか。それでも往々にしてのっぺりとした、今のミャンマーのお寺に普遍的に存在するものをよく目にした。
事前に想像していたよりも、バガンの遺跡は非常によく修復や手入れがなされている。しかし壊れたパゴダを復元するのは結構なことであるとしても、細部に渡りその時代の様式に対する正確な考証や配慮が必要だろう。しかし今のミャンマーに、そこまで期待するのは酷だろうか。
ヒンドゥー寺院、ナッフラウン寺院内では、観光客たちに売るための絵を描いている男がいた。あたかも彼専用のアトリエがごとく、本堂内のかべのあらゆるところに、彼の作品が架けられており、本来そこに祭られている神像がすっかり萎縮しているような状態でびっくり。足を踏み入れた際、私はてっきり『画家の私邸』かと思ったくらいだ。特に大きくて有名な史跡ではまずそういうことはないようだが、やや格が下がってくると、史跡内部を仕事場や店舗としている者をチラホラ見かける。
ミャンマー随一の観光地であるがゆえに、ましてや現金収入の手段がないこの地域の人々にとって、こうした場所で何がしかのモノを売るということは、貴重な収入の手立てとなることはわかるが、遺跡の日常の管理について、もうちょっとどうにかならないものだろうか?
タビィニュ寺院

インドの東2 マウント・ポッパへ

エア・バガンのフライトは定刻に出発。機体は小型ジェット機のフォッカー100。飛行時間は50分。飛び立ってからしばらくすると下降体勢に入り、午前7時半にバガンのニャウン・ウー空港に到着。
到着ターミナルを入ったところでは、バガン遺跡保護区入域料を徴収する係員が待ち構えており、外国人客はここで10ドル支払うことになるが、博物館などを除き、遺跡の入場料を個別に徴収されることはない。この領収書はバガンでホテルに宿泊する際にも提示が求められることになっているようだ。
この場所では、ジョージ・オーウェルの処女作『ビルマの日々』の海賊版がけっこうな値段で販売されていた。値段はともかくとして、またいくらWTO未加盟の国とはいえ、政府が堂々と外国人観光客に対して不正なものを販売するとはいかがなものか?
宿にチェックインしてから、すぐにクルマをチャーターしてマウント・ポッパに向かうことにした。運転手はあまり英語ができないが、それでもなかなか話好きな人のようで、運転中よくしゃべる。走り出してからしばらくしたところで、砂糖ヤシから樹液を取り、それから砂糖、醸造酒、蒸留酒を作っている簡素な作業所を訪れた。
きれいに整列して植えられた砂糖椰子の木には、よく見ると木上のほうにいくつもの素焼きの壷が取り付けてある。そこに人が登り、汁の溜まった壷を取って降りてくる。だいたい一昼夜取り付けておくと、けっこうな量になるらしい。
壺に溜まった樹液を採取
それを女性が漉して大きな壷に集める。これを小屋の中で火にかけて、焦げ付かないようにかき混ぜながら濃縮して、ジャガリー(粗糖)の塊が出来上がる。
砂糖椰子汁を煮詰める女性
ジャガリー
同じくその汁を発酵させて酒を作るのだが、それを蒸留する作業が同じ小屋の中で進行中。ジャガリー、ヤシの汁、発酵酒、蒸留酒とそれぞれ試食、試飲してみた。最初の三つはとりたててどうということはなかったが、蒸留酒は南九州の芋焼酎に似た感じの味わいで、なかなか美味である。
ただいま蒸留中
このあたりの気候といい、乾燥具合や生えている植物といい、東南アジアというよりも北インドに近い雰囲気がある。下ビルマと比べて乾いていて生えている植物も少ない。黙って自然の景色だけを眺めていると、インドにいるかのような気がする。
マウント・ポッパに近くなると、周囲に緑が増えてきた。この山は、丘陵地帯にそそりたつ塔のような、奇妙な形をしている。。近くの死火山だか休火山だかが活動していたときに、噴火したマグマが落ちたところがこの山になったのだとか。
ポッパ山頂
山の頂上まで長い階段が続いている。頂にはタウン・カラッというお寺がある。寺院自体はどうということはないのだが、ここに祭られているのは仏だけではなく、かつて不幸な死を迎えた人たちが精霊として祭られている。この国土着の信仰の聖地でもあるとのことだ。
精霊・・・か?
周囲にもいくつか規模の小さなパゴダや僧院がある。それらの中には、中国寺院風の寺があった。これは寄進者が華人であったために、こういう形になったのだという。漢字で何やら書かれた札もかかっていた。
参道の階段には無数のサルたちがいる。インドにいるのと同じアカゲザルのようだが、気質はだいぶ違うようで、とてもおとなしいようだ。Mt. Poppaから見渡す周囲の広大な風景は見事であった。
山頂の寺自体は取り立ててどうということはなかったが、行き帰りの道すがら、バガンの荒涼とした大地とマウント・ポッパ周辺の緑が多く起伏に富んだ地形の好対照ぶりを眺めることもできて、楽しい一日であった。
夕方、宿に帰着。部屋はコテージになっており、なかなかいい雰囲気だ。中庭にはプールがある。このプールでは、日没後に大きなカエルたちが気持ち良さそうにチャポチャポと泳いでいる。中庭の芝生の上でも、ところどころ彼らの姿を見かけるので、暗いと気をつけないと踏みつけてしまいそうだ。暑い昼間はどこに隠れていたのだろうか?
レストランに出かけて、夕食が運ばれてくる前にマンダレービールを注文。まだ日中の暑さが残っており、ムッとするような空気。テーブルもイスも、手に触れるものすべてがモワ〜ンと生温かいが、ビールだけはよく冷えていた。
グラスに注いでギュッーと喉に流し込むと実に気分爽快。ちなみにこのビール、2年ほど前にカサウリー ビールとIMFL(Indian Made Foreign Liquor)の故郷の中でも触れたが、なかなかインドとゆかりの深い飲み物でもある。
シムラーからチャンディーガル方面に下ったところにあるヒルステーション、そして軍の駐屯地でもあるカサウリーにて1855年に創業開始したダイヤー・ブルワリー(後のMohan Maekin Ltd.の前身)が、英領期のビルマにおいて『Mandalay Beer』というブランドで発売したのがはじまりだ。
もちろん現在のマンダレービールは、とうの昔の現地化されているのだが、英領インドを代表する歴史的な銘柄のひとつであったことに思いを馳せれば、そこにひとつ新たな味わいも加わるかもしれない。
マンダレービール

トラ死すとも・・・

インドの隣国スリランカ。LTTEの最高指導者、プラバーカランが死んだ。スリランカのタミル人反政府組織が国軍に降伏したことが報じられた直後、後は彼の身柄拘束がひとつのカギとなる・・・と伝えられたものの、実はその時点で彼はすでに殺害されていた。
2008年11月24日に『キリノッチはどうなっているのか?』で取り上げたことがあったが、2004年の内部分裂以降弱体化していたLTTEに対し、昨年1月に政府は停戦破棄を通告、特に同年後半から政府は国軍による攻撃をエスカレートさせ、力によるLTTEの粉砕の意思を明らかにしていた。
近隣国ということもあり、インドのマスコミにもたびたびLTTEにまつわる記事が掲載されているのを目にした。スリランカ国軍によるこの時期からのLTTE実効支配地域へ進攻について、これを『これが最終的な局面へと繋がるだろう』と読んでいたようで、決定的な展開へのシナリオを掲載するメディアもあり、ほぼその予想どおりに事が運ばれていったといえる。
しかしながら他国のメディアでは、その後スリランカ情勢について、たいした報道をしていなかった。11月下旬に開始された当時のLTTE実効支配地域の『首都』であったキリノッチ攻略により、LTTEが本拠地を東へと移動していくことになる。
今年の年明けあたりだっただろうか、彼らが民間人を『人間の盾』として立てこもっていることが次第に広く伝えられるようになり、日本のメディアにもそうした状況が少しずつ報道されるようになってきていたところである。
1983年に本格的なゲリラ闘争に手を染めて以来、海外のタミル人組織や旧東側ブロックの国々からの武器調達等により、正規軍顔負けの戦闘能力と、都市部等においては爆破テロ等で揺さぶりをかけるなど、スリランカにおいて非常に大きなプレゼンスを示してきた。
それだけに、ラージャパクサ大統領率いるスリランカ当局が、LTTEが弱体化してまだ回復しておらず、『テロとの闘い』という建前が反政府組織殲滅に当たる国軍の暴虐に対する非難に対する護符として使えるこの機を逃してなるものか、と一気呵成に片付けてしまうという賭けに出た。
当初から予想された欧米その他先進国等から批判と反発を浴びつつも、非常に満足のいく結果を得たということになるのだろう。
26年間、国軍を向こうに回して闘い続けてきたトラは死んだ。しかし対話による和解ではなく、力による粉砕という手段を経ての反政府組織殲滅は、果たして同国の安定をもたらすのだろうか。
長年に渡って彼らが撒いて来た『テロリストの種』は、静かに水を含んで殻を膨らませ、あちこちで小さな芽を吹いているかもしれない。あるいはすでに蔦を伸ばして新たな居場所を模索しているのではないだろうか。

インドの東1 ヤンゴンへ

バンコクからヤンゴンに飛んだ。タイとミャンマーの両都市間を結ぶフライトは、今のところタイ国際航空、ミャンマー国際航空、格安航空会社でエア・アジアとバンコク・エアウェイズのみである。私が利用したのは2年前にミャンマーを訪れたときと同じく、バンコク・エアウェイズだったが、バンコクから往復で5,500バーツとリーズナブルな料金だった。
格安キャリアとはいえ、ちゃんと機内食やビールは出るし、時間帯も行き帰りともに午後の早い時間帯ということもあり、なかなかオススメである。飛行時間は、時差30分を差し引いて、実質2時間弱だ。
ヤンゴンの国際空港の規模は小さいが、この国に似つかわしくないほど立派でモダンな建物だ。この国で最も先進的な建築物といって間違いないだろう。
ホテルからボーヂョー・アウンサン・マーケットに行って両替した。ここには小さな店が沢山入っているが、貴金属やみやげものなどを扱う小さな店では両替をすることができる。インド系商売人の姿もかなりあり、多くはビルマ語に加えてヒンディー語もしゃべる。100ドル程度替えようと思って声をかけると、『エーク・ラーク(10万)』という返事が返ってきて、ちょっと戸惑うが、1ドルが1000チャット少々くらいなので、そういう大きな数字になる。最終的に、100ドル紙幣から105,000チャットを手にした。
エーク・ラークの札束=100US$
付近で簡単に食事を済ませてから、ダウンタウンを散策。今のヤンゴンは、緑あふれる北郊外のほうに市街地を広げているが、東南アジアきっての大都市のひとつであった植民地時代のラングーンの経済・政治・文化の中心はまさにこのエリアであった。
道路原票が埋め込まれている東京の日本橋と同じような役割を持つスーレー・パゴダがあるのもこの地域だ。ヤンゴンから国内各都市までの距離を数える際、この大きなロータリーの中に建つパゴダがその起点となる。
旧英領であった国々の都市の中で、ここヤンゴンは当時の建物や街並みが最も良く残っているところのひとつであると言われる。それはひとえに独立以来この国が歩んできた長い停滞の歴史ゆえのことではあるが、イギリス時代の役所など公の施設はもちろんのこと、集合住宅や民間の建物等にも、風格を感じさせるものが少なくない。
Mahabandoola Rd.を東に進むと、スィク教のグルドワラーがあるが、そのすぐ近くには他を圧倒する非常に大規模で壮麗なコロニアル建築がある。東側を向いた建物正面入口のThein Phyu Rd.のほうから眺めると、メンテナンスが行き届いているかのように見えるのだが、建物に向かって左手、つまり北側を走るAnawrahta Rd.に回ると、この建物各所が崩壊して、まるで遺跡のようになっている様を目にすることになる。主がこの建物を持て余している、あるいは資金的に苦しいことが見て取れるようだ。
その主とは警察であり、この建物はミャンマーの警察組織の本部である。建物が壮大で威圧的であるがゆえに、植民地期と同じく弾圧・抑圧の象徴でもあろう。1990年5月の総選挙の結果を無視して今なお支配を続ける軍政当局が、市民の思想や行動を監視する機関でもある。
崩壊している部分を除けば、実に見事な建築だが、そういう施設なので中に立ち入ることはできないし、外から撮影することも許されていないのが残念である。
しばらく散策していると日は傾き、やがて夜になったので宿に戻り、1階に入っているレストランで食事する。隣のテーブルでインド人らしき団体。テレビの国際ニュースで、マンモーハン・スィンが再度選出へ・・・と流れると、「えっ、もう決まったのか?」「テレビでそう言ったぞ」「バカ言え、まだ開票してないぞ」などとヒンディーでの会話が続いた。その後、インドの教育システムについていろいろと議論する人がいたりしているので、インド人に間違いないだろう。
(この時点では、今回の総選挙の開票日前)
尋ねてみるとやはりそうだった。ただし観光客ではなく、ミャンマー西部のスィットウェーで油田開発のプロジェクトのために来緬していたエンジニアたちであった。ちょうどその仕事が片付き、近日帰国するところだということで、とてもリラックスした雰囲気。
『まあ、私たちの輪に加わって、一杯やりましょう』と、テーブルでは即座に私の分のビールが追加された。人数は8名、彼らの年齢は30代から50代くらいといったところだろうか。とにかくおしゃべりで、賑やかな人たちである。この中の一人は、スィットウェー勤務ではなく、しばらくヤンゴン市内で仕事をしていたとのことで、この街のことにはなかなか詳しいらしい。
『さあ、帰国する前にパア〜ッといこうではないか!繰り出そう、夜の街へ。日本の友人もどうだね?』と、これから繁華街に出かけるような話になってきて、それはそれで楽しそうだったのだが、明日早朝のフライトでバガンに行くことになっており、チェックインの時間が午前5時半と非常に早いので残念ながら遠慮しておく。まさにそのフライトのために、わざわざ市街地から離れた空港正面のホテルに宿泊しているである。

ネパール王家の行方は?

2月27日金曜日の本日より、ナラヤンヒティ宮殿が博物館として公開されているが、かつてここに起居していた元国王夫妻は目下インドに滞在中。
2008年6月にネパール王室が廃止されたことにともない、それまで『ヴィシュヌ神の化身である王を戴くヒンドゥー王国』ということになっていたネパールが世俗国家となったわけだが、元国王としては王位とそれに付随する財産や権利等とともに、現人神としての神性をも失ったことになる。
そんなわけで、旧王族たちは『一般人』となっているが、ギャネンドラ氏は家族14名を伴って2月25日にジェット・エアウェイズのデリー便にて出国。インドに2週間滞在する予定だ。
王位を失ってから初めての外遊だが、以前のように外交旅券を手にすることはできず、今回からは一般の緑の表紙のパスポートを持つ民間人の立場だ。随行員の数も大幅に縮小しているとのこと。
目的は、ボーパールで催される親族の結婚式に出席するためである。現在62歳のギャネンドラ氏の祖父、故トリブヴァン国王には二人の王妃があり、3人の王子と4人の王女をもうけたが、その中のひとりバラティ王女は現在のオリッサ州にあったマユルバンジ 藩王国のプラデイープ・チャンドラ・バンジ・デーオのもとに嫁いでいる。
その娘のひとりであるコールカーター生まれのパドマ・マンジャーリーが、やはりオリッサ州の旧藩王国カラハンディーの元王家に属し、現在ジャナタ・ダルの政治家のウディト・プラタープ・デーオと結婚している。
このたび、この夫妻の娘であるシュリー・マンジャーリーが、やはり旧藩王国の血筋を引くバンワル・アナント・ヴィジャイ・スィンと結婚することになった。ネパール元国王夫妻が出席する2月28日から3月1日にかけて開かれるウェディングには、インドおよびネパールの旧王族や政治家たちが多数顔を揃えるとのことだ。グジャラート州首相のナレーンドラ・モーディー、マッディヤ・プラデーシュ州首相のシヴラージ・スィン・チョーハーンといった大物たちの出席も予定されている。
なお結婚式の後には、元国王家族はグジャラートのソムナートおよびドワルカの寺院を参拝するとのことだが、それだけではなくソニア・ガーンディー、カラン・スィン、L.K. アードヴァーニーといった有力政治家たちとの会談も予定されているとのこと。すでに権力を失っているとはいえ、今回の訪印に何か期するところがあるのだろうか。
『一般人』になったとはいえ、抜きん出たステイタスを持つVIPであることは間違いなく、近年の政治動向からすこぶる萎縮してしまったとはいえ、背後に控える王党派の存在とともに、今後もネパールや周辺国において、一定の影響力を持つ存在であることはそう簡単には変わらないだろう。
その潜在力があるうちに、元国王自身ならびに旧王族たちが、自らの将来のためにどういう選択肢があるのか、それらを踏まえて今後どういう動きに出て行くのか、ちょっと興味のあるところである。
一般の市民とは異なる特別な存在であった王家が、やはり今後も他とは違うステータスを維持すべく、自国ネパールの社会のどこに自らの新たな居場所を築いていくか、あれやこれやと機会を覗いながら模索しているのではないかと思われる。
ギャネンドラ元ネパール国王
Gyanendra arrives in Bhopal for wedding ceremony (indopia)
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※『新加坡的印度空間?』は後日掲載します。