ボーヂョー・アウンサン博物館

ボーヂョー・アウンサン博物館は閉鎖中

ヤンゴンでボーヂョー・アウンサン博物館に行ってみた。ダウンタウンの北側のカンドーヂー湖の北側にある。

建国の父アウンサン将軍が1947年に暗殺される前に居宅としていた屋敷という歴史的な価値からヤンゴン市の文化遺産に登録されている。

父親が亡くなったとき、まだ2歳だったアウンサンスーチーさんは、幼少時をしばらくここで過ごしている。

2009年に訪れたときには閉まっており、改装工事でもしているのかと思ったが、残念ながら今回もそうであった。付近の住民に尋ねてみると「なんだかずっと閉まってますねぇ」とのことであまり多くを語らないが、どうやら政治的な理由であるらしい。

政権にとって長年の懸案となっているスーチーさんの存在があるため、彼女の父親ゆかりの場所というのは、国内政治的に憂いをはらむものなのだろう。

そういえば昔のミャンマーの紙幣にはアウンサン将軍の肖像画があしらわれていたものだが現在はまったく見当たらなくなっている。 続きを読む ボーヂョー・アウンサン博物館

マハーガンダーヨン僧院

ミャンマーのマレダレー近郊、アマラプラのウー・ベイン橋を後にして、近くのマハーガンダーヨン僧院へ。かなり格の高い寺院のようで、修行する僧侶集団の数もとりわけ多いところとされているようだ。ここでは朝10時半過ぎから僧侶たちの食事が行われる。
僧院敷地内の広々としたキッチンで食事の準備が完了したところだった。1,000人分というだけに大変な量である。調理する人たちは近くに住む人々でみんなボランティアであるとのこと。
キッチン
一度の食事で炊く米は400kgに及ぶという。非常に大きなジャーの中に大量の米飯。あまりに大量であるため、茹でこぼし法ではなく蒸し上げて炊くのである。しゃもじの代わりに園芸用の大きなシャベルを使っている。
副菜を調理する鍋もこれまた巨大で、風呂桶くらいありそうだ。鶏肉の煮物、野菜の煮物、ちょっとした付け合せといったものが用意されている。どれもおいしそうだった。デザートにバナナが付く。
大きな看板に今日の食事を寄付した人たちの名前が書かれているが、その脇では寄進者と思しき人物が合掌したまま、幹部クラスと思われる僧侶と話をしている。
食事の時間を伝える鐘の音が鳴り響き、僧侶たちが列をなして集まってくる。あまりに大勢の僧侶たちがいるのに誰一人として私語はなく、一糸乱れぬ行列の続く中で『静謐』な空間という不思議な気がした。列を成すにも何か順番があるのかもしれない。
行列する僧侶たち
僧侶たちの行列に対して大きなお椀でひとりひとりにサービスする役目は観光客でもできるとのことで、タイから来たツアーグループの人たちがそうした世話を買って出ていた。僧侶たちは手にした托鉢用の鉢にご飯を入れてもらっている。洗面器くらいのサイズだけに相当な量になる。テーラワーダ仏教の僧侶たちは、午後になると食べ物を摂取することが許されないため、この時間帯までにその日の食事を済ませなくてはならない。
食事が始まる
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全員が席に着いてから、一斉に食事を始める。食事の際にも会話する者はなく、みな黙々と食べている。あっという間に食事が終わり、僧侶たちは立ち去っていく。まだ食べているのは幼い尼たちだけだ。多くの僧侶たちはバナナをそのまま持ち帰っている。僧坊でゆっくり食べるのだろうか。
どこからか鉄道の汽笛が聞こえてくる。インド国鉄でおなじみのあの音が耳に心地よい。ミャンマーで使用されている機関車と車両はインド製なのである。

U Bein Bridge

THE GLASS PALACE by Amitav Ghosh
ミャンマーのマンダレー近郊の町アマラプラにあり、よく写真で紹介される高い橋桁の木造橋である。インドの作家、アミターヴ・ゴーシュの小説『The Glass Palace』の表紙のイラストにもあしらわれており、一度機会があれば訪れてみたいと思っていた。
U Bein's Bridge
グーグルでの遠景

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グーグルでの拡大図

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下は河かと思ったが湖であった。Thaungthaman湖というもので、乾季には橋の下の大部分が畑になっているが、雨季には水で一杯になるのだという。橋が建設されたのは1849年ということで、1885年にマンダレーが英領化されるよりもさらに前のことである。そしてチーク材で出来た橋として世界最長(1.2 km)ということになるそうだ。
U Bein's Bridge
河辺に広がる牧草地や田園風景といったのどかな景観はもちろんのこと、そんな橋が今もこうして人々やモノの行き来に役に立っており歴史的な価値もまた大きい。橋の途中にはいくつかの東屋があり、物売りたちがお客を待ち構えていたり、涼んでいたり昼寝していたりする人たちの姿がある。
背後に東屋
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だが『橋』としての役割のみについて言うならば、ちょっと考えさせられるものがある。ここを通るのは大人だけではない。子どもたちも通るし、老人だって通る。また夕方以降暗くなってから通らなくてはならない場合だってあるだろう。橋から落ちて命を落とすかどうかはやや微妙なところだが、確実に大怪我をする。場合によっては死んでしまうだろう。雨季で水で一杯のときには溺死する可能性も高い。
ミャンマーに限ったことではないが、日本のように国民がほぼ誰でも泳ぐことができる(程度の差はあっても)という国はあまり多くないのだ。ただし両端の入り口のところにゲートのようなものがあったため、ある一定の時刻に締め切り、朝決まった時間に開けるようになっているのかもしれないが。
茹でたカニ
サーモーサーと小エビのかきあげ
橋を渡りきったところには二軒ほどの食堂がある。軒先では調理したカニを売っていた。淡水のカニにしてはけっこう大ぶりで上海蟹くらいのサイズはある。茹でて真っ赤になっているカニの甲羅は外してあり、カニミソがたっぷり詰まっていて旨そうだ。小エビのかき揚げも売られており食欲をそそられる。
近くには寺や学校もある。かなり規模の大きな集落になっているようだ。
子供たち

彼方のインド 5

ヒルステーションとはいえ、また暑季とはいえ、観光客でごった返すインドのそれとは違い、ピンウールィンは英領期の古いものがほどよく残っている。
また高原とはいってもほぼ平坦な土地であることから、自転車で巡るのも苦にならず、休暇を過ごすにはもってこいの土地であった。
ピンウールィンはさておき、ミャンマー全般に言えることだが、またミャンマーの人々に対して失礼かもしれないが、ただインドの隣の国であるということのみならず、インドの北東部にいるかのような気がすることがある。
モンゴロイドの多い(州によってその度合いは様々だが)北東州のすぐ東に位置しており、インド平地からの移民も多いこともある。加えてインドの様式を取り入れた植民地建造物であったり、旧英領各地でも今でも見られるゼブラに塗り分けられた道路縁石であったりするのは、かつてはインドと合邦していたという経緯のためである。
ミャンマーの最高学府ヤンゴン大学は、1878年にカルカッタ大学を構成するカレッジの中のひとつとして創設されている。やがて独立したひとつの大学としてラングーン大学として再構成されるのだが、イギリスから独立してからもしばらくの間は、東南アジア随一の名門大学として内外から高い評価を受けていたようだ。
すぐ東のタイに較べて地理的に近いこともあり、文化的にインドから与えられた影響もかなり強いことは言うまでもない。町中には、同様に本来インドではなかったとはいえ、多かれ少なかれインド文化の影響を受けてきたモンゴロイドの人たちが暮らすインド北東州と共通するたたずまいがあるような気がするのだ。
仮にイギリスのビルマに対する進出がもっと早い時期から始まっていたら、あるいはビルマ族が人口規模や文化的なまとまりを欠いていたならばどうなっていただろうか。彼らを除けばかなり人口規模の小さい幾多の民族から成るビルマは、現在のインド北東州のうちのいくつかで今でも武装闘争が続いているのと同じように、不満を抱く人々が少なくないながらも、インドという大きな国家の中に従属していたかもしれないとも思う。
ミャンマー北西部サガイン管区のインド寄り地域には、インドのナガランド州同様にナガ族が生活している。よく民族のモザイクと表現されるインドだが、そのインド世界の外延部にあたる北東州と合わせて、印緬国境を越えて広がる多民族・多文化の回廊地域として捉えることもできるのではないかと思う。
各民族による自治要求をめぐる運動が活発であることも共通しており、今でこそミャンマーも各武装勢力との和解も進んできているものの、かつては『ラングーン政府』と揶揄された時代もあった。ミャンマー国内で概ねビルマ族がマジョリティを占める地域は管区(Division)、その他の民族の勢力が強い地域は州(State)と色分けされているようだ。
インド北東部、ミャンマーともに中央の政府によりひとつの国家として治めていくのはなかなか難しい地域でもあるようだ。

彼方のインド 4

ピンウールィンの駅舎の前にある線路を超えた先には鉄道車庫や貨物用の引き込み線などがあった。そのあたりは鉄道関係者の住宅地域でもある。
町から見て線路向こうのほうにイギリス人墓地があるとのことだが、それらしきものは見当たらない。通りがかりのインド系とおぼしき男性にイギリス人墓地について尋ねてみる。北東へ走る線路の向こう側に見える大きな教会の脇にあるとのこと。
そこは今でも現地のクリスチャンが亡くなれば埋葬されている場所とのことで、今では特にイギリス人墓地ということではないらしい。もちろん現在もピンウールィンに数多く暮らすアングロ・インディアン、アングロ・バーミーズの人々が亡くなるとそこに葬られるようだ。
墓地入口
自転車で出かけてみると10分くらいで着いた。カルカッタのパークストリート墓地のような立派なものではなく、無数の十字架が並んでいた。ただしよく見てみると墓標のあるものもあり、1877年に豪州で生まれた人のものもある。この人は海外領出身のイギリス人とであるとみて間違いないだろう。独立後もここに残ったらしく、1963年に亡くなったことが記されている。
古い墓標で今でもちゃんと読めるものは数少ない
その後、昨日同様にクリスチャン墓地に行く。場所はかなり広いが、あまり大きな墓標はない。ひどく崩れてしまっていたり、文字が読めなくなってしまっているのも多い。
しかしここは英領としての歴史さほど長くなかったこと、植民地としての格もインド本土の主要な都市と較べて高くないため、英国人墓地といっても、植民地史上あまり著名な人物は埋葬されていないものと想像できる。
墓地のあまりに荒涼とした様子が不憫であった。
寂寞とした墓地敷地内