WiFiカトマンズ

カトマンズのタメル地区のレストランで朝食。隣のテーブルには三人連れがガヤガヤ話しながら席についたが、皆おもむろに手にしたバッグの中からノートパソコンを取り出し、後は無言で画面をスクロールしていたり、キーを叩いていたりする。飲み物や食事が運ばれてきても、彼らは何も言葉を発することなく黙って作業に没頭している。
日本の電車の中で、仲間同士で乗り合わせながらも、みんな手にした携帯電話の画面を見ながらメールを打っているのと似た光景かもしれない。こうした様子を目にして顔をしかめる年配の方もあるかもしれないが、ノートを手にして日記を書いたり、買い込んだ絵ハガキに手紙をしたためるなどといったことと実は同じ。ただ用いる道具が変わっただけのことだと私は思う。
以前、カトマンズ在住の方から『Wi-Fi利用可能なカフェ等が増えている』とうかがっていたが、ここもそうした店のひとつのようで、入口のところに『Wi-Fiあります』 との表示を目にした。
何か注文すればインターネットに接続することができるため、他にもパソコンを持ち込んでいる人がけっこういた。どこの国に行っても繁華街では簡単にネットカフェが見つかり、ウェブサイトを見たり、家族や友人と連絡を取ったりとずいぶん便利になった。近年はノートパソコンもネットブックに代表されるように、小型化と低価格化が進み、旅行先にも持参する人が増えたことあり、こうした店の需要も相当高いことだろう。
どういう使用環境にあるのかよくわからないネットカフェの端末よりも、自前のパソコンを使ったほうが安心かどうかについては、店のWi-Fiのセキュリティが100%信用できるものかどうかということも否定できないし、旅行先に高価な機器を持参することによる盗難のリスクもある。だが少なくとも使い慣れたパソコン、自分自身の言語環境であることから、使いやすいことは間違いない。
もちろんパソコンを旅行先に持ってくる目的は、メール送受信やブログ更新といったネットの活用だけではないだろう。デジタル写真を保存したり、日記その他の書き物をしたりと、いろいろ使いまわしている人は多い。西洋人たちは、使い勝手を優先する向きが多いのか、かなり大きな画面のものを苦にせず持参している人が少なくないようだ。
かくいう私自身もパソコンを持参しているので、わざわざネットカフェに行って時間を費やすことなく、食事を注文して待っている間、あるいは食べ終わってからのちょっとした時間に、電子メールのやりとり等を済ませることができるのは実に快適である。

火葬場の煙が途絶える日

パシュパティナート寺院脇を流れるバーグマティー川
ヒンドゥー教徒、仏教徒双方にとって、聖なる流れであるとされるバーグマティー川はネパールのカトマンズ盆地のテライ地方を通ってインドのビハール州に流れ込みコーシー河と合流した後にガンジス河へと流れ込む。
外国人からやってきた観光客たちにとってもカトマンズの主要な見物スポットのひとつとなっている、カトマンズ郊外のパシュパティナート寺院は、ネパールのヒンドゥー寺院で最も重要なもののひとつであるとされ、インドを含めた多くのヒンドゥー教徒たちが参拝に訪れる。境内周辺には、いつも遊行者たちの姿があり、インドからはるばるやってきた者も少なくないようだ。
バーグマティー川は、その境内を貫く形で流れており、ここのガートではいつも火葬の煙が立ち上っており、川岸を散策していると次から次へと遺体が運びこまれてくるのを目にする。この寺院が非常に格の高いものであるがゆえに、そこで人生最後の儀式を執り行うことは大きな意味があるのだろう。
だがそう遠くない将来、こうした風景は過去のものとなるようである。薪や遺体の灰をそのまま川に流すことによる水質汚染、また薪の使用そのものが更なる森林減少につながるなどといった判断から、パシュパティナート寺院は近く火葬を取りやめて、すでにインドでは一般的になっている電力を用いた火葬場を建設することを決定したのだという。
Smoke on the water (e-Kantipur.com)
Cremations go electric in Nepal (BBC South Asia)
上記のBBCの記事中にあるとおり、30年ほど前にも火葬のやりかたを薪から電気に変えようという検討がなされたものの、当時は保守的層の反対により頓挫したそうだ。しかし今は環境意識の高まりを含めた人々の考え方が変わってきたことから、こうした転換が受け入れられるようになったのだろう。
こうした格式高い寺が模範を示したことにより、この流れは全国に広がっていくのではないだろうか。もちろんインフラの整備状態からくる制約があるため実施可能な地域は限られるであろうし、都市部においても電力の供給についていろいろ問題があるネパールだけに、思わぬトラブルに見舞われることもしばしばあるのかもしれない。それでも川岸のガートから立ち昇る煙の風景は、やがて人々の忘却の彼方に置き去られることになるようだ。

王宮転じて博物館 3

王宮は、どこもまだピカピカで、王族がまだそこを出入りしているかのような印象を受ける。しかし5年、10年と歳月が経つにつれて、卓越した権力を持つ主を失った広大な館は、また年度ごとの維持管理の予算を政府から割り当てられての硬直した運営のもとで、次第に荒れていくことと予想している。こんにち訪れることができるインドの旧藩王国の主の館等がそうであるように。
ここが宮殿として機能していた過去を展示することが存在意義であるがゆえに、王の時代のように宮殿内の新陳代謝が繰り返されることはないだろう。もちろん経年劣化して展示に耐えない部分が出てくれば、必要に応じて補修などは行なわれるにしても。
ゆえに豪華な室内の装飾や調度品等が経年劣化しても、それと新しいものと入れ替えることはないだろう。すべてが次第に枯れ木や枯葉のように萎れてきて、カビ臭い空気に包まれてくるに違いない。
すると、部屋の脇に詳細な説明が掲げられていても、往時の輝きを頭の中に描くには相応の想像力が必要になってくる。すっかり黄変した壁紙、長年の埃がたっぷり積もり、安宿の玄関の敷物のようになったカーペットの中にある朽ち果てた家具類が並ぶ室内に往時の国王の姿をイメージするのは、アンモナイトの化石を目にして『海中を泳ぐ生前の姿』を想うのと同じくらい難しいかもしれない。
私物はいろいろ片付けられたり、引き払われたりしてしまっているのかもしれないが、現在私たちが目にする宮殿内の光景はまばゆく、つい昨年までここにいた王家の人々の息吹が感じられるようだ。だからここを訪れるならば、早いに限る・・・と思う。
前回書いたとおり、ここでは王宮内のごく主だった空間のみが公開されているが、個人的には王家の人々に仕えた人たちの仕事場なども観ることができたらいいのにと思う。
仕えた人たち・・・といっても、事務方を取り仕切る人々もあれば、建物の保守管理といった現業関係の人々も沢山いたはずだ。もちろん警備関係者たちも。どのあたりにどういう職場があり、どれほどの規模の数の人々が、どういった具合に風に日々の仕事をこなしていたのかがわかるようにしてあるといいのだが。
こうしたことは、王宮、宮殿といったものを見学する際にいつも思う。王家の人々の住まいであり、執務の場であると同時にひとつの大きな機関である。私自身が壮大な夢を見るような人間ではない一勤労者であることから、縁あって(コネあって?)そういう特別な場に職を得た人がどんな日々を送っていたのかということにも興味を引かれるのである。
仕事によっては、先祖代々王家に仕えていた人もかなりあったのだろうが、王室が廃止されて以降、王宮で働いていた人たちはどうなったのだろうか?
広大な敷地は大小さまざまな木々その他の緑に囲まれ、塀の外にはすさまじい排気ガスを吐き出して往来する車両に満ちた通りが走っているとはにわかに信じがたい。この静謐な空間は、次第に煤けていき、そして傷みながら年月を重ねていくのだろう。
今は人々の記憶に新しい王家の人々の姿も、時間の経過とともに輪郭が薄れてくるだろう。王の姿をテレビで、新聞で目にしたことのある人々が次第に歳を取り、宮殿と呼ばれるところに王が君臨した時代を知らない子供たちが成長していき、徐々に彼らに取って代わる。
何十年か先に、『王を知らない世代』の人たちが長じて親となり、幼い子供たちの手を引きながら、すっかりセピア色がかり、あちこちガタがきた建物内を見物しながら『昔々、この国には王様がいたのだよ。パパが生まれるずっと前の話だけどね』などと語りかけているのかもしれない。
昨年6月に『時間が停止した』王宮は、今後長きに渡りこの状態で保存されていくのだろう。繰り返しになるが、それがゆえにここを訪れるならば今が旬であろう。

王宮転じて博物館 2

王宮博物館は11時開館。少し早く着いたのでゲートの前でしばらく待つ。ゲートを入った右手のチケット売り場では入場券を購入。料金は500ネパールルピー。他の観光スポットの多くがそうであるとおり、この国での入場料はネパール国民、ネパール以外のSAARC国民、その他の外国人の三つに区分されており、言うまでもなく後者ほど高い。
売り場では係員に国籍を尋ねられるが、その際に『India !』以外に『Bangladesh』『Srilanka』
といった返事も耳に入ってくる。インド以外にもSAARC諸国からけっこういろいろな人たちが来ていることがわかる。
宮殿内の警備は、まるで今でもそこに王家の人々が暮らしているかのように、なかなか厳重である。チケットを購入してから身体検査があるが、カメラは持ち込み禁止、ごく小さなカバンもロッカーに預けさせられた。
この宮殿が出来たのは18世紀後半に出来た洋風の建物だ。広い庭をぐるりと回って正面入口へと向かう。階段を上って最初にあるのは、外国からの来賓を迎える謁見の間だ。続いて外国の要人と会談する部屋、会談の前に要人たちが待機した待合室がある。
少し進むと、国からの要人が宿泊する部屋、その奥さんが泊まる部屋が横にあり、またその隣に要人家族が泊まる部屋がある。要人当人のための広々とした豪華な部屋からだんだんシンプルになり、面積も次第に小さくなる。
わざわざ夫婦の寝室を別にする必要もないだろうし、欧米の要人のように奥さんを同伴しない国賓もあろう。それに配偶者はまだしも子供たちまで連れてくるというケースはあまり多くないだろうから、こうした部屋には側近や護衛などが控えることが多かったのではないかと思う。
晩餐会が開かれた豪華なダイニングホール、晩餐会前に要人たちが待機する待合室などがある。またこれまでここを訪れた諸外国の要人たちと国王夫妻(ビーレーンドラ前国王)が一緒に写っている記念写真も飾られている。故アイシュワリヤ王妃の若い頃は、素晴らしい美人であったようだ。外国の要人ないしは代表団と何か重要な取り決めごとについて調印するための部屋もある。
ここまで見たあたりで、地元の高校生の16才の男の子がこちらに声をかけてきた。両親は食料品の卸の会社を経営しているそうだ。今日は学校の先生たちがストで休みのため、両親と見学に来ているのだという。
確かその前日から教員のストの記事が新聞に出ていた。この博物館に来る手前のところに文部省があるが、ここで多数の学校関係者が座り込んで抗議行動をしているのを目にした。
同時期にゴミ収集のストが1週間ほど続いており、カトマンズ市内どこに行っても汚いゴミの山が積み重なっていた。特に人々の密度が高く、商業活動の盛んなエリアでのそれは目を背けたくなるほどのものだった。様々な品物を商う無数の小さな商店や路上の物売りたちがひしめくアサン・チョウク界隈のそれもまた凄まじかった。普段ならば、そこで雑貨や野菜などを商っていながらも、ゴミの山のせいで居場所を失った人もかなりあったのではないだろうか。
話は宮殿に戻る。セキュリティの関係から、王宮内のすべての部屋が公開されているわけではないものの、見学できるゾーン内には、他にもいくつかの部屋がある。建物内で一番高いところにある戴冠式の間まで行くと、その先は王家の人々のプライベートな空間となる。マヘーンドラ国王(1920〜1972) の執務室から始まり、広々として快適そうな王家の家族の団欒の場、シャハ王朝の最後の王でとなったギャーネーンドラ国王の寝室などがある。
意外だったのは、国賓の寝室に比べて国王の寝室が、想像していたよりも貧弱であったことだ。王宮ゆえに天井はかなり高いものの、前者と比較して半分以下のスペースで、部屋の形もいびつで窓も小さい。冬季の冷え込みの関係もあるのかもしれないが、およそ『人間』が必要とするスペースには限りがあるのかもしれない。貴人の館と一般人の個人宅を比較のしようもないが、日本の売れっ子の芸能人やちょっとした会社経営者のほうが、もっと豪華で快適な寝室を持っているのではないかと思う。
王族など貴人たちの居室にしても、何か後世へ伝える業績を残した偉人の住まいにしても、一般に公開されるようになる際にはすっかり整理整頓されてスッキリとした状態になっている。ギャーネーンドラ元国王は、間違っても偉人ではなく、生まれた家柄からして貴人ということになるが、彼の寝室もまたキチンと整頓された状態で人々の視線にさらされている。
ここに起居していたころには、家電製品はもとより、様々な身の回り品が雑然と置かれていたのではないかと思う。宮中とはいえ、そこはたまたま国王の座についた一人の人間の生活空間である。これらがそのまま部屋に残されていたならば、それらを目にしてギャーネーンドラという元国王自身の人となりがちょっと想像できるような気がするのだが。
館内の見学を終えて建物の外に出ると、2001年に当時のビーレーンドラ国王(1945〜2001)夫妻その他王族を含む多数の方々が亡くなった宮中惨殺事件の現場があった。そう、あの宮中クーデターと言われたあの忌まわしい事件である。この惨事の中で、国王に加えて皇太子以下、王位継承権を持つ人々がことごとく犠牲となった。当日、その場に居合わせず、ポーカラーで息子パーラス他直近の親族と過ごしていた王の弟であるギャーネーンドラを除いて。
事件後、危篤状態で意識不明であったディペーンドラ皇太子が、手続き上のみ王位を継承した形となるが数日後死亡。幼少時に2ヵ月ほど王位に就いたことのあるギャーネーンドラが、甥のディペーンドラの後を継いで再び即位した。
その現場となった建物はすっかり取り壊されており、今は土台だけが見られる。まるでガンダーラの遺跡である。事件直後に撤去されたとのことだ。カトマンズに長年お住まいで、ネパール事情に非常に詳しい日本人の方にその理由をうかがったところ、表向きは皇太后がその建物があると惨事を思い出すからということだが、実際の理由は証拠隠滅だと言われているとのことだ。
宮殿の裏手には、事件の際の銃弾の痕がいくつか残っている。まさにここで銃弾が飛び交ったのである。誰それが瀕死の重傷を負っていたところ、誰それがここで云々と書かれている。

王宮転じて博物館 1

2008年に王室が廃止されたネパール。その時期、旧ロイヤル・ネパール航空の『ロイヤル』の字が抜け落ちた。ネパール外務省から各国政府に対して『ネパール王国』から『ネパール連邦民主共和国』に国号が変更となったことを伝える文書が発信された。 それ以外にもいろいろゴタゴタあったのだろう。
会社が合併その他の理由で名称が変わると、担当者たちは諸手続きや関係各所に連絡等で大わらわとなる。労力以外に既成の用紙・書式・スタンプ等も変更になったりするから、相応のコストもかかる。これが国レベルとなると相当な手間がかかったことだろう。
旧王族たちもまた、これまでの特権が剥奪(最もわかりやすいところで言えば、外遊時に公用旅券でなく下々と同じ一般旅券となる)されても、今なお資産家であり、手広くビジネスを展開している人も多いとはいえ、この時期には、かつて王室が使用していたこの宮殿や離宮などを含めて、相当な資産が国有化されたようだ。
国王といっても、日本の天皇のように象徴としての存在ではなく、91年の民主化以前は、実権を伴う『支配者』であったわけだし、2001年の宮中での事件の後に即位したギャーネーンドラ元国王(1947〜)は、民意を得て成立した内閣を解散させるなど、世俗の権勢を振るったこともある。
かつては塀の外から何となく景色を窺うことはできても、そこに立ち入ることなど想像もできなかった王宮だが、2007年8月に王室の手を離れて国有化された。その後もギャネーンドラ国王夫妻と家族はしばらくここに残ることが許されたものの、昨年6月に彼らはここを退去した。その数日後から、Narayanhiti Palace Museumとして一般に公開される博物館になっている。
Narayanhiti museum (2008年6月16日付e-Kantipur)
ここは、ツーリストゾーンのタメル地区からトリデーヴィー・マールグを東に歩いてすぐ。外国から来たオノボリさんが徘徊するエリアと隣り合わせたこの地域には、けっこう重要施設が多い。王宮脇を走るカンティ・パトとの交差点のところには文部省があるし、ここを左に折れると外務省がある。
洒落たレストランやみやげもの屋が入居しているSanchaya Kosh Bhawan Shopping Centreの隣には、SAARC(南アジア地域協力連合)のセクレタリアートがある。ショッピングセンターの向かいあたりには、雑踏の中でよくよく目を凝らすとモロッコ大使館がある。
SAARCの加盟国としての大切な機関でありながらも規模はコンパクト。しかも誰もが出入りできる商業ビルの上階から見下ろすことができ、正門が面する道路、トリデーヴィー・マールグからメインの建物までの奥行きもない。その他三方はザワついた商業地区である。破壊活動を企図するものがあれば、いとも簡単にターゲットにすることができそうで、様々な攻撃のシナリオが頭の中に展開してしまう。
土地に根を持たない、不特定多数の人々が出入りし、多少奇妙な振る舞いをしても、そうそう怪しまれることのないような旅行者ゾーンのすぐ近くにこうした重要な施設があるというのはいかがなものか?と思う。
もっとも、これらの施設はタメル地区が旅行者地区として発展する以前からあり、後から付近に商業地がジワジワと広がってしまったのであるが、こうした施設へと続く道が幾つもの検問所で仕切られるわけではなく、コンクリートブロックや鉄条網でがんじがらめになっているわけでもないが、今年5月に内戦が終結したスリランカでの同様の地域での警備の物々しさを思うと天と地の差がある。
ご存知のとおりネパールでも内戦が1996年から2006年まで11年間の長きに渡って政府とマオイスト勢力として広く知られるネパール共産党毛沢東主義派との間で内戦が続いたが、その時代には地方の政府関係の建物や警察等に激しい攻撃がなされ、多くの人々が命を落とすことになった。
現在、マオイストたちの指導部は大政党となっており、昨年4月の制憲議会選挙への参加の結果、世論が予想していなかった大勝利を収めた。だがそれに先立ち、彼らが政権議会選挙参加することについて、当時の政府側にマオイストたちが突きつけた条件のひとつに王室の廃止があった。
『農村から都市部を包囲する』という毛沢東理論を実現したマオイストだが、武器を置いて当時の政権側と同じ土俵『選挙』で闘うことを受け入れるにあたり、彼ら自身を納得させる落しどころとして、無産階級の対極にある封建支配者(・・・の代表としての王制)を潰すことであったのだろう。ギャーネーンドラ国王は、様々なメディアで報じられていたとおり、マオイスト以外の市民たちの間でも、非常に不人気な君主であった。それでもこれが実現するにはかなり紆余曲折あったようだが、最終的にこれが実現することとなった。
王宮が博物館として公開されることになったのは『マオイストのおかげ』ということになる。選挙で過半数には及ばずも一党になり世間を驚かせたが、他勢力との連立模索に関するゴタゴタが続き、プラチャンダ議長が首相に就任したのは同年8月であった。
今年5月にマオイストの武装勢力『人民解放軍』の国軍への統合に強硬に反対する国軍参謀総長の解任・続投問題の絡みで連立政権が崩壊、これを受けてマオイスト以外の勢力()なんと22もの政党の寄り合い所帯!)が結集、マーダヴ・クマール・ネーパール氏を首相とする現在の内閣が成立するまで、責任ある与党の立場にあった。
プラチャンダ首相の就任時、ちょうど昨年の今ごろだったが、インドのメディアは『隣国インドに対する彼のスタンスはどんな具合か?彼の首相として最初の外遊先はどこか?』ということで注目していた。インドと中国というアジアの二大巨頭に挟まれたヒマラヤの山国は、常にその両国との間で微妙なバランスの中で生きていかなくてはならない。
もちろんインド側にしてみればネパールが中国と接近することに対する大きな不安がある。近年中国との関係は改善に進んでいるものの、1960年代初頭に軍事衝突を経験し、ラダックのアクサイチンを失っていることに加え、他にもアルナーチャル・プラデーシュ、スィッキムといった領土問題(中国はこれらの地域がインドに帰属することを認めていない)等がある。さらには常々緊張をはらむ西の隣国パーキスターンに支援を続けてきたのがこの大国でもある。安全保障上、この国の存在はインドが核を保有する動機はパーキスターンのみならず、その後ろ盾でもあり自国と長い国境線を接する中国の存在である。
対中国不信感が根深いこともあり、南アジアの『毛沢東主義者』と現在の中国共産党との結びつきはほとんどないとされるにもかかわらず、インドの人々の間では、ネパールのマオイストにしても、自国内で暗躍する『マオイスト』『ナクサル』などと呼ばれる極左過激派たちは親中国であり、中国政府から相応の援助を受けているはずだと、本気で信じている人が少なくないようだ。
それがゆえに、南アジアの友邦ネパールが、急に中国側へと大きく舵を切るのでは?と疑心暗鬼になるのもわからないことではない。インディア・トゥデイ誌も制憲議会選挙で第一党となった際、またプラチャンダ議長の首相就任時にも、彼に関する詳細な記事を掲載していたし、彼に対するインタヴュー記事にも大きな誌面を割いていた。
彼自身は、ネパールとインド両国の伝統的な関係を維持していく・・・といったごく当たり障りのないことを語っていたようだ。だが昨年8月といえばちょうど北京オリンピックの開催時期。他国の多くの国家元首級の人たちと同様に中国の北京の五輪会場に姿を現した。その結果インドのメディアは『プラチャンダ議長がネパール首相として最初の訪問先は、やっぱり中国』と大いに失望させられた様子であった。
ネパールの人々のインドに対する気持ちには複雑なものがあるにしても、国家としてはインドから見て伝統的に友邦としての関係を維持しているネパール。しかしインドは自国に敵対的な組織により、出撃基地として利用されて大火傷を負った苦い記憶がある。1999年12月に起きたインディアン・エアラインスのハイジャック事件だ。
カトマンズ発デリー行きのIC814は、パーキスターンを本拠地とするイスラーム原理主義過激派組織、ハルカト・ウル・ムジャヒディーンの一味に乗っ取られた。飛行機はアムリトサル、ラーホールそしてドゥバイへと移動した後、アフガニスタンのカンダハールに着陸し、インド当局との厳しい交渉を重ねることとなった。
事件発生から1週間後、当時のインド政府の外務大臣、ジャスワント・スィンは犯人たちが要求したインドで服役中のモラーナー・マスードをはじめとする3名のパーキスターン人過激派指導者たちを連れてカンダハールの空港に現れた。彼らの釈放との交換で、乗客たちがようやく解放されることとなった。
このあたりの時期、ネパールでバーキスターンのISIならびにイスラーム過激派組織の構成員たちが頻繁に出入りしているだの、インドと国境を接する平原部のネパール側で、やたらとマドラサーが増えてきているだの、その建設資金が外国から流入しているだのといった報道がインドのメディア紙上に出ており、ネパールを基点に何か良からぬことが起きなければいいのだが・・・といった調子の記事がしばしば見受けられた。
それが最も判りやすい形で実際のものとなってしまったのが、1999年のハイジャック事件だ。この国がインドと敵対する勢力によって攻撃基地として用いられた場合、インドの喉元に突きつけられた剣となり得る。
自国の影響が大きな地域であり、SAARC内の他国との間にはない、ある意味格別な関係のあるネパールだが、言うまでもなく主権を持つ独立国である。インド憲法356条により認められた、必要とあれば州政府を罷免して大統領による直接指揮下に置くことができる自国の諸州とは違う。
それがゆえにインドとしては、この国の政権の安定した運営とインドに対する友好的な姿勢を希望するし、そうであるように外からいろいろと工作を仕掛けるほかない。同様に中国もそれとは逆の立場、対インド工作の足掛かりとしてネパールを抱き込みたいがゆえに、様々な開発プロジェクト等のパッケージを提示したりして、ネパール政府の気を引こうとしている。
話が大きく逸れてしまった。Narayanhiti Palace Museumを見学した印象については次回書くことにする。