ヤンゴンのインドなエリア 2

インド人地区
モスク
ひとたび足を踏み入れると、コロニアルな建物+林立するモスク+亜大陸系の顔=インドのどこかで見たような空間・・・が広がっているのだ。
街のあちこちで目にする黄金色の仏塔を持つパゴダと優しい顔をした仏様からなる世界とは打って変わり、アザーンの呼びかけが流れる街中を立派なあごひげをたくわえたオジサンや黒いブルカーを被った年齢不詳の女性が行き交う。次のブロックの辻では巨木のたもとにしつらえた祠にヒンドウーのカラフルな神像。『ああこんなところにインドが・・・』と思わず立ち止っているとプージャーリーが出てきて喜捨を求めるといった具合である。
祠
ミャンマーの総人口5300万人のうちインド系の占める割合はわずか2%というが、地域的な偏りが著しいようで、ヤンゴン、パテイン、マウルミャイン、シットウェーといった港町の商業地区に多いようだ。そしてヤンゴンのこの地区における彼らのプレゼンスの大きさときたら、まるでインドの飛び地であるかのような気がするくらいである。

続きを読む ヤンゴンのインドなエリア 2

ヤンゴンのインドなエリア 1

20070526-yangon1.jpg
ヤンゴンで『都心』といっても地域的にかなり広がりがあるし、重要な施設等はかなりあちこちに散在している。そのためどこを街のヘソと呼べばいいのかよくわからない。だが旅行者たちにとってはコロニアルな建物が並ぶ、英領期から行政機能が集中しており、大きなマーケットや繁華街がいくつもあって商業的にとても栄えているヤンゴン河沿いのダウンタウン地区こそが『都心』と感じられることだろう。
公式にはヤンゴンはすでにミャンマーの首都ではない。昨年10月に同国政府が同国中部のピンマナー市郊外の軍用地に建設されたとされるネピドーへの遷都を宣言し、政府機能の大半を移動してしまっているためだ。移転先の新首都には官庁その他の行政機関が引っ越したものの、一般人の出入りは制限されており内情がよくわからない謎めいた街らしい。人口規模からも経済・商業的な規模からもヤンゴンこそがミャンマー随一の『都』であることは今も変わらない。
水際に政府関係の重要施設や様々な機能が集中し、威圧感あふれる巨大な欧風建築が林立する植民地的港湾都市風景がそのまま残っているのが面白い。
20070526-yangon2.jpg
このダウンタウンの真ん中、道路のロータリーに囲まれたスーレー・パゴダはよそ者にとって非常にわかりやすいランドマークだ。
このあたりにはイギリス、オーストラリア、ニュージーランドなどといった外国の大使館も多い。スーレー・パゴダ横にあるマハー・バンドゥーラー・ガーデンという公園の南端歩道側に赤いこんな看板があった。
20070526-yangon3.jpg
———————————————-
PEOPLE’S DESIRE
Oppose those relying on external elements, acting as stooges, holding negative views.
Oppose those trying to jeopardize stability of the State and progress of nation.
Oppose foreign nations interfering internal affairs of the State.
Crush all internal & external destructive elements as the common enemy.
———————————————-
第一次英緬戦争を戦った国民的な英雄、コンバウン朝のバンドゥーラー将軍の名前をかぶせたこの公園はミャンマーの国民の主権を象徴するものでもある。この『自主独立』を固持する『人民』たちが、ミャンマーに対する経済制裁を続ける外国勢に対して発した抗議という形式を取ったつもりなのだろう。ミャンマー当局により道路をはさんだ正面に建つある国の大使館へ向けた露骨な挑戦状らしい。

続きを読む ヤンゴンのインドなエリア 1

インドの東、タイの西

null
インドの隣国であり、一時期インドの一部でもあったミャンマー。北西部にはナガ族のようにインドとミャンマーにまたがって暮らす少数民族もあるし、ラカイン族はビルマ族と南アジア系の人々との混血であるとされる。また都市部を中心にインド系人口も少なくない。また中部には英領時代に兵士として入ってきたグルカの人々の子孫も定住している。衣食ともに中国とインド双方の影響を色濃く受けてきた東南アジア地域の中でも、特に『インド度』が高い国のひとつといえるだろう。
他の東南アジアの他国に比べてやや面倒な部分もある。たとえばヴィザである。この地域では、日本あるいは他の先進国等の国籍を持っている人たちにつき、シンガポールやマレーシアのように一定期間内の観光目的による滞在については査証が免除されている国がある。またタイのように当該国と相互免除の取り決めがなくても、先進国等の人々に対して2週間からひと月程度の期間、ヴィザ無しでの滞在を認めている国も少なくない。こうした措置がない国々においても、ラオス、ベトナム、カンボジアのでは、陸路・空路ともに到着時にその場で取得できるようになっているので簡単だ。外貨獲得における観光業からの収入の割合が高く、それを大いに振興させようという狙いがあるのだろうが、いずれにしても人々の往来がかつてなく盛んになっている昨今、多くの場合特に問題が生じていない国の人々については出入国関係手続きについて簡略化が進んでいる昨今である。
現在のASEAN加盟国で、どこの国の人についても頑として事前に査証取得を求めている国といえば、ミャンマーくらいだろうか。ミャンマー政府の中でも、とりわけ財務関係や観光振興関係の部局などは、このあたりの手続きを簡素化して外国人観光客を多く呼び込みたいところなのであろうと私は想像している。
1990年に行われた総選挙の結果を受けての平和裏な手段での政権交代を否定し、そのまま居座り続ける軍主導政権のありかた、人権侵害や少数民族などに対する強制労働その他により欧米を中心とした国々による経済制裁を受けているこの国にとって、外貨収入の貴重な手段であるからだ。
しかしその一方、政治的な問題から、ひょっとしたらジャーナリストかもしれないし、人権活動家かもしれない外国人たちが入国する前に一度きちんとフィルターにかけておきたいという、セキュリティの面からくる要請があるのだろう。軍政下にあるとはいえ、政府内でも閣僚たちや省庁等により、いろいろ意見のあるところであるはずだ。

続きを読む インドの東、タイの西

最後のムガル皇帝、ここに眠る 2

null
高さ約100mの巨大な黄金色の仏塔がそびえるシュエダゴン・パゴダから東南方向、バハードゥル・シャー・ザファルのダルガーへと向かう。地元ではよく知られた場所らしく、途中幾人かに道を尋ねたが皆ここのことを知っていた。
広い道路、中央分離帯、そして道の両側に軍施設があるエリア、要人らしき人たちの邸宅が並ぶ高級住宅地になっている。界隈の屋敷の造りといい、道路の縁石や緑地のしつらえかたといい、どこかインドを思わせるものがあるのは、やはり英領時代の名残なのだろう。
こういう場所なので歩く人はほとんどなかった。辻ごとに警戒するポリスや軍人のほかに目に入るものといえば、広くスムースな道路をスピードを上げて駆け抜けていくクルマくらいだろうか。
緑多く閑静な市街地の一角にそのダルガーはあった。ここNo. 6, Theatre Roadは生前、彼が幽閉されていた場所のすぐ近くである。建物もごく新しいものであるが、規模は想像していたよりもかなり小さかった。先述のとおり、界隈はごちゃごちゃしたムスリム地区などではなく、まさにその対極にあるようなエリアだ。ここを訪れた人はダルガーの立地としてはミスマッチな印象を受けることだろう。
null
敷地に足を踏み入れてみる。階段を少し上ったところにある礼拝所があり、その反対側の小部屋に三つの墓が並んでいる。入って手前からバハードゥル・シャー・ザファル、妻のズィーナト・メヘル、孫娘のラウナク・ザマーニー・ベーガムの墓石である。だがこれらはオリジナルではなく、あくまでもそれら3人を追悼する意図のもとに再建されたものだ。室内にはこれらの人物の写真や絵も飾られている。

続きを読む 最後のムガル皇帝、ここに眠る 2

最後のムガル皇帝、ここに眠る 1

null

1857年の大反乱から今年5月でちょうど150年の節目となっている。メディア等でも何かとこの関連の記事が掲載されているのを見かけるこのごろだ。
インドやイギリスでは、この大事件の舞台を巡るツアーも出ている。主だった史跡の中にはこれを機に大きな改修の手を加えたところもあると聞く。ラクナウのレジデンシーのようなメジャーどころではなく、人々からすっかり忘れ去られたマイナーな戦跡等の中には、たまたまこうした風潮の中で観光客たちの姿を見かけるようになったような場所もあるのかもしれない。
私もこの機会に大反乱に関わる場所を訪れてみようかといくつかの場所を思い浮かべてみたが、結局ミャンマーのヤンゴンに足を延ばしてみることにした。ここは大反乱そのものとは縁がないが、騒ぎが平定された後にムガル最後の皇帝、バハードゥル・シャー・ザファル(1775〜1862年)がここに流刑となりこの地で没している。私は彼の墓を見に行きたいと思った。ここは現在ダルガーとして近郊の信者たちを集めているそうだ。
彼の治世のころ、すでにムガル朝は政治的にも財政的にも衰退しきってデリーとその周辺を治める小領主のような存在に成り下がってしまっていたともに、跡継ぎを決めるのも、地方から上京してきた藩王に謁見するについても、デリーに進駐していたイギリス当局の許可を必要とするなど、支配者としての主権をすっかり失っていた。当局の『そろそろこの王朝の存続を打ち切りにしてしまおうか』という意図も見え隠れしていた時期である。
イギリスに対して叛旗をひるがえした勢力は、名目上の首領として当時のムガル皇帝を担ぎ出すことになったが、老齢の皇帝自身もこの機を形勢挽回の最後のチャンスと見て賭けに出たのだろう。しかしその代償は非常に高くついたことは言うまでもない。

続きを読む 最後のムガル皇帝、ここに眠る 1