彼方のインド 3

どこかの教会からカランカランカランカランと長く連続する鐘の音が聞こえてくる。植民地時代からずっと続いてきたものなのだろう。はるか彼方から渡ってきたイギリス人たちが去ってからも、彼らがこの地に残したクリスチャンたちの間でその信仰はしっかりと根付いているのだろう。
Purcell Tower
宿で自転車を借りて市内散策。まずはPURCEL TOWERという時計台のあたりへ。ここは賑わうマーケットとなっている。屋根の付いた大きな市場もあるし、その脇の道路では様々な食べ物の屋台が店を開いている。
屋台
このあたりにはインド系の人々も多く、いくつものヒンドゥー寺院やモスクがある。通りを数台のバイクにまたがったスィク教徒の若者たちの姿もある。インド系の人が経営する安宿もあるようだ。そんなわけでこのエリアではインド系の人、とりわけ一軒の店を構えている人物相手ならば、かなり普通にヒンディーが通じる。
シュリー・クリシュナ寺院
シュリー・ガネーシュ寺院
そうした人々が切り盛りする店のひとつに入って腹ごしらえする。ローティーとともにサブズィーやダール等のおかずのターリー。客席で注文を取る男も厨房で大汗かいて働いている人も北インド平原部で見かけるような風貌の人たちであるだけに、インドのダーバーと同じようなものが出てきたが、口にしてみるとかなり砂糖の甘みを感じることに、ここが東南アジアであることを感じる。
ターリー
食事を終えてから自転車にまたがると、サドルから突き出ていた金具にズボンが引っかかって裂けてしまった。メインストリートを渡ったところにある屋根付きの市場に行く。インドにしてもミャンマーにしても、身に付けるものが壊れても、修理屋がすぐそこにあるのはありがたい。
いくつかの仕立屋があった。働いているのは若い女性が多かった。大汗かいて湿った、ところどころ塩を噴いたようになっているズボンを託すのは気恥ずかしいため、どこかオジサンのやっているところはないか?と思えば、ほどなく見つかった。ロンジー(インドでいうところのルンギー)を借りて、ズボンを預ける。
店の人、Sさんはかなり流暢なヒンディーを話し、英語もなかなか上手な感じである。話すこともなかなか知的で、町角の仕立屋さんというよりも学校教師のような雰囲気がある。ズボンが直ってからもしばらく彼の話を聞いていると、もうひとりインド系の人がやってきた。このKさんは長らくヒンディーを教えることを生業してきたのだという。ミャンマーの学校教育でヒンディーが教えられることはないのだが、個人的に家庭教師や講師として雇われて教えてきたそうだ。
同胞が集中しているコミュニティで生活していれば自然と身に付いていくものとはいえ、そうではない生活条件の人もある。またミャンマーでのヒンディーは生活や仕事の中での口語が中心である。ヒンディーによる報道等のメディアは原則として禁止されているし、文芸活動も無い等しいだろう。そんなわけで、ビルマ語の読み書きは問題なく(この国の識字率は89.7パーセント。ベトナムとともに後発発展途上国の中では突出している)ても、ヒンディーによる読み書きはできないということが珍しくないようだ。それがゆえにヒンディー教師の需要があるらしい。
Sさん(左)とKさん(右)
SさんもKさんもビハールからやってきた移民の四代目にあたる。前者はムスリムで後者はヒンドゥー。どちらも先祖が農業移民としてやってきた。今も昔もビハールは無尽蔵の労働力の供給基地のようだ。多くの場合、数世代経ると先祖の故郷の土地の名前は知っていても、すでに遠縁となった現地の親戚との繋がりは途絶えてしまうが、驚いたことKさんは2000年に訪印して曽祖父が生まれ育ったガヤー近郊の村を訪問したのだという。
たとえその言葉をヒンディーと呼んでもウルドゥーと呼んでも、そのコトバで話すことがやけに歓迎され、店先で「これ試してみてよ」とミターイーを渡されたりもする。そのコトバがインドではずいぶん隅に置かれているのとはかなり違うようだ。
もちろん本場同様、社会的に高いステイタスを持たない普段着のコトバであるにしても、『本場』ではごく当たり前で誰もが話す普遍的な言葉であるのに対して、ここでは、ビルマ語の大海の中で、自分たちのコミュニティ内でしか通用しない利便性の低い言語ではあるものの、裏を返せばコミュニティの結束や文化・伝統を維持する民族語としての誇りがあるがゆえのことだろう。
インド系とはいっても、圧倒的大多数はインドを訪れたことがない。それでも強い関心はあるようだ。デリーやムンバイーの街の様子、現在のラクナウーやパトナーがどんな具合かといったことを少し話すだけで、矢継ぎ早に様々な質問を受けることになる。
独立後の政策により、とりわけ1960年代以降は、行政・教育等のビルマ語化が強力に推し進められてきたこの国では、意外なほど英語が通じない。また私はビルマ語はまったく知らないので、旅行中は往々にして無言の行みたいになってしまう。それだけにビルマ語の大海の中に点在するインド空間では人々の話がいろいろ聞けて和む。
メイミョーへのインド系移民の出身地の最たるものは、やはりU.P.こと英領時代のUnited Provinces(ウッタラーカンドが分離する前のウッタル・プラデーシュととほぼ同じ範囲)とビハールが多いそうだ。カマルさんの曽祖父はビハールのパトナーからやってきた人のことで、鉄道建設関係でも、兵士でも役人でもなく、農業移民だったとのこと。今も昔もビハールは労働力の供給基地みたいな感じである。
他にも祖父が鉄道員だったとか、軍人であったという人たちの話も聞いた。1857年の大反乱以降、それ以前は兵士のリクルート先として比重の高かったベンガルを中心とする東部から、パンジャーブを中心とする西部ならびにネパールのグルカ兵へと比重が移っていったため、後者の場合はそれらの地域を起源とする人たちが多かったのである。
第三次英緬戦争時にマンダレーに上陸する英軍
根掘り葉掘り尋ねたりしなくても、なぜあなたがたがここに?と問うだけで、人々は自らの家族史を語り始めるので聞いていてなかなか面白い。
英領期のインドからの移民の送り出し要因、出向いた先の引き寄せ要因などはいろいろ研究されている。しかしながらここに渡ってきた人々の日々の生活と収入の手段の変遷、何割くらいの人々が契約・赴任期間満了等で出身地に戻ったのか、故郷に帰ることなくここに定着した人々がそれを決めた理由、現地定住以降のコミュニティ形成、故郷との連絡状況、婚姻や通過儀礼等、社会・経済的立場等々を調べると、いろいろ興味深いものが出てくるのではないかと思う。
20世紀初頭には、ラングーン(現ヤンゴン)の人口のおよそ半分はインド人たちが占め、当時のビルマ最大の都市は文字通り『インドの街』であったこともある。その他ピンウールィン、シットウェー、パテインその他インド系の人々が多数定住しているところは多いが、1937年の英領インドとの分離、1948年のイギリスからの独立、1962年の軍事クーデターいう三つの大きな節目はそれぞれインド系の人々に不利に働いたため、多くの資本や人々がこの国を離れてインドないしは第三国へ移動している。
インドの一部を成していた時代には、様々な分野の労働者以外に、行政の中堅・下級官吏の多くをインド人たちが占め、軍の将兵の多くもインド人たちであったが、その後彼らはそうした地位から追われることとなり、行政・政治の分野で支配的な立場から姿を消すこととなった。そんなわけでインドの年配者の中で『昔、ビルマで生まれ育ちました』という人に今でもごくたまに出会うことがある。
せっかくミャンマーまでやってきて、こんなことに関心を持つのもなんだが、やはり「一時期インドの一部を成していたビルマ」である。
インドとの分離直前のビルマ
先日取り上げてみた Candacraigをはじめとするヘリテージ・ホテルに転用されたもの以外にも、往時に建設されたバンガローはいくつも現存している。また政府の建物にも英領期のくたびれたものが多く見られる。
発展から取り残された国であるがゆえに、インドのヒルステーション全般と比較して、植民地期のものがよく残っているといえる。そうしたものが取り壊されることなく、また最近出来た新しい建物に規模の点でも圧倒されることなく、豪壮な威厳を保っていることも特徴であるといえる。しかしそうした状態は、いかにこの国の停滞ぶりを示すものであり、決して文化財や歴史的建造物の保全が充実しているといったものではない。
目下、ビンルーウィンことメイミョーは、ITシティーとしての発展が期待されているのだという。今のところ町を流してみてITを感じさせるものは何ひとつ見当たらないが、国としてはそういう方針らしい。高原の町ということもあり、インドのバンガロールを小さく小さくスケールダウンしたようなものを目指しているのだろうか。
〈続く〉

KKHの湖

中国の援助により1966年に着工し、20年後の1986年に全線開通したパーキスターン北部から中国新疆ウイグル自治区へと抜ける国道35号線、通称カラコルム・ハイウェイ(KKH)は、厳しい地理条件のところを通っているため、しばしば崖崩れや落石で不通となるが、今回はこれまでになく深刻である。中パの間の陸路交通手段の途絶以上に現地の多くの方々の人命や財産にかかわる大きなトラブルが発生しているからだ。
フンザ地区で今年1月に発生した大規模な崖崩れが発生。その際にふたつの村とそこに暮らしていた人々が犠牲となっているが、岩石や土砂がダムを形成し、川が堰き止められたことにより湖が出来上がってしまい、周辺地域の他の村落等が水没するなどの影響を及ぼしている。カラコルム・ハイウェイもこの部分で交通が途絶している。
Update: Pakistan’s Karakoram Highway Blocked by Major Landslide (Matador Trips)
現在、湖はコンスタントに成長しているおり、近々決壊することが予想されるなど、非常に危険な状態にあるそうだ。そういう事態となれば、大量の水が土砂とともに鉄砲水のように下流地域の村々を襲うことになるからだ。
パーキスターンで観光ガイドをされている方のブログ『フェイサル・シャーのパキスタン便り』でもその模様を取り上げており、「5月から雪解け水が増えるから6月から8月までフンザ河の流れがとても激しくなり・・・」とあるように、ますます拡大する湖を前に緊迫した状況がうかがえる。
今後の進展が気になるところである。
The water bomb (DAWN.COM)

彼方のインド 2

酷暑のマンダレーからシェアタクシーで走ると肌に当たる風が熱い。それでも比較的なだらかな斜面を上っていくにつれて、熱風の中にときどき爽やかな冷気のようなものがかすかに感じられるようになってくる。
昼下がりに海抜1,100 mにも満たない場所にあるピンウールィンに到着してみると、さほど清涼な気候とはいえなかった。それでも平地の暑さに較べればまだしのぎやすいことは確かだ。日没後はエアコンなど不要で、ときおりテラスを抜けいく風が心地良く、半袖で快適に過ごすことができた。
ここでの宿泊先はThiri Myaing Hotel。通称Candacraigと呼ばれている。もともとはBombay Burmah Trading Corporationの保養施設として設立されたときの名称だ。
Candacraig Hotel
エジンバラ出身で1840年代にボンベイへと渡り、主に茶葉の取引に携わっていたイギリス人実業家がラングーン(現ヤンゴン)で1860年代にラングーンで設立した、主にビルマとタイのチーク材の取引を行なう歴史的な会社である。現在ではインドのワディア・グループの一部門となり、ムンバイーを本拠地としているが、同社ウェブサイトのトップページ
を見てわかるとおり、業務の主軸を紅茶、コーヒー、ゴムのプランテーションとしている。
吹き抜けはこんな具合
Candacraigはピンウールィンを代表するヘリテージ・ホテルとはいえ、本来は植民地期の会社の施設であり、ホテルとしての伝統や格式などは持ち合わせない。しかしヒルステーションでこうした歴史的な建物に宿泊できるということ自体がちょっと嬉しい。
ヒルステーションとはいえ、暑季はオフシーズンなので朝食付き一泊25ドルとエコノミーであった。可処分所得の低い国であるため、国内旅行産業があまり発達していないことの証でもあり、インドとはかなり事情が異なる。
1906年に完成したこの建物は、1948年にこの国が独立した際に国有化されてから農業省管轄下でホテルに転用され、現在では政府系の観光促進機関であるMHTS (Myanmar Hotels and Tourism Services)が運営している。
ピンウールィンには、MHTSが経営するホテルがあと2軒ある。ひとつは同じくBombay Burmah Trading Corporationの施設であったGandamar Myaing Hotelで、往時はCroxtonと呼ばれていたもので、Candacraigとよく似た様式の建物である。
Croxton Hotel
もうひとつはNan Myaing Hotelで、別名Craddock Courtとも呼ばれている。もともと何の建物であったのかはよくわからないが、『しばしば幽霊が出る』という噂があるようだ。
ただし政府系のホテルであるがゆえに、『ミャンマー政府の手による旅行会社や宿を使わずに民間にお金がいくようにしよう』と唱えているロンリープラネットのガイドブックには、これらを宿泊先としては紹介されていない。ただ見どころとして建物を挙げているのみだ。同社のガイドブックは、タイトルによって著者が違う。そのためチャプターの構成はどのタイトルも共通しているものの、書き手の視点がかなり異なることもよくある。
ミャンマーのガイドブックについては、あくまでも反政府的な視点となっており、まずは「ミャンマーに行くべきか行かざるべきか」というチャプターさえもある。旅行ガイドブックなので、行くも行かないもないだろうと思うのだが。
インターネットでの情報源として、THE IRRAWADDYMIZZIMAなど、いくつか優れたニュース関係サイトを紹介してあるのはいいのだが、どれもミャンマー国外をベースとする反政府なスタンスのものばかりだ。ミャンマー政府がどうであるかについては各自が考えるべきものであり、ガイドブックやその著者が押し付けるべきものではないだろう。
政府、政府と批判しているが、批判されるべきは軍をバックグラウンドとするこの国の政権であり、政府機構そのものではない。1988年の民主化運動の際、デモに加わっていたのは学生や民間セクターの人々ばかりではなく、非常に大勢の政府職員や公共セクターの人々もそれに参加していたことを忘れてはいけない。
公務員はそこに雇用されている労働者に過ぎない。多くの場合、自らの生産手段を持たないがゆえに、雇用を得るために就職した先がたまたま公の機関であるということである。もちろんその採用の際に何がしかの出費ないしはコネが必要であったとしても。
そうしたことはともかく、コロニアルなホテルがあるのならばどこの所有だろうが泊まってみたほうがいい。往々にして『政治史』『行政史』に偏りがちな歴史の中で、あまり記されることのなかった在緬の民間イギリス人たちの出入りが感じられる。まさにこの場所で彼らは活動していたのだ。
宿泊費込みの朝食以外を注文することはできず、昼食と夕食はどこか外に出かけなくてはならないという商売っ気のなさだが、Candacraigはメンテナンスも良く、往時の雰囲気をかなりきちんと残しているように思われるのでなかなかオススメの宿である。
ここはしばしば映画やドラマのロケにも利用されるのだそうだ。私が滞在しているときにも、グラウンドフロアーで撮影が進行中であった。撮影中には映画のディレクターの父親が同行しており、この人は数年間日本で暮らした経験があるとのことで、日本語のできる人であった。ミャンマー映画についてはよく知らないが、彼によるとけっこう有名な俳優たちが出演するアクション映画なのだとか。
ミャンマー映画の出演者たち
演技をしている彼らを照明その他様々な小道具等の担当者が取り囲んでいるが、比較的ゆったりとしたペースで仕事が進行中であった。私はしばらく見物してから外出したが、日中一杯カンダクレイグでの撮影は続いていたようだ。ようやく日没近くなってから終了し、撮影の機材関係の人たちは、チャーターした乗合ピックアップトラックの屋根にまで、人間・機材ともに満載で帰るところだった。映画撮影とはいえ素朴なものであった。

彼方のインド 1

ピンウールィン特産のイチゴ
ミャンマーのマンダレーから乗り合いタクシーに乗って2時間ばかり揺られるとピンウールィンに着く。かつてはメイミョーと呼ばれていたヒルステーションである。
1885年に開始、翌1886年にビルマ最後の王朝であったコンバウン朝を降伏させ、イギリ英領としてビルマを統一するとともに、これを英領インドに編入させることになった。
その3年後にはメイミョーの建設が始まっている。国土のほぼ中央に位置する高原に設置された英軍の基地の町であったが、夏季には乾燥した灼熱の大地となる中部ビルマにありながらも、海抜1,000メートル前後という立地のため比較的過ごしやすい気候であるがゆえに、インドでのそれと同様のヒルステーションとして発展することとなる。
開発当初は軍の駐屯地ならびに保養地、のちに文民たちをも含めた避暑地としてのヒルステーションへと発展というパターンは、インドの多くのヒルステーションと同様だ。
ちなみにメイミョーとは『メイの町』の意味。1857年のインド大反乱を経験したヴェテラン軍人、メイ大佐のちなんだ命名である。今でもアングロ・バーミーズ、アングロ・インディアン、その他のクリスチャンが多い土地だ。
同様にインド系、ネパール系の住民がとても多いことでも知られている。前者は北インド系が大半だが、中でもパンジャービーは後者の中でグルカ兵としてやってきた人の占める割合が高いネパール系とともに軍人として渡ってきた人々の子孫であることが多いようだ。
またビハールやU.P.出身者は鉄道建設や農業労働者として来た人々の末裔が高い割合を占めているようだ。ここの人々が言うところのU.P.とは、往々にして現在のUttar Pradeshではなく、United Provinces of Agra and Oudhないしは、1921年に行政区が改名されてからのUnited Provincesである。どちらにしてもウッタラーカンドが分離する前のUttar Pradeshの範囲とほぼ重なるのだが。
鉄道建設とヒルステーションも非常に縁の深いものがある。避暑地とはいえ政治的にも文化的にも重要性の高い土地であったからこそ鉄道が引かれたのか、あるいはもともとそれなりの規模があったことが需要を喚起したことにより鉄道が敷設されたのか、卵が先かニワトリか?みたいなことになるが、インドでも第一級のヒルステーションでは鉄道によるアクセスが可能だ。
ダージリンは1878年、シムラーは1898年、ウータカマンドでは1908年に、俗にトイトレインと呼ばれる狭軌のゲージに小型車両が走行する鉄道オープンしている。
ピンウールィンことメイミョーは、マンダレー管区とシャン州の境目に位置する。19世紀末に開通したマンダレーから北東方面のラーショーへと向かう路線の途中駅である。
ピンウールィン駅
同じくマンダレーからほぼまっすぐ北上するミッチーナーが終着駅となる路線の途中駅にはカターという町がある。現在ビハール(当時はベンガル・プレジデンシー)のモーティハーリーで生まれたイギリス人作家ジョージ・オーウェルが警察官として赴任したことのある町である。英国時代には北部辺境地域を臨む前哨地域として大きな意味を持つ場所であったようだ。
カターの町は、オーウェルの処女作『Burmese Days(邦題:ビルマの日々)』の中ではチョークタダーという名前に変えてある。この小説の冒頭にはオーウェル自身がスケッチした町の簡単な地図が挿絵として掲載されている。
その地図、また作品の中で描写される町のたたずまいが、今でも当時とあまり変わらずに現在に至っているとのことだ。長らく発展から取り残されてきたことから、意外に古いものがよく残っているということはミャンマーでは珍しくない。今回は訪れてみる時間がないのだが、いつか機会があれば足を伸ばしてみたい。
イチゴジャムも美味であった

ヒルステーション

家族連れがそぞろ歩いていたり、カップルがいちゃいちゃしていたりする、軽井沢みたいな土地のどこがいいのだ?と言われれば、確かにそうだと頷くしかない。確かにそういう雰囲気に特に何の関心もない。小洒落たカフェやナイトスポットならば、もっといいところが平地の大都会にはいくらでもある。
結局のところ避暑地であるが、欧州列強の植民地、往々にして熱帯の土地であるが、暑季の耐え難い気候から一時的に逃れるため、あるいは療養などを目的に訪れるためなどに建設された町である。もちろん暑さに参ったのは文民だけではない。ヒルステーションには往々にして相当規模の軍の駐屯地も存在してきた。
今の時代は、どこでもエアコンの効いているスペースならば暑さを忘れることができるとはいえ、暑季のインドで標高の高いところに来たときのアウトドアでの清涼感は何ものにも替えがたい。だが涼しいだけならば、標高の高いところならばどこでも清涼な気候を楽しむことができるわけだが。
だがヒルステーションにしかないものもある。それは英領期に築かれた歴史的な遺産とそうした土地であるがゆえの空気である。例えとしては適切ではないかもしれないが、敢えて言ってみれば、広大な中国で漢民族たちはどこにも同じような街を作っている。北京、上海だろうが、非漢民族の自治区(主要都市のマジョリティは漢民族だったりするが)の大都市、たとえウルムチであれ、ラサであれ中心部の街角は酷似している。
同様にイギリス人たちが築いたヒルステーションは、どこも立地といい、町の佇まいといい、非常に共通するものが多い。『リッジ』があり、『モール』があり、数々の公共の建物や教会、今も残るバンガローその他の個人所有の建物等々が並ぶ。
たとえ彼らがその地を去って60年以上の歳月が経過しているとはいえ、往時の面影を色濃く残しているものである・・・と言いたいところだが、90年代以降のインド国内での観光ブームによる開発のため、あながちそうとはいえない。とりわけハイ・シーズンに訪れると、そこはまさに日本の軽井沢状態であったりする。
植民地的な景観の『町並み保存』を訴える向きがあるのかどうかは知らないが、英国的な景観には事欠かないインドにあって、特にそうしたものに興味関心もないであろうことは容易に想像がつく。
スリランカのヌワラ・エリヤ、マレーシアのゲンティン・ハイランド、旧仏領のベトナムのダラート、旧蘭領であったインドネシアのバンドゥンなどがよく知られており、アフリカにもそうした保養地はいくつかあるが、ヒルステーションが最も発達を遂げたのはインドだ。かつての英国の海外領土の中でも別格で、イギリス本国の植民地省とは別のインド省を通じて支配された地域であり、英領時代のボンベイ管区はアラビア半島で貿易港アデン他の拠点を管轄するなど、言うならば「海外植民地を持つ植民地」のような存在であっただけのことはある。
また単なる避暑地のみならず、ダージリンやシムラーのように、暑季に行政の中枢が平地から移動する夏の臨時首都といった様相を呈するほどの重要性を持ったヒルステーションは、旧植民地であった南の国々にあっても稀だ。
なにしろエアコンのない時代であり、医療も発達していなかった時代だ。インドに駐在するイギリス人をはじめとする欧州人たちの死亡率は今と比較にならないくらい高かった。とりわけ暑季は彼らの生命をも左右する、としては言い過ぎであるにしても、政治・行政機能を期間限定で移転するという非効率さと膨大なコストと引き換えにまでして得たかったのが、そうした時期のヒルステーションの気候と環境だ。
日本の軽井沢や清里がそうであるように、インドの人々にとってもそこは単に避暑地であり商業活動の場である。資本主義の世の中で、需要があれば供給がなされる。それによって訪れる人々は必要なサービスを受け、そこで働く人々は収入を得る。
そうした中で景観が変わっていくのは当然のことだが、数十年の時間を経てもなお往時の面影を感じられることこそが、ヒルステーションの味わいではないかと思う。
チャンディーガルからシムラーに向かうルートから枝道に入ると到着するカサウリーは、シムラーが大変込み合う時期でも比較的空いており、あまり商業的に活発な場所ではないためもあって、旧い町並みがよく残っている。ただし歴史的に軍とのつながりが非常に強く、カサウリーのかなりの部分の土地を今でも軍用地が占めているのがやや難ではあるのだが。
数年前に『カサウリー ビールとIMFL(Indian Made Foreign Liquor)の故郷』として取り上げてみたように、インドにおけるビールを含めた洋酒の原点とも言える土地である。ここで創業したダイヤー・ブルワリーは、現在パーキスターンとなっている西パンジャーブ地方のヒルステーションとして知られるマリーでも同様に酒造業を展開していた。
他にも現在パーキスターンとなっている土地ではラーワルピンディー、クエッタ、インドではシムラーやウーティー、現在ミャンマーとなっているマンダレーといった広範囲にも酒造業の拠点を築くに至った。洋酒文化の伝播という点からもヒルステーションが果たした役割は大きかったといえる。