モコンチュンのクリスマス 2

モコクチュンの町

山の上に広がるモコクチュンの町は、想像していたよりは大きく、見た感じは物資もそこそこ豊かな感じがするのは、ここまで来る道を考えると不思議である。物資を運ぶもっと効率的なルートが他にあるのかといえば、そんなことはないだろう。ナガランド最大の街、ディマープルからのルートが一部アッサムを経由するこのルートで到達するのは、他よりもベターな道路を選好してのことであるからだ。ナガランド州において、ディマープル、コヒマに次いでモコクチュンは大きな町ではないかと思う。

Hotel Metsuben

Hotel Metsubenという、町の中でも小高いエリアにあるところに投宿。Metsubenとはナガの言葉で「花」という意味だ。クリスマスなので、込み合っているのではないかという予想は外れた。外国人客は私以外には、インド人バイカー、フランス人の四人連れのグループ、そしてインド人家族連れが二組だけで、ガランとした感じであった。食事も材料の調達の関係があるので事前に注文しておいてくれとのこと。下半期におけるひとつのピークと思われるシーズンでこのような具合ということは、それ以外の時期には閑古鳥が鳴いていることだろう。

私とインド人バイカー以外は、隣州のアッサム州発のツアーで来ている人たちだ。ナガランド州の交通事情を考えると、これが最善の方法であることは、クリスマス前後の数日間が州内のすべての分野において共通であり、交通機関さえもその例外ではないということを知るに至り判った。ツアーで来ている人たちと、自前の足を持っているインド人バイカー以外は、たとえ町周辺を散策してみようにも、徒歩で行くしかないだけでなく、州内の移動もままならない。同様に、この州では週末は同様の状態となるため、インドの他州と比較して、あるいは同じ山間の州と較べてみても、信じられないくらい旅行はしにくいことになる。

スィッキム州でも地域間の公共交通機関により移動は、主に朝早い時間帯のシェア・スモウのみという具合であったが、ここでは主要な町のひとつであるモコクチュンからであっても、ディマープル、コヒマ以外へのバスやスモウは、休みの日以外であってもあるのかないのか判然としないくらい頼りない。もともと人口密度が薄く、人やモノの地域間での移動も少ないのだろう。確かに今日眺めた範囲に限られるが、沿道で見かけた集落もずいぶん小さくて簡素なものばかりであった。

さきほどナガランド州内のウォカーから到着したインド人バイカーは旅慣れた感じの男性。5週間の休暇中で、ロイヤル・エンフィールドの大排気量モデルを駆り、遠路はるばるケララ州から来ているとのことである。ジャーナリストかライターかと思えばそうではなく、なんと医者であるという。

「え、医者が忙しい?40歳を過ぎて自分なりの地位を固めれば、仕事は下の者たちがやってくれる。もうしゃきりきに働く年齢ではないさ。」とのこと。この人自身は50歳前後くらいだろう。インドの医者がそんなにヒマとは思えないのだが、どうやら自分で病院を経営していて、彼の子供たちや雇用しているスタッフたちに任せているので、わざわざ「お偉いさん=彼」がオペを取り仕切るようなことはないということのようだ。

「外科医なんだが、まあアレを切ったり、これを付けたりってな具合だね。要は大工仕事と同じだ。」と笑う彼の趣味はバイクで駆け回ることであるといい、この年齢にしてバイクでケララ州から北東インドにやってきて、帰路もまたこの北東地域から一路ケララ州まで走破することになる。体力にも自信があるようで、なかなか面白い人物らしい。

大蛇のとぐろみたいなクリスマスツリー
立派な体格のサンタさん
雪は降らないけど雪ダルマ
これまたクリスマスツリーの一形態か?

この日はクリスマスイブであったため、町中にいくつもある教会ではミサが続いている。賛美歌を合唱する様子を見ていると、これらを日本語で歌ったミッション系スクールに通った高校生時代のことを懐かしく想い出す。ギターその他の洋楽の楽器による伴奏でやっているところもあり、いかにもクリスマスというムードである。

町一番の大きな教会
着飾って教会前に集まる子供たち

ナガランドのキリスト教の歴史は浅く、建築的には見るべきものはない。それでも外部の宗教とまったく縁のなかった地域で、ときに首狩りに遭い殉教してしまう宣教者を出しながらも、教えを広めていったバプティストの人たちの情熱と根気には頭が下がる思いがする。もともとイギリスによる統治に対する反抗が強い土地だったので、そうした外来者による宣教についても相当な嫌悪感や反対もあったことだろう。

ミサの後に撮影。教会の中はこんな感じだった。

ナガランド、マニプル、ミゾラムは禁酒州ということになっているため、バーはなく、ホテルでも酒は出していない。どこか闇のバーはあるのではないかと思うのだが。禁酒州がゆえに、町中には酒の広告類もない。ここに住んでいる人たちは、アッサムに出かけて「おおっぴらに飲む」ことに喜びを感じたりするのだろう。

地元の人たちはけっこう飲んでいるという話もあるので、どこかでかなり出回っているのだろう。軍用に大量に供給されているはずなので、そのあたりからも流れているものがあるのではないかと想像はできる。マーケットや空き地などでビールの空き缶やウイスキーの空き瓶などを見かける。

夕食は宿のレストランにて。ナガのチキンの料理を食べる。大豆発酵させた調味料を使っているため独特の臭いがする。ちょっと納豆に近いような、そうでもないような具合だ。味わいについては賛否が分かれるところではないかと思う。

旨いかどうか微妙な味
ナガ料理については人により評価が大きく分かれるはず

夜は嫌になるほど冷え込む。二枚の毛布の下に、フリースを着たまま潜り込んだのだが、それでも寒くて寝ることができないほどだ。

昼間もそうであったが、布団に入ってからも外からはまるで銃撃や爆弾のような物凄い轟音の爆竹の音が断続的に響いてくる。ディワーリーのときによく鳴らしているものと同じだが、子供達の遊びとしてはちょっと危険過ぎる。誤って失明したり指を失ってしまったりという話も耳にする。あんなものは禁止してしまえばいいのにと思うが、そのあたりのさじ加減というか、許容度は日本とインドでは天地の差がある。危険だからと禁止してしまえばいいかといえばそうでもなく、こうしたことから学ぶことも少なくないことも事実であるからして、さじ加減がむずかしいところだ。

夜はとても冷え込む

〈続く〉

Campa Cola

1990年代初頭に始まったインド経済の本格的な対外開放に踏み切るまで、インドのソフトドリンク市場の中のコーラの類の分野では、Thums Upとともに国内市場を二分してきたブランド、Campa Cola

れっきとした民主主義国家ながらも、経済政策面では社会主義的な手法を取り入れた「混合経済」として知られていたインドの経済産業界では、特に基幹産業部分に国営企業や国家の強い指導と統制の下で経済活動を行なう財閥が中核となっていた。

それに拍車がかかったのは、独立運動以来の「スワーデーシー志向」により、外資に対する規制も厳しかった。初代首相ネールーが親ソ的な政治家であったこともあるとともに、当時の指導者たちが総体的に(今から見れば)左寄りであったこともあり、経済とは国が統制すべきものであった。

幸か不幸か、それに拍車がかかったのはネールーの娘、インディラー・ガーンディーが首相の座にあった時代(1966-1977、1980-1984)で、金融その他の部門で急進的な国有化政策が実施された。

清涼飲料のコカコーラが存在せず、独自ブランドのCampa Colaが販売されていた時代のインドは、まさに「マッチ棒から人工衛星まで」といった具合の「自力更生」型の経済体制時代にあり、そこを訪れる人の多くが「外界と隔絶した独自の世界」にいることを感じたことだろう。

その時期の世界において、いわゆる東側の世界の多くは、国家が決めた方針に基づく計画経済が実施されており、社会のあらゆる分野において統制が厳しく、国外の人々が自由に行き来したり、滞在を楽しんだりできるような体制ではなかった。国によっては国民による自国内の自由な往来さえも制限が敷かれているようなところも少なくなかった。

経済が国家による厳しい管理と統制下にあった国々の中で、インドの政治体制はそれとは裏腹に民主的に運営されており、国外からの人々の往来には寛容であった。経済開放前にはインドへの国外からの投資は今とは較べようもなく少なかったし、駐在その他で在住している外国人の数も非常に少なかった。それでも観光目的で訪れる人々は多かったことは特筆できるだろう。

他国と比較して格安に過ごすことができることやドラッグ類の入手が容易であったことなどもあり、1960年代から70年代にかけては、長期滞在するヒッピーが多く、ゴアやマナーリーあたりでは彼らの存在が社会問題化したこともあったが、そうした人々を強権で排除するようなこともなく、またヒッピーという存在が西欧社会から消えてしまってからも、しばらくの間はインドのそうした場所では彼らのライフスタイルを受け継いだかのような「亡霊」が彷徨っていたのは、やはりインドという社会の懐の深さゆえだろうか。

話はCampa Colaに戻る。外界から隔絶した社会の独自路線のコーラであったかのように言われることも多かったが、実はそうとも言えない。このコーラを製造販売してきたPure Drinks Groupは、1950年代から提携先のCoca Colaをインドで製造販売してきた企業であり、1978年にCoca Colaがインドから撤退するにあたり、Coca Colaブランドと同社のレシピを使用することができなくなり、独自のCampa Colaブランドと自前のレシピでの製造販売に切り替えたという経緯があるからだ。

外国の主要なメーカーやブランドの参入がなかった1980年代は、Campa Colaブランドが燦然と輝いた時代であったといえる。街中を走る車両のほとんどがアンバサダーやパドミニーといった旧態依然の「クラシックカー」ばかりで、トラックも大昔からのボンネット型、バスもヨソの国とは違ったこれまた苔むしたような感じの車両ばかり走っていた時代、当時はほぼ世界中どこに行っても見かけるはずであったCoca Colaが見当たらず、それとちょっと似て非なるCampa Colaの看板や味わいを前にして、それはもう相当なエキゾシズムを感じたということは想像に難くないだろう。

1990年代初頭に始まった経済開放政策により、清涼飲料の分野でインドにいち早く上陸してきたのはペプシであった。当初は外資の出資比率と外国ブランドの使用についての制限があったため、インド参入初期はLEHAR PEPSIという名前で製造販売されていた。

当時の地場ブランドのCampa ColaもThums Upも今の標準的なサイズよりもかなり小さい180 cc入りのボトルで販売されていたのに対して、アメリカからやってきたPEPSIは250 cc入りであったため、本場感覚と量の多さによる割安感もあり、一気にシェアを拡大したようだ。Campa Cola陣営は、当初「味わいは量に勝る」などと、負け惜しみのような広告を打っていたこともあったが、Campa Colaを含めた地場ブランドはまもなくボトルを大型化して増量に踏み切ることとなった。当時のメディアは、こうした地場資本コーラとペプシの攻防を「コーラ戦争」と表現していた。

だが1993年にCoca Colaが満を持してインド市場に復帰したことにより、Campa Colaの命運が尽きたと言えるだろう。ある程度年齢を重ねた人ならば、Campa ColaはCoca Colaが1978年に撤退したことを受けての代替品であったことを知っているし、そうした背景を知らない若者たちにとっては、見慣れているけれども垢抜けない地場コーラと較べて、華やかなCMや広告による宣伝とともに登場したアメリカ製品がとても眩しく感じられたことだろう。

その後、コーラ戦争の最終的な勝者はグローバル・プレーヤーのCoca ColaとPEPSIとなったことはご存知のとおり。だが皮肉なもので、Coca Cola社に買収された地場コーラThums Upやレモン風味ソフトドリンクのLimcaは、その後も一定の存在感があるのとは対照的に、暖簾を守ったPure Drinks Groupは、かつての栄華は見る影もない。

ナマステ・インディア2013

今年も東京都渋谷区の代々木公園にて、明日と明後日の9月28日(土)と29日(日)に「ナマステ・インディア」が開催される。

恒例のイベントのため常連客も多いため、「あ?やっぱり来てましたね」とか「お、久しぶり!」という具合に、出会う人々があるので訪れてみる、という向きもあるのではないかと思う。

ときにサプライズな著名人が来ていたりすることもある(過去にはスワーミー・ラームデーヴ、カラン・スィンなどがいた)が、今回はそういう人物の来場はあるのだろうか?

近年、混雑具合がますますひどくなっていているため、このように人出が多いイベントで会場に隣接する空きスペースでゴザを広げて、まるで花見の席のような宴会が繰り広げられていたりするのは、その混雑に更に拍車をかけているようで、ちょっとどうなのかな?という思いがしなくはない。

ともあれ、屋外のイベントなので天候に左右される部分が大きい。当日、好天に恵まれることを願いたい。

レストラン 「Nagaland’s Kitchen」

Nagaland's Kitchen

南デリーのグリーンパークの和食レストラン「たむら」の近くに、Nagaland’s Kitchenというナガ料理屋がある。

Nagaland’s Kitchen (zomato.com)

ナガランド料理づくしを期待していくと、メニューの半分以上が中華料理ないしはタイ料理が占めていることに面食らうに違いない。

また店内の雰囲気はなかなか洒落ているものの、洋楽が流れて大スクリーンでは欧州のサッカーが放映されているといった環境で、ナガランドの民族性をアピールするものといえば、室内で申し訳程度にあしらわれている槍やショールの類くらいだ。

でも、こうした控えめさと民族色の薄さといった具合もまたナガランドらしいと言えるかもしれない。

オーナーはナガ人。店内で働くスタッフたちは、アッサム他の人々であり、これまたニュートラルなところが良くも悪くもナガランドらしい。

もちろんそうした具合なので、ナガランド名物の犬料理、昆虫料理などを期待してはいけない。豚肉を使ったアイテムが多いのは、他の多くのインドの地域とは異なるところではあるが、そういうところにエキゾチシズムを感じる?インド人たちと違い、私たち日本人に目新しいものはない。

しかしながら普通のインド料理にはない「植物性か動物性かも判然としないが、何かを発酵された調味料」が使われていることは、私たち日本人の身体の一部となっている味覚や嗅覚で「これは旨い」とはっきり感じ取ることができる。もちろん日本人だけでなく、韓国や中国の人たちも同様の親近感を覚えることだろう。

ここに味覚の共通部分や深みを感じることができることに、ナガ料理をはじめとするインド北東州の料理の面白さがある。食文化圏の異なるインド人、西洋人にはたぶんわからない愉しみなのではないだろうか。

豚肉料理

すぐ真横に旧ウパハール・シネマがある。1997年の火災事故で多くの死傷者を出して閉館となったが、今でも当時の建物はそのまま残っている。この界隈に住んでいたこともあるため、幾度となく映画を観に足を運んだことはあるし、日本人女性、インド人女性とワクワクしながら鑑賞した思い出もある。

そんな映画館が火災でこのようなことになってしまった当時、ちょっと辛い気持ちがしたものの、今でも当時そのままの姿で姿を晒していることについては、昔々に書いたラブレターが、そっくりそのまま目の前に出てきたかのような、ちょっと気恥ずかしい思いさえする。

旧ウパハール・シネマ

店名:Nagaland’s Kitchen

所在地:S2, Uphaar Cinema Complex, Green Park
Extension Market, New Delhi

インドの華人コミュニティのドキュメンタリー

コールカーターには中華系社会が存在することで知られている。ときどきメディアで取り上げられることもあるが、現在の彼らの日常を描写したものとしてはもっとも良く出来た作品だと思う。

20分強という短い作品だが、今のコールカーターに暮らす華人たちの暮らしぶりを垣間見るのに取り早いだけではなく、限られた時間の中に凝縮されたエッセンスが詰まっているような、濃厚なドキュメンタリーだ。

ムンバイー在住のインド人ジャーナリストでドキュメンタリー映像作家としても知られるラフィーク・エリアスによる作品。彼の著書のDVDで鑑賞したことがある。秀作であるにもかかわらず、どこでも簡単に購入できるわけではない。

幸いなことにYoutube上で公開されていたので、多少なりともコールカーター華人社会に関心のある方はご覧になられることをお勧めしたい。

The Legend of Fat Mama (Youtube)