なぜ暗がりで食べるのか 2

インドでは伝統的に『会食する』ことについて、私たち日本人が『みんなで一緒に食べる』のに較べてことさら大きな意味があった。保守的な地方では、今でも庶民が日常出入りする安食堂であってもパーティションやカーテンで仕切られた個室が併設されているところをしばしば見かけるし、高いホテルでなくともルームサービスを頼んで部屋で食事を取る人がかなり多いこともその表れであろう。インド人の家に『食事に招待』されて、皿の上に次々と食事をよそってくれるのに食べているのは自分だけで、家人たちはニコニコしてそれを眺めているだけ・・・ということがあったりもする。(もちろん外国人である客と肩を並べて一緒に食事する人も多いが)
コミュニティの慣習を守らなかった、禁忌を破ったなどという理由で村八分にされていた個人や家族が、なんとか周囲と仲直りして『社会復帰』する際にその証のひとつとして会食がなされたりすること、階級差別を否定するスィク教のグルドワラで供される食事等々、『一緒に食べる』ことについては帰属を同じくする人々がその紐帯を確認するという意味合いがある。
そういう風土なので、1980年代に日本の自動車メーカーSUZUKIがインドに合弁会社として進出した際に『職階や出自その他に関係なく誰もが一堂に会して利用する社員食堂』を設置したことは大変画期的なことであったようで、当時は内外で大いに話題になったものである。また『会食』ではないが、かつてマイソールの王宮で雇われていたバラモンの料理人たちは、宮殿内で自らの食事を摂ることはなかったという。そこで食べることが畏れ多いからではなくその反対で、出身カーストにおいては自分たちのほうが上位にあるからである。世俗的な社会地位と出自についての観念上の上下関係は必ずしも一致するものではない。
旧来型のレストランの照明が押しなべて暗いのは、その『闇』により席と席との間に架空の境界を演出するということに意味があるのではないかと思う。向こうにいる人たちが誰だかよく見えない。こちらにいる私たちが誰なのか向こうにもよくわからない。この『暗さ』が壁のような働きをして、お互いの『個』が守られるということになろう。
つまり客席を明るく照らし出してわざわざ『境界を取り去る愚』を冒さないためと見ることができるのではないだろうか。そんなわけで照明の暗さには、意識せずとも文化的な背景があり、それがゆえに保守的なスタンスからの『適度な明るさ具合』には私たちのモノサシとは違うものがある・・・と私は思うのである。

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