10 SUDDER STREET

 ごちゃごちゃとした安宿街、世界各地からバックパッカーたちがやってくるコルカタのサダルストリートだが、インド博物館やエスプラネードにも近く、界隈にはなかなか由緒ありそうな教会もチラホラ。中を細かく仕切って数多くのテナントに貸し出している建物の中には昔々はそれなりに立派なお屋敷であったのでは?と思われるものも少なくないから、かつては品のよいコロニーであったことだろう。
 近代インドを代表する詩聖ラビンドラナート・タゴールもかつてこの地域に起居していたことがあることは耳にしていたものの、それが具体的にどのあたりであったのかは知らなかった。彼の家はコルカタその他各地に屋敷等を所有しており、その中のひとつであったここサダルストリートの家で一時期を過ごしたのである。
 このたびコルカタのこの通りに到着した時間帯が遅く、少しはマシそうなホテルはどこも一杯で、やむなく空室のあったHotel Diplomatという名前だけは立派な宿に一泊することになった。元々はひとつであったらしいフロアーを左右のみならず上下にも仕切ってあり、日本人としてはごく標準的な背丈の私でさえも頭をかがめないとぶつかってしまうような低い天井、隣の部屋でタバコを吸い込む音さえもが筒抜けの薄い壁、ひと月くらい交換していないようなベッドシーツと典型的な安宿である。
 翌朝起きてもっと快適に過ごせるホテルを確保してからリュックを取りにこの宿に引き返したとき、建物の斜め前にあるヘタウマな漫画みたいな胸像を目にしてふと思った。以前からこの場所で見かけてはいたのだが・・・。
『これって、ひょっとしてタゴール??』
 基壇に刻まれた文字を目をやると、それはまさにその大詩人の像に間違いなかった。
『RABINDRANATH TAGORE COMPOSED HIS POEM “THE AWAKENING OF THE FOUNTAIN” WHILE LIVING IN 10 SUDDER STREET』とある。

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ノック・エアーがやってくる!

なかなか立派な面構え
 バンコクの空港ターミナルで私が乗っている飛行機の真横に巨大なクチバシがあった。それはカラフルで途方もなく大きな鳥・・・のごとくペイントされたノック・エアーの飛行機である。
 インドにやや先行して空の便に格安航空会社がネットワークを広げてきたこの国で、タイ国際航空の子会社として2003年12月に設立され、2004年7月から旅客輸送を開始している。 2007年1月現在、タイ国内で11のルートでフライトを飛ばしている。
これは『クジャク』であろう
 ピンク、赤、グリーン、青等々、ベースになるカラーリングは機体によりさまざまで、操縦席のガラス窓がまるでサングラスをかけているように見えるものもあれば、目尻(?)に睫毛が描かれているものもある。それにクジャクをあしらったデザインもあったりして実に楽しい。
 塗装がとってもカッコいい(?)のでぜひ一度搭乗してみたいのだが、いまだ果たせないでいる。もっとも面白い絵が描いてあるのは外側だけで、搭乗して目にするものは他の航空会社のものと何ら変わるところがないはずなのだが。ちなみに使用している機材は親会社であるタイ航空からリースされたものである。
こんな素敵なプロペラ機もある
 実はこのノック・エアー、近々国際線への進出が予定されている。記念すべき初の国外へのフライトが飛ぶ先はなんとインド!らしい。もともと昨年10月に開始を予定されていたのだが、諸般の事情によりしばらく延期となっており、2007年1月にはインドのエアー・デカンと提携してバンコク・バンガロール間のフライトを就航させる・・・というニュースが流れていたのは昨年秋ごろのことであった。
 就航先のバンガロールでも、ノック・エアーのカラフルでポップな機体がしばし話題を呼ぶのだろうか。
バンガロール便の就航が待たれる
Nok Air
Nok Air to fly to India in January 2007(Aviation India昨年9月の記事)

パフラット バンコクのインド人街 2

 STDと書かれた店があったので入ってみる。スィク教徒の初老の男が経営している。本業は旅行代理店らしい。ISDもできるかとたずねると大丈夫だというので国際電話をかけた。主人はもともとUPのカーンプル出身で学業を終えてからはデリーで商売をしていたという。しかし1984年のインディラー・ガーンディー暗殺事件以降の対スィク暴動があってからバンコクに移住することになったのだという。もともと身内がこの街にいたので、インドを後にすることについては特に躊躇するところはなかったという。『もちろんワシだけじゃない。そのころここに移ってきたスィクはけっこういたな』とのこと。バンコクに在住のインド人・インド系人口については『たぶんエーク・ラーク(10万)はおるのではないかな、正規の滞在資格やタイ国籍を持って住んでいる者たちが。それ以外にモグリで来ている連中、一時滞在の旅行者、飛行機の乗り換えで数日間泊まる人も多いからなあ。正直なところよく判らん』とのことだ。
インド人宿
インド人宿の注意書きはヒンディー語で書かれていた
 あたりにはインド系専用の宿がいくつもある。どれも暗くて汚いもので、インドにある安宿そのままだ。そうした中で宿の注意書きがヒンディー語で書かれているものがあったので撮影しておいた。
 大通りをはさんだ反対側もまたインド人地区である。こちら側にはスィク教徒の団体事務所やグルドワラも見える。パフラット全体がインド人地区というわけではないが、この中に相当な規模のインド人地区があるといった感じである。面白いのは彼らが特に固まって商売している地域があるかと思えば、人ひとりがやっと通ることができる細い路地の反対ではインド人の店が一軒もなかったりする。タイ人の店はインド人が集中している地区にもちょこちょこ点在している。。

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パフラット バンコクのインド人街 1

 バンコクに来た。市内各所に同じようなスーツの仕立て店があり、多くがインド人による経営である。店頭のディスプレイを見る限りではなかなかちゃんとしたモノを作っているようなので頼んでみようかなという気にもなる。ショーウィンドウを覗き込んでいるとドアを開けて声をかけてきたのはパンジャービーのおばさんだった。
 彼女は『まだ午前中だし、どうしても急ぐなら今晩までには間に合わせるわよ』というのだが、そんな超特急でどんなものが出来上がってくるのか心配だし、本当に今日中に出来上がって来ないと困るので今回はやめておく。この人はスィク教徒で祖父の代にインドから移住してきたのだという。外ではもっぱらタイ語で人々としゃべることになるが、家庭内ではパンジャーピー語と英語を混ぜてしゃべっているのだそうだ。
 バンコクではインド系人口が少なくない。だがタミル系が多いマレーシアやシンガポールとは裏腹に、パンジャープ、U.P.、ビハールといった北インド各地から来た人々がマジョリティを占めるのが在タイのインド人コミュニティの特徴だ。多くがヒンディー語と英語を話すので、タイ語のできない私にとって道やら何やら尋ねたりする際に彼らの存在はとてもありがたい。
restaurant
 市街地のチャオプラヤー河近くにパフラットという商業地区がある。市場や商店その他がごちゃごちゃと軒を連ねる忙しいエリアなのだが、界隈は同時に『インド人街』としても広く知られている。以前、暑い盛りにこのあたりを訪れたことがあるが、他に用事があり急いでいたこと、そして強い陽射しに負けてしまったこともあり、どのあたりが『インド』なのかよく確認せずにスゴスゴと引き返したことがある。今回は涼しい時期だし、日中はヒマなのでちょっと観察してみることにした。
 サヤーム・スクエアーから乗ってきたタクシーは、一方通行のためパフラット地区内まで入ることはできなかった。市場エリアに入ってすぐのところにある布地店を営むスィク教徒の若主人に『地元のインド系の人々がよく利用する食堂街はあるかい?』と尋ねる。こういう地域があれば、それがまちがいなくインド人地区だろう。彼が教えてくれたあたりに行ってみると、案の定『リトル・インディア』になっていた。
sweet
 その中のひとつのスィク教徒が経営するレストランで昼食。店の構えは小さいがメニューはパンジャービーの枠をはるかに超えて亜大陸規模にグローバルなものである。しかもレストランと甘いもの屋を兼ねていた。そんなわけで私が注文したのは南インドのマサラードーサー、食後にはラスグッラーとチャーイ。どれもなかなかおいしかった。店内は私以外全てがインド人ないしはインド系。まるでインドにいるかのような気がしてくる。
 食事を終えてから裏路地を進んでみると他にもいくつか中小のレストランがあった。そして歯が痛くなるほど甘いミターイーの専門店もチラホラ。この界隈を散歩しているとついつい食べ過ぎてしまいそうだ。どれもパンジャービーの経営らしくグルムキ文字が書かれている。
sweet

ゴアの地引網

地引網
 朝6時前に起きた。外はまだ暗い。海岸にはもう人々の姿があった。総勢40名程度といったところだろうか。眠い目をこすりながらサンダルを引っ掛けて見物に出ることにした。砂浜では毎日地引網漁が行なわれているのだ。
 船で海の中にU字型に網をかける。網の引き綱には木製の取手がいくつも付いており、浜で人々がこれをどんどん引っ張って魚を追い込んでいく。漫然と引いているのでもなく、様子を見ながら引き手がジワジワと、あるいは一気に内側へと追い込んでいくのだ。そうした動きを人々に指示するのは、海の中に入りそうした動きを指示するリーダー格の者たちだ。引っ張って、引っ張って砂浜の最後端まで来た人たちは、そこで手を離して再び波打ち際の最前列に入る。
 こうした動きを幾度も繰り返した後、海中で地引網から成る『輪』が小さくなり、岸に追い込んで引き上げる。岸近くの浅瀬で行なうため大騒ぎした割には雑魚ばかりで数も少ない。労多くして実入り少ないとはいえ労働という行為の原点である。獲れた魚の中に海ヘビがいた。波間の向こうへ投げ返していた。毒のあるものなのかよくわからないが。
 漁が終わってから、セリが始まる様子はない。販売用ではなく自家消費用だということだ。参加した男たちがグルリと並び、親分格の男がその前の砂地に少しずつ置いていく。そしてカゴの中が空になったあたりで、皆でそれぞれの分け前を見比べる。「あそこが少ない」「彼のはちょっと多いんじゃないか」といった声に耳を傾けつつ親分は男たちの間での分け前の調整をしている。明解かつ民主的な方法だ。眺めていても実に気持ちがいい。
 参加者たちの間には、村の同一コミュニティ、カースト、その他いろいろな要素があるのかと思いきや、少なくともここコラヴァの浜はそういうわけではないようだ。父祖伝来の「メンバー」や伝統的な漁民でなくても、この「朝の地引網」に参加できるのだという。
 皆プロの漁師というわけではないし、地元っ子ばかりというわけでもない。漁が終わってくつろいだ表情をした人々に直に話を聞いてみると、彼らの中の半数ほどが昼間建設現場の労働者や付近のホテルの従業員といった人々だということがわかった。しかもこのあたりの村の出ではなく、カルナータカ、マハーラーシュトラ、ケララ等々各地の出身者が多く、現在この付近に在住しているということ以外にあまり接点はないらしい。とかく人手が要る作業なので外部の人々の参加も大いに歓迎されるのだろう。
 男たち輪の外で、魚のおこぼれにあずかろうと野犬がじっと様子をうかがっていた。