『FOR HIRE』 for sale

インドの旧型タクシー・メーターが『楽天市場』で売りに出ているのを見かけた。『FOR HIRE』の日焼けした文字、幾度も塗り重ねてきた思われるペイントの具合といい、いかにも『インドで長年頑張ってきた!』という雰囲気が味わい深い。
価格は7万円とのことで私にはチト手が出ないし、そもそも今どきのクルマにこのメーターが装着できるのかどうかわからないのだが、助手席側の窓から手を回して『ガチャコン!』とレバーを倒して出発するとけっこう気分かもしれない。ビニールでカバーした料金換算表があれば、一日の終わりに『おお、今日は×××ルピー分走ったな』なんて悦に入る向きもあるだろうか。
タクシーやオートに電子メーターが導入されてから『走行距離のみでなく、混雑などで余計にかかる時間への課金という概念が初めて実現された』と思っていた。でも実は旧式のアナログメーターにも一応『時間に対するチャージ』の初歩的な概念はすでに折り込んであったのだそうだ。裏面下部のネジを巻くことによって可能となるとのことだが、時間による最初の課金がなされるまで1時間以上かかるとのこと。クルマが増えて都市部の渋滞が日常茶飯となった今の時代にはとても合わないが。
しかしながらこのタクシー・メーター、クラシカルなスタイル、重厚な質感、職人さんたちによるハンドメイドな仕上げといい、実用の域を超えて愛用されそうなムードがある。使い込んだメーターもいいのだが、個人的にはツルツル、ピカピカの新品同様のこうした金属メーターがどこかで手に入らないものかと思っている。具体的な用途があるわけではないのだが、部屋の片隅にでもチョコンと飾っておきたいのだ。

Namaste Bollywood #6

namaste bollywood #6
ボリウッド情報専門誌『Namaste Bollywood』第6号が発行されている。今回はBollywood Beauty Part1と銘打ち、90年代から現在までのトップ女優たちが取り上げられている。マードゥリー、ジューヒー、マニーシャー、ウルミラーetc. ページを広げていると、頭の中でいろんな映画の様々なシーンが走馬灯のように駆けめぐる。
他にも映画界大御所グルザール氏のインタヴュー、福岡で開催中のインドの現代絵画展、ボリウッド映画関連本の紹介等々、今回もまた盛りだくさん。巻末のBollywood Filmi Pedigreeで取り上げられているのはサンジャイ・ダットだ。なんとこの人にもネルー家の血が流れている(?)という話があるとはこれまで知らなかった。詳しくは今号誌面を参照願いたい。
同誌は日本国内の主要なインド料理店、インド系通販サイト等で無料配布されているが、『毎号欠かさず読みたい』『置いているお店が近くにない』という方はこちらを参照いただきたい。
この情報誌だけでなく、ヒンディー映画を楽しむオフ会『ナマステ・ラート』も開かれているとのことで、機会があれば私もぜひ参加してみたいと思う。

9月最後の週末はナマステ・インディア

ナマステ・インディア2007』の開催日時が公表されている。
9月29日(土)と30日(日)の二日間とのことだが、『今年は日印交流年、The Festival of India インド祭の一環として、主催にインド大使館、ICCRが参画』とのことで、例年にも増して盛大なものとなる予定。築地本願寺から代々木公園に場所を移してから、このイベントの規模が広がったが、ここにきてこの会場もやや手狭になってくるのだろうか。
6月18日現在、ウェブサイトにはまだ詳細は出ていないが、もうそろそろ出店申し込みの受付なども始まる時期なので、何か企画している人は要チェックだ。
もはや東京の秋の風物詩となったこの催しのために、9月最後の週末は予定を空けておこう!

危機一髪!?

YouTubeで危険なランディングの動画が公開されている。インドの空港でのことらしい。(タイトルにはエア・デカンとあるが違う航空会社ではないかと思う)
着陸時に突風でも吹いていたのだろうか。機体を大きく揺らせ、不安定な角度で降りてきて、滑走路でドンドンドンッとはねながらも無事に停止。
様々な悪条件が重なってこういう着陸になったことと思うが、乗客たちはそれこそ生きた心地がしなかっただろう。飛行機がバウンドする間にケガをしたり失神したりした人もいるのではないだろうか。ああ恐ろしや。
この映像と直接関係のないことではあるが、インドに限らず、世界各地でいわゆるグローバル化が進む昨今、各国の経済成長や航空会社数とフライト数の増加などともに空の交通が過密になってきている。そのスピードに対して既存の空港のキャパシティの不足、熟練したパイロットの確保などが最重要課題になっている。新興の格安航空会社などは利益がほとんど出ない自転車操業状態のところが多く、既存の会社にしてみてもこうした新手の勢力の台頭により収益の確保が難しくなってきている。 いずれ航空会社の淘汰の時代がやってくると言われているがどうなのだろうか。
自由な競争による航空ネットワークの拡大と運賃の低廉化は利用者である私たちの利益にかなうものとはいえ、航空会社は出発地から目的地に到着するまで乗客たちのまさに命を預かっている。搭乗時のセキュリティチェックのみならず、運航時の安全の確保についても従来以上に慎重を期してもらいたいものだ。行政当局によるしっかりとした適切な関与も大切であることは言うまでもない。

ヤンゴンのインドなエリア 6

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ミャンマーは東南アジアの西端に位置し、南アジアの東端のバングラーデーシュとインド東部と国境を接するなど地理的にも近いため景観や自生する植物などからインドを想起させるものも少なくない。またインド系の人々の存在、インドの血が混じっているとされるミャンマー西部の少数民族など人々の風貌、仏教やイスラームを通じて西から入ってきた文化の影響など、インド亜大陸起源のものがいろいろ目につくこともあるのだが、同時に英領時代の名残という部分も少なくないのではないだろう。それは植民地期の建物であったり街並みの造りだったりするが、特にヤンゴン河沿いのコロニアルなエリアでは、インド人街の外にあっても、ずいぶん強く『インドが香る』気がする。かつてインドからやってきたここに暮らした人々の存在感だけが、あたかもこの空間に残っているかのような。
イギリスの植民都市としてはそれほど古いとはいえないのだが、現在ダウンタウンとなっているかつての行政中心地界隈は、港湾を中心とした街づくりがなされており、水際近くに英領時代の重要な施設がギュッと固まっているという感じだ。どことなくコーチンのような陸上交通が発達する以前に建設された都市とイメージが重なるものがある。統治機能以外に、ここから多数の産物を外界へと輸出する重要な港町であったことも大きいのだろうが、インドやスリランカなどに比べてかなり遅れて入手した領土であったため、鉄道や自動車が走れる道路の建設が後手に回り、こうしたクラシックなスタイルの水際都市を築くことになったのではないだろうか。
1885年に英領インドに編入され、1937年にインドの行政区分から切り離されるまで、当時のビルマはインドの中のひとつのプロヴィンスとなる。まさに上から下まで各層のインド人たちが押し寄せてきて定住し、当時のラングーンはほとんど『インド人の街』となり、1930年代に入るころには市の人口のマジョリティをインド人たちが占めるまでになっていたのだという。
イギリスの植民地であったビルマだが、インドがそうであったようにイギリス人たちの姿はごく限られており、市井の人々が政府機関に所属する白人を目にする機会はそう多くなかったようだ。それに引き換え中・下級官吏、軍人、警官としてインド『本国』からやってきたインド人たちは、彼らにしてみれば日常的に目にする支配者たちであった。ビルマが英領となるよりもずっと前から、イギリスが作り上げた社会システムの中で経験を積み、能力を高めてきたインドは各分野において人材の宝庫であった。イギリスが彼らを新たに編入した新天地に導入していくこと、インド人たちの間から『自国』の一部となり可能性に満ちた新天地に赴くことを希望する者が後から後から続くことはごく自然な流れであったのだろう。
こうした人々が当時のビルマに近代的な統治機構、鉄道や道路といったインフラ、そして教育機関を次々に建設していくことになる。ちなみに1878年創立のラングーン大学(現在のヤンゴン大学)も元々はカルカッタ大学の一キャンパスという位置付けであった。1940年代から50年代あたりまでは、東南アジア地域きっての名門大学として知られ内外から多くの優秀な学生たちがここを目指してやってきたのだという。
官の世界以外でも、商人、投資家、エンジニア、労働者その他としてやってきた人たちもまた都市部を中心に各々の領域を広げていく。こうした大勢のインド人たちの進出の結果、地元の人々の活躍の場、生活の糧を次第に蚕食されてしまうことになった。同様に大量に移住してきた中国系市民たちも地元の人々にとっては脅威であったようだ。
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そうした動きの中でビルマの人々のナショナリズムが高まり、やがて1937年のインドとの分離へとつながっていく。ビルマの人々にとってひとつの快挙であり、独立に向けたひとつの節目であったのだが、インド系の人々にとっては印パ分離に10年先立ち、もうひとつの『分離』があったことになるのだろう。
インド本土でも反英機運が高まる中、当時のビルマでは地元の人々による反英とともに反インド人、反中国人といったムードの中で、住み慣れた土地、不動産その他ここで築き上げてきた財産を手放してインドに戻る、あるいは他の土地に移った人々は多かった。これとは反対に、その時期までにインド本土に移住していたビルマ人たちも少なからずあったことだろう。政治の流れに翻弄された様々な人生ドラマがあったようで、訪問中に出会ったインド系の人たちからしばしばそうした話を耳にした。
国が合併するのも大変だが、分離することもまた多くの痛みを伴うものである。インドと当時のビルマはもともとひとつの地域であったわけではなく、外来勢力であるイギリスにより合併させられたものである。印緬分離の10年後に起きた印パ分離独立のように元来不可分であった地域が、インドと東西パーキスターンに引き裂かれたときほどの強力なインパクトがあったとはいえないにしても、在住のインド系の人々にとっては非常に辛いものであったことは想像に難くない。
現在のミャンマーによる自国の近代史の中における位置付けにあって、ナショナリズムの高揚による誇るべき快挙について、同国のマイノリティであるインド系の人々により『悲劇』として外に語られることはないだろう。
現在のミャンマーによる近代史における視点からではなく、当時のインド系居住者たちにより書き残されたものがあればぜひ目にしてみたいと思う。
〈完〉
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