新世代のインド食材店

従来、東京および近郊でインド食材のショップといえば、日本のバブル時代に来日した世代のパーキスターンやバングラーデーシュの人たち(および一部ミャンマー人ムスリム)経営のハラール・フードの店が主流だった。
これらはもともとバブル期に急増した在日の同胞たちに食料品や雑貨などを売る店であった。しかしこれらの国々の人々に対する日本の入国管理が厳しくなり新たな入国者が激減したこと、続いてすでに日本国内で就労していた同郷の人々がバブル崩壊以降の不景気の中で次第に減っていく中、生き残りのため様々な国々出身の在日ムスリム等の外国人たちを新たな顧客層として捉えるようになった。その結果、東南アジア、中東、アフリカなどの食材も揃える『多国籍食料品屋』化したところも多い。小田急線沿線では、『ハラール』な食材という枠組みは守りつつも、近くのクルマ工場等で働く日系人たちが顧客のかなりの部分を占めるようになったため、事実上『南米食材店』になってしまった変わり種さえある。
ハラール・フードの店は出入りするお客たちの顔ぶれから国際的に見える反面、往々にして地元の日本人社会との接点が希薄なのが特徴だ。これらの多くは繁華街にある雑居ビル上階に入っておりちょっと目立たないし、ロケーションがやや『怪しげ』で女性一人ではちょっと入りにくい雰囲気ではないかと思う。これらに加えてインドやネパールから来た人が経営する店がボチボチという具合だろうか。どちらにしてもこれらの商いは南アジアの人々が一手に担ってきたといえるし、店舗に置かれるインド食材といえば北インド系のものが優勢であった。
だが近ごろ少々違う動きも出てきているようだ。IT業界を中心に日本に暮らすインド系の人々が増えて小さい子供を連れて家族で滞日するケースが多くなってきたためだろう。南インドの食材の取り扱いが増えてきているようだし、更にはこのフィールドに進出する日本の業者が出てきた。都営新宿線東大島駅前にナマステフーズという店が昨年12月にオープンしている。ウェブサイトが日英併記になっていることが示すとおり、インド人だけでなくカレー好きな日本人も広く顧客層として位置づけられている点はハラール・フードの店とはかなり性格を異にする。また立地についても同様だ。カフェ、パスタ屋、定食屋など食べ物の店が並ぶ東大島メトロードという建物一階に入っている店舗は、どこにでもあるコンビニエンスストアのように明るくてごく気楽な構えだ。
インド食材店としては珍しく、店を切り盛りするのは英語・ヒンディー語ともに堪能な日本人店長。ちょっと異色なお店である。経営母体はインド料理やタイ料理などのレストラン、旅行代理店などを手掛ける『インド方面に強い』日本企業だそうだ。決して広いとはいえない店内だが、置かれている商品群を眺めてみれば南インドの食材に重点が置かれていることがわかる。経営、顧客、商品揃えどれをとっても従来と違う新世代の『インド食材店』として、今後の発展に大いに期待したい。
ナマステフーズ

インド算術大流行り

巷ではインド式数学がブームなのだそうだ。大手書店で『頭が良くなるインド式計算ドリル』『脳をきたえる インド数学ドリル』『インド式計算練習帳―脳力がみるみるアップする』『インド式秒算術』等といった書籍がズラリと並ぶ様は壮観だ。
数字が不得手な私はパラパラめくってみただけで頭が痛くなりそうだが、やはり昨今インドがIT産業で注目されていることに加えて、子供たちが学校で学ぶ二桁の掛け算のことなどが広く知られるようになったことで、算数はインドに学べ!という風潮になっているのだろう。図書類はもちろんのこと、GoogleやYahooでキーワードを「インド 算数 数学」と入れて検索をかけてみると、すさまじい数のインド算術サイトが引っかかってくる。
そんな中、横浜市でインド料理店を経営する方による「インド人シェフのブログ」にインド算数の教科書の紹介記事がある。小学校1年生用のものだそうだ。計算表は2の段から始まって20の段まであり、それぞれ×1から×20までズラリと書かれている。10の段から「九×九」の世界で育った私にとっては未知の世界だ。しかも各表の半分は二桁同士の掛け算で、ペンか電卓なしにはとても解けそうにない。たとえば18の段はこんな風にスゴイ。頭の柔らかい子供時代に暗記してしまえばどうということもないのだろうか?
「インド式」であろうがなかろうが、こうした「算数ブーム」をきっかけに数というものに関心を持つきっかけになるといいのだと思う。子供時代に苦手意識を持つのも大好きになるのも、ごく些細なはずみによるものであることが多いのではないだろうか。他者よりできる、できないは二の次で、興味を持ったことについてはひたすら打ち込んだりするのが人というもの。テニスにサッカー、釣りに登山、写真に料理、どんな趣味や楽しみだって、自分が抜きんでて優れているから好き…というものではないだろう。他人との比較ではなく、自分自身がそれと親しむことが心地よく楽しいのである。
こんな本が市中にあふれている今、「数字はイヤだ」なんて食わず嫌いするのではなく、どれか一冊手にして頭の中をグルグル回転させてみると何かささやかな発見があるかもしれない。

東西ベンガルの都 鉄道ルート開通近し

コールカーター・ダッカ間を結ぶ列車の運行が近々再開されるようだ。バングラーデーシュ独立前、東パーキスターン時代の1965年から42年もの長きにわたり、両国間の鉄道リンクは断ち切られたままであったが、ここにきてようやくあるべき姿に戻るといったところだろうか。この背景には様々な要因がある。まず両国の間に横たわる様々な問題がありながらも、これら二国間の関係が比較的安定しているという前提があってのことだが、経済のボーダーレス化、グローバリズムの流れの一環ともいえるのだろう。国土面積は日本の4割程度とはいえ、実に1億4千万超の人口を抱える世界第8位番目の人口大国であるバングラーデーシュは、隣国インドにとっても無視することのできない大きな市場であり、産業基盤の脆弱なバングラーデーシュにとってみても、すぐ隣に広がる工業大国インドは決して欠くことのできない存在だ。
ベンガル北部大きく迂回した細い回廊部分によりかろうじて物理的に『本土』とつながるインド北東諸州にとっても、人々の移動や物流面で平坦なガンジスデルタ地域に広がるバングラーデーシュ国内を『ショートカット』して通すことができれば非常に都合が良い。『インド国内』の運輸という点からも、バングラーデーシュとの良好な関係から期待できるものは大きいだろう。コールカーター・ダッカ間のバス開通に続き、ダッカからアガルタラー行きのバスが運行されるようになったのと同じように、やがてはダッカからインド北東部へと向かう列車が走るようになるのだろうか。旅客輸送のみならず、現在両国間の貨物の往来はどうなっているのか機会があれば調べてみたい。
地勢的に東北諸州を含むインド東部とバングラーデーシュは分かち難いひとつの大きな地域であることから、本来相互依存を一層深めるべき関係にある。今後、『そこに国境があるということ』についての不便さや不条理さを意識すること、国土が分離したことに対する高い代償を意識する機会がとみに増えてくるのではないだろうか。またバングラーデーシュが低地にあるため治水面でインドの協力がどうしても必要なこと、今後懸念される海面上昇のためもともと狭い国土中の貴重な面積が消失することが懸念されていることなどを考え合わせれば、隣国とのベターな関係を築くことをより強く必要としているのはバングラーデーシュのほうだろう。経済の広域化と協力関係が進展するこの時代にあって、これら両国が今後どういうスタンスで相対することになるのか、かなり気になるところだ。
First India-Bangladesh train link (BBC South Asia)

草の根パワーで建てた鉄道駅

大地に果てしなく伸びる鉄路。両側にこれまた果てしなく続く農村風景を眺めているといつしか車窓風景から見える舗装道路や家並みの密度が高くなってきて町に入ってきたことがわかる。列車は次第に速度を落として、物売りの呼び声や赤いシャツのポーターたちが行き来する長いプラットフォームに停車する。そしてしばらくすると『ガタン』と車両が揺れて列車は静々と再び前に進み始める。そしてさきほどまで目にしていたのと同じようなどこまでも広がる景色とそこに点在する民家や小さな集落を目にしながら長い長い時間を過ごすことになる。そんなときにふと思うのは、この人たちは鉄路のすぐ脇に暮らしていながらも、いざ鉄道を利用しようと思ったらずいぶん遠くにある駅まで足を伸ばさなくてはならないのだなということ。
工業化・商業化の進展とともに人口も拡大を続けてきたインド。蒸気機関車からディーゼル機関車へ、そして一部地域では電化されるなど車両その他鉄道施設は近代化を進めてきたにもかかわらず、ラージダーニーやシャターブディーといった時代が下ってから導入された特別急行を除けば、通常のexpressやmailといった急行列車が大都市間を結ぶのにかかる時間はそれほど短縮されていないようだ。しかしそれには理由がある。駅が増えているからだ。おそらく日本で『高速道路を走らせる』『新幹線を引っ張る』といった事柄が利益誘導型の政治家たちの道具となってきたように、インドでも『地域に鉄道駅を造る』という事業は、地元を票田とするリーダーたちの目に見える大きな実績にもなるのだろう。それでもまだまだ『駅が足りない』ことは、この国の物理的な広さと人口分布の広がりを象徴しているといえる。
いつだか何かのメディアで、ビハール州やU.P.州などの田舎に『Halt』と呼ばれる臨時停車スポットが非合法に乱立されていることを書いた記事を目にした記憶がある。それらの多くが『正規のもの』に似せた名前であったり、地域で広く知られた聖者の名前を被せたものであったりすることが多いとのことだ。中でも圧巻は現在の鉄道大臣であり、ビハール州首相でもあったことがあるラールー・プラサード・ヤーダヴの妻の名前(彼女自身も前ビハール州首相)を付けた『Rabri Halt』まで出現したのだそうだ。これらの不法Haltは逐次鉄道当局により撤去されているとのこと。
しかしこれらを必要としているのは、レールは敷かれていても列車が停まる肝心の駅がない地域の人々。『駅が欲しい』という願いはあれども、政治的な後ろ盾がなければそうした声はなかなか届かないのだろう。
そんな中、自分たちで駅を建ててしまった村人たちがいるという話には驚いた。デリー・ジャイプル間にあるシェカーワーティー地方のジュンジュヌ地区にある四つの村で人々が協力しあって80万ルピーの資金を捻出し、レンガを積み上げてプラットフォーム、ベンチ、水道、チケット売り場から成る小さな駅を建ててしまったのだというから驚きだ。バルワントプラー・チェーラースィー駅は開業から1年半経過し、毎日4本の列車が停車しているという。資金集めや建設作業といった労苦もさることながら、天下の国鉄にこれを正規の停車駅として当局に認めさせた行動力と手腕もたいしたものだ。インド農村版『プロジェクトX』といったところだろうか。特に用事があるわけではないのだが、機会があればぜひこの駅に降り立ってみたい。建設にかかわった村人たちに尋ねてみれば、実に興味深い話をうかがうことができそうだ。
राजस्थान में रेलवे का एक ‘जनता स्टेशन’ (BBC Hindi)

右ハンドルでKeep Right !

インドの隣国ミャンマーの道路について特に印象に残ったことがある。路上を走る車両のほとんどが右ハンドルながら右側通行であることだ。
この環境下で左ハンドルという『正しい仕様』のクルマといえば、日本のマツダが現地で合弁生産しているジープ、ポンコツの中国製トラック、さらに稀なものとしてメルセデスやBMWなど西欧の自家用車など非常に限定的なものである。それに対して大多数のクルマは商用車から自家用車、小型車から大型車まで、目にするクルマのほとんどが日本やタイといった左側通行の国から運ばれてきた日本メーカーの中古車ばかりだ。聞くところによると、ミャンマーでこれらの車両の輸入に関わる人たちにはインド系、とりわけムスリムの人々の存在が大きいらしい。日本から自国やロシアなどに中古車を輸出するパーキスターン人の業者は多いが、これらの取引でいろいろつながりがあるのかもしれない。
ともあれ、左側通行の日本を走るクルマがほぼすべて左ハンドルになったようなもので、なんとも危なっかしい。自家用車はもちろんのこと、特にバスやトラックのような大型車両が前を走る同サイズのクルマを追い越そうとする際、本来あるべき左ハンドルの車両よりもずっと大きく反対車線にハミ出ることになるのが恐ろしい。
中央車線寄りに運転席があれば、少し白線を越える程度で先方の状況がわかるが、運転席がその反対にあれば巨大な車幅のほぼ全体を左にスライドさせないと見渡すことができないのだ。この原因による事故はかなり多いはずだ。
対向車線を走るバスがいきなり『ニュ〜ッ』とこちら側に飛び出してくるのを目にするのも怖いが、そこにしか空きがなくてバス前方左側に座らされるのもかなりスリリングだ。
こういう環境に育つと『右側通行である。ゆえに右ハンドルなのだ』という間違った思い込みをしてしまうのではないかと思う。ほとんどのクルマの供給元が左側通行である日本(およびタイ、シンガポールといった近隣国)を走っていた右ハンドルの中古車である以上、右側通行に固執するのには無理がある。
バスの場合は乗降口の問題もある。ヤンゴンの市バスはさすがにドアを車両右側に付け替えてある(ゆえにドアの折り返しが反対になってしまう)が、同様のタイプで都市間を結ぶ数時間程度の中距離バスにも使用されているものは日本で走っていたままに左側のドアから客を乗り降りさせている。大型シートのハイデッカータイプの長距離専用バスについても同じだ。国道で他のクルマがビュンビュン走る側に降車することになるため、見ていてハラハラする場面が少なくない。
ところで旧英領であったこの国は元々右側通行であったそうだ。1970年のある日、突然右側通行に変更になったのだという。切り替え後には相当事故が起きたことだろう。もっともその時代はクルマ今よりずっと少なかったはずではあるが。今となってはまた左にシフトするのは無理だろう。
それがゆえに、右ハンドルの日本車ではなく左ハンドルの韓国や中国の車両の需要が大きいのではないかと思うのだが、前者がほぼ皆無で後者もごく限られた数しか入ってきていないのはどうしたことだろうか。
実情をわきまえずに左側通行から右側通行に変更するという、今から40年近く前に起きた過ちのツケを今なお人々危険な思いをし、時にはそのツケを『命』でもって支払っていることであろうことは容易に想像がつく。民意の届かない国ではあるが、早急に何とかしなくてはイカンのではないだろうか。